2017年2月19日日曜日

季節の変わり目①


                              プロローグ

 それは、高校三年の始業式を間近に控え、勉強にも熱が入ってきた時に起こった。
 み か                                         やまだ
「美夏。お前は、沖縄にいる私の親戚  つまり山田のおじさんに預けることにした」
「え?」
 父さんの低くはっきりとした言葉に、美夏はうろたえて問い返していた。
 父さんは、今年、五十を迎える。最近、仕事で「でかいチャンスがやってきた」と喜んでいて、年齢の問題か、「これを私の最後の仕事にする」と言い、突如、ニューヨークに行くことにした。
 父さんを、その子供の僕から見ても分かるほどもの凄く愛している母さんは、父さんと一緒にニューヨークに行くみたいだ。
 大学受験を控えている僕は、このまま北海道に残ることになり  
 問題となったのは、残された妹の美夏のことだった。
 父さんの言葉が頭の中で木霊しているのか、美夏はしばらく呆然と虚空を見つめていた。「美夏?」
 僕が呼びかけるとようやく我に返ったようで、美夏は父さんの方を向いて声を震わせて言った。
「ちょ、ちょっと待ってよ、おとうさん。わたし、おにいちゃんと一緒じゃないの?」
 きょう
「京も、できれば山田おじさんのところに行ってほしいんだが、受験があるからな」
 父さんははっきりとそう言って、キッチンで皿洗いをしてこちらのことなど目に入っていない様子を続ける母さんのところまで歩いた。
「そ、そんなのいや……。わたしも北海道に残りたい。お願い、おとうさん!」
 美夏は背を向けた父さんに、大声で言った。
「駄目だ!」
 僕はその後、しばらく口論を続ける父さんと美夏を、ただ黙って見ていた。母さんは、いつも知らんふりするだけ……。
 僕たち、そろそろメチャクチャになってしまいそうな嫌な予感さえした。
「おとうさん、ねぇ、お願い!」
 最初は平静を保っていた父さんも、美夏のしつこい哀願に頭が痛くなったのか、怒り始めた。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃと……、お前は一体なんなんだ! そんなに京と一緒にいたいのか!」
 父さんのどなり声に、美夏は一瞬、からだを竦ませたが、対抗するように言った。
「……うん。そう、そうだよ、おとうさん。おにいちゃんと一緒にいたいの。それじゃ駄目なの?」
「当たり前だ! 京と一緒にはいさせん! お前は勉強の邪魔になるし、何をしでかすか分からんからな! このクズ娘が!」
 その言葉に僕は、胸を突き刺していくものを微かに感じた。
 それまで、僕は父さんの方を向いていた。今度は、ゆっくりと美夏の顔に視線を向けていく。
 顔が引きつり始めて、目元が潤んでいた。
「……そんな、そんな言いかた、酷いよ、おとうさん」
 父さんは、床に膝をついて小さな声で言う美夏を見下すようにして、吐き捨てた。
「やかましい! 大体な、学校にも行かないガキのくせして、父親に刃向かう貴様が悪いんだ!」
「……それは違うよ! わたしは行きたくないなんて言ってないのに、おとうさんが学校に行かせてくれないん  」
「黙れ 」
 美夏の言葉を遮って、父さんは思いきり右手を後ろに振りかざして、美夏の頬を強烈に叩きつけた。
「父さん!」
 ばしんっ、という強烈な音が僕の声を覆い隠して部屋中に響き、美夏は数メートル吹き飛ばされた。
「いたい……いたいよぉ!」
 部屋の壁にぶつかって鈍い音を立て、額を切った美夏は大声で泣き始めた。
「父さん、何をするんだ!」
 僕はさすがにそれには黙っていられず、椅子から立ち上がってうつ伏せに倒れている美夏のそばに駆け寄った。
「美夏、美夏、大丈夫か 」
 僕は美夏の肩に優しく触れて、ゆっくりと起こしてやると、美夏の傷が、額だけではないことに気づいた。唇から血が流れている。
「京。大丈夫だよ。美夏はそんなことでは死なないんだからさ」
 父さんが気味の悪い口調で言ってくるのに、僕は鋭い睨みで返した。
「父さん、なんてことするんだ  美夏は何もしていないのに!」
 しばらく大声など出していなかったせいか、声が裏返ったが僕はそんなことは気にしなかった。父さんは、やり過ぎだ。
 僕は泣き続ける美夏を庇うように抱き締めて、父さんをじっと睨んだ。
「……京」
 僕のその対応に、父さんは口を噤んで一歩、後ずさった。それからキッチンにいる、いまだ何事もなかったかのようにしている母さんの方を向いて、そして再び僕の方を見ると、笑顔で言った。
「あ、ああ。悪かったな、京。もう美夏に手だしはしないよ」
 それを聞いて、僕は両腕を緩めて美夏の顔を覗いた。まだ涙が止まらず、血も止まらず、泣き声も止まる状態ではない。
 僕は、言葉を声にして出すのもつらいとは思ったが、美夏に小さな声で聞いた。
「美夏……。美夏は、兄ちゃんと一緒に残りたいのかい?」
 それに、美夏はこくんと頷くと、泣き声の合間に言った。
「うん……、おにいちゃんとがいい」
「そうか……」
 美夏は顔をあげて僕を見つめた。
 美夏に冷たくても、僕に甘い父さん。僕の言うことは大体、素直に聞いてくれる。
 僕は、じっと笑顔で僕を見てくる父さんに、はっきりと言った。
「美夏も残ってほしいんだ、父さん」
「   」
 父さんは僕の言葉に、一瞬、目を見開いたが、それからしばらく悩むようにして顔を伏せると、あやふやな声で言った。
「…………。京、それでいいのか? 『美夏に頼みだから』なんて理由だったら、やめた方がいいぞ」
 僕は父さんの口調に、はっきりとしたこたえを口にするためらいはなかった。
「僕が、そうしたいんだ」
「……分かった」
 父さん……、納得のいっていないことは、顔を見ればすぐに分かった。でも僕は、両手で僕の服をぎゅっとつかんでくる美夏の顔を見て、なるべくそのことは忘れたかった。
 父さんは、僕を大切にしてくれるのに。でも美夏に対する父さんは、許せない。

 それから三日後、父さんと母さんは急ぐようにして北海道を後にした。


          第一章  さりげなく始まる夏休み


 一学期の終業式が終わった今日、一段落ついた僕の受験への道。
 だが、休んでる暇はない。夏は受験の天王山だ。
「ふぅっ、やっと夏休みだな!」
「確かにそうだ」
「ところで、なぁ、京」
「何だ?」
 終業式の帰り道。
                                               えいかわ しげや
 意味もなく笑顔で僕の隣を歩いているのは、親友の永川 茂也。
 短髪の長身で、僕より幾らか身長の高い彼は、建設会社への就職がこの時すでに決まっていた。
 そんな彼に、僕は受験生という身分のためか少し憧れを感じていたのは、否定できない。「少しは気楽に遊んだ方がいいぞ」
 茂也が、これもまた無意味に笑いながら口にした。
 そんな茂也に合わせるように、僕は苦笑した。
「ああ。だがそういうわけにもいかない」
「勉強、よくやるよなぁ、お前は。俺にゃあできねぇよ、ぜってぇ」
 幼なじみの彼とは、いろいろと将来について話している。性格、進路こそまるっきり違うが、心強い仲間であることは確かだ。
 学校の帰り道、僕は入学当時からほとんど茂也と一緒に登校し、下校している。
 僕と美夏の住む住宅街まで来て、茂也はそこで別れる。父さんたちがいなくなってからの日課だ。
 アパートの前まで来た僕に、茂也は軽く手を挙げて言った。
「京、受験もいいけどな、それだけの男にはなるんじゃねぇぞ」
 妙に真剣な眼差しで言う茂也に、僕は曖昧にこたえた。
「分かっている」
 僕の返事に満足したのか、茂也は笑顔で去っていった。

「ねぇ、おにいちゃん、通知表どうだった?」
 寝床を提供してくれる部屋のドアを開けて、玄関で靴を脱いでから最初に口にしてきた美夏の言葉は、それだった。
「そうだね、まあまあかなぁ……。ほら」
 好奇心でいっぱいの美夏に、僕は黒い鞄の中から一枚の綺麗な紙を取り出して手渡した。 そしていつも家に帰ってから飲む、麦茶を冷蔵庫から取る。僕は麦茶が大好きだった。
 麦茶をコップに注いで、テーブルの上に置いてから、鞄を奥の部屋にある机の横に置いておく。
 テーブルの前にある椅子に座って、僕が麦茶の入ったコップを手に取るところで、渡された通知表を見ていた美夏が、目を丸くして言った。
「わあぁ、相変わらずすごいんだね! さすがおにいちゃんだぁ。わたしもうれしいなっ」「ありがとう、美夏。そう言ってくれると、兄ちゃんもすごくうれしいよ」
 美夏の感想に、僕は笑顔で返した。
 父さん母さんがニューヨークに行ってからは、美夏が全て家のことをやってくれている。家にいる時、勉強のためいろいろ疲れたりする僕に、父さん母さんがいなくなってからは特に、美夏は気を遣ってくれた。正直なところ、僕は美夏との二人暮らしがとても心地いい。
 通知表をじっと笑顔で眺めながら、美夏は僕とテーブルを挟んで対角にある椅子に座った。
 身長。実際にどのくらいあるのかちょっと分からないが、高校二年の時に計ったら百七十五センチだった僕よりも、三十センチ近く低い小柄な体で、いつも家のことをやってくれている美夏。あのとき父さんに、「美夏と一緒にいたい」と頼んでおいてよかったと思っている。
 僕は、いまだ通知表を眺める美夏の、自然な薄茶色をした、後ろに二つにまとめた髪を見つめながら、麦茶を飲んだ。
「おにいちゃん、本当にすごいね。『4』が一個しかないよ」
 一旦、顔を上げた美夏に、僕はつい顔を綻ばしてしまった。
 微笑ましい想いでいっぱいになってしまう僕。だが同時に、心配の種が心の中に降りかかってきた。
(……美夏は、僕とのこんな暮らしに満足しているんだろうか)
 いつも疑問に思うことだ。本当ならば、中学校の二年生の女の子だ。父さんに学校に行かせてもらえないからといっても、いろいろとやってみたいことがある時期だというのに、買い物の他、あまり外出をしていないように僕には思える。本当は、僕が一緒に遊んでやるべきなのだろうが、受験が……。
「あぁ、満足満足っ」
 通知表を閉じてから、笑って美夏がそう言った。
「あっ、そうだ」
 椅子から立ち上がって、美夏はキッチンへと足早に向かった。
「今日の昼食は、オムライスね」
 キッチンから後ろを振り向いて、美夏は三角巾を手に取ってそう言った。
「うん、今日は大盛にお願いするよ」
 僕は明るくそう言った。
 こうして久しぶりに平日の昼食を美夏と食べれるのも、終業式で帰りが早かったおかげだ。
 普段、学校が午後まである時は、美夏に弁当を作ってもらっている。

 本当に大盛のオムライスを食べながら、僕は、自分で作った料理にそれなりに満足している美夏に言った。
「美夏。今日から、講習があるんだ」
 それを聞くと、美夏は一旦、食べるのを中止して、親身になって口にした。
「大変だね……」
「……うん。夜は遅くなっちゃうけど……、ごめんね」
 僕はそう言って、食べ終わったオムライスの皿を、キッチンまで運んだ。
 再び食べ始める美夏は、やはり笑顔で僕を見ていた。
「うん、全然いいよ。頑張ってね」
「うん」
 僕は、再び笑顔で美夏に返した。

 昼食を終え、夕刻。
 今日は講習初日ということで早めに家を出て、住宅街沿いの小さな道を通って、予備校へと向かった。
 今日から日曜日を除く三週間、毎日、講義がある。午後四時から午後十一時までぶっつづけの講座をとったが、それは高校一年の時から同じで、慣れてはいる。
 予備校へは徒歩で行ける距離で、大体四十分だ。
 七階建ての鉄筋の建物。
 全ての講義は午後四時から始まる。そのせいか、早く来た僕以外には、あまり人の影は見当たらなかった。
「ふう」
 とりあえず四階まで昇って、教室に入り、いつも座っている席につく。
 ひとつの教室に百人分は入れる教室だが、今はまだ僕を含めて五人だけだった。
「お、京ちゃーん!」
 その時、唐突に後ろから声をかけられ、僕は振り返った。
 そして気分を悪くした……。
 後ろから笑顔でやってきたその人物は、僕の隣の席に座って、周りの人に迷惑がかかるくらいの大声で言った。
「京ちゃんもこの講義とったんだね! 知らなかったわぁ」
「その前に、もう少し小さな声で話してほしいんだが」
 セミロングの頭髪は、完全な赤に染められている。僕には疎い、最近の格好、といっていい姿で、彼女は笑っていた。
                     たちばな れい
 高校で、クラスは違うが同じ学科の友人、立花 玲。
 僕のような勉強にのみ生きる人間に話しかけてくるような人物ではないのではないかと思うのだが、彼女は学校でも僕にしょっちゅう声をかけてきた。
  はた
 傍から見ると頭が悪いように思えるが、成績は本物だ。
 彼女は相変わらずのハイテンションで、口を開き続けた。
「ねぇねぇ、今日さ、学校来た? あたしさ、京ちゃんに話あったのにさ、見当たらなかったのよぉ」
 脳に響く甲高い声の玲に、僕はいつものように嫌気が差した。
 とりあえず避けるように、言う。
「学校には行った。それより勉強の邪魔なんだ。失せてくれないか」
「そんなふうに言わなくてもいいじゃないのさ。それに、あたしはこの席で講義受けたいんだもん」
 玲はそう言って、僕の顔をまじまじと下から覗いてきた。
 それから、そんな行動とは全く関係のないことを口にする。
                                      いとう
「ねぇ、ところでさ、ここのチューターの伊藤さん、すっごくいい人なんだって」
「…………。それが僕になんの関係があるんだ」
 玲のわけの分からない話に僕は歯止めを掛けたく、そう言った。
 すると玲は少しムッとした表情で、僕の右腕を掴んだ。
 ぶんぶんと振り上げて、振り下げて、全く意味のない行動を取って口を尖らせる。
「もうっ! 酷いな、京ちゃん。覚えてないの?」
「何をだ」
「少し前、進路で悩んでた時があったじゃない、京ちゃん。誰か相談に乗ってくれる人、いないか、って言うから、教えてあげたのにぃ」
 それを聞いて、僕は一昔前のことを思い出した。
 進路。受験以外の可能性のことで悩んでいたことがあった。
「そうだったかもしれない。悪かった、玲」
 だが、それは昔のこと。今は必要のないことだ。
 僕はそう思って、玲に簡単に謝った。
「ううん、いいんだよぉ、京ちゃん。あたしは京ちゃんの役に立ちたいだけなんだからさ」「そうか」
 受験以外の可能性……。
(……いや)
 僕は、ふと昔のことを思い出してしまった自分を叱咤し、今、やるべきことはなんなのか、それだけを考えることにした。
「ねぇ、それはもういいんだけどさ。あたしね、今日、学校ですごかったんだよ」
 玲が別の話題を持ち出して、僕は彼女の方を向いた。
 それからしばらく、玲は喋り通しに喋った。
 がちゃん
「さぁて、始めましょうか、皆さん!」
 玲の話は尽きることなく、教室の静まらない時間が数十分立つと、教室の扉が開いて、スーツ姿の女性講師が笑って挨拶をして入ってきた。
 女性講師の方を向いて、僕と玲は一旦、話すのをやめて講義の準備を始めた。講師の後に、続々と受講生が入ってくる。
 普通、講師が教室に入る前に受講生は教室にいるべきだと、以前、今、教壇に立っている女性講師が話したことがあったが、その話を聞いた者が今いる受講生の中で何人いるのかは知らないが、耳を貸す者は少ないようだ。
 そして講義が始まった。

「さて、今日はここまでです。明日をお楽しみに、ね 」
 女性講師の最後の締めで、初日の講義が終わった。
「終わったねっ、京ちゃん」
「ああ、確かに終わった」
 一息して、僕は玲と顔を見合わせて、お互い、意味もなくはにかんで、予備校を後にした。
 ふと、僕は家で待っている美夏のことを考えた。
 夜遅いので、一応、寝てていいとは言ったものの、心配症の美夏のことだから僕の帰りを待っているに違いない。
 しかめた表情だった僕に気づいたのか、玲が隣で疑問の目で僕を見ていた。べつに何を言うことなく、玲はそのまま歩いた。
 予備校から数分歩いたところで、僕達の帰路は分岐される。
「じゃあ、明日、予備校で」
 僕はそれだけ言って、何やら不適な笑みを浮かべた玲を気にせず、手を挙げて別れた。
 数メートル歩いたところで、後ろから玲が叫んだ。
「ねぇ、京ちゃん。今日、泊まってっていい? 一緒に勉強、やろぉ?」
 僕は後ろを振り返って、玲が何を望んでいるのか理解できず、立ち止まったままの玲のところには戻らずに、聞こえるよう言った。
「悪いがそれは無理だ。妹がいるし、復習の効率が悪くなる」
「ブー! 京ちゃん、ノリ悪いぃ!」
 そう言って、もう帰るのかと思ったら玲はいきなり走ってきた。
「ねぇねぇ、寄ってってもいいでしょ?」
「駄目だ」
 手を掴んで引き止めようとする玲を振りほどき、僕は夜道を走った。玲に付き合っているような時間はない。
「ちょっとぉ! 京ちゃーん!」
 後ろから大声が聞こえてくる。一回に終わらず、何度も何度も僕の名を呼ぶ玲。
(恥ずかしくはないのか?)
 そう思いながらも後ろを振り向く勇気が沸かず、僕は走った。

 医大は、現在の日本の大学の中でも極めて難しい。いろいろな大学の過去の問題をやっている中でも、難しさは頂点に値すると、僕には思える。何より僕の目指す大学の入試問題は、他大学に比べて、変に偏っているものが多いのだ。
 だが、だからといってやめるわけにはいかないのも、事実。
 高校一年の夏からの夢。それは医者になること。
 そのために、毎日毎日、勉強を重ねてきた。
 今までの経過を頭の中で思い出しながら、僕は住宅街へやってくると、僕達の住むアパートの階段を昇った。
 夜とはいえ夏、真っ只中だというのに、少し寒い。
 人の気配を感じないのは、この時間帯の必須条件。
 部屋のドアの前まで行き、鞄の中から鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。
 ガチャッ
 鍵を回転させて音を確認した。ドアノブに手をかけて、僕はドアを開け  
 ガン!
「ん?」
   られなかった。
 僕は、すぐさま鍵が開いていたことに気付き、再び鍵を開け直して、ドアを開いた。
 鍵を開けるのとドアを開く音に気づいたのだろう、ちょうど部屋の中で立ち上がる美夏の姿が見えた。やはり、起きていた。
 僕を見るなり、笑顔になって美夏は玄関まで駆け寄ってきた。
「おにいちゃん。おかえりなさい」
「美夏……」
 僕の持っていた鞄に手を伸ばそうとする美夏。僕は、やや強い口調で言った。
「美夏、鍵は掛けないと危ないよ……」
「あ……」
 鍵のことに気づいたのか、美夏は口を丸く開いて、ドアの方を僕越しに覗いて、すまなそうに謝った。
「ご、ごめんなさい。わたし、忘れてたなんて……」
 しょんぼりとした表情で言う美夏に、僕は首を振った。
「ううん、いいんだよ、美夏。ただ、これからは気をつけて、って言いたかっただけだからさ」
 すると一瞬のうちに笑顔になって、美夏はもう一度、僕の鞄に手を伸ばした。
「うん、これからは気をつけるね」
「うん」
 僕は美夏の頭を優しく撫でた。
「おにいちゃん。講習初日、お疲れさまっ」
「うん、ありがとう」
 僕は美夏にそう言って、冷蔵庫の扉を開けると、大好きな麦茶を取り出した。
「コップ、出すね」
 僕の行動をいつものように把握してくれて、美夏は食器だなからコップを二つ出してテーブルの上に置いた。
 僕はふたつのコップに麦茶を八分目まで注いで、椅子に座った。
「講習、今日は初日だったからかな……、なんだか、ほとんど先生の雑談ばっかりだったんだ」
「へぇ。どんなお話だったの?」
 僕の話を聞きながら、美夏はテーブルの上にいろいろな料理を用意してくれた。あらかじめ作ってあったようで、珍しくごちそうだ。
 僕はその豪華料理を見て、顔を崩してしまった。
 とりあえず、美夏の問いに答える。
「三十過ぎた女の先生なんだけどね。その先生の好きな人、のこと」
「好きな人?」
「うん。みんな興味津々でさ、玲なんかつっこみばっかりして、先生困らせてたよ」
 ひととおり、テーブルの上に料理を出して、美夏は首を軽く傾げると、椅子に座った。
「『玲』って、あの、おにいちゃんの高校一年生の時からのお友達?」
「そうそう、前にも話したよね。勉強できるけど、頭が少しおかしい女って」
「うん、知ってる知ってる」
 笑いながら言う美夏。いつも笑顔の美夏だけど、なぜか今日は更にいい笑顔だった。それに機嫌もよさそうだ。
 ひととおり僕が話し終えると、美夏は手を合わせて僕の目を見た。
「あ、それはそうと。あのね、今日はおにいちゃんの講習初日だから、ごちそうにしてみたんだ。見れば分かるかもしれないけどっ」
「あ、だからなんだ」
 僕は目の前に用意された料理の意図が、この時になってようやく分かった。
「これが、特製ハンバーグステーキ。で、特製ハンバーグスープと特製ハンバーグカレーがそちらですっ。特製ハンバーガーは、最後に食べてね」
 指を差しながら解説していく美夏を見て、僕は心から感謝した。
「すごくおいしそうだね」
「うんっ。おにいちゃんの大好物のオンパレードにしてみたんだ。勉強、大変そうだから、元気出してもらわなくっちゃね」
「うん。美夏、本当にありがとう。兄ちゃん、すごく感謝してる」
 僕はそう言って、美夏の頭を静かに撫でた。昔から頭を撫でると美夏は、落ち着いて気持ちよくなる、と僕に撫でることを懇願してきた。
 最近は、僕から美夏の頭を優しく撫でることが多い。それだけ、僕自身、僕にいろいろと手助けを与えてくれる美夏がいとおしく思えてしまうのかもしれない。
「あ、美夏」
 僕はそう言って、安心しきった笑顔の美夏から手を離して、美夏の夜のことを考えた。
「料理、すごくうれしいんだ。けど、夜は兄ちゃんが帰ってくるまで無理して起きてなくてもいいんだよ? 十二時近いんだしさ」
 それを聞くと、美夏はしばらくじっとこちらを見つめたまま、きょとんとした。
 僕は、続けた。
「いや、TVとかあって起きてるのなら、いいんだけどね。兄ちゃんのためだったら、全然気にしなくていいよ」
 そう言って、美夏の目の前で手を交差させた。
 それで正気に戻ったのか、美夏は笑って口を開いた。
「……あ、ううん、おにいちゃん。明日からも起きてるよ、わたし」
「そう……?」
「うん。おにいちゃんのため、じゃないから。わたしが、起きてたいの。おにいちゃんの帰りを、待ちたいだけ」
 僕はそれを聞いて、心の中が半分、苦しかった。同時に半分、嬉しさとともに感動が込み上げてきた。
「美夏……。なんて、なんて言ったらいいのか兄ちゃん分からないけど、今、すごく感動したよ。ありがとう!」
 いつになく感情が高ぶってしまった。
 僕は美夏の頭を再び撫でた。
「おにいちゃん、……うん!」
 美夏は笑顔で、僕の手を頭で受け入れた。
 そしてその後、僕と美夏は、特製ハンバーグ群を全部は無理だったけど食べていった。
 夜遅いが、僕達には時間など気にかからなかった。
 食べ終わってからも、僕は受験のことを美夏に話してやったり、二人でミニゲームをやったり……。
 講習初日、それだけの日なのに、今日は想い出の一日となってくれた。
 そんなこんなで、美夏は眠り、僕は講習の復習に取り掛かる。
 高校三年の夏休みの幕開け。本格的な受験勉強の始まりだった。


              第二章 ある夜の想い出……


「朝がやってきましたよ~。京様、起きてくださぁい」
 講習が始まって、早くも一週間が過ぎた。
 講習が始まってから二日目。その時には、僕はすでにクシャクシャになっていた。美夏は心配して、「無理しないでね」と言ってくれたが、長期の学校の休みには必ず講習を受けていた僕だというのに……、少し複雑だった。体力の減少が、理由分からず激しい。
 講習、残り二週間だ。
「ああ、僕は起きたよ。もう大丈夫だ、美夏さん!」
 僕の家はアパート。六畳ずつの二部屋。美夏と二人で住むには十分な広さだ。
 父さんたちと住んでいた一軒家に比べて、格段に見劣りする部屋ふたつだが、僕も美夏も、ここでふたりで住むことになった時は、これからの生活に期待で胸がいっぱいだったものだ。今も、あの時の想いはほとんどなくなっていない。
 ただ、エアコンがないため、今から冬が心配ではある。北海道のこの地域、夏はちょうどいい暖かさで、むしろ涼しいのでいいが、冬は寒い。
 父さんたちがいつ帰ってくるのか分からないし、いや、下手をすれば、何年も帰ってこないかもしれない。仕送りはしてもらっているが、必要最低限の生活費しかもらっていない。
 となると今のところは……。
 僕は勉強で忙しいためアルバイトをする暇はないし、お金がないため余計に物を買うことができない。
 だからといって、今の美夏に仕事をさせるわけにもいかない。
 冬への覚悟が必要なのである……。
「京様、今日のわたしのお目覚めの挨拶、いかがでした?」
「それはもうたまらなく美しい声音で、僕も参っていたところさ。今後とも、美夏さん、あなたのモーニングコール、期待しているよ」
「まぁ、京様ったらっ、もう!」
 ピンポーン
 爽やかな夏の朝、唐突にもブザーの音が鳴った。いつになく甲高く聞こえたその音に、美夏は紅潮させたままだった頬をなんとか元に戻すと、素早く玄関先へと走った。
 覗き窓から、相手を確認する。
「どなたですか?」
「あ、永川です」
 その言葉に安堵して美夏がドアを開けると、短い髪にジェルをべっとりとつけた茂也が立っていた。
「あ、茂也さん。いらっしゃい」
「いらっしゃっちゃったよ、美夏ちゃん。相変わらずかわいいねぇ」
「え? ……おにいちゃん、茂也さんが来たよ」
 再び頬を赤く染めた美夏が僕の方を振り返ってそう言った。茂也が合わせて僕に手を挙げる。
「よう、京! ちょっといいか?」
「ああ。少し待ってくれ」
 僕は布団をどかし、茂也が入ってこられるよう部屋を片付け始めた。
 その様子を見て、彼はドアの外から手を横に振って言った。
「いやいや、そうじゃないんだ。片付けなくていいぜ。外で話したいからよ」
「ああ、そうか。じゃあ今、行くから外で待っててくれ」
 僕がそう言うと、茂也はドアを閉めた。
 そんな彼をしばらく見つめて、美夏は朝食の準備にとキッチンへと向かった。
 僕は急いで着替えて、洗面所へと走った。
「じゃあ、美夏。ちょっと兄ちゃん、行ってくるから。すぐ帰るね」
「うん。ご飯用意しとくね」
 僕は洗面所で顔を洗い、髪を簡単に直して外に出た。

 久しぶりに茂也に会ったかと思うと、なぜだか妙に機嫌がいいようでさっきからずっと微笑みを絶やさない。
 夏休みに入ってからの茂也の顔は、今日が初めてだ。
 暑い太陽の日差しが、僕達に降りかかる。だがそれでいて適度な気温に、僕は新鮮な気持ちになっていた。
 僕の住む住宅街から幾らか歩いたところにある、小さな公園。
 その公園のベンチに座って  茂也は話があるという。
 ベンチに座った僕を立ったまま見て、茂也は話を切り出した。
「京。お前にとっちゃ、当然なことなんだろうけどよぉ」
「……何だ」
 いきなりわけの分からない話の出だしに疑問を感じて僕が問うと、茂也は苦笑して言った。
「玲に聞いたぞ。勉強ばっかりなんだってな」
 僕はしばらく黙って、頷いた。
「ああ。……だが、それがどうした」
「少しは気楽にやってくれよ。俺さぁ、お前がそんなだと、なんか調子狂うんだよな」
 茂也はそう言って、意味もなく笑顔になって歩き始めた。
 茂也は、僕が勉強することを前々から嫌っていたのだ。
 だが、今日はそのことを言うのが目的ではないだろうと僕は確信していた。外に呼び出してまでそういうことを言おうとする人間は、まずいないだろう。
「と、いうわけでよ!」
「な、なんだ?」
 突然、大きな声を出した茂也に僕は体を竦ませて、しばらく離れたところまで歩いていた彼が走ってベンチにいる僕のところまで戻るのを待った。
 茂也は僕の隣に座って、強制するように言った。
「今日さ、花火やろうぜ!」
「……なに?」
「玲が、提案してきたんだよ。玲の友達に、俺と京。それから  」
 茂也が、なぜ急に張り切った顔でそんなことを言い出したのか理解できなかったが、僕は彼の言葉を、手を軽く振ることで遮った。
「茂也。すまないが、講習があるから駄目だ。勉強があるし、そんな暇はないんだ」
 否定する僕に、茂也が更に言い寄ってくる。
「おいおい、講習の後に決まってんじゃねぇか。玲だって講習とってんだからさぁ」
「いや、だが  」
「それにな、勉強勉強言ってるお前だからこそ、たまには遊ぼーぜって誘ってやってんだろ。ここは素直に、従えや」
 そこまで聞いて、僕はベンチから立ち上がった。
 そして、僕の立ち上がる行動に理解を示さない茂也の方を振り向いて、僕ははっきりと言った。
「確かに誘ってくれるのは、僕としてもうれしい。だが、僕にそんな暇はない」
 僕の言葉に、茂也は諦めてくれると思ったのだ、が  
「そっか。じゃあ決まりだな! 今日の十一時頃、つまり講義が終わる頃、予備校の前でな。他のヤツらも待ってるぞ。じゃーな」
「お、おい。茂也」
 いきなりまくしたてる茂也に、ただそれしか声が出ず、僕は走り去る茂也をぼうっと見ることしかできなかった。
(……相変わらず勝手な男だ)
 一人きりになった公園で、僕はただ呆然としていた。
(……『他のヤツらも待ってるぞ』だと? ……全く)
 心の中で嘆息して、僕は、とりあえず公園を出た。
「そういえば……」
 どうでもいいことではあるが、なぜ、茂也はわざわざ僕を外に呼び出して話をしようとしたんだろうか。少しだけ気にかかった。
 まあとにかく、確かにたまには休んだ方がいいかもしれないな。
 僕はそう思って、太陽の日差しを眩しく感じながら、ちょっと歩いてみることにした。

 公園から気晴らしに数十分程歩いて、僕はアパートへと戻った。
 鍵を開けて、ドアを開ける。
「ただいま……。ん?」
 部屋に入って美夏がいないことに気付いた。
「どこへ行ったんだろうか」
 独り言を呟いてテーブルの上を何げなく見てみると、紙が置いてあるのに気づく。
「あ、買い物か……」
 僕はその小さな紙と一緒に並べられている朝食に手をつけることにした。
 今日の朝食は、ご飯にみそ汁。いつもと同じメニューである。
 しかし、僕はそれが一番だと思っている。何より作ってもらっているだけありがたい。
 椅子に座って、予め用意してあった麦茶を、テーブルに置いてある、口を下に向けてあるコップに注ぐ。
 ガチャッ
 その時、ドアの開く音が聞こえた。
「ん?」
 椅子に座ったまま無意識に玄関を覗いてみると、両手に買い物袋をさげた美夏の姿があった。Tシャツにジーンズ。髪は後ろにひとつに束ねている。外に出る時のいつもの格好だ。
「あ、おにいちゃん。帰ってたんだね。おかえりなさいっ」
 僕を見るなりそう言って、美夏は靴を脱いだ。
「美夏もおかえり」
 美夏は、僕が朝食を食べているのを見てから、冷蔵庫の前まで行って食料品を詰め始めた。
「なんか、今日は凄い量だね」
 美夏の両手にさげられた買い物袋の大きさから、僕は普段よりも数倍の量の食料を買い込んだことに気づいた。
「うん、しばらくお買い物、行ってなかったから……」
 床に置いた買い物袋から、どんどん食品類を冷蔵庫に入れながら、美夏は眉間に皺を寄せた。
「……はあ。今日は疲れちゃった」
「どうしたの?」
 僕が問いかけると、美夏はこちらを見て、次第に声を大きくしていった。
「今日は平日なのにね、……まぁ特価だったからっていうのもあるんだろうけど、おばさん達が凄くて凄くて……」
「おばさんたち? み、美夏、大丈夫だったのかい?」
 僕は美夏の疲労でいっぱいの顔に、よく見るとところどころに何かの傷跡に思えるものを発見して、椅子から立ち上がった。
「うん……。一応は」
 僕は、「大丈夫」と言う美夏のそばに寄って、一旦、手を休めた美夏の顔をのぞき込んだ。
「え、なに?」
「……あぁ、よかった。気のせいか。怪我はないみたいだね」
 驚いて見る美夏の顔をしばらく見てから僕は安心して、椅子に戻った。
 そして再び、問う。
「でもさ、そのおばさんたちと、何かあったのかい? そこまで疲労するってことは」
 僕のなにげない問い  すると美夏は、激情した。
「そうなの! ひとりすっごく太った人がいてね、わたしの方が先にレジに並んでたのに横入りしたんだよ」
「な、なんだと 」
 僕は美夏の言った言葉に絶句し、そして続きを待った。
「……そしたらね、その人の知り合いか何かの人が、どんどん入ってきて……。わたし結局、十人くらい後になっちゃったんだ……」
「そ、そんな…… 」
「みんな、からだ、大きいからわたし何もできくて……。あそこのレジはひとつしかないし……。からだが小さいのって、いいことないんだよね……」
「なんて……なんてことだ! 美夏にそんなことするなんて…… 」
「お、おにいちゃん……?」
 僕は、一瞬、僕に不可解な表情を見せた美夏のもとへと再び向かい、そして美夏の手を取った。
「美夏……。今度からは、一緒に行こう。兄ちゃんが、そんなヤツら、撥ね除けてやるから」
「え……? うん。嬉しい……けど、でも」
「そうだよね? 兄ちゃんはいつでも美夏の味方だから。また何かあったら、なんでも言
ってよ」
 僕はしばらく呆然とこちらを見つめてくる美夏にそう言って、冷蔵庫の食品詰めを手伝
った。
「おにいちゃん……。ありがとう」
 隣で手を動かしながら言う美夏に、僕は笑って返した。
「はは。うん」

 朝食を終えて十分ほど休んだ後、僕は机に向かった。昼食までの間、勉強をする。
 僕が勉強をしている間、美夏は家事をして、TVを見るか読書をする。
 そんな感じの毎日だ……。
「よし、ひと段落ついたな」
 三時間の勉強を終え、昼食。僕は勉強に切りをつけてそう口にした。いつも、そうすることで気分的に満足する。
 テーブルに食事を用意しようとしている美夏が僕を見て、微笑した。
「お疲れさまっ。今日は『素麺』でパワーアップしてね」
「おっ、『素麺』? 美夏は分かってるんだね……。兄ちゃんの気分的好みを」
「もっちろんっ。おにいちゃんの顔を見れば、なんでも美夏には分かってしまいますっ」
 キッチンに戻りながら言う美夏に、僕は再び彼女の頭を撫でたくなってしまった。
 ということで、今日は『素麺』。これは僕の好きな夏のメニューのひとつだ。しかし、やはり食事には気分というものが大きく関わってくるもので、素麺が好きだからといっていつでも食べたいというわけではない。
 しかし今日は、勉強中になぜか素麺を食べたくなったもので……。
 そのことについて何も言ってなかった僕の心理を見事、的中させた美夏。
「美夏はすごいなぁ」
 僕は感心とともに、喜びを感じた。
 で、素麺をテーブルに用意した美夏が椅子に座るのを見て、僕も合わせて椅子に座った。「いただきます」
「はい、いただいてくださいっ」
 食事前の挨拶をいつものようにして、僕達は静かな昼食を始めた。
「あ、あのさ」
 素麺を食べながら、僕は合間に言った。
「なに?」
 同じように食べながら問い返してくる美夏を見て、僕は最近、いつも思うことを聞いてみることにした。
 きょとんとした美夏に、いつも思うこと……。
「なんか、急に変なこと聞くんだけど」
「なぁに?」
「美夏はさ、……こんな生活に、満足してるのかな」
「え? どういうこと?」
 美夏がわけの分からないといった表情で問い返してくるのに、僕は戸惑いながらも続けた。
「だからさ、んー、なんて言ったらいいのかな。例えば……、何かやりたいことがある、とか、本当は学校に行ってみたい、とか、そういうことで、何かあるんじゃないかな、って思って」
「うーん……」
 滅多にそういう話を、僕は美夏にしない。
 そのせいか、美夏は最初、黙って考え込んだ。
 そして、しばらく経ち  
「……うーん、そうだね……。正直なこと言うと……。全然そんなこと考えてない、のかな。うん、確かに学校にも行ってみたいけど……。でも今の生活には満足してるし、楽しいし♪」
「そう?」
「うん、そうだよ。おにいちゃんいてくれるから、全然、寂しくもないし」
「……そう、かぁ」
 僕は美夏の話に、心痛むものを覚えた。
 現在の日本は、小学校六年間、中学校三年間と、九年間の義務教育を強いられる。
 しかし、その義務教育でさえ、父さんは美夏に許すことはなかった。学校側に何やら話したようで、美夏は小学校を卒業後、こうして家で、専業主婦のような生活を送っているんだ。それはそれで、本当のことを言うと僕としては嬉しい。が  
「え、でもなんで突然そんなこと聞くの?」
「え?」
 考え事に夢中になって、食事を食べる手を休めていた僕に、美夏が顔を覗かせてきた。
「あ……うん」
 僕は、少し口を噤ませた。
 美夏だって、普通の、本当なら中学生の女の子だ。友達と遊んだり、クラブに燃えたり、恋したり……、そんな学校生活に憧れてもおかしくないのではないかと、僕は時々、思うんだ。
「あぁ、いや、うん、ちょっと気になっちゃってさ。……ただ聞いてみただけだから。ならいいんだ」
 僕は、美夏がまた、きょとんっとしているのを苦い顔で見つめて、なんとか平静を保った。
「…………?」
 美夏はこの生活に不満はないと言う。だがそれはただ単に、僕に無理をして言っているような気がする。少なくとも僕にはそう聞こえてしまう。
 いや、僕がそんなことを考えていても、仕方ないんだろうけど。
「おにいちゃん、じゃあ、今度はわたしが聞いていい?」
 っと、今度は美夏が何やら考えているような仕草で、言った。
「なんだい?」
「前からね、……うん、思ってたんだけど」
「ん?」
 透明の皿に乗った、大盛り素麺。半分くらい食べたところで、僕は一息ついた。
「おにいちゃんって、高校卒業したら、その……、どうするの?」
「卒業したら?」
「うん」
 何気ない質問だったが、美夏の顔は真剣だった。ついで、どこかためらうものがあるような、そんな感じの声。
 僕は「そうだね」と口にして、思いにふけった。
『医者になる』という漠然としている、だが大きな夢だ。
「受験に受かってたら、大学生。落ちてたら  って、そんなこと考えてちゃ駄目なんだけど、浪人、するのかな」
「大学受験……?」
「そうだよ」
 箸を動かす手が、さっきから止まっている美夏。僕も合わせて止めて、そして美夏の表情がおかしいことに気づいた。
「……受験。……うん、そうだよね。だから今、勉強してるんだもんね……」
「……どうしたの、美夏?」
 僕が問うと、美夏は今まで俯かせた顔を上げて、しっかりとした目付きで僕を見た。
「おにいちゃん、受験って、どこ、受験するの?」
「あれ? 前に言わなかったかな。国立の医大。上山大だよ。医大の中でも屈指の有名大学」
 僕のこたえに、美夏は再び、聞くのをためらいがちに言葉を繋いだ。
「じゃあ……、将来は、お医者さんになる……ことにしたの?」
「そう。お医者さん。格好いいでしょ」
「そ、そんな……!」
「……美夏?」
 美夏は驚愕して、僕から遠ざかるがごとく、椅子から立ち上がって後ずさった。唐突な行動に、僕は美夏が理解できず、ただ呆然と見つめた。
「ど、どうしたの、美夏? 兄ちゃん、お医者さんになるんだよ。嫌なの?」
「嫌も何も……」
 そう言って、美夏はしばらく首を横に振りながら、両手で顔を覆った。
 じっと押し黙り  屈み込んで顔を隠す。
 僕は、僕が医者になるということに、なにやら嫌な印象を受けたらしい美夏の予想外の展開に衝撃を受けた。そういえば、実際、直接話したのは今回が初めてだっただろうか。だが、本当なら、喜んでくれるとさえ、今まで思っていた。
「美夏……?」
 美夏……、初めてだった。こんな、いかにも「嫌だ」と言いたげな表情を見せたのは。
 僕は、座り込んで震えてしまっている美夏を、ただ、見つめて、ゆっくりと言った。
「……美夏。なんでそんな顔するのか分からないけど、前から少し言ってたよね。将来は医者になるって。兄ちゃんが医者になるが、嫌なのかい?」
 すると、美夏は少しだけ顔を上げて、言葉にした。
「……おにいちゃん、それじゃ嘘つき……だよ」
「え?」
「忘れちゃったの? お花屋さんのこと……。約束、したのに……」
 それを聞いて、僕は続けようとする美夏を遮るように言った。
「……美夏、ちょっと待つんだ」
 僕は美夏の言葉を深く脳裏に刻んで、今までの動揺を破棄した。同時に、美夏が僕の話を聞いて酷い衝撃を受けた理由が、なんとなく理解できた気もした。
 だが僕には、それを気にしている余裕はない。
「美夏。はっきり言うけど、兄ちゃんの勉強は、一体、なんのためだと思ってたんだ?」
「…………」
「医者になるためだよ」
 何も言わなくなった美夏をそのまま見て、僕は箸を置いた。
「医者になるため。それ以外の何ものでもない」
「たっ……」
 何かを言いかけて  しかし途中で口を閉ざした美夏。
 僕は椅子から立ち上がって、床に屈み、動かなくなった美夏のそばに寄った。
「今、やっていることはそのため。本当は、分かってただろう?」
 美夏の頭を撫でようとして、僕は途中まで手を伸ばした  が、やめた。
 美夏は頭撫を期待していたかもしれない。
「そのことは、分かってほしいんだ」
 僕はそう言って立ち上がると、机へと向かった。
「おにい……ちゃん……」
 机の椅子に座って、ちらりと美夏の方を見てみる。いまだ蹲ったままだ。
(…………)
 内心、複雑だった。
 美夏は、僕が医者になることを嫌う。
 だが、僕の夢は医者になることだ。医者に、ならなくてはならない……んだ。

 夕刻、いつもどおりに予備校へと向かった。
(なんか、後味悪い……)
 先程、美夏に向けた自分の言葉に、なんだか罪悪感を感じていた。
(美夏……)
 いつも元気で明るく笑顔を絶やさない美夏の、あの時の寂しそうな顔を思い出すと、辛かった。
「…………」
 こんな時期に考えごとをしている場合じゃない。だが、今の僕はそのことしか考えられなくなってしまっていた。
 予備校の教室に入ってから、席についていつものように口うるさい玲の話をぐだぐだと聞いている時も、僕は美夏のことばかりを考えていた。
 ……正直なところ、心配だったんだ。
「……美夏」
 再び、僕は美夏の名を口ずさんだ。
「あ、またその名前」
 それを聞いてか、玲が僕の顔をのぞき込んで言った。
 今期の講習では毎日、僕と玲は隣の席で講義を受けていた。今まで二年間、講習を受けていて、玲がこの予備校に通っていたことなど最近まで知らなかったが、玲も僕同様、長期学校休業日には、ここの予備校で講習を受けていたようだ。彼女も僕が講習を受けていたことに気づいていなかったと言っていた。
「ねぇねぇ、京ちゃん。美夏って誰なの? さっきからその名前ばっかり言ってさぁ」
 講義のテキストは用意せず、机の上に何も置いていない玲は、今日はなんだか肌の露出が多い服を着ている。
「そういえば、今日は花火やるんだったな」
 僕は玲の問いには答えずに、彼女の服を見ながらなんとなく思ったことを呟いた。
「え? ああ、うん、そうだよ。あ、もしかしてあたしに見とれちゃった、とか?」
 玲の言葉に僕は少しの間、考え込んで、彼女の目を見て言った。
「いや、そういうわけではない」
 僕の言葉に玲は笑った。
「まったまた。けど、京ちゃんも来るよねっ」
「……ああ、行くつもりだ」
 玲の甲高い声が僕の耳を強烈に響かせたが、なんとか答えた。
 茂也に言われた時は、花火など行くつもりは毛頭なかったのだが、茂也の言動を考えて、なんとなく行ってみてもいいかもしれないと思ったので、僕は行くことにした。
 しかし、今の玲は、確かに普通の男なら見とれているかもしれない。普段からなんとなく思ってもいることなのだが、今日の玲は、また格別に美しい。容姿だけは。
 そして僕は、そんな玲から視線をずらして、教室の正面、つまり黒板を真っすぐに見た。「…………」
 まだ、いつも笑っている女性講師はやってきていないが、それも時間の問題だろう。講義の始まる四時までは、あと数分だ。
 僕は、ただ呆然としながら、考えた。
「……美夏」
「あー、京ちゃん、またその名前、言ってる。ねぇ、誰なの、美夏って?」
 さっきと同じ質問に、僕はまたさっきと同じように玲の方を向いて、今度はその問いの答えを呟いた。
「僕の、妹だ」
「妹? へぇ、京ちゃんって妹いたんだっ」
 玲は関心を持って、何度も無意味に頷いた。僕は、玲の頭の構造を考えながら、口にした。
「玲、僕は前から話していた。予備校の帰りや、学校でも、妹がいることは話していた」
「あ、そーだっけ……」
「玲、君は人の話を聞いているようで、何も聞いていないようだ」
「う……。そ、そーゆー言い方は酷いなー、京ちゃん」
 とりあえず、玲がしゅんとして体を小さくするのを確認して、僕はテキストの方に目をやった。
 すると玲は、まだその話題を続けようとして、
「ねぇねぇ、でもね、京ちゃん。そのぉ、妹、えーと、美夏? どーしてさっきからその名前ばっかり口にしてるの?」
 テキストと僕の間に顔を覗かせてきた。
「玲……」
 僕は嘆息して、右手で彼女の顔を軽く押しやった。
「わっ、な、何すんの、京ちゃん」
「悪いが、そろそろ講義の始まる時刻だ。もう一度、確認しておきたいんだ」
 わめく玲に、僕はテキストの方に目配せをしながら言った。
「む~……」
 玲の口の中での僕に対する文句が、なんとなく聞こえながらも僕は無視し  
「はぁーい、始めるわよー!」
   教室に入ってきた女性講師の講義に集中した。

 講義中、初めは美夏のことで頭がいっぱいになりそうな気もしていたんだが、講義前の、玲となんでもない話があったおかげでそのことを忘れられて、講義に集中することができた。
 最初、そのことに不安を覚えていたため、玲には軽い感謝をしたいと思う。
「はい、今日も終わりましたねぇ。明日はさらなる発展を目指して、イキまくりましょう」 女性講師のいつもの締め言葉に、僕は軽い目眩を覚えた。
「……どういう意味なんだ、それは」
「まーまー。かわいーよ、伊藤さん。あたし好きだな、あの人」
 玲は笑顔で教室を出ていく女性講師の方を見ながら言った。
 僕も玲に合わせて女性講師を見ながら、
「……ん?」
 玲の言った言葉に、ちょっとした疑問を感じた。
「玲、あの女性講師、伊藤さんと言うのか?」
「え? あぁ、そうだよ」
 玲は僕の方は向かずに簡単に答えて、女性講師が見えなくなると大きく伸びをした。
「あー、疲れたぁ。今日は終わりだねっ」
「いや、ちょっと待ってくれ、玲」
「ん?」
 教室内の受講生たちが教室を次々と出ていく中、僕の胸は、なんだか少し熱くなっていた。
「どうしたの、京ちゃん」
「この間、言っていたチューターの伊藤さんというのは、彼女のことか?」
「あぁ、うん、そうだよ。講師兼チューター。イケてるよ、伊藤さん」
 立ち上がる玲を座ったまま見つめて、僕は女性講師を思い浮かべた。
 彼女がチューターもやっていることに、違和感を感じる……。
「……そうか。教えてくれてありがとう」
 心の籠もっていない声で、僕は玲に言った。
「? どーいたしまして……、でいーのかな」
 不可解な面持ちで僕を見ながら言い返す玲に、僕は溜め息で返した。
 玲同様に筆記具やテキストを鞄の中に入れて、受講生のほとんどいなくなった教室を、僕たちは出た。
(そうか……。伊藤さん……。彼女が生徒に絶大な人気を誇る日本最高のチューターか)
 何度も何度も心の中で、さっきまで僕たちに講義をしていた女性講師の名を口ずさみ、彼女の顔を思い浮かべた。
 有名だ。あまりにも有名だ。伊藤カズコ。チューターなだけなのに、TVはもちろん、音楽CDを出したりして、ラジオにも出演。もう終わってはいるが、ついこの間のドラマは彼女が主演だったことでTV視聴率65%を越えたという。そのことで日本中が大騒ぎになった。あのドラマは美夏が大好きだったのを記憶している。だからはっきりと覚えていた。
「ねぇ、京ちゃん。さっきからどーしたの? ううん、さっきからどころか、今日ずっと、なんかおかしーよ、京ちゃん」
 僕たちのとった講義は、四階のAクラスで開かれていた。
 階段を降りている時、玲はさっきから深刻な顔をした僕に、疑問を感じたのだろう。僕も自分で、しかめた表情であるような気がしていた。
 僕は、隣で一緒に歩いている玲に、別に話す必要はなかったのだが、口にしていた。
「いや、べつにおかしいわけではない。ただ、伊藤さんと、妹のことが気になってしまっていた。心配はしなくていい」
「いやいや、心配だなんてそんな……」
 恥ずかしそうに玲はそう言って、頭を掻いた。
 僕はしばらく、歩きながら無言で玲を見つめた。頭のおかしい女だと思っていた玲。いや、思っていたというより、今も思っている。
 だが、玲は悪い人間ではない。
「玲、君はいい人だ」
 僕の言葉に、玲は笑って恥ずかしそうにしていた。
 そんなこんなで予備校を出るまで、いつものように勉強の話などをしていった。
 すっかり暗くなった外に出て、辺りを見回すと、茂也と数人の男女が僕たちを待っていたことに気づく。
「あ、雨降ってるわ……」
「確かに……」
 同時に気づいたことは、夜空からぽつぽつと雨が降っていることだった。
「まっ、でも雨なんかには花火魂は負けやしないっての、ね」
 玲がおかしなこを言うのに、僕は軽く頷いておいた。
 他の数人の男女を置いたまま茂也が僕たちのところまでやってきて、
「よう、終わったみたいだな」
 と言った。
「どのくらい待っててくれたの?」
 玲が問うと、茂也は首を振った。
「いや、ほとんど待ってねぇな。みんな、いま来たばっかってとこだ」
「そうか。それならばよかった」
 僕は建前上、そう言った。
「じゃ、さっそく行こうぜ。学校の近くの広場でやろう」
「茂也、なんか元気だね、あんた。どしたの?」
 茂也が必要以上に明るい。そう感じたのだろう玲はそう聞いた。僕も彼には何かあるような気がしていた。
「いやいや、なんでもねぇよ。ま、京には後で教えてやるぜ、うん」
「なにそれ。あんた意味不明。一回死んだ方がいいね、うん」
 茂也と玲がくだらない会話で互いに気まずい雰囲気になったが、僕はただ黙って見守った。
 というわけで、僕たちは予備校から歩いて十五分程で着く、近くに誰もいない広場で花火をやることにした。
 雨はまだ降っているが、茂也は全く気にしないだろう。火は強引につけるだろうし、玲もまた、彼と同様だった、傘もささずに。それは僕も同じだったが。
 周囲がとにかく暗かった、相当に。街灯が少なく、広場にある光は限られていた。人はいないし、静かだった。
「早くやろ、やろ」
 玲がそういうのも無理はない。お互いの顔が見えないくらいの暗闇だったのだ。
「まぁまぁ、焦んなよ、玲」
 花火は全て、茂也が運んできてくれた。講義を受ける前に玲が予め準備しておいたものらしい。
「よっしゃ、やるぞ!」
「おおー」
 なんだか知らないが、彼らはみな、かなり弾けるつもりのようだ。花火にそこまで燃えることなど僕にはできないが、まあ、付き合い……だな。
 茂也は大きめの袋の中からひとつの打ち上げ花火を取り出した。玲と僕、その他数人も彼のまわりを取り囲む。
「よし、見てろよ。まず最初は、俺の作ったビッグ花火だぜ」
 得意げに言う茂也に、みんな驚きの表情。
「茂也、あんたが作ったの、それ?」
「おう、そうだぜ」
「そういえば、あたしそんな花火用意しなかったわ……」
 玲が好奇心いっぱいに茂也の手元に顔を近づける。それから茂也の手から花火を奪おうとして  
「おいおい、焦るなよっての」
   玲の手を塞いで、茂也は空を見上げた。
「…………」
 何やら考え込んでいるのか、目を瞑った。静かな時間が過ぎ、茂也がひととおり満足して視線を花火へ戻すと、導火線にライターの火を近づけた。
「見てろよ、すげぇぜ」
 みんな屈んで、茂也の手元を見つめる。
 ぢぢぢぢぢ……
 雨をも顧みず火花が飛び散りながら、導火線が短くなっていく。
「おお……」
 まだ別に驚くほどのことはやってないのに、ひとりの男が感嘆の声を上げた。
 そしてその数秒後、
「来たっ」
 茂也の声と同時に、ぴゅんという素早い音が鳴って、夜空へ、遠い空へと光が真上に向かって飛んでいった……。
 しばらくして、夜空で激しい音が鳴って、茂也の考えたものだろう花火の文字が浮き出てきた。
「へぇ……、すっごーい!」
「おいおい、茂也、すげぇな!」
 玲やみんなは感動していた。
(茂也、すごいな)
 その光景が僕には新鮮で、茂也の作った花火に感心するとともに、静まり返った夜の中でのこうした花火に、なにか不思議な、言葉に表せないような、だがいい気持ちを感じることができた。
「よし、次、ふたつ目いくぜっ!」

 花火って、こんなに楽しいものだったのだろうか。花火を数時間やっていくうちに、僕にはそんな疑問が沸いていた。
「あー、京ちゃんごめんね」
 小さい頃、花火をやったことなど、あまりなかった。やらなかったわけではない。
「なんだか、あたしもよく分からないんだぁ……」
 だが、楽しいと感じたことは少なかった。花火には父親と母親がいて、だが、かれらとやっていて、楽しいと感じることはなかった。その他の遊びでも、そうだった……。
「急に調子悪くなるなんて……。こんなの初めて」
 今日の僕は、自分でも信じられない自分だった。楽しんでいた。花火を楽しんでいた。外出時、勉強以外の何か行動することに、初めて楽しみというものを見つけていた。
「…………?」
(……今日は、本当によかった)
 僕はしばらく、ついさっきまで花火をやっていた時の和やかな気分に浸っていた。
「ねぇ、京ちゃん聞いてんの?」
「ん? いや、聞いてはいなかったようだ」
 途中、玲の声が頭の中に入ってきて、僕は彼女の方を向いてそう言った。
「なにそれ。まるで他人のこと言ってるみたいだね」
「そうか。それならばべつにそれでもいい」
「もう……」
 玲が僕の言葉に、なぜだか頬を膨らませている。
「とにかく、今日はごめんね」
 そして玲は僕に、謝った。
「いや、それは大丈夫だ。構わない」
 もう、午前二時だ。花火を三時間近くも続けてしまった。いや、まだ茂也たちは花火を続けていることだろう。僕と玲は、ふたり抜けてきたのだ。
 というのも……。
「それより、家まで送らなくてもいいのか?」
「ははっ。京ちゃんからそんなこと言ってくれるなんて、ね……。意外」
 玲は僕の言葉に否定したが、顔は笑っていた。
 花火の途中、急に玲は頭痛を訴えてきた。それが軽いものではなさそうなので、引き上げることにしたようだ。
 だが、ひとりでは嫌だという玲。「京、お前が送ってやれよ」という茂也。だから僕と玲は、いまだ広場にいるだろう茂也たちを置いて、こうして夜道を歩いていた。
「でも、うれしいよ、京ちゃん」
 頭痛はひいていないだろうに笑ってそう言う玲を見て、最初は途中までと思っていた僕も、どうせなら家まで付き合おうと思ったのだ、が。
 広場から十分ほど歩いて、ここで僕と玲の家までの道は分かれる。人どおりはまったくなく、空気がひんやりとして静まり返っている。
「玲。本当に家まで一緒に行かなくてもいいのか?」
「うん。いいよ。じゃ、京ちゃん、ばいばい。あたしは大丈夫だからさ。ありがと」
「そうか。それならばいい」
 玲は無理してそう言っているような気もするが、彼女が「いい」というのなら、僕はそれ以上言うつもりはない。
 玲がゆっくりと歩いていくのと、やけに小さく見える背中をしばらく眺めて、僕は彼女から視線を動かした。
「あ、京ちゃん」
 すると、玲が立ち止まってこちらを呼んだ。
「どうした」
 僕は振り返って玲の姿を確認して、また、いつもの予備校帰りの「京ちゃんち行く」と迫ってくる玲を彷彿としてしまった。
 だが、今日の玲は少しばかり違うようだ。頭痛を伴っていることも重なって。
 玲は、大きく深呼吸した。
「今日は、ありがとね。京ちゃんが楽しそうで、ほんとよかった。あたしも、楽しかったよっ。また、花火しよーね」
 玲の声と、その内容に、僕はしばらく無言でいた。
 それから、何かこたえを期待している玲に、僕は夜中だということを理解しながらも、大声で言った。
「ああ、そうだな。一緒にまたやろう!」
「ははっ!」
 玲もまた、大声で返してきた。それから駆け足で玲は帰っていった。僕は歩いて、家へと向かった。
(……玲、頭痛は大丈夫なんだろうか)
 最後に見せた玲の笑顔は、なんだかただ笑顔だったんではなくて、とてつもなく元気に見えた。
 ここから住宅街までは、どのくらいだろうか。あと二十分あれば着くのだろうか。
 家に帰る途中、いろいろと考えていた。静かな夜道で、人の気配を感じることができなかったから、考えざるをえなかった。降り続く雨もまた、考えさせることを強要しているかのようだ。
 最初に浮かんできたのが、玲だった。玲の顔が浮かんできた。するとその次に、茂也が怒って僕に怒鳴りつけた。
「……なんで怒鳴るんだ?」
 単なる空想に、僕は一人ごちていた。なんだか、夢みたいにどんどん浮き上がってくる。 次に浮かんできたのはチューターでもある伊藤先生。その次に、美夏だった。
 美夏が、泣いていた。大泣きだった。
「……美夏」
 そういえば、僕の医者になるという夢に、美夏はあまりいい顔をしてくれなかった。
 昼間のことを、僕は思い出した。そしてまた、予備校に来る前、ずっと考え込んでいた時のように、再び頭を悩ませた。
「僕は、医者になりたいんだ……、美夏」
 住宅街に入って、7番アパートに向かった。そこが僕と美夏の今の家だ。
 腕時計を何げなく見て、街灯の光から微かに読み取った時刻は、二時三十分。
「美夏、もう眠ってるな。でも、もしかして僕の帰りを待ってるなんてこと……」
 アパートの階段を昇って、ここ一週間、毎日、美夏が僕の帰りを待っていたことを思い出した。
 もし待っていたのなら……。
 僕は「そんなことはないだろう」と思いながらも、心のどこかでそうある可能性を考えてしまった。
「…………」
 二階へと昇り終えた。
 そして、二階の突き当たりにある一室へと向かう。
「鍵は……と」
 鍵は、いつもどおりしっかりと掛けてあるようだ。その鍵を開けて、ドアを開いた。
 がちゃっという音をなるべく小さくした。
「…………?」
 玄関の電気が付いていて、部屋の方も明かりが付いていた。
 そして、テーブルの椅子に座っていた美夏が僕に気づいて立ち上がった。
「……み、美夏っ」
 僕は思わず、叫んでいた。美夏が玄関にいる僕の方に近づいてくる。
「……おにいちゃん。……はぁ、よかった」
「え?」
 小さな声で呟いて、僕の目の前で美夏は前のめりに倒れた。
「み、美夏 」
 急に起きた出来事を理解できず、僕は持っていた鞄を落としてそう叫び、倒れた美夏を抱き起こそうと屈んだ。
「……はぁはぁ」
 美夏が息切れを激しくして、僕を見上げた。
「美夏、どうしたんだ!」
 僕は美夏のからだに触れて、彼女の全身が冷たくなっていることに気づいた。
「こ、これは……!」
 目を瞑って、意識が途絶えてしまったようで、美夏は動かなくなった。一瞬、恐ろしいことを考えてしまったが、呼吸音が聞こえてくることで、僕は微かに安心した。
 だが、どうして美夏がこんなことに……?
「美夏、ちょっと待ってね! 布団は……」
 奥の部屋を見渡して、いまだ美夏の布団が敷かれていないことに気づいた。僕のだけ、敷かれている。
 そうだった。美夏はいつも僕が帰ってくる前に僕の布団を敷いておいてくれた。
「とにかく移動させなきゃ……!」
 床に倒れてしまって、からだが冷えている美夏の両脇を抱えて僕の布団のところまで移動させる。
 それから掛け布団を一旦どかして、美夏をゆっくりと仰向けに横たえてから、もう一度掛け布団をかけた。
「美夏……、一体どうしたんだ……」
 僕は、息切れだけ、激しくしている美夏の顔を間近でのぞき込んだ。
 顔色が悪い。頬が赤くなっている。
 それでなんとなく理解できたことを確かめようと、美夏の額にそっと手を当てた。
「……うっ、熱が出てる……」
 一瞬、熱すぎて手を引いてしまうくらいだった。
「美夏、風邪をひいたんだ……。夕方までは元気だったのに」
 ひとり呟いて、風邪の処置の仕方をあまり知らないので何もできず、ただ美夏の横で、彼女の顔を見つめた。
「美夏……!」
 どこか、出掛けていたのかもしれない。でも、この時期に、こんなにひどい風邪は、なんか変だ。
 それに急だし。雨に当たってたのかな。
「美夏、大丈夫なんだろうか」
 美夏、こんなに遅くまで僕なんかを待ってるからだよ。いや、それは僕のひとりよがりだ。花火のことを話してなかったからだ。きっと、美夏、心配してたんだ。
 美夏、ごめんよ。僕が悪かったんだ。こんなに苦しそうに……、美夏、美夏!
 頭の中が、混乱してきた。いろいろ、どんどん浮かんできて、美夏のことで頭がいっぱいになった。
 しばらく自分の世界に入った。僕はぼうっと美夏のことだけを考えて、ただ呆然とした。「…………」
 数分後、僕は首を振って、大きく息を吸った。そして、なにげなくテーブルの方を眺めてみた。
「…………」
 切なくなった。テーブルの上においてある夕食が、美夏のいつもの食事前の声を僕に連想させた。
(今日の夕食は、『ハムカツサンド』だよっ)
 そんな美夏の声が聞こえるようだった……。
 っと、
「……おにいちゃん?」
 寝ている美夏の声が背中から聞こえてきて、そして腕を掴まれる感触を覚えた。
 僕は急いで後ろを振り返って、横になっている美夏の目を見つめた。
「あ、美夏、目を覚ましたんだっ」
 そう言って、僕は美夏の顔をのぞき込み続けた。
「……けど、大丈夫? いつ、調子悪くなったんだい? いや、言わなくていいよ。今はゆっくり休まないと。兄ちゃんさ、美夏が心配でたまらなくて……」
「……ありがとう」
 そう言って、開いた目を大きく瞬かせて、美夏は僕の腕を少しだけ強く握ってきた。
 僕は片方の手で美夏の小さな手を握り返して、頷いた。
「うん。今は何も言わなくていいよ、美夏」
 布団の中の美夏が、僕には痛々しく思えた。
 苦しそうで、苦しそうで、我が身に感じた。
 風邪薬が家にあったかどうか考えたが、その可能性は低い。この時間では、病院も薬局もやっていない。僕には、美夏に何もできない。
「……くそっ」
 僕は、美夏に僕ができることをいろいろと考えた。
 が、結局思いつかず、聞いてみることにした。
「美夏、何か頼みたいもの、ある? なんでも言ってよ」
「…………」
 美夏はしばらく考えているようだった。
 その様子を見て、僕は笑顔で言った。
「何かあったら言ってね」
 とりあえず、美夏の額を冷ますことが今の僕にできることなのかもしれないな。
 そう思って、僕は立ち上がってキッチンへと向かおうとしたところ、美夏が口を開いた。「……外に、連れていってほしいな……」
 それを聞いて、僕は美夏が何を考えているのか理解できなかった。
「え、どうして?」
「夜風に当たりたい……の」
 からだの冷たさから考えると、さっきまで外に行っていたと思える美夏。なのに、夜風に当たりたい……?
「それは、駄目だよ。今は寝てないと」
 僕は美夏の頼みを否定した。
 すると美夏は腰を無理やりに起こした。それを見て、僕はキッチンへと歩みかけていた足を戻して美夏のそばに寄って、彼女の肩に手をかけた。
「美夏、駄目だって」
 肩にかけた僕の両手を掴んで、美夏は僕の目を見た。
「……外に連れていってもらいたい、それが、お願いなの」
「…………」
 背けない美夏の目に、僕はしばらく考えたが、それが頼みなら、仕方ない。
「じゃあ、少しだけだよ」
「……うん」
「でも歩くのは駄目だよ。兄ちゃんが背負っていくから。それでいいなら、いいよ」
 僕の言葉に、美夏は微かに笑って頷いた。
「よし、じゃあ、行こうか」
 僕はそう言って、笑ってはいてもまだ苦しそうな顔の美夏に背中を向けて腰を低くし、僕の首に両手を掛けるよう促した。美夏は何も言わずに頷いて、腰を起こした状態から軽く布団をどかして、僕の背に体重を預けた。
 二階なので、外に出るには階段を下らなければならない。美夏はそこまで重くはなかったが、体力の乏しい僕が美夏を背負って下るのは、それなりに疲労を感じた。
 アパートの外に出た。
「雨、やんだんだな……」
 一息ついてから、軽く歩いてやることにした。首の後ろから、美夏の、今は激しくはないが震えた呼吸が聞こえる。
「なぁ、美夏」
「……なに?」
 背負ったまましばらく歩いてから、僕は背中にいる美夏に話しかけた。
「こんな夜中にふたりで外に出るなんて、初めてだね」
「……うん」
 気分転換に話をしてやろうと思ったけど、逆につらいかな。そう思って美夏に聞くと、そんなことないと言うから、僕は勝手に話していた。
 住宅街を出て、大通りに出ても、さすがにこの時間帯なので車の通りさえ少ない。人は、皆無だった。
「……美夏、今日はごめんね。茂也や玲たちと、花火に行ってたんだ。まさか美夏がずっと起きててくれるなんて思ってなかったから……」
 僕は、花火をやっていたことに美夏に後ろめたさを感じていた。花火をやっていたということよりも、そのことを伝えていなかったことに。
 僕の言葉に、美夏が大きく息をはくのが分かった。肩を伝わって、白い息が目に映る。
「……そうだったんだ。……わたし、心配になって、外を探しにいってたんだ……」
「雨降ってたのに……、美夏……」
「うん……、でもそれ聞いて、わたし安心したから。おにいちゃんが謝ることじゃないよ……」
 美夏の言葉が、僕にはいつものように心の中に深く染み込んだ。嬉しさの反面、はがゆさを感じた……。
 それから、僕は美夏を背負ったまましばらく歩き続けた。
 美夏には今の僕の顔が見えるのかな。街灯が少ないこの通りで、僕はふいにそんなことを考えてしまった。
 いろいろと考えて、複雑な表情なんだろうな。
 大通りから、少しそれた脇道に入った。小さな路地で、やはり人は誰もいない。夏なのに息が真っ白だ。冷たさと静けさだけが、路地を覆っていた。
 そして、ひとつの街灯が目に入った。
「……あ。あれ……」
「え?」
 美夏が小さな声でその街灯の下にあるものを指さした。光がそこにだけ直接当たっている。
 僕はそこに近寄って、美夏にできるだけよく見えるよう屈んでやった。
「……お花……」
 道の端の方に、ひとつだけ街灯に照らされて美夏の目をひいたものは、黄色い花だった。「……かわいい」
 小さな声に僕は横を向いて、すぐ近くの美夏の顔を見た。嬉しそうにしているのが、心をほっとさせてくれる。
「こんなところに花が咲いてたなんて……」
 屈んだままそう言って、僕はその黄色い花に手をふれてみた。
「けどこれ、なんの花だろうね」
 一輪だけ、土もないコンクリートの地面から生えている花。鮮やかな黄色で、小さかった。とても奇麗とは言えないが、どこか力強さを感じさせる花だった。
 屈んだまま、美夏がしばらくこうして花を見ていたいと言うので、僕は美夏の体重を微かにつらく思ったりもしたが、彼女の心情を察する方が心を大きく占めた。
「美夏、欲しい?」
 花を見ながら、僕が花の方へ手を伸ばしてそう聞いてみると、美夏は首を振った。
「ううん……。……ここで咲いていて欲しいな……」
「……そうだね」
 僕は美夏に頷いて、そしてもう一度、じっくりと、真っ暗な空気の中で街灯だけではなく輝いて見えるその花を、見つめた。

「……おにいちゃん、ありがとう」
「ううん、いいよ」
 部屋に戻ってから、僕は美夏を僕の布団へと再び寝せた。今度は美夏は起きていたため、彼女が自分から僕の背を降りてくれた。
 あと二時間もすれば、日が昇るだろう。だが今はまだ、部屋は電気を付けなければ見渡せない。
「今日は寝てた方がいいね」
 僕はそう言って、夜風に当たったおかげか少し冷めている美夏の額を触って、キッチンへと向かった。
「美夏、今日はほんと、ごめんね。僕が花火のことを話しておけばよかったんだ」
 キッチンから僕がそう言うと、美夏が否定してきた。
「……ううん、いいの。でも、今度からはきちんと話しておいてね」
「うん。気をつけるよ。約束だ」
 美夏の方は向かずに頷いて、僕は同時に美夏に対して何かしてあげたい気持ちでいっぱいだった。
(……いつも起きてくれる美夏に、何か頼みを聞いてあげようかな……)
 心の中で美夏にそう言った。
 とにかく今は……、え……と。
(タオル、でいいかな……)
 キッチンの水で奇麗なタオルを濡らしてきつく絞り、僕は美夏のところに戻ってから彼女の額にそれをそっと置いた。
「つめた……」
 美夏の小声を聞いてから、僕はかけ布団を首までしっかりと被せてやり、しばらくそのまま美夏を見ていた。
 すると美夏は目を瞑って、そっと呟いた。
「さっきのお花で、お花屋さん、思いだしちゃった……」
「え?」
 僕はそれを聞いて、顔を引き締めてしまった。だが、なるべく今は平常を保つよう心掛けながら、美夏を見つめていたかった。
「美夏……」
 僕の声は、美夏には聞こえていなかっただろう、美夏の寝息が一定して聞こえてくる。
 美夏の呟いた言葉。昼間、言った美夏の言葉。
 頭の中で木霊するその言葉。僕は美夏を見ながらずっと悩んだ。
「……お花屋さん……か」
 眠った美夏を見つめながら、僕は呟いていた。
 お花屋さん……。
 そう、それは、美夏の将来の夢であった。



                                第三章


「よぅ、久しぶり」
「久しぶりだ」
 茂也が元気に声をかけてきた。僕は軽く手を挙げることでこたえて、それから茂也が近づいてくるのを見ていた。
「なんだか学校もいいもんだ」
「どういう意味なんだ、それは」
 ひしひしと何かを感じとっているのが、僕には分かった。茂也は目を瞑って、しばらく勝手に頷いている。
 僕たちは山上高等学校の一階の廊下にいる。一階は生徒たちの教室はないので、あまり人は見かけない。時折、教師が通るくらいだ。
 講習が始まってから二週間が過ぎた今日。まだ夏休みは終わっていないが、今日は学校登校日でもあった。
 しばらく来ていなかったが、僕は何も感じることはなかった。
「なあなあ、京、聞いてくれよ」
 急に茂也が不適に笑ってきたので、僕は一瞬、ひいてしまった。
 故、
「いや、ちょっと待ってほしい。ここでふたりで話しているのもなんだろう、教室に行こう」
 そう言った。すると、茂也は大きく頷いて先に歩きだした。
「ああ、そうだな」
 今日は、午前十時から各クラスごとにHRがある。一、二年生はない。三年だけ、特別にHRがあるのだ。
 あと三十分くらいは暇をもてあますことになるだろう。今日は少し早く来てしまった。
 というのも、昨夜、いきなり茂也から電話があって、今日のHRは早めに来てくれと言われたから、こうなってしまった。一応、単語張は手に持って目を通す。
 三年の教室は、みな二階だ。三階が二年生で、四階が一年生という具合になっている。 二階への階段を昇る途中、茂也が妙に笑っていることに気づいた。何かあったのだろうかと思ったが、僕は黙って昇ることにした。彼に話をさせると、止まらなくなる。
 二階へと昇り終えてから、少し歩いたところにある最初の教室が、3-A。僕と茂也は学科こそ違うが同じクラスで、その3-Aが僕たちのクラスだった。
 教室内に入ってから、茂也の席の隣にある女子の席に僕は座って、茂也は自分の席についた。
 そして、笑って言ってきた。
「なあなあ、京、聞いてくれよ」
「見事にさきほどと同じセリフだ、茂也」
「ああ、まあいいから聞いてくれよ」
 そう言ってから、茂也はひと呼吸おいて、にやっと笑った。
 教室内にいる生徒は、僕たちを含めてまだ三人だ。つまり、僕たち以外にはひとりしかいない。そのひとりが、茂也の笑いに恐怖して教室を出ていくのが、僕にはおもしろく思えた。
 しかし茂也はそんなことは気にせず、というか気づかず、さらににやけた。
「実はよ、こないだ、花火ん時にさ、背の小さい女の子、いたじゃんよ」
「…………?」
 そう言われて、僕は花火の時のことを思い出そうとした。玲と茂也と僕と、それから数人の男女。
 だが、顔や容姿などは覚えていないし、気にしてもいなかったため、茂也の言いたい女の子というのは、僕には分からなかった。
 僕は言った。
「悪いが、分からない」
「ちっちっ、なってねぇな、おまえは」
 茂也は僕を馬鹿にしたような目でそう言うと、今度はまた奇妙な顔になって言った。
                        か こ
「でよ、とにかくその子、佳子っていうんだけどよ、その子とさ、俺、できちまったのよ、かかかっ」
「……なるほど」
 そういうことか、と思いながら、僕は簡単に頷いておいた。
 確かに気味悪い顔になって話したくなってくる内容かもしれない。
「それはおめでとう」
「へへへぇ、ありがとよ」
 ぼくたちはそんなどうでもいいような話をしながらHRが始まるのを待った。

 学校の帰り道、今日は玲と茂也と三人で帰宅することになった。
 玲と一緒に帰ることなど、予備校を除いてはまずない。
「玲、ちょっと聞いてくれよ」
「ねぇねぇ京ちゃん、大学、行けそう?」
 茂也の存在など忘れた様子で、玲が聞いてきた。
 僕はしばし悩んでから、小さな声で言った。
「……分からない」
「え?」
「おい、聞いてくれよ、玲」
 玲が問い返してきたが、僕はそれ以上は何も言わなかった。言いたくなかった。あまりこういう関係の話をしたくなかった。
 最近、特にそういった思いが駆られる。大学のことについて、あまり話をしたくなかった。
(……なぜ、話をしたくなくなったのだろうか)
 ここのところ自分でも分かってはいるが、僕はおかしい。受験のために今まで頑張ってきたというのに、どうしてしまったのだろうか。
「…………」
 玲が僕の方をじっと見ながら言葉を待っていたが、僕が口を開かないでいると、笑って言った。
「あたしはね、余裕なんだよ。行けそうなんだっ」
「おいおい、何言ってんだよ、玲。おめぇが大学受かるわけねぇだろ?」
「京ちゃん、頑張れ! それで一緒に行こうね!」
 茂也が合間にところどころで口を挟むが、玲は無視しながら僕に続けてきた。
 そう。玲は僕と同じ、上山医科大学を目指している。予備校に行って、講義を受ける時に初めて聞いた話だった。全くの偶然だ。さすがに僕も、まさか同じところを受けるなどとは考えてもいなかったので、聞いた時は驚いたものだ。
 しかし、確かに玲の言うとおり、彼女は上山大に受かるだろう。彼女の模試の結果を見れば、それは断言できる。
 だが、僕は……
「ねぇ、京ちゃん。さっきからなんで何も喋ってくんないの?」
 玲がそんな僕に気づいて、心配してくれた。すると茂也が割って入ってくる。
「あのな、京はおめぇの話なんか聞きたくねぇんだよ。京、その調子で玲なんかシカトしてろ」
「ねえねえ京ちゃんったら」
 玲が僕の腕を掴んで、予備校でよくやる、手、振り上げ振り下げをやった。
「京ちゃん京ちゃん」
「ったく、京がうぜえって言ってるぞ。やめとけよ、玲」
「ねぇ、京ちゃん」
「京は今な、大変な時なわけよ。おめえがそんなことやってると、そのうちキレっぞ」
「京ちゃんったら」
「ったく馬鹿玲が。いいかげん、死ねよ、てめー。前から気に入らねぇんだよな、このクズ玲。クソ玲、馬鹿玲、頭わりー玲。ブス玲。とっととおめーなんて死んじま  」
 そこまで言ってから、茂也は「ぶっ!」と鼻から血を吐いて二メートルくらい吹き飛んだ。玲が右手拳を宙に静止させて、倒れた茂也の方を見下す。
「……ったくうるせぇな、馬鹿茂也。少しは黙ってらんねぇのかよ、このクズ! さっきからぐだぐだ口挟みやがって。あたしはおめぇに話してんじゃねぇんだよ。京ちゃんに話してんだよ」
「……す、すみません」
「……謝らなくていいから、もう口挟むんじゃねぇ」
 茂也が地面に顔をつけて謝っているのを見て、玲は続けて警告した。僕はしばらく唖然として玲を見ていた。
 そして数秒後、茂也が力尽きて地面に倒れるのを見届けてから、玲は僕に笑顔で言った。「ねぇ、京ちゃん。さっきからなんで何も喋ってくんないの?」
「あ、ああ……」
 まるで何もなかったかのようにさきほどと同じ言葉で聞いてくる玲に、僕は自然に声が出ていた。
「いや、べつに理由はないんだ。ただ、少し」
「ただ少し何かあるの?」
 僕と玲は帰路を歩きながら、だんだんと小さくなっていく後方の茂也のことなど気にかからなくなった。
 そして同時に、今は玲にあまり話しかけないでほしかった。
「玲、すまない。今日は静かにしていてもらえないだろうか」
 僕はそう言って、再び口を開くことはやめようと思った。
「……京ちゃん?」
 玲がまた僕の名を呼んでくるが、
「うん、分かった」
 僕の気持ちを悟ってくれたのかそれだけ言って、彼女も黙ってくれた。
 そして僕たちは何も話さずに、ふたりで途中まで一緒に歩いた。ただ、茂也のことが少し気掛かりだったが、彼はそんなやわな人間ではない。なんとか立ち上がることができると、僕は信じている。いや、そういう問題ではないのかもしれないな……。

 玲と別れて家に帰ってから、僕はまた無意識のうちに笑顔になっていることに、気づいていなかった。
 部屋の中、昼食で飾られているテーブルが、その原因である。
「あっ、今日の昼食は、ハンバーグステーキだな!」
 と、一人で大きな声を出していたけど、全然気にしない。それよりも、うれしさが増してるんだ。
 HRが終わったのは、確か十二時三十分。だからちょっと遅めなのかな。でも、昼食は昼食、美夏に大感謝、だ。ちょうどお腹がすいていたところだし。
 僕は玄関を上がって、鞄を机の横に置くと、すぐさま洗面所で手を洗って冷蔵庫から麦茶を取り出した。
 そしてテーブルにつく。
「よし、今日はゆっくり食べよう」
 ハンバーグステーキは、僕の好物の中の好物である。この前、講習が始まった日も作ってもらっていたけど、今日はどういう風の吹き回しなんだろう。そんなことを僕は考えたりもした。でも今はただ食べていたいだけ、それが余計な思考を遮る。
 とにかく無意味な考えは頭の中から削除して、僕は夢中になって食べた。食べていたかった。
「うまいっ!」
 大声で叫ぶのも、また、叫びたかったからだ。そして、何も考えたくなかった。
「……うまいな」
 僕は口の中にステーキの片を入れるごとに、そう言った。
 何度も同じように、そうした。
「…………」
 …………。何も、考えたくなかった。忘れたかった……。
 僕はひととおり食べ終わると、食器をキッチンに運んで、簡単な水洗いをしてから、ソファーに座った。
「…………」
 少しの間、休まないと何もできない。勉強もはかどらないのだ。
「……勉強、か」
 ふっと笑った。自嘲していた。
「どうしたんだろ、僕は」
 窓の外を眺めて、濃い緑色の木々が小さく揺れているのが分かった。外は気持ちいい。
 窓の外の自然の景色が、今の僕の心を、少しだけだけど休めてくれた。だから、しばらくこうしていたかった。ただ、じっとして何も考えないでいる時間が、欲しかった  
   のだが。
「……そういえば、美夏がいない」
 今になってようやくそのことに気づいた。つい、昼食のことで頭が一杯になってしまったため、すっかり美夏の存在を忘れてしまっていた。
「どこに行ったのかな……」
 この時間にいないとなると……。
「散歩……かな」
 あまり確証はなかったが、考えても何も始まらない。学校には行っていない美夏だ。だからこそこうして家にいないのはおかしいが、逆にいつ外にでかけてもおかしくはない。
「美夏……」
 僕は、美夏がいない時に家にいる時間が、あまりない。だから、つい寂しく感じてしまった。

 ソファーで数分、休んだ僕は、勉強を始めた。
 最近、集中力が欠けている。いつもの僕ならば三十分もあれば解けた問題も、最近ではそれよりもさらに三十分、遅れていたりする。
 何か、複雑だ。
 そんな状況で勉強をして、予備校の時間が迫った。
 家を出ようと思った時、ふいに電話が鳴った。
 とるるる
(誰だ……)
 僕は誰だか検討がつかないまま、電話を取った。
「もしもし」
「あ、京」
 声からしてすぐに分かった。茂也だ。
「茂也か。どうした」
「よく分かったな。いや、んなこたどーでもいい。なぁ、京。ちょっと聞いてくれるか」
(……どうする?)
 自問してから、僕は数秒、考えて、すぐに答えた。
「いや、予備校の時間だ。また後にしてくれるか」
「待て、今、聞けよ」
 茂也に、何か切羽詰まった印象を受けたが、僕は電話を切った……。
「時間が、ないんだよ」

 予備校に入って、講義の始まる数分前のこと。
「玲、今日の君は、なにかピリピリしているようだ」
「…………」
 いつものように隣の席に座っている玲を見て、僕は思ったことをそのまま口にしていた。 普段の明るさとは打って変わった、緊張感のある表情。
 僕は珍しく、彼女に自分から声をかけていた。
「勉強の疲れが出たのなら、少し休むのをすすめる。特に夜遅くまでの勉強は体によくない。効率も、人によるがあまりよくない」
「……う、ううん。別にそんなんじゃないんだよ」
 そこでようやく顔を上げてこちらを向いてくれた。
(…………? 向いて、『くれた』?)
 僕は微かに、意味のない疑問を感じた。
 僕がしばらく見つめていると、玲は手を振った。
「ううん、京ちゃん、ホントだいじょぶだから。そんなんじゃないんだっ」
「……そうなのか」
 それを聞いてからの僕は、彼女には特に関心がなくなった。問題がないのなら、僕が心配することではない。余計なお世話は、するのもされるのも好まない。
「ただ……」
 すると玲が、何やらもぞもぞとひとり考え込んだ。ぶつぶつと言う。
「たださ、京ちゃんって、余計なこと、嫌いじゃん? だから、さ」
 僕は、顔をしかめた。
「玲、何が言いたいんだ」
 彼女の言っていることが、理解できなかった。
 玲は「うーん」と唸り、そして頷いた。
「だからね、簡単にゆーと、夏休みって長いでしょ。なのにあと一週間もすれば、講習は終わっちゃう」
「確かにそうだ」
「そーなると、しばらく会えないじゃん。学校もないし。ね?」
「そうなる、な」
 それからまた、もじもじとして玲は天井を見上げた。そして深呼吸をした。と、直後、僕の方を見て、俯いた。
「京ちゃんは、講習終わっちゃったら、あたしが会おうって言っても、意味がないから駄目、とかゆーでしょ?」
 俯いたまま言う玲の言葉に、僕は少し、頭を悩ませた。
(……まあ、確かにそう言うだろうな)
 心の中でそう思って、僕はそう言おうと思った。
「……ああ、確かに  」
 だが途中まで口にして、後の言葉を無意識のうちに飲み込んだ。
(……どうしたんだ)
 何か、頭が熱かった。胸がどこかおかしかった。
「え、どうしたの?」
 玲が気にして問うてくる。
 僕は首を振って、再び続けた。
「ああ、なんでもない。さきほどの玲の言葉、確かに間違っていない。僕はそう言っているだろう」
「……だよねぇ」
 残念そうにそう言って、玲は再びひとり勝手に頷いた。
 僕は勝手に納得のいっている玲を見かねて、言った。
「玲、つまり、どういうことなんだ」
「うん、だから」
 とそこまで言って言葉を切ってから、また頷いた。
「いつでもいいんだけどね。今日、とか、講義が終わった後、京ちゃんの家、マジで行きたいんだ」
「…………」
 溜め息をついて、僕は玲から視線を逸らした。そろそろ講義の始まる時間だ。女性講師の伊藤先生が、いつものように受講生とともに教室に入ってくるだろう。
「玲」
 僕は黒板の方を遠目に見ながら、言った。
「なに?」
「なぜ、うちに来たい? 講習が始まった日から、毎日そう言ってくるよな、玲。理由を教えてくれ」
 僕のきつい口調に、玲はあたふたとした。
「うーん、だからさぁ、いーじゃん、京ちゃん。これも付き合いの一環だと思ってさ。それに一緒に勉強やりたいし」
「理由にならない。それに勉強はひとりでやった方が効率がいい」
「じゃー……、んと、京ちゃんの家、見てみたいし、それに妹の、えーと……、美夏ちゃん、だっけ? も見てみたいの。それにあたし思うんだけど勉強はさ、ふたりでやると実は効率いーかも」
「…………」
「ね? だからお願い、京ちゃん!」
 両手を合わせて大声で哀願する玲に、教室にいる受講生たちがじろじろと見てくる。しまいに玲は、椅子から降りて土下座までした。
「玲……! ちょっとやめてくれ 」
 一瞬、冷静心を失ったくらいの出来事だった。
 土下座をやめないまま、玲は顔だけを上げた。そしてかわいらしく(と僕が思ったくらいの)悲しそうで切ない表情をして、じっと見つめてくる。
 僕は額に手を当て、汗が流れ出ていることに気づいて、玲の手を取った。そして情けない声で玲に言った。
「……分かったよ。じゃあ今日、うちに来てくれ」
「やたっ!」
 玲が跳びはねて周りの受講生たちにVサインなどをしてはしゃぎ回っているのを見て、最初は恥ずかしい気持ちでいっぱいだった僕も、無意識に口元を緩めていた。
 ちょうどその時、
「……あらあら、どーしたのあんたたち。何かいいことでもあったり、する?」
 女性講師、伊藤先生が入ってきた。その後を追うようにまだ来ていなかった受講生たちがやってくる。
「ねぇねぇ、イト先生!」
 玲が伊藤先生に向かって、笑顔で叫ぶ。
 僕は、玲がそのあと、何を叫ぶのかなんとなく想像がついていながらも、すぐに止めることができなかったことに、のちに自分を責めた。
「イト先生、あたし今日、京ちゃんちに泊めてさせてもらうんだっ! スゴくない 」
「あらあら、それはまた立花さん、羨ましいコト……」
 4-Aの教室が、燃えた。

 僕は顔が熱かった。その熱さも、外に出れば回復するかと思っていたが、そう甘くもないようだ。
 そのことが我慢できなく、僕は隣で歩く玲に言った。
「玲、一体なんなんだ君は」
 講義が終わってから、玲は僕の家に来る、ということで、ふたりで一緒に帰ることになった。受講生たちにいつものように一歩、遅れて教室を出た僕達。帰路には、時間帯のこともあってか人影が少なかった。
「え? なんなんだ、って……?」
 玲がとぼけた表情で問い返してくるのに、僕は溜め息と怒声で返した。大きな通りではないため、車も時折、小さいのが通るだけだ。
「とぼけるな! ったく、あんな大声で言うか、普通。しかも、泊めるなんて言ってないぞ、僕は!」
「京ちゃん……、怒ってるの?」
「え……?」
 玲がふざけた目付きで聞いてくるので、僕はかっとして、
「あ  」
「たりまえだっ」と言おうとしたところで、言葉を止めた。
 玲がまた、切なき顔で僕をじっと見つめる。午後十一時を過ぎた今、近くにいるため顔をはっきりと見ることはできない、わけでもないため、その表情が、教室にいた時のように僕を突き刺していた。
 そして、さらに顔が熱くなっているのに気づいた。言葉が、いつものようにはっきりとした口調で出てこない。
「……京ちゃん?」
(……なんだ、どうしたんだ、僕は。さっきもそうだった。何かおかしい)
「京ちゃんどーしたの?」
 そこまで胸の中で呟いてから、僕は玲の頬が緩んだのに気づいた。そして、玲がにやけて口を開いた。
「あ~、もしかして京ちゃん、あたしに惚れ  」
「言うな! それ以上言ったら許さないからな!」
「……ど、どーしたの、京ちゃん?」
 玲が僕の叫びに驚いて一歩、引いた。
(……どうしたんだ、どうしたんだ僕は。なぜ今あんなことを言った? 何をそれ以上、言ったら許せなかったんだ? おかしい……、何かおかしい。おかしいおかしいおかしいおかしい……)
 僕は、自分で自分の言ったことを理解できなかった。最近、おかしい……。いや、今日はいつも以上に、だ。
「……いや、玲、すまない」
「…………?」
 僕は、とりあえず大声を出したことを玲に謝った。こんなに取り乱すのは、何日ぶりだろうか。いや何年ぶりだろうか。
「何か、僕はおかしいようだ」
 言った。言葉に出すことでいつもの冷静を取り戻す。玲が笑いながら見てくる。
「ははっ。確かに今日の京ちゃん、おかしいね。あんな大声出すなんて。あたし、久しぶりに見たよ。はははっ」
 僕はそれを聞いて、また胸が熱くなっていくのに気づいた。
 玲が、続ける。
「でもさ、なんか、嬉しいよ、京ちゃん。久しぶりだよ、ホント。ちょっとビックリしたけどね。でも、あたしはそうやって大声出してほしーんだ、マジでさ」
「……そうか」
「あー、また戻っちゃったよ、京ちゃん」
「……余計なお世話だ。君には言われたくない」
「ぶー」
 顔を膨らませて、玲は再び笑った。僕はそんな彼女を見ているうちに、どこか、心の中でぽかんと開いた穴が、一瞬だけ埋まったような、そんな言葉には表現できないような充実感を感じた。
 ……玲を見ていて、僕はどこか穴が埋まったような、充実感を感じた……。
 それを実感していると、なんだか、玲に感謝したい、ような気分で、僕は、僕ではないみたいに、言った。
「玲……、ありがとう」
「え、なに?」
「……いや、なんでもないよ」
 僕はそこまで言ってから、玲が首をかしげるのを見た。立ち止まって、ふと夜空を見上げた。
「ねぇ京ちゃん……」
 僕が空を見上げるのに合わせるようにして、玲もまた隣で空を見上げるのが分かった。
「どうした?」
 そちらを向かないまま、僕は玲が続けるのを待った。
「……京ちゃんさ、いつも思ったけど、やっぱり今の京ちゃん、なんか寂しいよ。ま、今日は例外だけど」
「……そうだろうか」
「だから、それがだよぉ」
 玲が何やら興奮気味になった。僕はふと玲の方を見た。玲が、どこか遠くを見ているような、そんな気がした。
(……寂しい、か)
 そうかもしれない。言葉にしたものと同じような感じで、僕は思った。
「あたしね、前の京ちゃんの方が、京ちゃんだって、思うんだ」
「前の僕……? いや、僕に前も今もないと思うが」
「いや、あるよぉ」
 なんだかやけにこだわる玲の声を聞いていると、顔が冷めていくのを感じた。そういえば、夜は夏でも少し寒く感じることがある。
 玲は頭を掻いて気まずそうに頬を赤らめた。
「だからね、うーん、なんてゆーか、もっと、思ったこととか、感じたこととか、あたしに話してよ……。素直になってほしいんだよ、京ちゃん」
「…………」
「だから、さっきの京ちゃん、ちょっとあたし嬉しかったりするんだっ。それに……」
「……それに?」
「いや、ううん、いいや」
「そうか」
 僕は玲の目をじっと見つめた。
 すると玲はそれを遮るように言った。
「と、とにかくっ。今日は京ちゃんちに急ごう。もう夜は遅いし、ね」
 そう言って、玲は僕の家の方角を指さして軽く助走した。今まで講義が終わってから、玲は毎日といっていいほど僕の帰り道を途中までついてきたから、大体の道は分かるだろう。
「……そうだな」
 玲の笑顔が、今の僕にはなんだかいい気分転換になった、ような気がした。
「そうそう、京ちゃん、その顔その顔!」
 その言い方が、少し胸をくすぐられて、僕は笑った。
「じゃ、きょーそーだっ! 京ちゃん、あたしについてこれるかなぁ 」
「悪いけど、負けやしない」
「ははは」
 玲が少し後ろにいる僕に笑ってそう言ったのをきっかけに、走りだした。
(負けやしない……か)
 陸上部に入ってて、全国大会にも出ている玲に、なんの運動もしていない僕がかなうはずもないが、乗せられてそう言ってしまったんだろうな。いや、どうでもいい。
「玲、ちょっと待ってくれ」
 僕はそう言って、すでに離れてしまっている玲を追いかけることにした。
(……『素直になってほしいんだよ』か。玲……)
 胸中でそう言った僕にこたえるように、玲が僕の方を振り返った。
「遅いぞぉ、京ちゃん!」
「おい、玲。少しは静かにしないと、近所に迷惑だぞ」
 聞こえたかどうか分からないが、夜道に大声で叫ぶ玲が、住民の人に迷惑がかかるような気がして、僕も叫んでいた。
「はは、だいじょぶだいじょぶ!」
「……なにが大丈夫なもん……」
 さっきから後ろにいる僕の方を向いて叫んでいる玲を見て、嘆息していたのだが、
「おい、玲! 危ない!」
 突然、視界に入った『危険』に、僕は今までにない大声で叫んでいた。
「え  」
 玲が僕の言葉に気づいて、前を振り向いた  が、
 ドウンッ!
「玲   」
 遅かった……。
「玲……、玲!」
 僕は、突然の出来事に何が起こったのか、一瞬、分からなくなるくらいだった。
(……な、なんてことだ…… )
 僕は声には出さず、大声で叫んだ。そして目をきつく瞑った。走るのをやめて、立ち尽くしてしまった。
 キキーッ
 白い乗用車が、物凄いスピードで去っていく。
「…………」
 僕は、我に返るまでの間、しばらく呆然としていた。乗用車は、だんだんと遠くに行こうとする。
 だが、僕はなんとか意識を取り戻して、
「くそぉー 」
 叫んで、追う。
(まずい! 急げ、急げ  !)
 僕は遠くなる乗用車のバックナンバーをじっと睨み据えた。
(……10……3!)
 頭の中で繰り返し覚えた文字、数字。反復させながら、鞄を開いて中からB5の紙を取り出して、筆記具の中からペンを選び、素早く記した。
(……玲!)
 僕は玲の名を心の中で呼び続け、周囲を大振りに見回した。
(どこだ……)
  焦るな……焦るな……、そう思うが緊張がそれを許さない。暗くて周囲が見えにくい。
吹き飛ばされた玲の姿を、見失った。
(どこ……にいった、玲!)
 僕は目をきつく瞑って、近所のことなど関係なく大声で玲を呼びたかった。呼ぼうとした。玲の身が心配でたまらなかった。
 その時、ざっという音がした。
「玲…… 」
 僕は音の聞こえた方を振り向いて、よく目をこらした。だが  
「いない……!」
 いなかった。暗くてよく見えない。
 だが僕は走りだした。辺りを賢明に探す。幸い、車がこれ以上やってくる様子はなかった。探すのを邪魔されずにすむ。
「……くそ。……脇道からこう来て……」
 車が出てきてから、玲が吹き飛んだ時のことを目の奥に蘇らせて、とにかく僕は近くを探した。
 そして……。
「いた!」
 うつ伏せになった玲が、ライトの少ない通りで、夜目に微かに入った。
 とにかく玲の安否が心配で、僕は玲に駆け寄った。
「玲……、大丈夫か 」
 玲を助け起こして、僕は顔を空に向かせた彼女の口から、「あぐ……う」という小さくか細い声を耳にした。
「意識が……あるのか  うわっ!」
 体重を支えていた腕に、何か熱いものが伝ってきた。
(血だ……  まずい、まずいぞ……!)
 僕は焦る中、考えに考えた。
 だがとにかくこのままでは何もできない。それならば……。
(救急車を呼ばなくてはならない……!)
 そう考え、僕は再び急いで周囲を見渡した。今の僕にできる通信手段は、電話ボックスのみだ。近くに電話ボックスがないか、探す。早く玲を助けなければならない、そんな思いが脳裏を支配する。
「ない! ないのか!」
 大声を出した。僕は、焦っていた、焦っていた……。
 玲を置いたまま駆け出して、電話ボックスが近くにないかと焦る。
「……まずい、早く救急車、呼ばなくちゃまずいんだよ!」
 僕は離れたところで倒れたままの玲を見て、自分に言い聞かせるように叫び続けた。
 それならばどうすればいいかと、再び同じ問題を考える。
(……待てよ? 電話は……、家でもかけられる、よな)
 ようやくそのことに気づいて、近くの家にお願いすることに決めた。一軒家が幾つも立ち並ぶ、静かな住宅街沿いのこの通りだ。僕や、さきほどの玲の大声に気づいてくれてもいいのではないかと思ったりもしたが、とにかくどこでもいいから頼むしかない。
「……ここにしよう!」
 二階建ての一軒家、部屋の窓から光りが見えることを確認して、一番近かったその家の玄関先まで走った。
「すみません、すみません、玲が車に引かれたんです! 救急車呼んでください!」
 僕はドアの外から大声で叫んで、ばんばんとドアを叩いた。焦って、落ち着いて行動することができなかった。玲はもしかすると……、という可能性がどんどん頭の中に入り込んできて、僕は何も考えられない状態だった。とにかく、早く助けてやらなくては、という思いが先走る。
 と、そんな僕を前に、ドアが開いた。がちゃあという小さな音と、微かな光りが漏れてくるのが分かる。
 中から、ひとりの女性がでてきた。
「……どなたですか、まったく。こんな夜遅くに……もう!」
(あれ……?)
 どこかで見たような気がする女性にそう言われてから、僕はすぐに大声で訴えた。
「あ、あの、人がひかれたんです。すぐそこです。救急車を呼んでください、お願いします!」
 するとその女性は、「あらあらあらあら……」と言って、口に手を当てた。
 そして笑顔になってゆったりとした口調で続けた。
「あなた確か、柏田くんじゃなかったかしら」
「え?」
 僕はその時になって、その女性が、予備校の女性講師、伊藤先生であることに気づいた。さっき講義が終わったばかりなのに、帰宅するのがやけに早いな、などと思ったりもしたが、今はそんなことは問題ではない。玲を、助けなければならない。
 伊藤先生はそんな僕の顔をまじまじと眺めて、右眉を傾けた。
「……あれ? あなた確か、今日は立花さんとお泊まりの日じゃなかったかしら」
「……あぐ」
 伊藤先生が、急におかしなことを言い出すのでつい言葉が出なくなったが、僕は首を振って気を取り戻した。だが先生がそうしてくれたおかげで、少し冷静になれた。
「あれ、違ったの? 立花さん、あんなにはしゃいでたのに」
 いまだ続ける伊藤先生を、僕は遮った。
「先生、その立花さんが、すぐそこの通りで車に撥ねられたんです」
「あらあらあらあら」
「救急車を呼んでください!」
 そこまで言うと、ようやく伊藤先生も分かってくれたようで、「あ、ちょっと待っててね」と言って部屋の中に戻っていった。
「はあ……」
 伊藤先生の部屋の中で電話している声が聞こえて、僕はそこで溜め息をついて、ひとまず安堵した。だが、これからが玲の勝負、だ……。
 僕は先生が電話を終えたのを確認してから、玲のもとへ走って戻った。
 仰向けになった玲のところに戻ってから、僕はやけにこの通りが暗いことに気づいた。(車がこの道を通っても、玲が倒れているのにすぐには気づかないかもしれない)
 僕が伊藤先生の家に行っている間、車が通らなくてよかったと思い、僕は玲のそばに寄った。
 目を瞑っていることは、暗いがなんとか分かった。息をしているのかは、僕の息切れが激しかったため分からなかった。意識があるのかも、分からない。
 でも僕は、玲に話しかけていた。
「玲……、大丈夫か? 痛いだろうな、いや、痛いに決まってるよな。けどさ、もうすぐ救急車が来るからな。だから頑張れ、頑張れ、玲」
 すると、玲の右手が軽く地面から離れて、僕の手に触れたような気がした。

 るるるるる……
 僕は病院の公衆電話から、家にいるはずの美夏に電話をかけた。
 るる
 コール音は、数回で止まった。
 そしていつもの美夏の明るい声が舞い込んでくる  と最初は思った。
 けど……。
「……もしもし」
 電話越しの美夏の声は、予想外に暗かった。いつもの明るさなど、信じられないくらいのものだった。
「あ、美夏……? あのさ……」
 そのせいで、僕は少し言葉を詰まらせてしまった。だが途中、美夏の暗い声の原因を理解した。いや、本当はもっと前から理解すべきだった、というよりむしろ、最初からそれを踏まえて電話するべきだった。
 僕は続けようとして  だが美夏に遮られた。
「……おにいちゃん、今、何時か分かってる……の?」
「……美夏、ごめん」
 謝るしかなかった。僕がいけないことをしたんだ。
 今の時刻、午前四時。予備校の講義が終わってから、すでに五時間が経過している。いや、そういう問題ではない。こんなに遅くまで、美夏に連絡なしで過ごしてきた僕がいけない。
 それに、コール音数を考えると、美夏は  
「……美夏、やっぱり起きててくれた……んだね」
 起きていた可能性が高い。
 僕は、美夏に何も言えなかった。
「……おにいちゃん。この前の約束、もう忘れたの?」
 その言葉が、胸を鋭く突き刺していった。痛かった。
 僕は、美夏に悪いことをしたという罪悪感でいっぱいで、ただ言葉にしていくだけでつらかった。だが反面、美夏に理解してもらいたい、そんな気持ちがあった。
 それを、言う。
「……ううん、忘れてなんかいないよ。ただ今日は……」
「ただ今日は、あの玲さんという人が事故に遭ったから、って言いたいの?」
「え   」
 僕は、驚いて言葉を止めた。
(……美夏、知っているのか?)
 なぜ美夏が、という疑問が沸き、そしてそれを教えてくれるように、美夏は言葉を紡ぎ出した。
「……今から一時間くらい前に、電話があったの。おにいちゃんの予備校の先生だっていう人から」
(伊藤先生……か?)
 美夏の言った言葉が、最初はよく分からなかった。
(……でもなんで伊藤先生が、うちに電話をするんだ? 美夏のことだって、先生には話してないし、関係ないじゃないか……)
 伊藤先生とは、ただ予備校の講師と生徒というだけであって、他にはなんでもない。玲だって、ほとんど同じだ。事故にあったからといって、うちに電話する理由が分からなかった。
(……まあ、僕が病院にいて家には戻らない、ってことを、伝えておいた方がいいと思ったのかも、な)
 先生がそこまで僕にする理由が、やはり分からなかったが、僕はそう思うことで納得した。
「……おにいちゃん?」
 しばらく黙ったままだったので、美夏が今度は心配そうな声で問いかけてくる。僕は大きく息を吐いて、言った。
「……そうか。じゃあ、先生に聞いたんだね、玲のこと……」
「……うん」
 僕は美夏の頷きを聞いてから、しばらく何も口にできなかった。胸が苦しかった。とにかく辛かった。
 電話を耳に当てたまま、暗く静まり返った病院内の廊下を無言で眺める。
 無人だ。
(……ふぅ)
 溜め息がやまなかった。
 さっきから黙ったままの僕に何を思ってるのか分からないが、同じように黙ったままの
の美夏に、僕は小声で言った。
「……美夏。夜遅く、いや、もう朝か、電話してごめんね。それから、遅くなること、すぐに伝えなかったこと、ごめん……。今日は例外、なんて言えないよ。反省してる」
「ううん、いいの。最初はあんなふうに言ったけど、本心じゃないから。仕方ないよ、うん」
 美夏が微かに明るく言ってくれたことが、沈んでいた僕を少しだけ救ってくれた。だけど今はとりあえず、電話を切らないと。
「じゃあ、美夏。今日はゆっくり休んで……。電話、切るね」
「あ、おにいちゃん、待って。やっぱりまだ帰らないの……? わたしも病院、行った方がいい?」
「いや、いいよ。美夏はからだ、休めて。今度、美夏のお願い、何か聞くよ。埋め合わせ、みたいな感じで、さ」
「……あ、うん、ありがと」
 そこまで話してから、僕達は電話を切った。美夏の声が明るくなったように感じたが、
だが半分は、体調不良を意味しているようにも聞こえた。
 僕は電話の前で立ち尽くしたまま、しばらく無言のそれをただ見つめていた。
「……美夏、ありがとう」
 美夏にはいつも苦労をかけている。もっと自分を大切にしてもらいたい。いや、それは僕のせいだ、な。僕がもっと美夏に気をつかっていれば……。
 その時、後ろに人の気配を感じた。
「柏田くん」
 名を呼ばれて振り返ってみると、ちょうど長い黒髪をかきあげる伊藤先生が近づいてくるところだった。
 家の中にいた時の伊藤先生と同じ格好だった。夏なのに白いセーターとロングスカート。確か、もう三十歳は過ぎていたはずだが、今日の伊藤先生は、もっと若々しく見えた。いや、こんな時にそんなことを考えている僕は、いかれているとしかいいようがない。
 僕は首を振って、もとの自分になるよう頭を入れ替えた。
「伊藤先生」
 伊藤先生に合わせるようそう言って、軽く頭を下げた。
 すると先生は、右手を挙げて、親指で後方を指して言った。
「ちょっといいかしら」
「はい」
 僕は伊藤先生に従って、歩きだす先生の後に続いた。
 伊藤先生の横を歩いてしばらく進んで、廊下を右に曲がったところにある、やはり誰もいない壁沿いにある黒い長椅子の前まで来た。
「ここでいいかな……」
 伊藤先生が独りごちて、その椅子にゆったりと座った。僕も数秒遅れて、隣に座った。
 なにげなく周りを見渡してみて、病室がびっしりと廊下を挟んで並んでいるのに気づいた。さっきまでは頭の中がいっぱいで、周りのことが何も見えなかったから、当たり前のことでも、意外に感じた。
(……静かだ)
 空気が静止しているような気分だ。僕は伊藤先生を横目で見て、何を言い出すのか検討がついていたから、あまり先生の言うことに耳を傾けたくなかった。
「……あまりこんな時にこういう話をするのはなってないと講師の私も思うんだけど……」 やはりそうか、と思いながら、僕は玲のことを考えて先生の方を向いた。
「柏田くん。確かあなた、大学進学が希望だったわね」
「……え?」
(……なんの話だ?)
 予想を遥かに裏切られた話に、僕は目を見開いた。
(普通、こういう時にそんな話をするのか?)
 伊藤先生にそう言いたかったのだが、先生の目が真剣だったのと、先生の最初の言葉を考えて、僕は素直に頷いておいた。
「……はい。医大希望です。上山大学です」
「そうだったわね。だとしたら、医者……よね、もちろん」
「そうですね」
「……そう……か」
 伊藤先生が僕の目から視線をずらして、正面を見つめた。正面は、病室の壁だ。
(……なにをいいたいんだ、伊藤先生)
 そう思いながら、伊藤先生が悩むような仕草で腕を組むのを見て、
(……ん?)
 あることに気づいた。
(そうだ。……確か伊藤先生は、チューターだった……な)
 ふと彼女がチューターだということを思いだした。いや、そんなことを思い出したところで何にもならないことは分かっていたが。それよりも、そのことを教えてくれた玲のことが、脳裏をよぎった……。
「はっきり言うけど……」
 そんな僕に、伊藤先生は堅かった口を開いた。
「あなた……」
 そして、諭すように言った。
 いや、諭した。
「その進路、やめた方がいいわ」
「え  ?」
(何を言い出すんだ?)
 としか思えなかった。一体、伊藤先生は何を考えているのか。そう思いながら、僕は先生がそう言った理由を考えた。
 そして、聞いた。
「それはつまり、今の学力じゃ足りないということですか?」
「そうね。それもあるわね」
 伊藤先生が僕の予備校の模試の成績を見ている、のは確かだろう。しかし、今まで進路のことについて先生と話したことなどなかったから、なぜ今、こんな話を先生としているのか、自分でも不思議だった。
「最近、あなた、成績落ちてるからね」
 そして続ける先生の言葉を聞いてから、僕は少しの間、押し黙ってしまった。確かに、先生の言うとおりかもしれない。というより、言うとおりだ。
「でもね、私が言いたいのは、それだけじゃないわねぇ」
「……どういうことですか?」
 怪しげに伊藤先生は唇に指を触れて、小さく息を吐いた。
「あなたが高校一年生の頃に、予備校の進路志望、書いてもらったけど、何を書いたか、覚えてる?」
「…………」
(……なんなんだ、一体この人は)
 僕は、伊藤先生がいつも予備校で講義をしていた時のふわふわした雰囲気を、今は感じることができなかった。
 僕は高校一年の時から、予備校に通っていた。その時のことを、伊藤先生は言っているのだろう。
「…………」
 僕はその時、進路志望の用紙に何を書いたか、今でもはっきりと……、
「……忘れました」
 覚えているが、そう言った。これ以上、伊藤先生と話したくなくなっていた。
「そう?」
 しかし、伊藤先生はそんな僕に気づいたようで気づいていないふりをしているような、何を考えているか分からない人になっていた。
「それなら仕方がないけど。それに、私がどうこう言うことではないし、ね」
「……そうですね」
「あらあらはっきりとまた」
 伊藤先生は、最後にいつもの予備校講師の表情に戻って、椅子から立ち上がった。僕は内心ほっとしながらも、さきほどから続けている無表情を続けた。
 伊藤先生は椅子から少し歩くと、椅子に座ったままの僕の方を振り返って、
「でもね、最後にひとつだけ」
 と言って、また怪しく右手の人さし指を唇に当てて、はっきりと、だが小さな声で言った。
「今の日本の大学に入ったら、将来、『限られる』ということを、覚えておくといいわね」「……はい。覚えておきます」
「ならよし。私は先に帰るから、後は、好きなように」
 そして、伊藤先生は軽いスキップで暗い廊下で小さくなっていった。僕はそんな先生をじっと見つめながら、無言で椅子に座っていた。
(……何が言いたいんだ)
 静まり返った病院内で、ただ椅子に座ったままじっとしていると、いろいろなことが考えられた。今は、伊藤先生の言った言葉が、脳裏に漂う。
(なぜ、先生にあんなことを言われなくてはならない)
 その思いが僕に苛立ちを募らせて、しばらく離れてくれなかった。
「…………」
 しかし、こうして病院の廊下にある椅子にひとり、じっとしていても仕方がない。僕は立ち上がって  
「…………」
   あの部屋に行くことにした。
 今日、二回目だ。
「……玲」
 小声だから、誰にも聞かれることはないだろう。なにより時間が時間なためか、医者や看護婦の姿が見れない。暗くて静かな、廊下だった。
 僕に話してくれた玲の言葉のひとつひとつが、蘇った。いろいろな、こと。
(『今の京ちゃん、なんか寂しいよ』)
「…………」
 僕は角を曲がって、どこの病室も電気が付いていないがやはり同じように付いていない部屋に行き、静かにドアを空ける。
(『素直になってほしいんだよ』)
「……玲」
 再び、同じように玲の名を呼んだ。そして、ドアの開いた部屋の中に入った。
「…………」
 暗い個室を静かに歩いて、大きなベッドの上に人影の姿を確認する。
 そこに眠っているはずの玲のそばに寄って、ベッドの脇にある丸い椅子に座った。
 座ったまま、大きく息を吸った。
「玲、痛かったよな……」
 僕は玲の手を取って、聞こえていないのは分かっていたがそう言った。
 医者の先生によると、玲の意識はまだ戻っていないという。戻るかどうかも怪しいところだという話も聞いた。
 それなのに、今、玲には誰もついていない。医者の人はおろか身内の人さえ来ない。
「……玲、なんかさ、みんな、冷たいな」
 何か、玲に話しかけていたかった。聞いていなくてもいい。ただ、玲と話をしていたかった。
「いや、みんな忙しいのかも。けど、玲の父さんとか母さんは、どうしたんだろうな。来てくれないのかな。医者の人は何してるんだろ。やっぱり、他の患者さんとかいるから仕方ない、のかもな」
 全く意味のない話だ。自分でも分かっていた。必要のない、言葉……。
「でもさ……」
 僕は玲の手を両手で握ったまま、玲の顔をしばらく見つめていた。たくさんの包帯が、見知らぬ器具が、玲の体を部分部分覆っている。
「でもさ、僕は玲と一緒にいるよ。なんか、僕も玲みたいになったら……って思うとさ。玲の言うとおりだよ。ほんとは僕、寂しいんだよな……。もし僕が怪我したら……、そしたら玲は、僕と一緒にいてくれるのかな」
 目を瞑ったままの玲。苦しそうに見えなくもないが、今のところ、大丈夫そうだ。
「もし僕が玲みたいなことになって、玲が一緒にいてくれたら、僕はうれしいな、正直なこと言うと、さ。なんか、恥ずかしいけど。でも、玲は一緒にいてくれないか……。まあ、それでも今は僕は玲と一緒にいるけどさ……」
 僕は、無意識に小さく笑った。
「はは、やっぱりなんか変だ、僕……」
 そう言って、僕は言葉を切った。なぜか、悲しかった。
 僕は玲の顔を、いつもなら考えられないくらい、じっと見つめた。
 すると玲の瞼が微かに動いて、涙が流れた。


                                  第四章

「京様! 起きてください。七時です。今日の朝食は、なんと京様大好物の、ハンバーグスープできめてみました」
「な、な、なんとそれは本当なのですか、美夏さん 」
 僕は布団の上で腰を起こして、笑顔の美夏が目の前に立っていることを認識。
「ええ。本当です。なんせ、今日は京様の講習最終日であられるわけですから、そのくらいは美夏としてはさせてもらわないと、納得がいかないのです」
「ありがとう、美夏さん! うれしくてうれしくて、もう何も言えない状態だ!」
 すぐさま立って、さっきからうきうきして笑顔を絶やさない美夏の頭を優しく撫でる。
「まあ、京様ったらっ!」
 美夏がさらに笑顔になってキッチンに戻るのを見て、僕は大きく伸びをした。
 そこで、
 ぴーんぽーん
 というなんだか前にもあったような状況に陥って、美夏が真っ赤になった頬を平常に戻して、玄関先へと赴いた。
 ドア越しに美夏が聞く。
「どなたですか?」
「えーと、永川です。その声は美夏ちゃん?」
「あ、ちょっと待ってください」
 ドアの向こうにいるのは、茂也。覗き窓でそれを確認すると、美夏は僕の方を振り返って手を振った。
 僕はそれに頷いて、服を着替えないまま玄関まで行き、ドアを開いた。
 ジャージ姿の、なんだか今日はやけに大きく見える茂也の姿がのわっと現れる。
「茂也、どうしたんだ。こんなに朝早くから」
「おう。悪ぃけどちょっと外まで来てくれ」
「分かった。少し待っていてほしい」
 茂也からの誘いにそう応じてから、僕はドアを閉めた。夏休みに入ってからの二度目の茂也の訪問だ。
 僕はキッチンからテーブルに朝食を運ぶ美夏を見た。こちらに気づいて、美夏が見つめてくる。
 僕は頭を掻いて言った。
「美夏、ごめんね。朝食、帰ってきてから食べるよ」
「え……?」
 すると、美夏は一旦、俯いてすぐに顔を上げた。
「……あ、うん。分かった。あとでもう一度、温めるから急がなくてもいいからね」
「いや、大丈夫。すぐに帰るよ。なんたってハンバーグスープだもんね」
 僕はそう言ってから、服を着替えて顔を洗い、玄関に行った。
 靴を履いて、ドアを開ける。すぐ外にいる茂也と顔を合わせて、階段を降りた。
「なんだか、わりーな、マジで。メシ食ってなかったみたいだしよ」
 階段を降りてから、アパートの外で歩きながら、茂也は苦笑した。僕は頷いて、淡々と言った。
「確かにそのとおりだ。だが、構わなくていい」
「そーか?」
 最近では、他愛もない会話が茂也との間に生まれてきている。そんな話を続けて、茂也がまた、この間の花火の時のように公園で話そうと言うので、僕たちはそこまで歩いた。
 公園の入り口を通って、朝の日差しが程よく入ってくる中、茂也は砂場に入った。
「なあ、京。覚えてるか? 昔、ここでよく遊んだろ」
 砂場の上に座って、茂也は入り口に立ったままの僕に、笑って言った。
 僕は茂也の言葉に、なんの関心を持つことがなく、簡単に頷いた。
「覚えているが、それがどうした」
「…………」
 僕の言葉に、茂也は目を瞑った。こめかみに血管が浮き上がったのは、僕の気のせいだったのだろうか。
 だが茂也は、すぐに瞼を開いた。
「美夏ちゃんと遊んだこともあったよな。俺の妹と、四人でよ。砂で建物作ってさ、てっぺんに、旗とかじゃなくて、花をさしたんだよな。美夏ちゃん、大喜びだったな」
「…………」
 茂也が、昔のことを語ることなど、あまりなかったような気がする。僕はふとそんなことを思った。
 しかし、どうしたんだろうか。今の茂也は珍しい。
 僕は、砂場に座る茂也の、普段の彼の姿とのギャップに違和感を感じながら、砂場に降り立った。
「そんなこともあっただろうか」
 僕は茂也の前に立って、ゆっくりと屈んだ。そして茂也が微笑んで砂を幾らかすくい上げるのを見て、嘆息して言った。
「しかし、それがどうした」
 茂也は、僕の言った言葉に反応するように深く俯いた。そしてしばらく黙る茂也に、僕は続けた。
「茂也、さっきから何が言いたいんだ。何かあったのか」
「……そうか」
「え?」
 まだ誰もやってこない、この公園。それを確認するように、茂也は周囲を簡単に見渡した。そして、いきなり立ち上がって、僕の胸倉を掴んだ。
「な   」
 煥発入れず、ごっという低い音が鳴って、意識が一瞬、吹き飛んだような感触を覚えた。そして、視界が反転して、僕は顔から地面についた。
(茂也、何をするんだ )
 うつ伏せのまま、顔面の激痛に声が出せず、頭の中は痛みだけで一杯だった。
 そして、茂也の声が真上から聞こえた。
「なんなんだよ……なんなんだよ、京!」
「……うぐ」
 茂也の言葉に、僕は激痛で何も言えなかった。
「……このクズ  いつからそんなヤツになっちまったんだよ 」
 僕はなんとか体を起こして、手で顔にそっと触ってみた。
「くっ」
 茂也の拳が、鼻にヒットしたみたいだ。血が流れているのが分かった。
「今のお前はお前じゃねーよ!」
 だがその出血が尋常ではなかった。茂也が意味の分からないことを言っている間も、痛みがひいてしまうくらいにすごかった。ぼたぼたと、こんなに僕の体には血があったのだろうかと思う。それほどすごい勢いで血が流れてきた。
「……俺たちで作った、砂の店。おめー、忘れちまったのかよ 」
「……うう」
「あれだけは、さすがに今のお前でも憶えてると思ったのによ! それなのに、どーしちまったんだよ!」
 痛む鼻に触れることもできず、ここでは治療することもできずに、僕はゆっくりと立ち上がった。
「な、何を言いたいのか分から……ない」
 砂場が、赤く染まる。
 茂也が僕を見下ろして、また胸倉を掴んできた。
「…………」
 茂也は僕を数秒持ち上げたまま、無言でじっと目を合わせてきた。僕は、茂也の怒りに迸ったその目から、視線を逸らす力も沸かなかった。声も、出ない。
 すると、茂也は手の力を緩めて、僕を砂の地に落とした。
「うぐ」
 されるがままになった僕は、自分を情けなく思った。だが、それよりもこんなに熱くなる茂也を見たのが久しかったため、そちらの方に気を取られた。
「はは……」
 茂也は、僕を見下ろして、小さく笑った。
「ははははは。これじゃ美夏ちゃんが泣くのも分かるわ。京がこんなんじゃよ」
「……な、なに?」
 今の茂也の言葉に、僕はようやく声が出た。出さざるを得ない、そんな状況だ。
 僕は再び、立ち上がってから、茂也が背を向けたのと同時に、聞いた。
「ど、どういうことだ」
「どういうこと? ……なるほど。やっぱりそうか。美夏ちゃん、隠してたんだな」
「茂也、何を言っている」
 茂也の言っている意味が分からず、僕はふらふらとしながらも彼の答えを欲した。すると茂也は、吊り上げていた眉を元に戻して、荒立てていた息も休めた。
 そしてこちらを振り返って、砂場の中にある大きな石の上に座った。
「……数日前だよ。美夏ちゃん、この公園で泣いてたんだよ!」
「……なんだと? どういうこと、だ? それは本当なのか 」
「ああそーだよ、この馬鹿京。知らなかったんだな」
 それを聞いて、鼻の痛みが完全になくなった。僕は、茂也の言った言葉に、疑いがあってほしかった。
「けっ。まあいい。聞け」
 しかし、茂也ははっきりと続けた。
「とりあえずそんときは俺んちに来るかって言って、部屋で落ち着かせたよ。京、お前の講習が始まる時間くらいだ。確か、夕方だったな」
(美夏が……泣いていただと )
 衝撃だった。美夏が泣いていただなんて。いつも笑顔を見せてくれる美夏が、『泣く』なんて。
「そんとき電話したんだけど、おまえ講習があるっ言って、すぐ切っちまっただろ」
(……そんな。美夏が泣く……  しかし、今日の今日までずっと笑顔だったぞ、美夏は )
 僕は、ここ数日の美夏の表情について、徹底的に思い出してみた。
(……いや、やっぱりいつも笑顔だった)
「で、その日から随分たっちまったけど、ま、俺も就職のことで忙しくかったからな。なかなか……」
(……いや待てよ? 美夏のことだから、無理してたの……かもしれない……)
 茂也の「泣いてたんだ」という言葉が頭の中でずきずきと響いて、僕は混乱していた。
「おい、聞いてんのか京」
「……あ、ああ」
「だから今のおめーがムカつくんだよ! しっかりしねーでよ!」
 僕は茂也に肩を強く叩かれて、砂場に倒れ込んだ。そして彼の目を見てから現実に戻った。
「……ったく震えやがって」
「震え……?」
 茂也に言われて、僕は両手を見てみた。確かに、震えていた。すると茂也は苦笑した。
「震えてんだろ? ……へっ、それだけは変わってない、みてーだな。……ちょっと安心したけどよ」
「え?」
「美夏ちゃんのことだと、いつもそーだっただろ?」
 茂也に言われて、僕は少しだけ顔が熱くなってしまった。別にそんなふうになる必要はないのに、なぜか熱くなっていた。鼻も、熱い。
 僕は首を振って、聞いた。
「し、しかし茂也。美夏、なぜ泣いていたんだ。今まで、美夏はそんな仕草、全く見せていなかった。もしかして、僕が原因なのか」
 頷いてほしくはなかったのだが、茂也は大きく頷いた。
「ああ、お前のせいだろ、たぶんな」
「な……!」
 やはり、衝撃だった。
 美夏が僕のせいで泣く……? 今までそれだけはあってはならないと心に決めてやってきたのに。
 僕は、何も言えなくなった。
 茂也が、また肩を叩く。
「落ち込むなって」
「…………」
「いいから聞けや。そんとき美夏ちゃんに聞いたんだよ。どうしたんだい? ってな」
「あ、ああ」
 茂也の話が怖かったが、僕は目を瞑って聞いた。
「最初は話してくんなかったよ。たぶん、俺じゃなかったら誰にも話してくんなかったかもな。それくらい、口開いてくんなかった」
 それを聞いて、僕は茂也をまともにみたくなくなった。
 顔は合わせずに、聞いた。
「……茂也は、そんなに美夏に信頼されていたのか…… 」
「おいおい、嫉妬すんなっちゅーの」
「いや、べつにそういうわけでは……」
「ま、いいけどな」
 茂也は僕の血で染まり、固まった砂を足でかき回した。
「結局は話してくれたんだけどな。でよ、なんて言ったと思う?」
「なんて、言ったんだ?」
「『おにいちゃんがお花屋さんのこと、忘れちゃった……よ』ってさ」
「…………」
 最初、鼻を殴られても分からなかった。しかし、茂也がこうして僕に公園に連れてきた理由というものを、今、知ったような気がした。
 美夏、そういえば二週間くらい前に、僕にもそう言った……。僕は、胸が痛かった。
「俺さ、それ聞いて、昔のこと思い出したんだよな」
「ああ……」
「美夏ちゃんが泣いてた理由。俺、少し分かる気がするんだよ。京、お前、美夏ちゃんになんか言っただろ。花屋のこととか」
 僕は茂也が続けるのを、耳を痛くしながら聞いた。しかし、答えるのは難しい。
「いや、やめとく。今のお前に言ったところで何もならねーしな。ただ……」
 そして茂也は少し間を置いて、言った。
「ただ、大学に入るってことはどーゆーことか、美夏ちゃんも知ってるってことだ。それだけは忘れんなよ」
「…………」
 黙ったままの僕にひととおり言うと、茂也は砂場から出た。そして、まだ砂の上に立ったままの僕に背を向けて、首を垂らした。
「俺はよ……」
「……なんだ」
「美夏ちゃん、俺の妹より妹だって思えんだよ。まっ、それがいいこととは思わねーけどよ」
 なぜか、声を震わせて茂也は小さくそう言った。
 そして顔だけこちらを向いた。
「京、美夏ちゃん悲しませんなよ」
「……そんなことは分かっている」
「へっ。ま、ここ最近のお前らのわけ分からん恥ずかしい朝の会話を聞く限りでは、大丈夫だと信じてーけどな」
「朝の……会話?」
(き、聞かれていた……のか?)
 そう思って茂也に問おうとしたところで、茂也は僕の方は向かずに歩きだした。
「俺はおめーを信じるぞ。話はそんだけだ。殴って悪かったとは思ってねーぞ。殴りたんねーくらいだ」
「おい、待て茂也」
「じゃーな」
 とうとう走り出した茂也を、僕は追うことなく、ただ呆然と見ていた。
「…………」
 いろいろなことが頭に舞い込んで、何も考えられなくなった。美夏のことで頭でいっぱいなのに、何も考えられなかった。いや、頭がいっぱいだったからか。
「……茂也」
 公園の砂場の真ん中でひとり、僕は涼しい風に鼻が染みるのを感じた。
 茂也といて、どれくらいの時間が経ったのだろう。美夏の作ってくれたハンバーグスープを気分よく飲みに帰れなくなったことが少し辛かったが、僕は砂場を出た。
 そして、無人の公園を出る。
「……家に、帰ろう」

 アパートに戻って、二階に昇った。
 部屋の前まで行き、鍵の掛かったドアを開ける。
「ただいま」
 玄関に入って、部屋の奥に美夏が背を向けて床に座っているのが見えた。部屋に上がっても、いまだ僕に気づかない美夏を見て、僕はもう一度、言った。
「ただいま、美夏」
 いつもは返事が必ず返ってくることから、僕はそうしていたのだろう。美夏の返事が、僕の心を満たしてくれるから、返事を期待していたんだ。
 すると美夏は、
「え?」
 と言って、こちらを振り返った。そしてなぜか顔を拭って、笑った。
「あ、お帰りなさい。遅かったね……」
「うん」
 その会話で僕は満足して、大きく息を吐いた。そしてテーブルの前の椅子に座る。
 テーブルの上に置いたままのハンバーグスープを見てから、しばらくの間、沈黙を作る。「あっ」
 美夏が立ち上がってそれらをキッチンに運ぼうとした。
「今、暖めるから。ちょっと待ってね」
「いや  」
 美夏が無理に笑顔でキッチンに運ぼうとするのを、僕は止めた。美夏がハンバーグスープの皿を持ったまま立ち止まる。
「食事はまだいいんだ。それより美夏、ちょっと、座ってくれないかな……」
 僕は美夏の目を見て、椅子に座るよう促した。
「…………?」
 美夏はきょとんとして、数秒、黙り込んだが皿をテーブルの上に戻して座ってくれた。
 椅子に座って、「なに?」と聞いてくる美夏を見ながら、僕は茂也に言われたことを思い出していた。
「あのさ、美夏」
 それについて話そうと思った。そしてそのとき美夏が、一瞬だけ不安げな顔になったのを僕は見逃さなかった。
 しかし目の前にいる美夏の顔、目を見ていると、言いたいことがなかなか口に届いてこなかった。そして、だんだんと言いたいこと自体が形を変えていった。
 じっとしたまま、呼びかけたのに何も言わない僕に苛立ちを覚えたのか、美夏が先に口を開いた。
「なに、おにいちゃん? さっきから黙っちゃって」
 だが、相変わらず笑顔の美夏だった。
「……いや」
 美夏は僕に怒ったり、泣いたりしてくれないのだろうか。常に笑顔だ。
「…………」
 僕には、嬉しいとか、楽しいとかいった、いい表情しか見せてくれない。茂也には泣いているところを見せてもいいのに、僕には見せてくれないのか、美夏。
 そんな思いが募って、僕は辛かった。
(……美夏)
 だが一方では、それは僕と同じように美夏も僕を大切に思ってくれているからなのかもしれない、という期待も微かにあった。
 美夏に話したい、聞いてみたいことが沢山あった。公園で茂也に泣いていた美夏のことを聞いた時は、頭の中がぐちゃぐちゃで、確認もしたかった。
「……おにいちゃん?」
 美夏が問い返してくる。
 だから今、その話をしようと思ったのだが  
「いや、ごめん。ちょっと考え事してて……」
「そう?」
   いろいろな思いが入り交じる中、僕はもう何もかも余計なことのように思えて、ただ簡単に、美夏に言った。
「……美夏、あのさ。今日、講習、終わるから、明日さ、ふたりで遊園地かどこかに行かないかい?」
「……え?」
 いきなり、なぜそんなことを言ったのか、その時の僕には自分でもあまり理解できていなかった。
 美夏も同様に急な話に驚いたようで、少しの間、眉を掠めた。
「遊園地……?」
「……うん」
 僕は頷いた。
 最初は自分でも何を言っていたのか分からなかったのだが、美夏が僕の提案に喜びを覚えてくれることが一番の願いだった。
 美夏の顔を見つめていると、彼女の顔が次第に綻んでいくのが分かった。
「ほんと……に? 本気で言ってるの?」
 何やらテーブルに乗り出してくる美夏。
 僕は少し戸惑いながらも答えた。
「あ、ああ、そうだよ。美夏とふたりで行きたいんだ」
「……あわわっ」
「……あわわ?」
 口元に手を当てて、「あわわ」を連発して、美夏は両腕に力を込めた。
 そしてさらに身を乗り出してきた。
「行くよ、おにいちゃん! うん、行く行く。絶対」
「ほんと? よかった」
 僕は、美夏が予想以上に喜んでくれていることが、とても嬉しかった。
「ねぇねぇ、明日行くの? どこの遊園地? ふたりきりだよね? 茂也さん、呼ばないよね? うわぁ、どうしよう」
「……あ、ああ」
 続けざまに問う美夏に、僕はとりあえず最初の問いに答えた。
 美夏と遊園地に行く。そんなこと、今までの人生の中であっただろうか。
(……いや、初めてだな)
 初めてだった。
 美夏がこんなに喜んでいるのは、それだからなのだろうか。しかし、僕はそれがとても嬉しかった。
 美夏は両手を胸の前で重ねて続けた。
「それじゃあ、行くところとかはおにいちゃんに任せるね。その他の、えーと……。んん……。いや、やっぱり全部任せることにするね」
「うん、いいよ」
「……けど、楽しみだなぁ、本当に。遊園地なんて初めてだもんね」
「そうだね」
 その後、さっきまでの様子はうって変わってうきうきと、その言葉どおりに浮いている美夏を見ていて、僕は美夏が泣いていたという事実は忘れた。というより、忘れていたかった。今の美夏こそが、僕の一番、望む美夏の姿だからだ。
 僕は椅子を立ち上がって、ハンバーグスープの皿を手に取った。
「あ、おにいちゃんわたしやるよ」
 僕を見て、美夏が立ち上がって手を差し伸べてくるが、僕は首を振った。
「いや、いいよ。それくらいできるし、やりたいんだ」
「……そ、そう?」
「うん」
 僕の言葉に美夏は少しの間、考え込んでなぜか俯いた。
「…………」
 そして僕に目を背けて椅子に座った。
「……三分くらい暖めるのがちょうどいいと、思う……な」
 と、俯いたまま美夏は言った。
「あ、うん。分かった」
 美夏のその何やら感じさせる仕草が気になったが、僕は彼女の言うとおりにした。
 ハンバーグスープの皿を持って、キッチンに行く。
(……そういえば、食事って、美夏に任せっきりなんだよな……)
 そう感じ始めたのは、最近のことだ。家事のほとんどを、美夏に任せている。こうして、食事を温めることさえ、僕はやったことがなかったのだ。
 だからなのかもしれない。今、こうして美夏を遮ったのは。
 僕はレンジの中に皿を入れて、美夏の方を振り返った。
 テーブルに肘をついてこちらを見ている。いや、見ているわけではないのだろう。ただ、こちらを向いている。
 僕はタイマーセットして、テーブルの椅子に戻った。そして、今、美夏の家事のやり具合について考えていたこととは別のことを口にする。
「今日、講習の前に病院寄っていくけど、美夏も行くかい?」
 すると、美夏は簡単に頷いた。
「うん。わたしも行く」
「そっか。じゃあ、二時半頃行こう」
「そうだね」
 玲の入院している病院へは、家から近くて、大体歩いて二十分ほどだ。家と予備校のちょうど間にある。
 一週間前に玲が事故に遭ってから、今日の病院訪問は四回目となる。そのうち、一回、美夏も付き添っていた。
 美夏が玲と顔見知りになったのはその時だった。玲も、日増しに顔色がよくなってきているように僕には思える。最初、事故があった時はどうなるかと思っていたが、今はすごくほっとしている。
 ちん……
 レンジから甲高い音が鳴った。
「あ、できたみたいだね」
 美夏がわざわざ解説してくれて、僕は立ち上がってキッチンまで歩いた。レンジの中から熱くなった皿を取り出して、テーブルの上に乗せる。
 遅くなった朝食というか、早い昼食というか……。

「こんにちわー」
「あ、また来てくれたんだね」
 病室に入るなり美夏が元気よく言うと、玲も同じように返してきた。
 美夏と僕は、事故でまだ動けない玲のいる病院にやってきた。顔だけは元気の玲。彼女がにこやかでいることが僕にはうれしいことだった。
 玲が交通事故にあったあの日。僕は不安で不安で仕方がなかったのだ。
 その玲が、今はこうして元気よく声を出せるようになったことが、僕は表に出さないが感、極まっていた。
「綺麗な部屋だよねぇ……」
 今回が初めてでもないのにそう言って、病室をひとまわり見渡した美夏は、ベッドにいる玲のすぐそばに寄った。置かれている椅子に座る。
「あ、そうそう。今日、飴、買ってきたんだ」
「ありがとう」
 美夏は椅子に座ったまま、ジーンズのポケットの中からここに来る途中のスーパーで買った、まだ封の切られていない飴を取り出した。
 値段がいくらかは忘れたが、小さな飴が十粒程入ったパックのものである。
「アップルティー飴。わたし大好きな飴なんだけど、玲さんも好き?」
 美夏はそう言って、腕を伸ばす玲の手のひらの上にその飴をそっと置いた。
「ううん、聞いたことのない飴だから分からない……」
 玲が興味を持ちながら飴を眺める。
 美夏は再びジーンズの中からもうひとつの飴を取り出した。
「わたしの分も買ってあるんだ~」
「そう……」
 僕は美夏と玲を遠目で見ながら、出入り口で佇んでいた。
 すると、玲がこちらを向いて、笑った。
「どうしたの、京ちゃん? 中に入ってきて」
 飴の封を開けながら、玲はにこにこ理由分からず笑っている。美夏も同じようにこちらを向いて笑った。
「おにいちゃん、来て来て」
 笑顔で言う美夏をじっと見つめて、僕は時計に視線を向けた。
「いや……」
 そして手を軽く上げて振って、一歩、後退した。
「すまない。講習の時間だから、僕はもう行く」
「あぁ、そうだったね。講習……か。あたしも行こうかな」
「え?」
 玲が、本当にそうしそうな感じで言うので、美夏が手を振った。
「駄目だよ、玲さん。まだからだ、動かないんでしょ?」
「うん、まあそうなんだけど」
 玲がしぶしぶ頷いた。
 僕は最後に、美夏に言った。
「美夏、じゃあ、後はよろしく」
「あ、うん。でも、講習、終わったらすぐに帰ってきてね。約束だからね」
「うん、それは分かってるよ、美夏」
 美夏の言葉に、つい先日のことが頭の中に蘇ってきた。
 約束。そう、約束だ。
 美夏との約束は守らなければならない。
 なにやら不安げな表情を崩さない美夏を脳裏に焼き付ける。
「じゃあ」
「うん」
 ふたりを後にして、僕は病室を出た。そして病院を後にする。
 歩いて、僕はふと物思いにふけった。
「……最後、だな」
 そう。今日は、高校三年の最後の夏期講習となる記念すべき日である。一見、大した日でもないように思えるが、僕にとっては重大な日だ。と思われる。
 今はなんとも思わなくても、何年か経てば、そう感じることになるような気がするのだ。 予備校への道をなんなく歩く。
 すると前方に、何やら人影が見えた。
「…………?」
 そのまま歩き続けて、人影に近づくにつれて、それが誰だか次第に分かるようになった。「……茂也?」
 道の隅に佇んで、茂也がこちらを見ていた。
「京、また会ったな」
 茂也がそう言って、寄り掛かっていた壁から離れるようにして近寄ってきた。
「よく言う。待ち伏せしていたのではないのか?」
「まあな」
 今朝のことを思い出しながら、僕は彼を無視するように予備校への道を歩んだ。
「おい、ちょっと待ってくれよ」
 そんな僕を見て、茂也が小走りで僕の横に並んだ。
 僕は小さく聞いた。
「まだ何か用があるのか」
「ああ、言い足りなかったんだよ」
 彼の方は向かずに、そしておそらく彼も前を向いたまま、僕たちは歩いて言葉を交わした。
「何が言い足りなかったんだ。予備校があるから、時間はとれない」
 僕は、彼に対して苛立ちを感じていた。苛立ちだけならば、よかった。
 だが同時に、彼の言った言葉に戸惑いも感じていた。
 茂也は、僕のしかめた顔に気づいてか気づかずか、少し遠回しな印象を残しながら、言った。
「ひとつだけ。お前が元に戻ることを信じて、ひとつだけ聞け」
「ああ」
 そして、茂也は言葉を濁しながら、続けた。
「あれだけ花屋になるのが夢だって言ってたのに、どーしちまったんだよ。なぜ大学なんかにしちまったんだ?」
「…………」
「なあ」
 言い終えてからせかす茂也に、僕は何もこたえなかった。
 そして、こたえを待つ茂也に、僕は立ち止まった。
 茂也も僕に合わせるように立ち止まる。
「……どうしてなんだ?」
 せかす茂也。
 僕は、嘆息して彼の目を凝視して言った。
「そんなことは……」
「……?」
「そんなことはお前に言う必要はない」
「なに……?」
 茂也は眉間に眉を寄せた。
 そして何か言おうとする茂也を、僕は先に閉ざした。
 そして続ける。
「それだけか?」
「え?」
「用件はそれだけか?」
 僕は意外な表情をしている彼の方を見て、きっぱり続けた。
「言いたいことはそれだけなのかと聞いている。もう話は終わりなのか?」
「…………」
 茂也は口を閉ざした。
 僕はそんな茂也を無視して再び足を進めた。
「……馬鹿京」
 最後の茂也の言葉を、僕は無視した。
 茂也は、もうついて来なかった。

 僕は、何をしているのだろう。最近、ふと思い始めていた……。
 何を迷っているのか、何を考えているのか、何をしようとしているのか。
「…………」
 進路のことならば、もう自分の中で決定していたのではないのだろうか。なのに、なにを迷っているのだ。茂也に言われたからなのだろうか。美夏のことを考えてなのだろうか。 何か、おかしくなっていた。




          第四章 何より想いが変わる時……

「もうちょっと待って……」
「急がなくてもいいよ」
 夏休みも残り一週間。玲は病院で二カ月間の療養生活を送ることになり、玲を撥ねた男は怖くなって自首してきたらしい。玲の夏休みの邪魔をしてしまい、僕は事故から一週間、ちょうど昨日まで毎日玲のところに通っていた。
 昔、聞いたことがあったような気もしたが、今の僕と同様に玲もまた、両親がいなくて一人だけだったらしい。今思うと、玲はいつも一人で寂しかったのかもしれない。そ
れがあって僕の家に来たがっていたんだろう。
 玲が退院して、まだ僕の家に来たいと言っていたら……、僕は今度は受け入れてやるつもりだ。
 そんなわけでひとまず事はおさまり、玲にも話してきた上で、今日は美夏と遊園地に行くことにした。
 美夏は昨日から、僕にそのうれしさ(?)らしきものを笑顔とはしゃぐことで伝えてきた。僕もそんな美夏を見て……だけではなく、自分も行くのが楽しみであった。
(ほんと、久しぶりだ。いや、むしろ初めてか。美夏と二人で出掛けるなんて……)
 午前九時十三分。部屋を出て、ドアを閉めた。もちろん鍵は閉めておく。
 駅まで歩く。
「ねぇおにいちゃん」
「んー?」
「時々思うんだけど、おにいちゃんって遊園地とかに行ったコトってある?」
「そうだなぁ……。小さい頃は父さんと母さんは連れて行ってくれなかったし、最近は勉強ばっかりだしね」
「じゃあ、初めてなんだ!」
「そんなとこかな。美夏もそうだったよね」
「うん、そーなんだ! ワクワクだね!」
「ああ!」

 ~次はー〈みどり〉ー。〈みどり〉でございます~
 ガタンガタンッ……シュー
 僕たちは静かに開いたドアから出て、みどり駅にたどり着いたことを確認した。
 ここからは二十分程歩くと、〈楽園スィーター〉に着く。
「明日、お洋服買いに行こうと思うんだけど、おにいちゃんも行こ?」
「……明日?」
「うん」
 最近いろいろあって、僕は勉強に身が入っておらず、そろそろ時間を取り戻し、その取り戻した時間の倍くらいの勉強をする! ってくらいのやる気でいかないと、……正直にまずい。
 僕は美夏の誘いを断ろうとも思ったが、今の僕は、不思議と美夏のそういった『頼み』などが、断る以前に気分が良かった。
「ああ、いいよ。明日も美夏に付き合うよ」
「わあー、ほんとー?」
「ああ!」
「いつも一人だったからうれしいなぁ! エヘヘ」

 〈スィーター〉のゲートで、今日一日オールのチケットを買い、僕たちはひと息ついた。
「さて、どうしよっか」
「うん……。う~ん。……あっ、あれがいい!」
 美夏は目の前に大きく広がる、いわゆる『ジェットコースター』とでも言うのか、を指さして大声で言った。
「よしっ」

 僕たちは二十分程待ちの行列の最後尾に並んだ。ちょうど僕たちのすぐ前に並んだカップルは、濃厚なキスを交わしていた。それはまるで周囲の人達に見せつけているかのようであった。
「うわあぁぁっ」
 それを見て美夏は僕の隣で一人、興奮して顔を赤面させていた。
「ふぅ」
 溜め息をつきながらも、僕はとりあえず黙っていた。

 午前十一時頃、ようやくあの長いコースターを乗り終え、ひとまず出口のベンチに僕は座った。僕はコースターに乗るのは初めてだったけど、そこまで興奮はしなかった。
 けど美夏はすごくて『キャーキャー』言いっぱなし。意外な一面だった気もする。
 園内は思ったより混雑していて、今までこういった所に来たことがなかったこともあって、むさ苦しい気がしてならなかった。けど不思議と空気はいい。いつもと違った気分を味わえた。
 そんなふうに思っていたところ、美夏がハンカチで手を拭きながらトイレから戻ってきた。
「おまたせー」
「よし、行こうか!」
「うん。けどさっきのジェットコースターで、……ちょっともらしちゃったっ」
「え……、うそ?」
「………。もう、本気にしないでよぉ。 嘘に決まってるでしょ」
 立ち上がって僕は美夏の頭を撫でた。
「本当かと思ったよ」
「うん。実は本当なんだもん」
「……え?」
「さぁて、どっちでしょう」
「………」
 美夏は笑ってそう言うと、すぐ近くにあるアイス屋に走っていった。
(時々変なこと言うんだよな)
 そう思いながら、僕は美夏の後を追った。

「はい、二人分で六百円ねー」
「はい」
 五百円硬貨と百円硬貨を一枚ずつ渡し、僕はオレンジ、美夏はアップルの棒付きアイスを買った。
 店内にいるのは、この時間帯はあまり客が来ないようで、オヤジさんと僕たちだけであった。アイスクリーム屋という清楚なイメージをぶち壊すようなごつい顔の店番のオヤジさんは気前が良く、もう一つおまけにグレープフルーツのアイスをくれた。
「お二人さん、お似合いですからおまけですわ。楽しんでってなー」
「どうも」
(……お似合い?)
 僕はお礼を言って、オヤジさんから手渡された三つのアイスのうち、ひとつ(アップルアイス)を美夏に渡した。
 ふと『お似合い』という言葉に疑問を感じたが、……まあそれでも良かった。
「ねぇ、おにいちゃん。今度はあれ行こう!」
「そうだな、行くか。……けど怖くない?」
「ううん、行ってみたい」
 いわゆる『おばけ屋敷』。僕はこういうのは苦手なので後ずさったが、美夏はむしろ喜んでいるようだ。出入り口からいきなり真っ暗で、前があまり良く見えない。人も…
…怪しいほどに出入りが少なかった。
「なんか……怖くない? 戻ろうよ、美夏」
 僕はどうしても入る気にはなれず、美夏の手を強く握った。
「なんで? せっかく来たんだから行ってみよ、ね?」
「あ……うん」
 美夏の押しに負けて、仕方なくその気味の悪い建物の中に入った。
 中は……、よくドラマとかでやっているような状況で、ありきたりのおばけ屋敷だった。
 ギャアアー 
「きゃあぁーー!」
 突然、真っ暗な回廊にわけの分からない異形の怪物が通り過ぎた。
「まったくねぇ」
 美夏は何か出ると毎回叫んで僕にしがみついてきた。
 おばけ屋敷に入る前と今の美夏の威勢のよさの違いに、僕は呆れもしたがうれしくもあった。というのは、実際に入ってみて、自分があまり(自分でも内心驚いている)怖いと感じずに、美夏よりも冷静でいれたからだ。あにの僕が妹の美夏よりも怖がっていたら、……なんだかとても情けなく感じるから。
 というわけで僕たちはそんな状態のまま、大体三十分くらい歩いて出口へと出た。隣で騒ぎ立てる美夏に、僕は退屈はしなかったが疲れを感じていた。
「美夏、少し休もう」
「うん、そうだね。そろそろお昼だし」
 おばけ屋敷を出ると、正面の百メートル程歩いたところに、大きめのレストランがある。その店を一瞥して僕は大きく伸びをした。
「あのレストランで食べようか」
「え? ……外食する、ってコト?」
 僕の提案に美夏は驚いたように口を丸くした。
「え? 嫌なのか?」
「そうじゃないけど、……お弁当作ってきたから」
「あ、なんだ。そうだったんだ。最初に言ってな、そういうことは。美夏の弁当の方がうまいんだからさ」
「うん! そこのベンチで食べよっ」
 おばけ屋敷の客入り自体は少なかったものの、そこを出たすぐの通りは人が多く、賑やかすぎるほどであった。
 途中、雲行きが怪しかったものの、それも今は晴れて絶好の天気。
 僕たちは三人座れるのがやっと、ってくらいの幅の木製のベンチに座って、美夏の作った弁当を食べた。なぜだか今日は愛妻弁当らしい。
「はい、おにいちゃん。あーんして」
「なんか……照れる……」
「いいから、ね?」
 てりやき味の肉だんごにスモールフォークを豪快に刺して、美夏は僕の口の中に入れた。それは肉だんごに限らずさっきから続いていることであって、別に嫌ではなかったんだが少し恥ずかしく感じられた。
 そんな食べ方を、美夏も僕にやってほしいと言うので、僕は美夏の口の中に肉だんごを入れてあげた。
「まあ、どう食べてもうまいな。美夏のは」
「ありがとー♪ うれしいな!」

 ひととおり平らげて弁当箱をしまい、しばらくベンチに座って晴天の空を見上げていた。 いろいろと今までの疲れが出てきて、僕は眠くなった。けどそれは美夏も同じようで、瞼が閉じかけてきている。
僕は、そのまま僕に寄りかかってくる美夏を横目で見て、軽く呟いた。
「このまま眠ろうか」
「う~ん。時間がもったいないよぉ……」
 美夏は拒否するが、耐えきれず目を閉じた。僕も眠くなってきて……。
 その後、美夏とごにょごにょと小声で話していたような気がする……
「ねぇおにいちゃん」
「?」
「わたしたちって、周りから見たらどんなふうに見えるかなぁ」
「さぁ、どうだろうね」
「恋人同士に見えるかな……」
「そうかもしれないね……」

 ヒューンッ……パパパパッ
「……? んん……」
 突然の激しく耳を打つ音に僕は目を覚まさせられた。すぐ目の前の通りには人がほとんど通っておらず、だが園内に残っている人はまだ大勢いる雰囲気は感じられた。
 昼食の後、ベンチで眠ってから数時間が経っているようで、すでに日が沈み終えていた。さっきの音は、おそらく今日の一大イベント『花火』だろう。そのせいで客のほとんどがそれを見に行って、ここら辺には人がいないんだと思う。けど、この小さなベンチからでもその豪快な花火は十分に観賞することができた。
 ヒューン……ドドドドドッ 
 むしろ誰もいない静かなこのベンチから、少し遠くで打ち上げている花火を見ている方が、わざわざ近くまで行って見るよりもずっと綺麗だと思う。
 隣で美夏は静かに眠っていた。疲れているのも分かるけど、せっかくの花火なので見せてあげようと思い、僕は肩をゆらして寄りかかっている美夏を起こした。
「美夏、美夏」
「………」
「美夏。みーか」
「う……うん?」
 その起こし方は、今思うと少し荒かったような気もするが、ともかく美夏は体を起こした。
「花火だよ」
「え? んん……?」
 ヒューー……パーンッ
 巨大な音とともに夜空に大きく広がっていく花火と同時に、美夏は僕に寄りかかっていた体を完全に起こして、小さな欠伸をした。僕はひと息ついて空を見上げた。
「きれいだよなぁ。こういう時の花火って特に」
「うん。感動的だよね」
 二週間程前に茂也達とやった花火は……、まぁあれはあれで楽しかったけど、今日のは最高ってくらいにいい。
「おにいちゃん」
「ん?」
「ごめんなさい。花火見てる力もないの。なんだか眠くて眠くて。……疲れてるのかな」
「ああ、そうか。ごめんな起こして」
「ううん、いいの。少しだけど花火見れたし。……寝ていい?」
「うん、いいよ。まだ閉園までは時間あるしね」
「………」
 美夏は再び僕の肩に寄り掛かって目を閉じた。
(相当疲れてるんだな……)
 そんなふうに思いながらも僕は一人、夜の巨大花火を小さなベンチで見上げていた。
「なぁ美夏。あ、……眠ったままただ聞いててくれればいいよ」
 僕は眠そうにしている美夏の方は向かず、上を見上げた状態のまま呟いた。
「今まで……、夏休みの間なんかは特にそうだけど、いろいろあったよなぁ」
 一人で小さく声にしながら回想していた。
 今までの僕の受験に対する姿勢。様々な出来事から形成された今までの人生と、これからの生き方について。
「それでにいちゃんさ、にいちゃんなりに考えたんだ。将来の自分や美夏のこととか……。けっこう悩んだりもした。……それでさ」
 僕はひと息ついた。
「それでにいちゃん、高校卒業したら、花屋さん目指そうと思うんだ」
「え?」
 美夏が僕の肩から離れるのに気付いた。驚愕に戦いて何か言おうとする美夏を待たずに、僕は続けた。
「この間……、二週間くらい前だったかな。美夏、にいちゃんに言ったよね。『お花屋さんのコト忘れちゃったの?』
って。あの時は……いや、正直なところ今まで忘れてたんだけど、さっき花火見てる時、思い出したんだ」
「……うん」
「それと……、最近なんだかさ、受験勉強に何か疑問感じててさ。別に勉強することを否定するわけじゃないんだけど……。けど、とにかくにいちゃんは決めたんだ。『花屋さん』って」
 僕は今年の夏の間にあった出来事を振り返りながら呟いていた。
「……でも! ……じゃあ受験は? 今までの勉強はどうなるの?」
 僕の決意を不安そうに否定する美夏の問いには……、確かに僕も悩んで答えられるものではなかった。
 僕はしばらくの間、沈黙をその場に漂わせていた。
 今思うと、高校一年の頃からか……、ずっと医者になるために、最低限いつも学年でトップクラスを狙わなければならない……いや、常にその座を維持しなければならないという父さんの言葉や周りからのプレッシャーに耐えながらも、僕は勉強ばかりしてきた。
 そんな過去を裏切るような僕の決意には、……矛盾したものがあるかもしれない。
 けど、もう、ただ勉強ばかりして、人としての生き方を無視していくのを、……僕は我慢したくないんだ。
 夜の自然の空気、和やかな雰囲気、……僕は想いに浸っていた。
「おにいちゃん、それ、本当?」
「本気だよ」
 隣でジッと見つめてくる美夏を横目で見て、僕は夜空を見上げた。
「……そういえばさ。あの花屋さん、どうしてるかな」
「うん。たぶん……、ううん、きっと続いてると思うな。もうしばらく行ってないけど」
「あれは……、美夏が家にやってきたちょうど一週間後のことだったよな」
「  おにいちゃん、覚えててくれたんだぁ」
 実際に美夏の顔を見たわけじゃないけど、甲高くなった声を聞いて、美夏がいつもの明るい笑顔になった気がした。
「あの頃は……、まだ美夏は父さんと母さんに慣れてなかったんだよな。だから気晴らしににいちゃんと一緒にあの花屋さんを手伝ったんだよね」
「うん、そうそう。花屋のおじいちゃんが『一日だけどうしても!』って言うから、その日はお花に水をあげたりしたんだよね。……あの頃のお父さんとお母さんは、……声
はかけてくれなかったけど、今よりは優しかった気が……する……なぁ……」
 この時、僕は回想に心を浮かせながらもはじめて美夏の涙に気付いた。
「……美夏」

 僕の家は、もともとは僕を入れて三人家族だった。美夏が養女としてやってきたのは、たしか僕が九歳で美夏は五歳の時。父さん母さんが、どういった理由で美夏を引き取
って来たのかは知らないが、あの頃から美夏に対する態度はあまりにも冷たかった。
 初めて家にやってきた時の美夏は、……すでにものごころがついていた時期ということもあってか、どこか哀しげなところがあった。
 父さん母さんはそんな美夏に対して冷たい。美夏は……、実の父母も……もういない。
 だからその時から僕は決めていた。『少なくとも僕だけは美夏に優しくするんだ』と。
 それからは、まだ幼く頼りない僕だったけど、美夏はなついてくれた。
僕もあの時……、つまり八年前のことを思い出していた。
「美夏、あの時はつらかったよな……」
「……うぅ……」
 僕は一際表情が崩れていく美夏の肩に手を置いた。その僕の手を見ると、美夏は応えるように泣きながらも寄り添い、顔を上げた。
「ぐすっ……。う、うん。け、けどね、……えっえっ……おにいちゃ……いたから、わたし……えっく」
「ああ。にいちゃん、美夏には明るくいてほしかったからな」
 僕の慰めるように言う言葉に、美夏はだんだんと笑顔を取り戻した。
「あの時、花屋のおじいさんと約束もしてたんだよなぁ。『将来は花屋になる』ってさ。たしかにいちゃんよりも美夏の方が気合い入ってたような気がするよ」
「……うん。今でもあの時の想いは変わらないの。おにいちゃんとお花屋さんやる、っていう夢は。だから……」
 そう言うと美夏は少しのあいだ、間をあけた。
「だからおにいちゃんがさっき言ってくれた言葉、『お花屋さんやる』って言ってくれた時は、……すごくうれしかった」
「ああ。美夏の想いを無駄にしちゃいけないしね。それにそれだけじゃない。にいちゃん自身の意志でもあるんだ」
「うん!」
 今までの受験勉強を無駄にして、父さん母さんの期待をも裏切ることを承知の上で、……僕は決意していた。

 まだ午後八時といったところであろうか。日は沈んでおり、人もあまり通らない。風も、囁く程度に吹いている。夜というには申し分のない条件だ。
 だが夜空だけは例外であった。
 パパパパパッ
「おにいちゃん」
 さっきの涙は嘘のように、美夏は晴れた笑顔で僕を呼んだ。いや、呼んだというよりはむしろ呟いたといった感じであった。
「何だい?」
 僕は応えるように軽く口を開けた。
「わたしもおにいちゃんと一緒にお花屋さんやりたいな」
「ああ。にいちゃんもそう思ってたんだ」
「本当?」
「うん」
「わあぁ。これから頑張ろうね!」
「お互いにな!」

 パーーンッ……パパパパ
 特大花火が空を舞う。最初に打ち上げられた花火から、順にその大きさは増していた。
 閉園まで……さほど時間はないだろう。
 僕と美夏は誰もいないベンチで二人、花火と、……それを包みこむような広大な夜空を見上げていた。

                    エピローグ

「京ー! 一緒に帰ろうーぜ!」
「うん」
 真夏の暑い日差しも、そこまで気にかからなくなった。
 夏も終わりかけ、二学期のごく平凡な日々を僕は何も感じることなく過ごしていた。
 ……ただ一学期とは、いや、今までとは違った気分でいるのは自分でも意識している。
 放課後、茂也といつものように帰宅する。同時に僕は家までの道のりを短く感じていた。「しかし、やっぱり京は今の方がずっといいぞ。夏休みまでの京と比べても、ずっと解放的な顔してるしな」
「へへ、そうかな」
 前から茂也は僕の勉強ばかりしている姿勢を嫌っているのは分かっていたけど、最近急に機嫌が良くなったように明るい。
 僕自信もなんとなく自分がすっきりしたような気がするくらいだ。
「茂也もしっかりな」
「? ……俺はお前に言われなくてもしっかりやってるよ」
 茂也の就職の話もうまくいっているらしい。そのせいもあってか、彼はかなり調子付いていた。
「また明日な」
「じゃあね」
 茂也と別れた。
 ちなみに彼は、夏休みの花火の時に知り合った佳子という女とは、もう会っていないらしい。その代わりといってはなんだが、交通事故で入院中の玲とはうまくいっていると、茂也は自分で言っていた。玲も、茂也の話からすると元気らしい。最近は僕はあまり玲のところに行っていないので、少し安心していた。
 なんにしろ、長く、そしていろいろと忙しかった夏も終わった。

「ただいまー」
「お帰りなさーい」
 いつものように学校から帰る僕を美夏が出迎えて、いつものように冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、いつものようにいろいろな話をしてくる美夏に耳を傾けて、いつものように……
 ……そんな日々が、今では自然とそれだけのことなのに心を満たしてくれる。
 ついこのあいだまでは勉強勉強……と、ただそのことばかり考えていた僕に、何気ない日常をこんなにも素直な気持ちで受け入れるような余裕はなかった。
 けれど今の僕の心は、それが嘘のようにスッキリしていた。

 僕はこの夏の間に自分を変えた。……どうしてか、そんな想いが頭の中をよぎった。つい半年前までは、受験……と叫んでいたのに、自分で決意しておいて不思議な気分だ
った。
「花屋……か」
 部屋の壁、窓側に寄り添い、僕はその窓から外の景色を一瞥して呟いた。
 その声に気付いてか、美夏がキッチンで皿を洗いながらこちらを向いた。
「え、何?」
「あ、いや。なんでもないよ。ただ花屋をやるのも……、やっぱりつらいのかなーって思ってね」
 僕の言葉に美夏は一旦皿洗いをやめて、手をそばにあった布巾で拭いた。
「おにいちゃん。やっぱり何をやるにも大変なのは変わらないと思うの。だから頑張ろ、ね?」
「……そう、……そうだよな!」
 僕は熱意の感じられる美夏の言葉を目の前にして、ふっきれた。
(何か迷いがあったんだ……、僕には。医大と、花屋……)
 けど、もう大丈夫だ! そう強く自分に言い聞かせて、僕は美夏に軽く笑ってみせた。

「じゃあ、おにいちゃん。今日はおにいちゃんの将来決断特別ディナーをごちそうするね!」
「おぉ~。期待してるよ、美夏!」
「うん!」

                           FIN.

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