2017年2月19日日曜日

明日に向かって 第2話





                   第二章 崩れていく自分


                                         1


 真夜中、森の奥深く、俺と彼女はいつものように寝袋に入って、眠りにつこうとしていた。

 夜の森の中は特に、焚き火を起こして獣に襲われないようにしているため、小さな虫がよく

飛んでくる。

 その虫たちに苛立ちを感じて生活しているのにも、俺たちはここ一カ月ほどの生活で、馴れ

が生じていた。

 そんな日々ともそろそろお別れになるかもしれない。……というのは、この旅がもうすぐで

終わるからだ。

 夜の森、俺は多少寒さを感じながら、辺りを警戒していた。

「ねえ」

「ん、何だい?」

 いつものように夜の見張りをしている俺を、彼女が眠そうになるのを必死でこらえながら、

小声でそう呼んだ。

 見張りをしている時、言い換えれば、全身をひとつのものに集中させている時、突然声をか

けられると、多少は必然的に驚いてしまう。

 俺は、横になって寝袋に入っている(俺も同じだ)彼女の方を向いた。

「たまには、楽しいお話でもしましょ?」

「え?」

「だってあなた、いつもわたしを護ることしか考えてなくて、そういう話しかしないから……」
「……そういえばそうかもな」

 彼女の淋しそうな声に、俺はふと今までの彼女との会話を思い出した。

 確かに、彼女とは『会話』と言えるような話はしていない。

 さっきつけたばかりの焚き火の炎をみて、俺はその中に輝きを覚えた。

「そうだね。じゃあ、何か話すこと、あるかな」

 俺には彼女と話す話題など、記憶の中には持ち合わせておらず、彼女が話題を切り出すのを

待つだけであった。

 それに話すといっても、共通の話題なんかない。

「あのね、わたし、夢があるの」

「へぇ、どんな?」

 彼女はちょっとだけ赤面して、俺の顔をじっと見つめた。

「あなたとの旅が始まって、わたしはいろんなことを知った。今まで、見たことのなかった素

敵な景色を見ることができた。いろんな人との出会いもあった。そして……」

「?」

「あなたという人を知ったの」

「ああ、俺も君という人を今まで護ってきて、得たものがあったよ」

 彼女はそこでしばらく黙りこんだ。

 そして、俺はそんな彼女の鼓動が激しく高鳴っていくのを、音ではなかったが、かすかに聞

き取っていた。

 彼女は大きく息を吸った。

「ねぇ」

「ん?」





 俺は、気が付いたら走っていた。

「早く、急ぐんだ!」

「待って!」

 極平凡な一本道を、俺たちは全速力で駆けていた。

 広大な空に覆われた大きな一本道。その両側には、これもまた大規模な田圃がある。

 俺たちはとにかく全速力でやつらから逃げていた。

「くそっ、このままじゃ追いつかれる!」

 俺は彼女の手を取りながら、そう悟った。

 しばらく歩いていて、突然上空にヘリが現れたと思ったら、それにやつらが乗っていたとは、
知るよしもなかった。

 ようするに、俺たちはずっと以前から、すでにやつらに発見されていたんだ。

 とにかくヘリから降りてきたやつらは、人数的にも俺がかなうような相手ではない。今は機

会ができるまで逃げ切るしかなかった。

 俺は走りながら彼女に、『これからどうするか』、危険だが分かれて行動した方が無難だと

思い、彼女に具体的な指示を出した。

「分かった?」

「……うん。気を付けて」

 彼女と俺はやつらの目を欺くために、一旦分かれた。





 「はぁはぁ」

 田圃が両側にある……。

 そんな景色がだんだんとなくなっていった頃、ようやく彼女に指示しておいたビルにたどり

着いた。

 俺は彼女が無事、先に逃げられるようやつらの目を引き付けてやって来たため、俺の方が後

のはずだ。つまり、彼女はすでに中にいるはず。

 二十三階建てビルの一階にある管理室。そこに昔、俺は来たことがあったため、彼女にはそ

こで待っているよう告げておいた。

 俺は、後ろからやつらが追いかけてきていないか、何度も確認しながらビルの中に入った。

「はぁはぁ」

 動悸が激しい。締め付けられるような胸の痛みに耐えながらも、俺は管理室へと向かった。

 暗い小さな一室。電気の付いていない古びた部屋。

 俺は扉を開けた。

 ガチャッ

 広くもない部屋の隅で、彼女は小さくうずくまりながらも警戒していた。まるで小動物のよ

うに。

「あ!」

 俺の姿を見た瞬間、彼女の顔に安堵した表情が窺える。

「よし、無事だ」

 俺は彼女の元気そうな顔に、そう言った。

「はぁぁ、よかった。もう駄目かと思ってたの。遅いし……。すごく怖かったのよ」

「ごめん!」

 一気に緊張のほぐれた彼女は、その場に手をついた。

「ふぅ……」

 俺は大きく溜め息をついて、彼女のそばまで寄った。

 顔をほころばせている彼女を見やり、俺は息が回復するのを待つ。

 刹那!

「フフフ」

「!?」

 突然不気味な笑い声。俺はその声の主を探すがべく、周囲を見渡した。

 驚きと焦りで、頬を流れていく汗が、妙に不快な気分を与えてくる。

「ククク、馬鹿どもめが!」

 いつの間にか、本当にいつからであろうか、しつこく今まで追いかけてきた、『奴』が、そ

こにはいた。

 八畳程の部屋、そこには俺と彼女しかいなかったはずなのに、そして、今まで逃げてきた俺

の後ろには、誰も追いかけてきた人影はなかったはずなのに、……そこには不敵に笑う奴がい

た。

 屈んでいた彼女は立ち上がり、俺のそばに身を寄せた。

「とうとうここまでだな」

「くっ」

 奴の言うとおりだ。俺たちにはもう逃げ場がない。

 銃を持っている奴を見て、俺はどうするかを考えた。

 走っている時、たとえ誰もそばに危険な者がいなくても、俺は常に銃を持っていた。

 今も俺は片手に銃を持っている。

 …撃ち合うか。

 が、彼女の身のことを考えると、そうはいかない。

 そこで俺は、ふと右側に扉があることに気付いた。

 よく全体の部屋の構図を見てみると、正面にも扉がある。俺が初め入ってきた扉-今は奴が

塞いでいる-を考えると、計三つの扉がある。

 …となると逃げるのなら、まずはこの扉からだな。

 俺はすぐ右側にある扉を横目で見た。彼女に目だけでそれを教える。

 …よし!

 俺は決めて、

「ハァ…ハァ」

 今まで息切れのしていたことを忘れていたように、その分激しく息を切らしながら、すぐ右

側の鉄筋の扉を開いた。

 ダダダダダッ





















 「………」

 目を覚ました俺は、複雑な想いでいっぱいだった。

 …なんだったんだ、今の夢は?

 いつも通り、爽やかな朝を何の問題も起こさずに、俺の寝起きはベッドの上で始まり、そし

てベッドの上で終わった。

 すがすがしいはずの朝も、今日に限ってはなんだかじめじめした感じにさえ思える。実際に

全身が汗だらけである。

「はぁ…はぁ」

 気のせいか……いや、気のせいではなく俺の息は荒々しかった。まるで今まで走っていたか

のように。

 俺はしばらくベッドの上で腰を起こしたまま、じっと黙って時が流れるのを待っていた。

 夢……。俺は、ついさっきみた夢がまるで現実のような感覚であるのを覚え、そして夢であ

ったことが実際に起こったことのようにも思えた。

 俺は両手を見た。汗が噴き出ている。そして何かを握っていたような……そう、夢の中で銃

を握っていたのと同様に、寝起きだというのに力がはっきりと入る。

 そして、俺は今朝みた夢と昨日みた夢を、無意識に結び付けていた。

 昨日みた夢は、今日みた夢の続きではないだろうか。勝手にそんな思いが込み上げてきた。

 『彼女』、『奴』。ともに昨日の夢にも出てきた人物だ。背格好、雰囲気、同じだった。

 今日みた夢。最後は小さな部屋で彼女と一緒にいた俺は、奴に追い詰められていた。昨日み

た夢は、確かそのシーンから始まった気がする。

「……いや、そんなことよりも、なんで俺はこんなにも夢のことが気になってるんだろう。た

かが夢なのに」

 なぜか……、よくは分からない。

 が、俺の体全てが『夢』という、まるで俺自身が実践したかのようなものが、俺をそう感じ

させていた。

 夢が気になる。まるで、物語の結末を強引に結び付けさせるために用意したような感情、そ

れが俺には感じられる。

「………」

 しばらく考えていたが、とにかく俺は仕事に行かなくてはならない。

 なんとか夢のことは忘れて、俺は急いで作業服に着替えた。部屋を出て、そばにある洗い場

で顔を洗う。

 顔を洗い終えて、ひととおり水用事を終えて、俺は洗顔具を部屋まで片付けに行った。

 普段どおり、職場の先輩方に挨拶に行き、俺はシモンさんのトラックが置いてある車庫へと

向かった。

 トラックに乗って、

 ブオォーン

 エンジンを掛けた。

「……」

 いつもなら、この辺りではそろそろ眠気も冷めてきて、明るい気分で仕事をしようと思うは

ずなのに、妙に俺の心は沈んでいた。

 ……夢が気になって……いや、それだけではないのかもしれないのだが、やる気が起きない。
「くそっ、何か気に入らない!」

 ダンッ

 俺は、他人から見たら馬鹿だと思われるだろう。それほど夢のことが気になり、思いきりハ

ンドルに八つ当たりした。

 そんなことをしたところで、この複雑な気持ちは収まらないのだが、そうでもして気を紛ら

わせなければ、俺は壊れてしまいそうだった。

 本当に俺は馬鹿だ。なんでこんなに夢のことが気になるんだろうか。しかもそのせいで仕事

に身が入らないなんて、甘ったれてる。

「……本当に俺、どうしちまったんだろう。なんかおかしいよな」

 俺はトラックに乗ったまま、夢を回想していた。



 「ぼっけろーん!」

 先輩の声が外から聞こえた。俺は窓の外に顔を出し、振り返った。

 …先輩。

 走ってきた先輩は、今日は直接助手席の方へ乗り込み、笑顔で俺の方を見た。

「おっはよー、ぼけろん! 今日も張り切って行こーぜ!」

 …なんでこの人は、いつもこんなに明るくいられるんだろう。

 自分がたまたま今日、沈んだ心でいるせいか、俺は先輩にそんな嫉妬に似たものを感じてい

た。

「お? 何か今日は元気ないゾ! どうかしたの?」

「いえ、べつに」

「?」

 俺は先輩とは今日はあまり話す気にはなれず、ぶっきらぼうに呟いた。

 溜め息をした俺を怪訝な面持ちで見ると、先輩は『ふぅ』と呆れたように言い、前を向いた。
「ま、いいけどさ。とりあえず車、出してよ」

「はい」

 先輩に促され、俺は普段より速度を上げた。



 走行中、俺はやはり馬鹿みたいに夢のことを考えていた。

 なぜ考えていたのか。それは彼女のことが気になるからか、それとも奴とあの後どうなった

のか、……それら全てが気になったからか、それは俺自身、理解はしていなかった。

 何か不思議なものを感じさせる夢だったのは確かだ。だからこそ、俺はこうして考えている

のだろう。

 他人事のようには思えない、そんな夢なんだ。

「ねぇ、ぼけろん」

「はい?」

 俺は先輩の方は向かずに、そして夢のことで頭がいっぱいだったため、あまり聞く気がない

ままいいかげんに返事をした。

「あのさ、昨日、教えてくれるって、言ってたよね。夢の話、あれ教えてよ」

「!」

 自分でも分からないが、俺は意味もなく先輩の注文に驚愕した……いや、全身を震わせた。

 俺の脳裏に嫌なものが走った。

 それは、おそらく本能的に危険を避けるような、そんな感じのもの。昨日、夢のことを先輩

に話そうとして、痛みが発した時のことが急に思い出された。

 その危険から避けるためなのかもしれない。とにかく俺の体は、俺に、先輩にはそのことを

話さないよう告げているような気がした。

 そして俺自身、なぜか意味もなく先輩を毛嫌い、話す気になれなかった。そして、話したく

なかった。

「先輩、そのことは忘れましょう」

「は? なんで?」

「いいから!」

 俺は先輩に大声で言った。今までしたこともないのに、自分でも驚いたが脅迫でもするよう

な声音だった。

 先輩は何も悪いことはしていないのに、俺はひとり苛立って馬鹿みたいだったが、勝手に俺

の体が言葉を発しさせた。

 心配そうな顔で、先輩が運転している俺の方を見ているのが分かる。

「どうしたの? ぼけろん、なんか今日、おかしいよ」

「ほっといてください!」

 また俺の体は勝手に怒鳴っていた。

 普段なら、先輩はここで俺を殴るはずだが、今日は何もしてこなかった。

「ぼけろん、何かあったでしょ?」

「何もありませんよ」

 次第に高まっていく怒りを露にしたような感情を、俺には止められなかった。べつに先輩に

対して怒りを感じていたわけではないのに、先輩に、その、どこから生まれてきたのか分から

ないような、そして意味のない怒りを、俺はぶつけてしまっていた。

 …俺、どうしちまったんだ。

 朝起きてからの俺、変だ。こんな俺、俺じゃない。そんなふうにさえ思える。

 今日になって突然、俺はおかしくなったのだろうか。だとするのならば、……夢のせいだ。

 俺はとにかく自然に熱くなっていく感情を必死にこらえながら、隣で話しかけてくる先輩を

無視して、トラックを走らせた。


                                         2


 「ぼけろん!」

「はいっ!?」

 俺は突然の先輩の声に、目を覚まさせられた。眠っていた俺の目の前で、先輩が見下すよう

に凝視している……そう、そのままの意味で、俺を睨んでいる。

 とりあえず今日の仕事を終え、俺はトラックを車庫へと戻し、昨日のように部屋でひとり、

座って眠っていた。……いや、べつに意識して眠ろうと思っていたわけではないが、つい眠く

なって眠ってしまった。

 その俺がいる部屋に、再び……これもまた昨日のように先輩はやってきたようだ。

 眠気がまだ完全に冷めていない俺のところまで、先輩は勝手に部屋に上がりこみ、ズシズシ

とやってきた。

 俺はそんな先輩を座って見上げて、大きく欠伸した。

「先輩、今日は何の用ですか?」

 俺の体は、いまだに、そして無意識に先輩を拒絶している。本当になぜなのか、俺にも分か

らない。

「ぼけろん、話がある」

「は?」

 先輩は腰を下ろして、俺の隣に、……更にこれもまた昨日と同じように座った。

 っとその時、

 パアン!

「で!?」

 先輩は俺の意表をついて、思い切り俺の頬を叩いた。その平手打ちは強烈で、俺は少し吹き

飛ばされたような感覚さえ覚えた。

 俺は、先輩につかみ掛かるような勢いで先輩を睨んだ。

「何するんですか! 俺、今日は何もしてませんよ!」

「ねえ、ぼけろん」

「……っ」

 先輩の拍子抜けした声に、俺はつい言葉をのんだ。俺の怒りにも似た声を、先輩はまともに

取り繕わない。

 とりあえず何か言いたそうなので、俺は先輩の言葉を待った。

「ぼけろん、あんた、あたしに隠し事してるでしょ」

「え?」

 どこからそんなものが出てくるのか、俺には分からないが、……おそらくトラックの中や、

仕事中の俺の態度が-自分でも分かってはいたが-おかしかったからだろう、先輩の声音には

そういったものが感じられた。

 言葉を失う俺に、先輩は哀しそうに続ける。

「だって、今日のぼけろん、なんか変だよ」

「……いや、そんなことないですよ」

「だってさ、なんか違うじゃん。どこが、って言うと、よくは言えないけどさ。いつものぼけ

ろんじゃないよ」

「………」

 先輩の話を聞いている『今』の俺も、先輩には違って見えたのかもしれない。

 ……先輩はじっと俺の顔を見つめていた。

 俺にも、今の俺が、いつもと違った表情をしているような、そんな気はしていた。

 夢が、……夢が胸を熱くするんだ。今も夢のことが頭から離れない。

「ぼけろんさ、悩みがあるんでしょ?」

「いや、ないですよ」

 先輩は俺の話を信じようとはしない。……いや、そうとは言えないかもしれない。俺はある

意味、嘘をついているかもしれないから。

 そして先輩はそのことを、……つまり俺が夢で悩んでいることに、気付いているのかもしれ

ない。

「あたしに話してみてよ」

 本心かどうかは別にして、先輩の心配してくれる態度は嬉しかったが、俺はそれでも夢のこ

とを先輩には……いや、先輩だけではなく誰にも話す気にはなれなかった。

 心配してくれる先輩に、俺の気落ちしている原因-俺には本当は、はっきりと分かっている

-、つまり夢の話をしてもいいのではないか。そう思うし、そうしたい。

 が、俺の体がそれを拒む。

 俺は溜め息をついて、俯いた。

「先輩に話すことはないし、悩みも何もないから、気にしないでください」

 俺のその一言が、先輩の心配そうに見つめる顔に変化をもたらした。突然のように、先輩は

真顔になり、次いで無表情へと、そして最後には人間の感情をもたないような、……そんな表

情になっていった。

 そして、先輩は静まり返り、暗く、俯いた。

「……先輩?」

 その様子が、さすがに俺も気に掛かり、先輩を呼ぶ。

 俺の声の後、先輩は顔を上げ、そして口をゆっくりと開いた。

「そっか」

「え?」

 先輩の声は、俺には恐ろしく感じられた。

「そういうことなんだ」

「え?」

「あたしには話せないって、……そういうことなんだ」

 俺には、周囲の音という音が聞こえなくなっていた。

 先輩が怒るとこんな状況になるのだが、今の先輩はそれとは違う。……そして、それを通り

越しているような、そんな感じだ。

 先輩が次々と俺のことを決め込むのに、俺は無性に頭にきて、

「先輩、何を言ってるんですか!?」

 大声で叫んだ。

「せっかく心配してるのに……」

 が、先輩は俺の声が聞こえていないようで、小さくそう呟いた。

 俺は、とにかく先輩には心配などしなくていいから、普通に接してくれていればいいと思っ

ている。だから余計に先輩のそういった言葉が複雑に心を痛ませた。

「先輩、俺は大丈夫ですよ」

「うそっ! 今までこんなぼけろん、見たことないもん!」

 真剣な顔で言ってくる先輩の目には、実際にはないものの涙が浮かべられているようにさえ

見えた。

 ……そんなおおげさな。

 俺は先輩の気持ちが分からなかったせいか、そう思った。

「先輩、そんなこと言われても、俺……」

 その俺を、先輩はもう一度見て、唇を噛んだ。

「いい……」

「え?」

「もういい!」

 そう叫ぶと、先輩はいきなり立ち上がり、部屋の出口まで走り、

 バタンッ!

 開いていた扉から出て、勢いよく閉めた。

 ただ俺は、その様子を呆然と見つめていた。

「………」

 …なんで先輩は、あんなに思い詰めていたんだろう。たかが俺が何も話さないからって。

 俺には先輩の気持ちが分からなかった。そして、俺は先輩から見て、そんなにいつもの俺と

違っていたのだろうか。

 そして、先輩はそんな『違う』俺に気付いて、心配してくれていたのか。

 先輩の俺に対する態度……。俺には嬉しかったが、それとともに、少し複雑だった。

 俺は先輩には『何もない』と言っているのに、信じてくれない。俺のことを理解してくれて

いる証拠だと考えるのならば、それはいいことである。

 が、言い換えれば、俺はそこまで夢に対して思い詰め、そしてそれを外面にまで分かるほど、
思い詰めた表情をしていたことになる。もしくは、行動をしていたことになるのだ。

 先輩にはやっぱり正直に話た方が、いいのであろうか。

 だが、そうすると再び痛みが襲ってきそうな嫌な予感がするのだ。それゆえさっきからの俺

は、無意識に先輩に対して冷たい言葉を発していたのだと思う。

「俺が、いけないんだろうな」

 先輩の、心配して見つめる顔が、俺には苦しかった。

 俺は、ふと考えてみた。

 昨日から、なんだか俺の生活が壊れてきているいるような気がするんだ。

 そのせいで、俺は夢に対して異様な嫌悪感を抱いていた。

 平穏な生活、それが俺には最高の幸せ。

 先輩との仲も、いざこざなく平穏であることが、俺にとっては最高の幸せ。

 夕食までは時間がある。先輩がいなくなった部屋で、俺は窓の外を見ていた。

 …夢か。

 先輩があんな怒り方をしたのは、夢のせいだ、と、俺は決めつけた。……いや、直接夢のせ

いだとは言えないが、少なくとも俺がこうなったのは夢のせいだ。……つまりは、間接的に夢

のせいになる……と、そう思いたい。

 俺はそのことを考えていくうちに、だんだん夢に腹が立ってきた。

「くそっ! 何もかも夢のせいだ!」

 そう叫んだ、ちょうどその時、

 ズキンッ

「うあぁ!」

 実際に、どこが痛むのかは分からない。が、とにかく再びあの忌ま忌ましい痛みが俺に降り

かかってきたのは理解できた。

 俺は強烈な痛みに絶叫して、頭を支えながら少しでも気分を安らげるため、その時俯いてし

まった顔を上げて、窓の外を無理にでも見た。

 普段は青く、そして初々しい海が、今は痛みのせいかどす黒く見える。

 ……そして更に揺れている。いや、俺の視界があやふやになってきたのだ。

「うぅ」

 痛みが止まず、俺の意識は昨日のように消えていった。





 そして目が覚めたのは、夕食の少し前だった。

 …眠っていたのか。

 いや、意識を失っていたのだろうが、とにかく俺は床に横になっていた。

「ああ……」

 頭を支えてなんとか起き上がると、無意識に俺は窓の外を覗こうとした。

「もう暗いな……」

 痛みは収まったものの、まだ痛みではなくどこかズキズキする頭は気にせず、ゆっくりと立

ち上がった。だが、すぐに立つことができない。

「気分悪い……」

 吐き気がする。が、腹の方はしっかりと食料を欲しているようなので、俺は食堂へと足を運

ぶことにした。

 さっきの痛み。やっぱり夢のことを考えると生じるようだ。

「……くそ、夢め!」

 はたから見たら馬鹿みたいな言動を吐きながら、俺は調理場へ行き、調理担当の職員からい

つも食べている定食を受け取る。

 その後、必需品なのがお茶。食堂隅からセルフサービスのお茶をもらいに行き、いつも座っ

ている席に付く。

 この瞬間、いつもならば俺の隣に先輩が……

 ……来ない。

 『ぼけろーん』という声が聞こえてこないことに、俺は溜め息をついた。日常のひとつであ
  ・・
るそれがないと、なんだかしっくり来なかった。

 おそらく昼間の俺の対応に失望したのか、それとも怒りを感じたのか、それは分からないが、
とにかく先輩の姿はどこにも見当たらず、俺は多少の静けさを感じていた。

「やっぱり俺がいけなかったのかな」

 先輩がいるとうるさいが、いなきゃいないで何か物足りない。そのせいか、俺には心の中が

何かポッカリと空いてしまったような気がした。

 …よくよく考えると、俺の空白の時間を埋めてくれるのは、先輩しかいないんだよな。

 先輩がいないことをしみじみと感じ、俺はそんなふうに思っていた。

 とにかく先輩がいようといまいと、俺は飯を食べに来たのだ。仲のよい知人がいないかどう

か見渡して、

「……誰もいないな」

 仕方なくひとりで食をすすめた。

 コンコン

「?」

 握り拳ひとつくらいの大きさのパンを口の中に入れようとした時、ふいにすぐ右から音がし

た。

 パンに夢中だった俺は、そのパンしか見ていなかったので、すぐ右に人がいるのに気付かな

かったが、とにかくそばには人の気配がある。

 先輩かと思って俺がそちらの方を向くと、

「え?」

 情けない声を上げたがともかく、俺のそばにはサングラスをかけた男が二人いる。

 立ったまま-おそらく食事が目当てで、食堂に来たのではないだろう-村では見かけない、

いかにも危なそうな二人の男がこちらを見ていた。

 二人とも長身で、正装をしている。

 俺は彼らに嫌な感じ……そして、嫌な印象を受けた。

 俺はその男たちから一度目を離し、手に持っていたパンを一気に口の中に入れ、お茶と一緒

に飲み込んだ。

「ふう」

 何事もなかったかのような表情で一息つき、俺は立ち上がって彼らと対峙した。

「何か用ですか?」

 俺の問いを聞くと、さっきまで黙っていたのが、今度は一瞬だけにやけて、

「ちょっと来い」

 片方の男がそう言うと、二人は足早に-それも俺に『来い』と言っておきながら本当に素早

く-食堂の外へと行ってしまった。

 …なんなんだ、あいつら?

 俺は彼らを見たことがないが、直感的にやばそうな感じがして、ついて行くことにした。

 ……というのは、このまま俺が行かないでいると、後でまずいことが起きるような気がした

からだ。

 俺は急いで男二人の後を追いかけた。

 っと、

 ガンッ

「いで!?」

 突然、頭上から小石が落ちて来て、俺の頭に見事ヒットした。

 食堂の天上にこんなものがなんであるのか。……俺は疑問に思いながら、とりあえずそのこ

とは気にせず走った。


                                         3


 「なんだここは?」

 村に来て一年も経っているのに、こんな所は初めて来た。

 たいして大きくもない村なので、初めてみるその光景は新鮮に感じられた。

「そんなことはどうでもいい」

 男二人のうち,背の高い方-両方とも高いのだが-にそう言われ、俺はとりあえず何も言わ

ずに黙ることにした。

 村の中央広場から少し歩いたところにある、森と言っても過言ではない、木々に覆われた場

所。

 俺はそこに連れられて奥に入って来た。

 …村に、なんでこんなジャングルみたいな所があるんだろうか。

 その疑問はずっと前からあったが、俺は今はあまり気にしていない。

 ともかくその奥へやってくると、ひとつの大きな小屋、……というより家があった。

 外装が整っていたので、最近建てたのか、もしくは修理でもしたのか、そんなふうに俺には

思えた。

 ついでその家は、この村の中ではおそらく最も立派な家であろう。

 ……まぁ立派とは言っても、あくまで俺の村の中でのことであって、ラヌウェットに住む豪

族たちに比べれば、たいしたことはないだろうが。

 ガチャッ

 先導している男二人が、小屋の扉を開く。

「?」

 中に入るよう男たちに促され、俺は中へと入った。

 外から見た感じより、やけに小さな部屋。一部屋だけで成り立っているようだ。

 中に入ると、いきなり中央には太った男が、妙に真新しい椅子に座って俺を待っていた。

 こざっぱりとしたこの部屋で、その太った男の姿は合っていなかった。

 俺はとにかく、嫌な予感を感じておきながら男たちについて来て、そしてこの部屋まで案内

されたことを、多少後悔していた。

「あなたたちは一体……? それに、俺に何か用なんですか?」

 俺は、扉が開いたままのその部屋の玄関口で、立ったままそう聞いた。

 太った男の両脇に男たち二人が並び、そして太った男は口元を歪ませた。

「……そうか。君が例の」

「え?」

 何を言っているのか、……俺のことを知っているようなその素振り、俺には全く理解できな

かった。

 とりあえず何が目的なのかを待った。

「いやいやすまない。いきなりのご無礼、すまないとは思っている。ただ伝えたいことがひと

つだけあってな」

「は? どういうことですか?」

「まあいい。聞いてくれ」

 太った男はそう言うと、一旦目を閉じて、そして大きく息を吸った。

「三日後、それまでに君には村を出ていってもらう」

「は? 何を言ってるんですか? というか、そもそもあなたたち、何者なんですか?」

 俺は最もな疑問を、今になってようやくした。

 太った男の言っている意味が、俺には分からなかった。……いや、もちろん村を出るという

意味くらいは分かるが、なんでそういうことを他人に言われなければならないのか、そのこと

が分からなかった。

 だが、それでもひとつだけは理解することができた。

 目の前にいる太った男、そしてその両側にいる二人の長身の男。

 俺は、その光景と、そして理由は分からないが俺をこの村から出て行けという太った男の言

い分、そして何かひっかかる妙な雰囲気を彼らから感じられることから、従わなければまずい

ことになることを悟った。

 だが、その意図がよく分からない。

「あんたたち、この村の人間じゃないでしょう?」

 村にはこういった人間がいるのを見たことがない。

 太った男は俺の問いには答えず、『ふぅ』と溜め息をついた。

「私が言いたかったのはそれだけだ。もう何も言うことはない。後は君が村を出てくれれば済

むだけのこと」

 俺は、温厚だ。……いや、少なくとも先輩といる時の自分の状況を考えれば、俺は普通の人

よりは温厚なつもりではある。……自分で言うのもなんではあるが。

 だが突然、見知らぬ男に村を出ていけと、脅迫のように言われたことに対しては、さすがに

頭に来るものを感じた。

「ちょっとなんなんですか? 悪いけど、そんなこと突然言われても、俺は村を出るつもりは

ない。っていうか、普通だったら誰も聞くはずのない話を、ここまで静かに聞いていてあげた

だけでも感謝してもらいたいですね。そんな見知らぬ人の話を-」

「もう話すことはない。連れて行け」

「ハッ」

 俺の話を無表情で遮り、太った男は二人の側近に命令する。

 俺はとにかく唐突に過ぎ去った『時間』に戸惑いを隠せず、ただ混乱していた。

 意味が分からずに、俺は二人の男に外に出された。

 ガチャ

 扉が閉まる。

「……一体、何だったんだ?」

 とにかく寒くなってきた夜の道を通り、俺は男子寮へと向かった。



 部屋には電気がひとつ、天井にある。

「……」

 その電気を見上げながら、俺はベッドの上で横になっていた。

 …さっきの男たちは、なんだったんだろうか。

 二人の男たちに素直について行き、自己紹介もされないまま見知らぬ男の話をまじまじと聞

いていた自分のことが、なんだか馬鹿らしく感じられた。

「……けど」

 彼らは俺のことを知っている。……いや、あの太った男が初めて俺を見た時の言葉から考え

ると、俺の顔は知らなかったのかもしれない。だが、少なくとも俺の素性は知っていたようだ。
「けど、俺はあんなヤツ初めてみた」

 村にいる人たちは、大抵の人が顔見知りだ。だから彼らはこの村の者ではないと、村に長年

住んでいるわけではないが俺でも言い切れる。

 まぁ、最近来た人だと考えれば、そうは言い切れないが。

 だが、仮にそうだとしても、いい印象は受けられない。

 いや、そんなことはどうでも良かった。

 問題なのは、突然俺を呼び出し、そして俺に村から出ろと言ったことだ。

 わけが分からない。なんで俺が、『村を出ろ』などと言われなくてはならないのだろうか。

俺は平穏に暮らしてきて、ここ一年、問題になるようなことはしてきていない。

 ましてやあんな、いかにもヤバそうな人と関わるようなことならば、尚更である。

「……俺、何かしたんだろうか」

 俺の疑問は、初めは『彼らが何者なのか』というものから、『村での俺の行動に何かあった

のだろうか』に変わっていた。

 そしてもうひとつ。太った男が初めに言った言葉……『君が例の』、むしろそっちの方が、

村を出ろと言われたことよりも、俺は気に掛かっていた。



 俺はしばらくの間、寝付けなかった。

「……どうしたんだ、昨日から。何かおかしいよな」

 毎日が平凡な日々。それを過ごしていた俺にとっては、気に掛かって仕方がなかった。

 昨日から原因不明の痛み-医者の先生は何でもないと言っているのが余計に気に掛かる-が

走るわ、村長は亡くなるわ、夢のことで妙に頭がいっぱいで、先輩と初めて喧嘩してしまうわ、
突然見知らぬ男におかしなこと言われるわ……。

 二日間の出来事としては、俺にとってはボリュームがありすぎる。

「あー、くそっ!」

 それらが俺の頭の中で蠢き、考えているうちに苛立ってきた。

「くそっ、なんだってんだ。俺、何もしてないのに。なんだかやけにムカツクよ」

 そこまで呟いて、俺はふいにむなしくなった。

「……先輩」

 無意識に先輩に話しかけるように、そう呟いていた。

 だがその先輩も、俺は気を悪くさせてしまった。

「………」

 余計に混乱していく頭を抱えて、俺は無性に泣きたくなった。

 この気持ちは誰にも分からない。

 村に来てからの俺は、毎日が平和だった。たかが夢、そして、たかが先輩との喧嘩があった

だけではないか、と、他人からはそう思われるだろう。

 しかし、俺にはそういったことがとても心の中で重荷になってしまう。

 先輩とも、いろいろ口論をしたことはあったが、あんな先輩を見たのは初めてだった。もう、
先輩とは話ができないかもしれない…、そんな嫌な気さえする。

 そういったことに負ける俺。……自分でも分かっている。弱い人間だ。

 いろいろと思いが駆け巡る中で、俺はなんとか狂いそうになる自分を自制し、毛布の中に顔

を埋め込んだ。

「……もういいや。考えたところでどうにかなる問題じゃないしな」

 気のせいか、楽観的にそう考えていると、次第に眠気が襲ってきたような気がした。

 俺はその眠気に身を任せ、苛立つ自分から逃げ出すべく目をきつく閉じた。

「このまま眠ったら……」

 目は閉じたまま、俺はそう呟いていた。

 ……そう、『このまま眠ったら……』。その後のことは、なんとなく予想できていた。

 『彼女』や『奴』、そういった人が出てくる夢を、再びみるような、そんな予感を。





                     第三章 真実を知る時


                                         1


 「ハァ、ハァ」

 ……俺は、一体どうしてこんなところを走っているんだろう。

 どれだけ走ったか、分からない。相当な距離を走ってきたような気がする。そう、なぜか俺

は走っているのだ。

 そして、妙に瞼が重かった。眠いわけではない、ただ、何かに疲れているような気がするん

だ。頬が、濡れている。鼻の中も、なんだか詰まっているようだ。

 いろいろな疑問が浮き上がってくる中、とにかく俺はひたすらに走り続けた。

 走る前の記憶がない。いや、何か衝撃的なことがあったのは、なんとなくだが覚えているん

だが、ハッキリと覚えているようなことはない。

「ここは……?」

 平坦な道を走ってきたが、いつの間にか森の奥深くにやってきていたようだ。

「……綺麗なところだ」

 俺は立ち止まった。

 森の奥、光が見えてきたと思うと、そこには美しい湖が広がっていた。ちょうどそこのとこ

ろは、木々が退けられていた。

 見たこともない、そして不思議な魅力のある湖。

 人工的につくられたようなとても綺麗に整った湖。……だが、それが自然にできたものだと

いうことを、俺はなんとなくだが感じていた。

「!?」

 その美しき湖の向こう側に、……小さな湖なので反対側の岸が見渡せる-だから湖と言える

かどうかは定かではない-のだが、そこに、俺と一直線に対峙するように、『奴』の姿があっ

た。

 俺はその時、なぜ走っていたのかを思い出した。

「ハッハッハ!」

 奴の嘲笑が、湖に反射するように甲高く響いてきた。

 静まり返った森。それに囲まれている湖。朝の空から差し込んでくる爽やかな光。誰もが心

を和ませることのできるような場所。

 そこが、奴の声によって、台なしにされたような気がした。

 奴はひととおり気の済むまで笑うと、今度は真剣な声音で叫んだ。

「安心して死ね。貴様も、今すぐにあの娘のところに連れて行ってやるから」

「あの……娘?」

 奴の気迫ある叫び、俺はそれを聞いて、忘れようとしていた、そして思い出したくなかった

事実が、脳裏に蘇ってくるのを感じた。

「彼女……」

 それを必死に堪え、……だが、俺はとにかく熱くなる感情に、目の奥から流れ出てくるもの

を遮ることはできなかった。

 俺は、奴から逃げて来た。そうだ、それを隠してはいけない。

「……あんたはいつも、俺たちを追いかけてきた」

 俺は、奴に届くかどうか分からないほど、小さな声で言った。

「そうだったな」

 が、奴には聞こえていたようだ。そして奴は銃を構えた。

「だからどうした。そんなことを言ったところで、貴様を助けるつもりはないぞ」

 俺は銃を持っていない。…いや、正確に言うのならば、銃はあるのだが弾が切れている。

 だが、俺は今まで逃げてきたことを今頃になって恥じ、そして奴に対する怒りを思い出し、

湖の中に足を一歩、踏み入れた。

 ……奴が、許せない。

 俺は走った。ビシャビシャと、水音を激しく鳴らして。

「馬鹿が、そんな距離から来ても、もう遅いわ!」

 奴はそこまで言うと、銃口を俺に向け、

 ……そして、

「死ねぇ!」

 ドゥンッ!





















 「ぐあぁ!」

 という大声で、俺は目を覚ました。

「はぁ……はぁ」

 周囲を素早く見渡して、俺は目を大きく見開いた。

「………はぁ、また夢か」

 昨日にも増して、大量の汗が俺の全身を覆う。

 しばらく息が回復するのを待ち、俺は深呼吸を続けた。

「……死ぬかと思った」

 新しい布団が、グショグショになっている。

 なんとなく分かってはいたが、本当にまたあの夢をみるとは……いや、毎日同じ夢ではない

が、それでも関連したものをみるとは、なんとも言えない気分だった。

 しかし、最後の、『奴』に銃で撃たれる時は、本当に死ぬかと思った。

「……はぁー」

 大きく溜め息をつき、俺は、夢のことをじっくりと、そしてはっきりと思い出してみた。

 奴に、今日の夢では、俺は撃たれた。そして、今まで一緒にいた『彼女』がいなかった。

「………」

 ……単なる夢にすぎないのであろうか。

 そう思うのが当たり前だ。夢なんてのは、空想のものだと俺は思っているし。

「……けど、何か俺に伝えたいって、言ってるような気がするんだよな」

 そう、そんな気がするのだ。

 刹那!

「!?」

 ズキィ!

「ぎぁゃ!」

 言葉になっていない声を、俺は発した。

 再び、……またあの激痛が襲ってきたのだ!

 ……が、今度は一度や二度ではない。

 ズキッズキン!

「いってえ!!」

 悶絶して、俺は後頭部を抱えた。

 ……あたまが、……頭が響く!

 何も思考できなくなり、ただ俺は絶叫していた。

「ぐはぁっぎぁ!」

 ただその中で、知ったところでどうにもならないが、解ったことがあった。

 ……考えれば、考えるほど、痛みが増す。

 俺はベッドの上で、もがき苦しんだ。





 頭がズキズキする。だが、なんとか意識を保てる程度には回復したようだ。

「……ここは?」

 俺の正面には、天井。それも俺の部屋の天井ではない、白く、清潔感の溢れた新しくも思え

る天井である。

 そしてどこかで見たことのある天井。俺は、天井の方を向いた体はそのままにして、顔だけ

を横に向けてみた。

 いろいろな器具の置いてある机、それから医薬品のしまってある棚。

「ここって……」

 小声でそう呟いて、俺はここがどこなのか、ようやく分かった。

 医務室だ。一昨日来た医務室。その内装は二日しか経っていないが、なんだか少し雰囲気が

変わっているように思えた。

 …けどなんで、俺、こんな所にいるんだ?

 まず最初に頭の中に入り込んできたのは、その疑問だった。

 が、体力の低下と、いまだに痛む頭のせいで、そんなことを考える余裕はなかった。

 …しかしキツかった。

 今はなんとか大丈夫だが、息が回復していないし、いつ、また痛んでくるか、分かったもの

ではないため、俺はかなり不安だった。それだけあの痛みは苦しかった。

「はぁ……」

 日に日に痛みは酷くなってきている。この分だと、あと一週間もすればどんな痛みになるの

やら。

「やっぱりもう一度、先生に診てもらった方がいいのかもしれない」

 気を紛らわせるため、何度か首を左右に振り、俺は溜め息をついた。

 腰を起こして、部屋の中を見渡した。

「!?」
        ・・
 唐突なものに、俺は一瞬戸惑った。

 今になってようやく気付いた。俺の眠っていたベッドのすぐそばには、顔こそこちらに向け

ていないが、先輩が丸椅子に座っている。

 『先輩?』と俺は声には出さなかったが、あくまで大声でそう叫んだ。

 一昨日と同じ状況に、俺はなんだか複雑に嬉しくなっていたが、とにかく先輩が突然そこに

いたので、目を見開いているだけであった。

 ザザ

 俺の上に乗っていた布団が動いて、俯いていた先輩はそれに気付いた。一旦こちらを向く。

「先輩っ」

 思わずそう呼んで、俺は先輩が俺のことを許してくれていたのか、と、そう思ったが、先輩

は俺の呼び声と同時に、無表情のまま部屋の外へ、

「あ、ちょっと待っ-」

 出て行ってしまった。開いた扉から消えていった先輩の跡をしばらく眺めて、俺はただ呆然

としていた。

「先輩……」

 ……おそらく、……いや、この状況を考えれば百パーセント、ここに俺を運んでくれたのは

先輩だ。

 先輩とは、喧嘩とも言える初めてのいざこざを起こしていたのに、しかも本当の怒りのよう

なものが感じられたんだ。だからそう簡単に機嫌が直るはずがないのに、先輩のそういった行

動が-もちろん、先輩が俺をここまで運んでくれたと断定できるわけではないが-人間的な優

しいものを感じて……というか、感心させられて、単純に言うのなら、嬉しかった。

 俺はベッドから降り、ベッドの下のそばにある……と言うより置いてある、緑色のスリッパ

を履いた。

 おそらくこれも、先輩が用意してくれていたのだろう。

 ……そういえば一昨日もスリッパが置いてあったのを覚えている。

 ズキズキ……

「いってぇ……。まだ痛んでる」

 頭痛がする度に、無意識に窓の外が見たくなる。

 俺は医務室内の大窓に寄って、外の景色を眺めた。

「いい景色だな……。けど、俺の部屋の景色に比べたら、たいしたことないか」

 景色で言うのなら、俺の部屋の方が断然素晴らしいが、ここはここで爽やかな風は吹き込ん

でくるし、それに気分の安らぎには十分なってくれた。

 そのせいで、頭痛も幾分、楽になった気がする。

 しばらく外の景色を眺めた後、俺は先輩の座っていた丸椅子に座った。俺には合わない丸椅

子でも、さすがにこういう時はそんなに気にならない。

「……先輩」

 俺は座ったまま、先輩のことを考えていた。

 先輩が怒った理由。それは、先輩が俺に話をしろと言ったのに対して、俺が何も言わなかっ

たことに始まる。

 そう考えると、べつに俺は悪いことをしたわけではないように思える。実際に、俺は悪くは

ないと思う。

 ……ただ、先輩が心配してくれた時に毛嫌うように大声を出し、そして無視したことは、先

輩にはショックだったのかもしれない。

「……いや、そんなことはどうでもいい。大事なのは……」

 一番大事なのは、……もちろん今までのそういった経過も大事なのかもしれないが、とにか

く先輩が俺の体を気遣って、一昨日やついさっき、眠っていた俺のそばにいてくれたこと、そ

して、俺が悪かったにしろ悪くなかったにしろ、どちらにせよ心配をして俺の相談に乗ってく

れようとしてくれた先輩の心遣い、……そういったことに対する俺の応えなんだ。

 夢のことを、人……つまり先輩に話そうとした時、俺の体は痛み出した。そして、夢のこと

を考えようとするだけでも、俺に激痛は襲ってくる。

 だから俺は、『夢のこと』と『痛みの発する原因』-自分の中で悟っただけのことだが-を、
先輩には話さないでいた。

 おおげさな言い方をすれば、俺は『夢』から逃げていた。

「先輩は、好きで俺の相談に乗ってくれようとしているんだよな」

 先輩は、……よくよく考えると、いつもそうだ。何かあると、気を遣う。

 俺は決めた。……というより、まずは当たり前のことをすることにした。

いつも面倒をみてくれる先輩に、お礼を言う。……それはただ礼だけではなく、先輩が聞こう

としていたことを話すのも含めてだ。

 心配して、そして何も言わない俺にここまでしてくれる先輩に、まだ『痛みが原因で、夢の

ことを話せなかった』ということを話さないのなら、俺は駄目な人間のような、……そんな気

がした。

「まぁ、先輩にそのことを話したところで、解決にはならないとは思うけど」

 付け加えて、俺はそうも思っていた。

 俺の夢に興味がある先輩。

 よくよく考えてみると、先輩にそのことを話せば済むことなのだ。

 が、痛みは襲ってくるだろうから、その覚悟は必要だが。

「よし」

 俺は椅子から立ち上がって、伸びをした。

 まずは先輩に、機嫌を取り戻してもらわなければならない。

 こんな、じめった関係で、先輩と過ごすのは嫌なんだ。

 部屋の外へ出ていってしまった先輩が、どこにいるのか。

 ……そして、今何時頃なのかを考えながら、俺は部屋の出口へと向かった。

 先輩は、大抵は俺と一緒にいる。仕事中、つまり昼間は俺の仕事に付き合うため、ずっと一

緒である。それから夕食までの間、先輩は俺の部屋に来たり、外で他の女性労働者とおしゃべ

りとかをしている。夕食は大抵一緒。

「……先輩と一緒にいる時間って、こんなに長かったのか」

 俺は、いつもはあまり意識していなかったためか、そう思えた。一日の大半が、先輩と過ご

しているなんて、考えてもみなかった。

「それなら、余計に先輩とは仲直りしなきゃな」

 そう思って、とりあえず俺は先輩の住む、そして今はそこにいるはずの女子寮の、管理室へ

と向かうことにした。

「……そういえば、扉、開きっぱなしだな」

 医務室の出口の扉、そこを通ろうとして、俺はふいにそう思った。

 どうでもいいことなのかもしれないが、先輩は扉のこととなると、少しうるさい。開いてい

るのが嫌いなようで、いつも、俺が扉を開けっ放しにしていると、『閉めてこい』と言う。

 それなのに、先輩が自分で開けっ放しにしていると、俺に閉めろと命令する。都合のいい人

だ。そう思っても、俺には何も言い返せないのが、悔しくもあり、情けなくもある。

 とにかく、先輩が扉を開けっ放しにすることはあまりなく、医務室の扉が開いているのは、

おそらく感情が高ぶっていたせいだろうと、俺には思えた。

 まあ、扉に関してはそんなことが言える。

 とにかく、俺は医務室を出た。

 そのまま右側に曲がろうとする。

 が、その時、目の前が急に真っ暗になり、

 ガンッ

「いで!?」

 顔面が何かに当たり、ダメージ的にはたいしたことはないのだが、その突然の出来事に、俺

は後ろに倒れ、床に手をついた。

「な、なんだ?」

「いったぁ……」

「せ、先輩!?」

 俺の目の前には、俺と同じように尻餅をついている女性-先輩がいた。

 俺はとっさに、今、ぶつかったのが先輩だと分かると、とりあえず額を摩った。

「先輩、まだいたんですか」

「……あんたには関係のないことでしょ」

 そう言って、先輩は横を向いてしまった。

 それを見ながら、俺はさっきまで考えていたことを、うまく頭の中でまとめていった。

 大声を出した先輩。怒っているのだろうが、まだ医務室の外にいたということは、やはり俺

のことを心配してくれているのだろうか、……俺はそう思った。

 目を逸らした先輩に少し近寄り、俺は言った。

「あの、先輩。やっぱり、怒ってるんですか?」

「…………」

 俺の言葉に、先輩は耳を貸してくれない。それどころか、先輩は今度は俺をギロッと睨むと、
なんとか立ち上がり、座ったままの俺を無視するように去っていこうとした。

「ちょっと先輩、待ってください」

 俺はすかさず立ち上がり、後ろから先輩の左腕を掴んだ。

「何すんのよ」

 俺の方を振り返り、先輩はいまだ鋭い目付きで俺を見てくる。

 戸惑いながらも、俺は先輩がしてくれたことを思い出し、なんとか言葉にしていった。

「いや、……ただ、俺、先輩にお礼が言いたくて」

「は?」

「先輩、あのさ、ベッドに運んでくれたのも、もちろん嬉しかったんだけど、それよりももっ

と嬉しかったのが、俺のことを心配して好意で相談に乗ってくれようとしたことなんだ。だか

ら、そのお礼が言いたくて……」

「ふーん……」

 医務室を出たすぐの廊下……。

 俺は、先輩の緊張感あふれる恐怖を、しばらく味わっていた。

「じゃあ、つまりこういうこと?」

「え?」

 先輩はしばらくの沈黙の後、不敵な笑みを浮かべると、そう言ってきた。

 俺はとりあえずなんのことだか分からずに、聞き返した。

「あの、何がですか?」

「だから、つまりぼけろんは、あたしに絶対服従ってことでしょ? 何があっても……たとえ

死ぬことになっても、ぼけろんはあたしの言うことを聞くって、そう言うことなんだよね?」

「……どっからそういう解釈が出てくるのか俺には分かりませんけど……。とにかく、先輩が

気にしていた夢の話、やっぱりしますから、先輩、機嫌、直してください」

「……ふむぅ」

 先輩の顔が、俺にはいつもの明るいものになってきたような、そんな気がした。

 先輩というのは、単純な人だ。そのため機嫌をとろうと思えば、簡単なことである。

 ……けど、思い詰めるようなことがあると、俺には先輩を元の、元気で明るい先輩に戻すよ

うなことは簡単にはできない、……そう思っている。

 だから俺は、少しほっとしていた。

 昨日、俺のせいだろう初めてみる先輩の、異様とも言える真剣な、そして哀しげのある表情。
俺にはそれが、見ていてこれほど嫌なものはないだろうと言えるくらいに、先輩という『人』

とはかけ離れていたため、心配で、怖かった。

「そうだね。ぼけろんがそう言うなら、あたしの機嫌、直してあげる。……って、ちょっと調

子に乗り過ぎかな、あたし」

「いや、それが先輩の『らしさ』ですから、俺はそっちの方が好きですよ」

「へへっ。なんだかぼけろんの言うことじゃないみたいだなぁ」

 笑顔と明るさで、先輩はそう言った。

 とにかくその先輩も、ようやく機嫌を取り戻し、いつもの笑顔を保った『俺の先輩』の顔に

なってくれた。

 俺は深く安堵し、今まで先輩の腕を掴んでいた手を離し、先輩との間を空けた。

「あ、そうだ。食堂の方に行こっか」

 先輩が、またハイテンションでそう言った。

「え? ……ああ、俺の夢の話をする場所ですね」

 俺の言葉を聞くと、先輩は多少困ったような表情をして、俺の耳元に顔を近づけた。そして、
周囲には誰もいないというのに、無意味にも小声でヒソヒソ話をしようとする。

 だがその後、内容を聞いた時、俺はなんとなくその意味が分かったような、分からないよう

な、そんな気がした。

 ともかく、先輩は俺の耳元で囁いた。

「……そうじゃなくて、食料調達の仕事のコト」

「ゲッ!」

 俺は先輩の言葉に絶句し、一歩、後退した。

 食料調達。……それは俺の唯一の仕事。そして、村には大勢の人達がいるというのに、俺の

ような、他の人達に比べたらガキのような存在がこの仕事をできるのは、信頼されているため

である。

「……どうしよう」

 一日の調達をこなさなかったとするのならば、その被害とも言える村人たちへの迷惑は、そ

れはもう多大なものだ。……一日一日運んできた食料が、その日の村人たちの食料になるので

ある。予備はない。

 俺は、その、普通ならば蓄えくらいはしているのが当たり前だというのに、何も貯蔵してい

ない、そしてそうしようとしないこの村の方針が理解できないが、とにかく今言えることは、

今日の一日分の村人たちの食料がないということだ。

 ……まあ、一日食べないからといって、それで死ぬことにはならないだろうが、村人から反

感をかうのは必死である。

 もし、その日の仕事ができないと言うのならば、早めに言わないと、俺の代わりに仕事がで

きる人が、簡単に見つけることができない。

 そのことを、今日は何も職務管理長に伝えていない。とすると、俺は今は一応、仕事につい

ている-特にチェックをするわけではないので-ことになる。

 今、何時か、俺は考えながら、恐怖した。ついで、これからの仕事を失う覚悟をしながらも、
先輩の顔を見た。

 笑っている。

「ははっ、冗談だよ。あたしが管理長には言っておいたから、大丈夫。仕事の方は心配しなく

ていいからさ」

「あ……そーですか……」

 先輩が唐突に言うので、さりげなく呟いた俺であったが、内心では心底安堵していた。

 …よかった。

「助かりました、先輩。また、ありがとうです」

「へへ、どーいたしまして、ってヤツかな」

「けど、先輩。マジでいろいろ感謝してますよ、俺は」

「気にしなくていーよ。その分こき使うから」

「え? ……やっぱり」

 それでも先輩に感謝しながら、俺は無意識に意味もなく頭を掻いた。

 先輩に言うことが、もうひとつあった。

「先輩、やっぱり俺をここに運んでくれたのも、先輩なんですか?」

「もち!」

 俺の肩を軽く叩いて、先輩はそう言った。

 俺を医務室に運んでくれた人が先輩。初めからなんとなくそうだとは分かってたとはいえ、

俺は先輩の行動の意志が、分からなかった。

「でも、先輩、なんでそこまでしてくれるんですか? 先輩、俺のこと、怒ってたじゃないで

すか。先輩がそこまでする義理は、俺にはありませんよ」

「……んん、まぁね」

 途中から、……照れるとよくやるこめかみを掻く動作、それを先輩はやって、俯き加減に俺

を見た。

 ほんの数秒黙り込むと、先輩は舌を出した。……ちなみに、これも照れた後によくやる動作

である。

「確かにね、最初はぼけろんのこと、あったまきてたから、助けなくてもいいかな、なんて思

ったりもしたんだけどさ。そういうわけのもいかないでしょ。カワイイ後輩が気絶してるって

のにさ」

「……はあ」

「それと、一昨日だったっけ、言ったじゃん。いざ、って時はあたしが付き添うって。ま、そ

う思っといてよ」

「……はい。ありがとうです」

 先輩の話には、熱意……まではいかないものの、少なくとも建前上そう言っているようには

思えなかった。

 正直に嬉しく、俺はまた頭を掻いた。

「ま、とにかくさ、こんな所にいても仕方ないでしょ。行こうよ」

「そうですね」

「それと!」

「え?」

 先輩は突然大声を出し、歩こうとした俺を止めた。

 『んんん……』と、言葉のようでそうでないような声を出して、腕を組む。俺はただ何かと

思い、呆然と待った。

「前から言おうと思ってたんだけどさ、ぼけろん」

「はい?」

「そろそろさ、その敬語、やめてくんない? もう一年も一緒にいるんだよ。なんか遠いって

感じがして、嫌だからさ」

 話の内容に、『…そんなことか』と思いながら、俺は、そんなことでなぜ先輩は眉間に皺を

寄せるのかと、疑問を持ちながら、頷いた。

「そうですね。俺、ちょっと言葉、真面目すぎたかもしれません。分かりました」

「だから、直ってないでしょあんた……」

「あ、はい、いや……そのすみません」

「………」

 先輩の冷たい視線が痛かったが、俺にとっては、先輩に対しての敬語は当たり前のものなの

で、そう簡単には直せそうにはなかった。無理に敬語をやめようとすると、どもってしまう。

 そんな俺を見かねたのか、先輩は苦笑して唇をなめた。

「ま、少しずつでいいからさ、直してね」

「はい」



 突然の出来事が重なった俺。不安定な心は、まだ完全には回復していない。夢や痛みのこと

はいまだに気にかかるし、村にいる見知らぬ男たちにおいては、俺は余計に不安を感じる。

 しかし、今日、怒っていた先輩が、いつもと同じように接してくれたことで、俺は幾分救わ

れた。自分でもそのことが自覚できていた。

 先輩といると、なんでそんなふうに思えてしまうのか、それは俺にはよく分からない。明る

いからなのか、それともそういうふうに、周囲に明るい雰囲気を作ってくれるのか、……とに

かく先輩はそういう人なのかもしれない。

 なんにしろ、先輩だけでも普通に戻ってくれて、俺は安心していた。

「よし、じゃあ行こう」

 先輩がそう言って、いまだに立ち尽くした廊下にさよならをするように歩き始めた。

「食堂ですか?」

「うん、『仕事』じゃない意味でね。おしゃべりはあそこが一番」

「俺もそう思いますよ」

 先輩の後を、俺はゆっくりとついて行く。

 誰もいなかった医務室の前の廊下。かなり痛んだタイルが、俺の目には汚れて見える。その

廊下を出て、食堂へ行くため俺たちは外に出た。

 前にいる先輩が速度を落とし、俺の横に並んだ。

「海側の、窓があるとこ、座ろ?」

「あ、やっぱり先輩も、あそこ、好きなんですね。俺も好きなんですよ、あのテーブル」

「ふふ、そうでしょ。あそこなら、ぼけろんの話に、いろいろ付け加えができそう…… 」

「なんかその言い方、怖いですよ」

「あっそ」



 外は、そろそろ夕方に差しかかるのか、青い爽やかな空気が、何かが混ざったようなものを

感じさせた。


                                         2


 「その後-」

「ぼけろん……」

「はい?」

 俺のすぐ右隣の窓からは、広大な海が見える。が、ここからの景色は、あまりいいとは言え

ない。まぁ、それはあくまで俺の部屋から見える景色に比べればの話ではあるが。

 俺の正面には先輩が座っている。テーブルを挟んで、俺は夢の話を先輩にしていた。

 食堂内、俺たちの他にも人がぱらぱらといる。時間帯が時間帯なので、あまり人は集まって

いない。

 夢について、俺は先輩に詳しく話していた。

 先輩、けっこう神経質……というか、好奇心があるというのか、うまく言えないが、とにか

く詳しく聞いてくるため、俺は本当に詳しく話していた。……詳しすぎるってくらいに。

 その夢のことを考えると、襲ってくる痛み。その痛みなんだが、日に日に増してきた。

 だがそのうちに、どこが痛いのかがはっきりしてきた。理由は分からないのだが、とにかく

激痛がするのは、特に頭である。その頭からくる痛みに続いて、体全身が麻痺していくような

……つまり意識が失われていく。

 ……確信ではないが、俺は自分の体のことは一番分かっているつもりなので、そう悟ってい

た。

 痛みの原因のことを簡単に話し、一昨日みた夢から順に話していったところ、だんだんと先

輩の顔が険しくなっていくのに、俺は気付いた。

 そして、その先輩の顔はあまり気にしないようにして、俺は、今日の夢……、つまり俺が走

っていて湖まで着くと、『奴』と呼ばれる……いや、俺が奴と呼んでいた男に撃たれる夢、そ

れを途中まで話していたんだ。

 そうしていくうちに、余計に先輩の顔は厳しくなり、今までただ相槌を打っていた先輩が、

深く考え込むようにして、俺を呼び止めた。

 そして話すのを途中でやめた俺は、先輩が何か言葉にするのを待つ。

 先輩はやや俯いて、再び呼んだ。

「……ねぇ、ぼけろん」

「あの、何か気が付いたことでもあったんですか?」

 その後、しばらく先輩が真剣な表情をしているので、俺はなんとなく気まずく、沈黙を漂わ

せるしかなかった。

 とにかく苦悩する先輩-実際に苦悩しているのかは分からないが、俺にはそう見えた-を、

下から覗くようにして、俺は先輩の様子を窺っていた。

 数十秒たつと、先輩は、のぞき込むようにしている俺の顔に気付いて……だが、一旦見ると、
再び俯いた。

 見かねて、俺は吐息をついた。

「先輩、どうしたんですか。何もないのなら、夢の続き、話しますよ」

「やっぱり、そろそろ言わなくちゃいけないのかな……」

「え?」

 ようやく口にした先輩の言葉。俺には何か突っ掛かるものが感じられた。

 先輩は、それを言おうか言わまいか、……そういった感じである。

「あの、何を言わなくちゃいけないんですか?」

 俺の問いには、先輩は無言。

 そして再び黙り込むと、先輩は溜め息をついて、ゆっくりと顔を上げる。

 その表情は、……真剣だった。

「ぼけろん」

「何ですか」

「あのね、ちょっとね、今から言うこと、ぼけろんはあまり意識してなかったとは思うんだけ

ど、とても重要だから、……よく聞いてね」

「あぁ……はい」
                                                                      ・・
 哀しい表情。先輩が、それを初めて見せたのが昨日だというのなら、こんな真剣な表情は、

この時が初めてだった。

 …重要……? なんのことだ?

 まるで検討のつかないその内容……。

 俺は興味を露にして、先輩の瞳に目がいっていた。

「えーと……」

 先輩は視線をやたらと様々な場所へと動かし、そう唸った。

 何か嫌な予感がする。こう……、背中に寒気がするような……、そんな感じ。

 そして、先輩は一定していなかった視線を俺の目で止めると、息をのんだ。

「あなた、十歳の時、何してた?」

「は?」

 唐突で、かつこれまでの真剣な表情はなんだったんだと思わせるような、主旨の分からない

……というより主旨のないような質問に、俺は戸惑った。

「なんですか、それ?」

 俺は、苦笑にも似た笑いを含んだ声で、先輩の顔を見ながら、そう聞き返した。

 ……だが、先輩はいまだに真剣な表情を崩していない。

 俺の問いに答えるではなく、先輩はまた口にした。

「いや、べつに十歳じゃなくてもいいんだけど。昔、村に来る前の生活とかさ、子供の頃のこ

ととか、何か憶えてることでいいから、教えてよ……」

 …なんでそんなことを、こんな時に聞くんだ?

 俺はその疑問で頭をいっぱいにしながらも、……まぁ先輩が知りたいのなら、そう思って口

にした。

「まぁ、いいですけどね。ちょっとしたことでもいいんですか? どんなことでも?」

「うん、なんでもいいよ」

「そうですね……、俺の印象深い想い出といったら……」

 先輩に促され、俺は過去のことを思い出した。

 過去、俺が村に来る前のこと。つまりは、一年前からさらに逆上ったことである。

 そう、それは……

「んーと……」

 そう、それは……。

 そう、それは……。そう、それは……。

 …あれ?

「……あれ?」

 疑問に思ったことを、俺はそのまま言葉にしてみた。

 ……そう、まさに『あれ?』だった。

 俺の言葉を待つ先輩を尻目に、俺は深く……、そして実に繊細に頭の中で思考をした。

 いろいろなことだ。そう、いろいろなこと。

 それは一年前、俺が村にやってきて、先輩や村長に会って、村の仲間たちと仕事をしたり、

遊んだり、いろんなことだ。

 そして、今日に至る。

「………」

 そして、今日に至る。そう、今日に至るんだ。

「だが……」

 だが、

 …その前は、どうしたんだ?

 急にそんなことが、俺の脳裏に焼き付いた。

 …その前が、思い出せない。いや、憶えていないだけか?

 一年以上前の記憶。

「あれ、おかしいな…… 」

 ……ない。

 その時になって、ようやくそのことに気付いた。

 よくよく、そこでよーく考えてみた。

 考えていくと、俺の記憶は、村に来てからの出来事しか、ない。

「……なんでだ?」

 俺は、認めたくなくてそんなふうに言ったのか、それはよく分からなかった。

 とにかく何がなんだか分からない。一年以上前の記憶が、どうしても頭の中に浮かんでこな

かった。

「………」

 俺はどこか心の中で、……いや、頭の中でかそれは分からないが、どこか、大切な部分が欠

けてしまっているような、そんな気がした。

 そして、それはもっと前からのもの。そのことにも、やっと気付いた。

 何か不思議な想いだった。

「……俺は……?」

 俺は先輩の目を見て、無意識にそう呟いた。

 村に来てからの一年間の出来事。その記憶が、新しくもあり、古くも感じられた。

 先輩はずっと黙ったままである。

 俺に考えさせようとしているのか。そう思うと、余計に俺はひとりで考えてみたくなった。

「先輩、俺は……」

「………」

 黙ったままの先輩を見て、そして、頭に浮かんでこない過去のことを考えて、俺はある種の

疑問……いや、結論を導き出した。

 …俺は、記憶がないのか?

 村に来てからの記憶。

 ……それは、見たもの、感じたものや聴いたもの、様々ではあるが、俺にはそれしか残って

いなかった。

 そう考えると、体がすくんでしまう。恐怖と不安が込み上げてくるのを感じる。

 それがなぜなのか。人間としての感情、いや、生物としての本能ではあろうが、思い出せな

い過去のことを考えると、俺を、そういった嫌な感覚が全身を覆っていくのを感じた。

 急に息が荒くなった自分の体を上から下まで見下ろし、先輩の質問の意味を考えながら、俺

は先輩に告げた。

「先輩、俺、なんだか何も憶えてない……」

「………」

 まだ何も言わない先輩を見て、俺はふと、もう一度見つめ直すように考えてみた。

 俺には、村に来てからの記憶しかない。

 …とすると……、その前は何なんであろうか。村に来る前は、どうしていたんだ? 子供の

頃は、一体何をしていたんだ?

 …わ、わからない。

 さっきまで冷静に考えていた自分が信じられない。そこまで考えていった俺は、思い出せな

いことに、急に苛立ちと恐怖を強烈に感じ始めた。

 過去のことが分からない。

 …そもそも俺って、何者なんだろうか。

 過去に何をしていたか。その疑問は、自分自身のものへと変わっていった。

「俺は一体……」

「ぼけろん……」

 先輩がようやく言葉にした声も、今の俺には気にも止められなかった。

 自分が何者か。思い出せない村以外での俺。そこまで考えていくと、俺はどんどん自分とい

う人間が分からなくなってきた。

 …そういえば、俺って、親とかっているのか?

 疑問は膨らみ、実際に何も憶えていないためか、どんどん膨張していった。

「……俺」

 疑問への苛立ちは極限まで達し、俺は馬鹿みたいに頭を激しく掻いた。

 記憶のないことが気に食わない。俺は無理にでも思い出そうとした。

「どう?」

 先輩の声。先輩のその言葉の意味は、多数にとれる。

 いや、そんなことよりも何も思い出せない『記憶』が、俺には悔しかった。

 …なんで、なんで思い出せないんだ?

 その答えが分かっているようで、俺には分からない。

 しつこくしつこく、同じ疑問が俺にまとわりつく。

「くっそぉ……」

 …な、なんで思い出せないんだ!?

 先輩が、心配そうに見つめてくる。それなのに何も言わないでいるせいか、俺を苛立たせた。
「ちくしょう」

 自分がおかしくなっていくのに気付いたが、それを制御することができない。

 俺は、先輩と、最大限に思い出そうとしても思い出せない自分の過去を考えていくと、……

一瞬、目眩がした。

「……あぁ」

「ぼけろん」

 先輩の声が再び聞こえるが、素知らぬような声音だった。

 目眩を支えて、何がなんだか分からなくなって、俺は目を瞑った。

 ……昔のことが思い出されない。それが、どうしてこんなにも俺をおかしな気分にさせるの

か、それを考えていくうちに、俺は苛立っていく。

 落ち着かせるために目を瞑ったが、意味がない。

 思い出すことは無理なのに、俺は何度も記憶をたどってみた。

 だが、……思い出せない。

 何度も何度も考え、瞑っていた目を開いたその時!

 ズキキキッ!

「うわぁぁ!」

 あの、忌ま忌ましく、そして死に耐えるような辛い、そして原因の分からない痛みが、再び

俺の頭の中に襲い掛かってきた!

「うがぁぁ」

「ぼけろん、大丈夫!?」

 その時の先輩の言葉。さっきまでのどこかに行ってしまったような先輩が、ようやく正気に

戻ったような感じが、俺には感じられた。

 絶叫する俺を見て、椅子から立ち上がって寄ってくる先輩の姿が微かだが見える。

 閉じかけた瞼が重くなっていき、俺はさらなる絶叫を上げた。

「うぎやぁあ!」

「ぼけろん!?」

 激痛は、やはり日毎にその大きさを増している。

 頭を支え、痛みと同時に俺はもう一度考えてみた。

「ぼけろん!」

 昔のことを憶えていない。なんで今までそのことに気が付かなかったのか。それが一番の疑

問でもあった。

 それは、今までそんなこと-つまり昔のこと-を考える必要性のないことと、そして、村で

の平凡な生活が、それを思い出させなかったからかもしれない。

「大丈夫!?」

 先輩の声が聞こえてくる中、俺はまた意識を失っていった。

「ぼけろん、大丈夫!!?」





 「ぼけろん!」

「んん……」

 先輩の声……。ずっと聞こえていたような気がするが、俺が意識を取り戻し、そしてはっき

りと俺を呼んだその声は、なんだか、なぜか俺には辛かった。

 目を開いて、俺の肩に乗っている先輩の手を握り、大きく呼吸した。

「あぁ、よかった」

 顔を上げてみると、俺の顔を見て安堵している先輩がいる。

「ええ、なんとか」

 俺は、『大丈夫だ』と言うように、先輩の手をどけた。

「………」

 食堂。俺はなんで気を失ったのか、あやふやで思い出しにくかったが、ともかくなんとか意

識をはっきりと保ち、正面の椅子へと戻った先輩を見た。

 先輩と話していて、それから過去のことが思い出せなくて、そのことになぜか異様なまでの

苛立ちを感じて、俺は再び痛みを負った。

 そのことを思い出しながら、さっきまでは俺の顔を見て安堵していた先輩、だが今は不安げ

な表情をしている先輩を、見た。

「先輩。俺、どのくらい、気、失ってました?」

「一分くらい。あたしが起こさなかったら、もっと意識、失ってたかも……」

「そうですか……」

「また、いつもの痛み……?」

「ええ」

「………」

 そこまで話して、俺はしばらく黙った。そして、何気なく周囲を見てみる。

 食堂……。今、改めてみると、俺と先輩以外、人は誰もいなくなっていた。静寂と和やかな

雰囲気が、俺の絶叫で壊されてしまったような、……そんな後ろめたい気と、同時に恥ずかし

さを感じた。

 …ひとりで苦しんでたんだな。

 情けない……と思いながら、俺はひととおり目覚めたところで、先輩の目を見た。

「……何か思い出した?」

 先輩のその質問。……それには、俺は答えられない。

 自分の過去を聞かれて答えられないことが、なんとなく複雑に嫌だった。

「すみません。……なんか俺、なんでか、何も憶えてないんですよ。なんで今まで気が付かな

かったんだろ……」

 自問気味にそう言って、俺は首を傾げて、流れ出てくる唾液を飲み込んだ。

「そう……」

 先輩は、あくまで暗い表情を崩さずにそう言う。俺には、先輩のその表情には何か深い想い

があるような気がした。……俺と食堂に来る前とは、まるで別人のように。

 先輩の顔。それを俺は俯き加減に見て、溜め息をついた。

 一年前より前のことが思い出されない。それが悔しいような、そして、……いつから忘れて

しまったのか。そこまで意識していなかった自分が、なんだか存在感がなかった。

 考え込む俺に、呼びかけるように先輩は、

「ぼけろん……?」

「はい?」

 言った。そして気まずそうに頭を掻き、息を吸い、俺の目を見た。

「今までずっと黙ってきたんだけど……」

「え? 何をですか?」

 そして、今まで以上の沈黙をつくりあげる。

「あなた……」

 先輩は続けた。

「記憶喪失なの」

「え?」

 先輩の唐突な話に、俺は一瞬絶句した。が、すぐに立ち直り、問う。

「なんて言いました、今?」

「記憶……喪失」

「………」

 真剣な眼差しの先輩。俺は、そんな先輩の言っていることが理解しがたく、もう一度問うた。
「先輩、何を言ってるんですか。そんなこと、あるわけないじゃないですか」

 自分ではそう言ったが、先輩に真剣な表情で記憶喪失だと言われ、……そして、過去のこと

を思い出そうとしても、ここ一年間の記憶しかないことを考えると、……内心では先輩の言っ

たことを理解していたのかもしれない。

 だが、

「嘘……ですよね」

 こんな時に、なんで先輩はこんな嘘をつくんだろう、そして記憶喪失だなんて、嘘に決まっ

ている、……そう信じたかった。

 先輩は、ふざけて嘘や冗談をつくことがよくある。いずれも俺を馬鹿にする時だ。

 しかし、今度のそれは、違う。

 ……俺が真面目な話をする時はしっかりと聞いてくれる。そのリアクションも真剣にしてく

れる。その場その場の切り替えははっきりとしている人だ。

 そして何より、俺は過去のことを憶えていないし、その原因は、先輩の今の声と表情をふま

えると、記憶喪失という結論は、間違っていはいない。

 ……つまり、先輩の言っていることは、事実なのだ。

「ぼけろん、ごめんね。本当はもっと早く言うべきだったのかもしれない。でも、そのことを

話すと、今の生活が崩れちゃうような気がしたから……。本当にごめん」

「………」

 俺は、信じたくなかった。なぜか。それは分からない。

 だが、記憶を失ったという事実が、これもまたなぜか分からないのだが無性に俺を不安と淋

しさに追い込むのだ。

「先輩、俺、記憶なんか失ってませんよね」

 しつこく、俺は先輩に同意を求めた。記憶を失ったことが、俺の心の中を壊していってしま

いそうな気がしたからだ。

「ぼけろん、ごめんね」

「先輩……」

 その時、俺は自分のことでいっぱいだったため気付かなかった先輩の悲しげな顔と、そして

なぜか何度も謝っている『先輩』に気付いた。

「先輩? なんで誤るんですか?」

「………」

 …待てよ?

 何も答えない先輩を見ながら、俺には、ふと新たなる疑問が浮かんだ。いや、正確に言うの

ならばさっきからもその疑問は浮かんでいたのだが、その時は真剣には考えていなかったため、
改めて疑問を確認した。

 記憶喪失……。俺は、その病気とも言える症状を携えている。そのことを知った今、俺は体

の中の全てが、何かもやもやしたものを感じている。心の中は、不安定だ。

 だが、その記憶喪失。何かおかしくはないだろうか。

 俺は、その疑問の答えを自分の中で最大限に導き出そうとしながら、……結局答えは見つか

らないことを悟ると、先輩に聞くことにした。

「先輩。けど何かおかしくありませんか? 俺が記憶喪失になったのは、それは事実だとして

も、普通、記憶を失ったら、そのことに気付くか、もしくはおかしいとか思うんじゃないです

か? 俺は今まで、何もそんな違和感は感じたことがないのに」

「うん、確かにそうね……」

 先輩は、俺の考えに同意した。

 一旦天上を見上げる先輩に、俺も合わせて見上げてみる。べつに何もなく、先輩はただ無意

識に見上げただけだと、俺は知った。考えをまとめているような、そんな感じである。

「ぼけろんの記憶喪失。そのことをぼけろんが気付かなかったのはね、わけがあるんだ。それ

は……」

 そこまで言うと、先輩は天上から俺の方へと顔を向ける。

「それはね、ぼけろんは、何かのショックとかで記憶をなくしたんじゃなくて……」

「え?」

「任意に記憶を消されたからなの」

「は?」

 …消された? だれに? どうして?

 先輩のその話に対する疑問は多数に沸いてきた。

 記憶を消すことなど、できるのだろうか。いや、それ以前に、なんで俺は意図的に記憶を消

されたんだ? そして、それがなぜ、俺が、記憶喪失になったことに気付かなかった理由にな

るのか。

 よく分からないことだらけで、そして、真実味のある先輩の話が、俺の頭を痛めていった。

「なんで俺は、記憶を消されたんですか? 俺が今までそのことに気付かなかったことと、ど

ういう関係があるんですか? それに、先輩、なんでそんなこと知ってるんですか?」

 先輩が、俺より俺のことを知っている。

「先輩、よく分かりませんよ。記憶をなくしたのは、……自分で何も憶えてないから、それは

……辛いけどなんとか分かりましたが、……『消された』というのは、なんなんですか?」

 自分でもよく分からない質問を立て続けにしていた。だが、考えれば考えるほど、俺の頭は

おかしくなっていった。混乱していく。

「ちょっと待てよ? 記憶を失ったのなら、俺がこうして村で生活しているのは、嘘なのか?」
 俺は、黙って俺の問いを聞いている先輩にどんどん言葉をぶつけた。

 記憶を失ったことと、『消された』という単語を思い浮かべると、とてつもなく気味の悪い

ものが俺には感じられる。

 頭の中がゴチャゴチャしてきた。

「記憶がないなんて、なんか、俺って、俺じゃないような気がしてきた……」

 記憶を失ったことを唐突に知ったことに対する恐怖のような感情を、必死に自制していた俺。
 深く考えていくうちに、それが耐えられなくなってきた。

 次第にそれを、様々な想いを複雑に絡み合わせて、先輩にぶつけていった。

「なんか、なんか……よく分からないけど、俺って、存在ないですよ」

「……ううん、それは違うよ」

 それだけ言うと、先輩はおとなしく俺を見据えた。

「ぼけろん、あのね」

「俺は村にやってきた。……とするのなら、俺はそれまでは何をやっていたんだ?」

 自分の口調が、だんだんと強めになっていくのが分かる。

「俺は………俺は……」

「ぼけろん!? ちょっとしっかりしてよ!」

 先輩の声が耳に入るが、俺は『自身』を失っていた。

 …どうして記憶がないんだ? どうして消されたんだ? 俺は何者なんだ?

 子供みたいに、疑問ばかりが舞い込んでくる。その疑問を先輩に聞こうと思うが、その前に

俺の思考がそれを遮る。

 目の前が真っ暗になって、そしてその暗い世界にただひとり残されたような感覚を覚える。

 頭を支えて、俺はきつく目を閉じた。

「ぼけろん?」

「……俺は一体、何者なんだ?」

「ぼけろん、今は何も考えないで。あせらないで。詳しいことは、後で言うから、今は、とり

あえず、記憶は失ってはいてもぼけろんはぼけろんなんだってコト。それだけを考えて」

 先輩の慰めるような声が、俺には余計におせっかいに感じられた。

 …なんで記憶を失ったことを知っただけで、こんなにも心が入り乱れるんだ?

 そうは思っても、勝手に俺の心は激しく蠢いていた。

 俺は先輩の目を見た。

「先輩、記憶がないんですよ! しかも、突然そんなことを……、考えてもみなかったことを

知ったんだ……。よくは分からないけど、自分が何者なのか、それが気になるんだ。だからそ

んなふうに先輩に言われても、素直に、……そして冷静に事実を受け止められるわけないじゃ

ないですか!」

「ぼけろん……」

 沈んだ表情の先輩に、俺は馬鹿みたいに大声を出していた。落ち着こうとしても、苛立つ感

情が自制できなかった。

「待ってよぼけろん。ぼけろんが焦る気持ち、あたしにも分かる。けどさ、これだけは言える

んだよ。さっきも言ったけどね、記憶喪失だってことを今知ったからって、これからどうなる

のかって、……そんなことないでしょ? ぼけろんは、今まで通りに生活すればいい。……そ

うでしょ?」

「今まで通り……?」

「そう」

 ……今まで通り。今まで通り。

「今まで、通り……」

 先輩のその言葉が、俺の頭の中を何度も横切っていった。

 今まで通り。……そう、今まで通りに生活する。

 …そうだよな。

 俺は、一度大きく頷くと、先輩に微笑を見せた。

「そ、そうですよね」

「うん」

 『今まで通り』。その言葉が、おかしくなりかけた俺の心を落ち着かせた。

 先輩の、なんとなく説得力のあるその言葉。俺はそれを聞いて、冷静に考えてみた。

 本当にどうかしていた。記憶喪失だということを、記憶を消されたという事実を、今知った

からこれからどうなるのか。

 ……そう考えると、確かにどうにもならない。

 俺は記憶を失ったことを思い詰め、急に不安が襲ってきたため、自分を見失ったいた。

 だが、よくよく考えれば、ただそれだけのこと……いや、それだけのことならばいいが、今

の俺にとっては、いつもの生活に支障がでるわけじゃないじゃないか。

 それでも何か嫌な気分が残っているのを、否定することはできない。それに何より、いくら

記憶がなくなったことを、冷静に見つめることができるとしても、まさか自分がなるとは今ま

で考えたこともなかった……いや、それどころか知らないうちにそうなっていたなんて、信じ

がたいことである。

 とにかく俺は、なんとか先輩の言葉で、自分の過去が思い出せない……ようするに記憶喪失

だということを、自分の中で認識して、落ち着きを取り戻した。

 静まり返った食堂。どれだけ俺がうるさい声を上げていたのかを恥ずかしくも理解した。

「先輩、そうですよね」

「え?」

「なんだか、よく分からないけど、とにかく俺、落ち着きました。記憶を失ったっていう事実

を知ったのが急だったから、おかしくなったけど、……すみませんでした。先輩に当たったり

して……」

 俺が先輩に誤るような口調で言うと、先輩は手のひらを左右に数回振った。

「ううん、あたしが意気なりそんな話をしたからいけなかったんだ……。ごめんね、ぼけろん。
……けど、安心した。ぼけろんが記憶喪失のこと、なんとか抑えてくれたから……」

「ええ……」

 今までの不安な表情からようやく安堵したような表情になって、先輩はいい意味での溜め息

をついた。

 記憶を失ったこと。それはもういい。なんとか理解もできたことだし。

 ……だが、

「けど、先輩。俺って、なんで記憶がなくなったんですか? ……消されたっていうのは、ど

ういうことなんですか? 先輩、そのこと、知ってるんですか?」

 俺は、同じ質問は、さっきしていた。

 だが、今度のそれは、冷静に物事を考えた後でのものであって、おそらく先輩がさっきずっ

と黙っていたのは、俺の落ち着きを取り戻させるためであろう先輩は、今度は一回、深く頷い

た。

「うん、そのことも話すね。けどその前に、あたしが、ぼけろんが記憶喪失だってことを、今

になってようやく話した理由って、なんだか分かった?」

「え?」

 唐突とも言える先輩の問い。俺は一瞬、考えた。

 そうだ。今の話からすると、先輩はずっと前から、俺が記憶喪失だってことを知っていたこ

とになる。それが本当にせよ、そうでないにしても、記憶喪失だということは、俺でさえ知ら

なかった。そのことを知っている先輩は、俺よりも俺を知っている。

 ようやくそのことを話した理由。そのきっかけは一体何なのか。俺は少しだけ考えた。

「その理由っていうのはね」

 俺が答えを見い出す前に、先輩は話し始めた。

「あのね、ぼけろん。さっきまで……、ようするにあたしが記憶喪失の話をする前、ぼけろん、
夢の話、してくれたよね」

「ええ、まぁ。それが何か?」

「そう、その夢のことなんだけど……」

 先輩が、慎重に俺に話を切り出そうとしているが分かった。

 加えて、俺はその時、『夢』がなんらかの関係で、記憶喪失と、過去の俺のことに関わって

いることを悟った。

 先輩は続けた。

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