プロローグ
「それとは別に、あなたは何を恐れていらっしゃるのだ。わたしには理解できない」
おぞましい彼女の異形な姿を一瞥して、男はひたすらに問い詰めた。
彼女の周囲を取り巻く無数の蝿のような生き物と、その生き物から発生している鼻を突
くような激しい臭いに男は苦痛の表情を浮かべた。
防寒具は十分に取り揃えていた。男にはその自信があった。実際にここに来るまで意識
する程の寒さがあったわけではない。
だが、今、現在感じているこの寒さは尋常なものではない。
周りには何もなく いや、正確には何も見えないと言うべきだろうか。男と、それ
に対峙している、どう表現すればいいか分からない異形な姿に変貌してしまった彼女……。 その二人を周囲全体から覆うようにして真っ白で奇妙な霧が静かに襲いかかる。
気にせず男は大きく深呼吸をした。そして彼女にとっては、男のその大きな動作がひど
く哀しく感じられたのだ。
悲痛な表情を見逃さずに男は淡々と告げた。
「あなたは『ヴェレナント』にたった今、おなりになったばかりだ。それもあなた自身の希望で、だ。あなたはもう何も恐れることはない。思うがままに力を奮えばよいのだ。……それなのにどうしたというのだ。何を脅えている? こたえよ」
男のひどく冷淡な言葉に、彼女はこたえない。
いや、こたえられないのだ。体の芯から指の先まで、凍りついてしまったかのようにま
るで動かない。
男の言うように、こんな醜い姿になったのは彼女自身の意志だ。
「力」を求めて、……こうなったのだ。それは望んでいたことなのだ。心の底からそう思っていた。
だが実際に力を得てみて、彼女は心のどこかに何か大きな穴がポツンと空いてしまった
ような、そんな脱力感を感じ始めていた。
(……なんなんだろう、この気持ちは)
どこかが哀しい。振り払おうとするがどうしても体の中に奇妙な感覚が残ってしまって仕方がない。
そんな彼女を嘲笑うかのように、男は小さく呟いた。
「あなたは求めてそうなった。必要としていた力も手にいれることができた。それでいいではないか」
男の声はやさしく言った。だが、妙な気味悪さがあった。
「あなたのために、と思ってやってきた……」
突然、彼女はそう言って男に向かってゆっくりと歩きだした。
「いや、それは違う」
男は彼女の言葉に不可解に応えると、それから手に持っていたストレンジナイフを手にして、カチャと刃先を開いた。
「あなたに、もしも今、こうなったことに後悔の念があるとするのなら 」
そして続けざまに彼女に向かって構えると、男は一瞬、怯んだ彼女に振り上げて、
「あなたは、生きる資格などない。否……?」
最後は問いかけて、彼女のこたえを、男は待つ。
「…………」
しばらくの静寂が訪れ、彼女は首を縦に振った。
そしてその数秒後、彼女の断末魔が轟き、周囲は紫の液体で満ち溢れることになった。
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