2017年2月19日日曜日

兄妹の苦難 第二話





             第一話 平凡な幸せを感じて


                                       1


 暖かい陽光を受けて、窓ガラスに反射した感覚と、そして部屋の中に入ってくる暖かい

和やかな気分を味わう感覚を覚えて、少女は部屋の中へと入った。

 部屋に入るなりドアの鍵を掛けて、それから、今まで外に行っていた理由と、そしてそ

の結果とも言えるものを手元から床へとゆっくりと下ろす。

 コロコロ

 下ろした袋から、数個のオレンジ色の球体の食べ物が、絨毯を渡って幾らか進んで、止

まった。

 それはとりあえず気にせず、少女は次に玄関そばにある洗面所へと向かった。

 石鹸は使わずに軽く水洗いをして、外でついた雑菌などを落とすようにパッパッと手を

振り、膝丈五センチほどの赤と黒の網目模様のスカートの腰の辺りで拭いて、洗面所のす

ぐ隣にあるトイレに入った。

 三分ほどしてから水を流してトイレから出ると、再び洗面所で、今度はしっかりと石鹸

を使って手を洗う。それが終わってから壁に掛けてあるタオルで手を拭いて、目の前にあ

る鏡越しに自分の顔を覗いてみた。

「…………」

 無言で、一分ほど眺めていただろうか。理由もなく、そしてべつにそうしようと思った

わけでもなく、無意識のうちに鏡を眺めていた。

 それから溜め息をついて、さっき持っていた袋の落ちている隣の部屋へと歩いて、コロ

コロ転がって、少しだけ離れた場所に落ちている幾つかのオレンジ色の球体  みかんを

手に取って、袋の中へと戻した。

 それから袋をもう一度手に持って、再び洗面所の方  の途中にある冷蔵庫へと向かう。
 冷蔵庫の扉を開くと、ぽかんと口を開いたような印象を受ける。実際にほとんど何も入

っていない状態を確認して、それから袋の中へと目をやってから、少女は袋の中に入って

いる様々な食糧を取り出して、それぞれどこに入れるか既に考えていたのか、迷うことな

く次々と冷蔵庫の中を埋めていった。

 それが終わると、少女は玄関そばにある  だがトイレと洗面所とは少しだけ離れてい

る  洗濯機へと向かった。

 時間的に洗濯は終わっているだろう  いつもの生活を考えてそう判断する  洗濯物

を中から取り出して、洗濯物用の青い籠の中に詰める。

 口の開いた洗濯機はそのままにして、少女は籠の中に入った洗濯物を見てから、籠ごと

ベランダへと持っていった。

 ばさばさと、ひとつずつ、しっかりと皺の残らないように注意しながら、シャツを衣紋

掛けに掛けて干していく。上着、シャツ類と、下着、タオル類で掛ける場所を分ける。

 全部終えてから、空になった籠を持ち、部屋の中へと戻った少女はそこでようやく一息

ついて、籠を洗濯機のそばに置いた。

「ふぅ……」

 ベランダに隣接している部屋に戻って、壁に沿って置いてあるふたつのソファーのうち、
赤い  だがやや薄く桃色掛かっている方のソファーの前に立って、大きく伸びをした。

「う~ん」

 あやふやでふにゃらとした声を出すと、少女はソファーにおもむろに飛び掛かった。

 ぼすぅ、という鈍い音がして赤いソファーがへこみ、ゆっくりと元の形へと戻ろうとす

るが、少女の重みでそれは途中で断念された。

 暖かく、そして柔らかみのある感触はいまだ衰えず、そのソファーはいつでも少女に温

もりを与えてくれる。そんなソファーが少女は大好きで、そして部屋にいる時は大抵この
・・
場所に身を寄せていた。

 そして少女は、そんなソファーをお揃いで自分のために買ってくれた人物が帰ってくる

までに、いろいろと仕事をやらなければならないのである。

 そのため、ずっとこうして暖かいソファーの温もりを味わっているわけにもいかず、少

女はなんとか眠くなるのを堪えて、自分に活を入れるがごとく勢いよく立ち上がり、両頬

をパンッと叩いて、キッチンへと向かった。

「急がないとね」

 少女は独白して、それから台所にある白いエプロンと、そのエプロンの白さを遥かに凌

駕する白さを保った三角巾を手に取ると、手早く身につけた。

 そして、精神統一でもするのか、目を閉じてから一呼吸おいた。

 しばらく経ってから目を開けると、キッチンの戸棚に飾ってある  というより単に置

いてあるといった感じで場所を締めている、幼いふたりの男女の写っている写真を眺めた。
「よし、やるぞっ」

 軽い微笑を浮かべて、少女はキッチンの足元辺りに位置する扉を開けて、大鍋をひとつ

取り出した。

 身長百五十センチと満たない、そしてウエストのあまり太くない、そんな小柄な少女か

らは、一見して幼さが感じられる。

 だが、透き通った瞳の奥から感じられる意志の強さは、並大抵のものではない。何かひ

とつのことに対する、誰か、人への想いなのか、それは他人では知り得ることのできない

だろう少女の眼差しには、強さとともに様々な想いが窺える。

 キッチンでの姿は、それこそ少女の日常そのままを描いたもので、見事に様になってい

た。もう少し伸ばせば後ろで一束に結べそうな髪を三角巾の中にしまい込んでいる様子が、
母親を思い浮かばせるような、そんな暖かい温もりを感じさせる。

 誰かのために、そしてその誰かを想うためにキッチンに立つ。自分のためだけではない、
他の第三者のために、そしてその人に平穏な心を与えるために、少女はいつも苦を感じる

ことなくキッチンに立った。

 和やかな雰囲気を周囲に漂わし、そして純粋な心を持つ。誰構わずその笑顔を見た時に

は、幼少の頃のように汚れた考えのない時期にかえってしまうような、そんな明るく微笑

ましい少女。

 この日、寒さを感じてはいても、そしてそのせいで暖かい布団で眠りたくはなってはい

ても、少女は自分の想う者のためにこうしてキッチンに立った。

                    み か

 そんな少女の名は、美夏といった。



 夕刻、寒さに耐え兼ねぬ様子で青年は顔をしかめて家路を歩いた。

 急ぎたいのも山々ではあるが、こうも雪が降り積もっているとなると、そうもいかない。
 街路樹に積もっている雪が、時折その脇を歩いている青年に降りかかってくるが、あま

り気にはしなかった。傘をさしているし、それに慣れもあったためか、どうでもいい気分

だった。

 暗闇  というと大袈裟な表現ではあるが、街灯のすくないこの通りでは、周囲を見分

けるのにも幾らか苦労が必要だった。

 それでもなんとか目を凝らして、歩いてはいるもののなるべく早く家に着くよう心掛け

る。

 手にした数枚の書類  その多くはどうやら何かのパンフレットのようだ  を、降り

かかる雪に濡れないように両手で抱えて、青年は進む。

「はぁ、はぁ」

 息を吐く度に口元に浮き上がる白い靄を自分でもはっきりと目にしながら、その証拠と

もなる体感する温度に体をブルブルと震わせて、青年は腕時計に目をやった。

「早く帰らないと」

 息切れをしながらも  しかもその多くは走ったための体力的なものではなく、寒さに

よるものだから尚更都合が悪い  青年は、ようやく自分の住まう住宅街へとやってきた。
 ここまでやってくれば街灯も多数目に入るし、気分的にも楽になる。

 青年はほっとした気分で自分を待つ者のいるアパートへと向かった。

 特に特徴のない、そして極平凡な青年。身長百七十五センチは越す、ある程度平均は越

すだろうが長身というには背の低い青年。見に纏った大きめの黒のロングコートが、青年

にはあまり似合ってはいなかった。だがそれが、寒さによる苦痛を幾らか和らげてくれる。
 真ん中で分けた、長くはない黒髪がそこそこの好青年を思わせ、そして実際にその外見

と内面はそれほどのギャップはないようだ。

 たどり着いた、いつも寝床を提供してくれるアパートの階段を急ぎ目に駆け足で昇る。

 そんな青年には、年齢に似合わずサラリーマン風の親父の雰囲気が醸し出されていた。

 だがそんなことは気にせず、青年は急いで階段を一階分駆け登る。二階へと昇り終えた

時には、笑顔が浮かんでいた。

 素直な笑顔だ。思っていることが、心の中に潜んでいる感情がそのまま出るタイプの青

年なのかもしれない。青年の笑顔には、嬉しさなのか、喜びなのか、そんなものが心から

現れているようにも思える。

 二階に上がってから向かって右側の突き当たりにある一室。

 青年はその方向を向くと、意識してではなく自然に足取りが軽くなっているのに、気づ

いていなかった。
                    きょう

 そんな青年の名は、京といった。



「おかえりなさいっ」

 という声で、明るく、そして爽やかな笑顔が魅力的な少女  美夏は出迎えた。

「ただいま」

 ロングコートの似合わない、そしてそのせいか他人からはどこか親父みたいな印象を受

けそうな青年  京は、あまり活気のない、そしてどこか詫びも含んだような声で美夏に

こたえた。

 そして実際に詫びる。

「美夏、ごめん。二時間も遅れて……」

「ううんっ。全然いいよ」

 京のその言葉に、美夏は本当に気にしていないような口調でそう言うと、京の背に回っ

てコートを脱がせた。

 それからそのコートを固めのハンガーに掛けて、タンスへと向かう。
                      ・・
「なあ、美夏。今日さ、当てができたんだっ」

 背中越しに京の声を聞いて、美夏は笑顔になって振り向いた。

「え、ほんと?」

「ああ、やったよ」

「わああ。二重の喜びだね!」

 美夏の言葉に京は笑顔で頷いて、洗面所へと向かう。そこで手と顔を洗うと、京は、今、
美夏のいる隣の部屋まで行き、そこにある、赤い桃色掛かったソファーのそばに寄り添う

ように並んでいる青いソファーにゆったりと座った。

「ほんと、なんか今さ、最高だよ」

 京は無意識に天井を、真上ではなく見上げて、そう呟いた。

 一日の疲れを癒すようにソファーで何度か深呼吸して、タンスからキッチンへと向かっ

た美夏を見て、京は目を瞑った。

 そんな京を軽く見返して、美夏は自然な微笑を浮かべると、キッチンの、ところどころ

空いているスペースにおいてある料理を持てるだけ持って、京のいる部屋のテーブルへと

運んだ。

 足音と料理の乗った皿をテーブルに置く音が鳴ったがそれでも、いまだ目を瞑ったまま

の京が疲れを感じているが分かると、美夏は深々と感謝の意を込めて、心の中で「ありが

とう」と言うと、再びキッチンへと向かった。

 キッチンの上に置いてある料理を全部運び終え、美夏はテーブルの前に立った。

 カチッカチッカチッ

 天井にある、この地域のアパートでは珍しい蛍光灯に近い型の電灯から垂れている紐を、
甲高い音ととも三回引っ張った。

 薄暗くなった  どころか真っ暗になった部屋の中でうっすらと見える京の影を確認

する。どうやら暗くなった部屋に何かと思い、小さな声とともに動き出すのが分かった。

「美夏?」

 その呼びかけには応えず、美夏は息を吸った。

「おにいちゃん」

「  ん?」

 と、京が疑問の声を発した時には、目の前に映る光景は、前のそれとは違っていた。

「うわぁっ。美夏、これ  」

「うん」

 テーブルの上に飾られた様々な料理が、暗い部屋の中で一際際だって京の心を刺激する。
サラダ、足つき鳥肉、牛肉のステーキ、そして京の好物であるハンバーグ系統の料理が二

種。さらに京の目をひいたのは、中央にあるチョコレートケーキだった。

 そのチョコレートケーキの上にある、白い鳥の人形  とはいっても食べられるもので

あろう  と、その周りに飾ってあるホワイトチョコレートで描かれた幾つもの文字。そ

の文字と関連するようにケーキの隅には円を描くようにローソクが十八本並べられていた。
 そのローソクだけが今の暗い部屋の明かりとなり、ふたりの兄妹の笑顔を浮かび出す。

 京の感嘆の声と嬉しそうな表情に喜びを隠しきれず、美夏はテーブルを挟んで京と対角

に置いてある椅子に座った。

 そして、ケーキの中央に描かれた文字をそのまま読むように静かな声で、そして心を込

めて口を開いた。

「おにいちゃん、お誕生日、おめでとうっ」

「ありがとう、美夏」

 京は本当に嬉しそうな声でそう言うと、それからしばらく間をあけてから、立ち上がっ

た。

 ソファーからテーブルのそばにある椅子に自分も座り、それから幾度か言葉を考えて、

京は目の前にあるチョコレートケーキを見つめた。

 そして正面にいる妹の顔を見て、

「兄ちゃんがこうして気持ちよく誕生日を迎えられるのも、美夏のおかげです。ありがと

う」

 言った。

「いえいえ、どういたしましてっ」

 なんだか、笑い  というか微笑みが自然と止んでくれない自分に笑いたくなってきて、
美夏は笑いを含んだ言葉を止めることができず  だがそのままの口調が今の自分にはよ

く似合っているような気がして、そのままにした。

 そんな美夏を見て、京は照れながら聞いてきた。

「吹いていい?」

「うん」

 そう言うと、京は勢いよく息を吸い込んでからやや背をのけ反らせて、そして息を吸い

込んだのと同じくらいの勢いで吹き出した。

「わっ」

 その勢いのある息を目の当たりにして、美夏は両手で顔を覆った。

「おにいちゃん、強すぎぃっ」

「ははっ、ごめん」

 再び真っ暗となった部屋の中で互いが互いに相手の顔も見えない中で、笑った。

 深呼吸して、京は今吐いた息を回復させてから立ち上がり、顔の前辺りの空間を手探り

で探して、一本の紐を掴んだ。

「電気、付けるね」

「うん」

 カチッ

 一回だけ引いて  すると暗かった部屋を再び光が宿す。

 急な光に目を少しだけ眩ませて、すたっと椅子に座ると、美夏は先程言った言葉をもう

一度繰り返すように言った。

「おにいちゃん、お誕生日、おめでとうっ!」

 次いでパチパチパチッと数回手を叩いて、兄の誕生日  成長を心から祝福する。

「ありがとな」

 その、本当にそう思ってくれている妹の言葉に、兄として、とても嬉しく、京はテーブ

ルに前かがみになって手を伸ばし、美夏の頭を撫でた。

 それでさらに喜ぶ美夏は、中央にあるケーキに手を伸ばして、脇に用意したケーキ用の

ナイフを手に取った。

「じゃ、ケーキ切りまーすっ」

「おうっ」

 美夏がナイフでケーキを切り始めるのと同時に、京は美夏が冷蔵庫から出してくれたの

だろう麦茶とコーラのボトルを持って、ひとつずつグラスに入れた。

 こんな時に合わなそうな麦茶でも、京にとってはそんなことは関係なく、いつでもどこ

でもどんな食事と出されても、麦茶は大好きでゴクゴク飲めた。

 そして、コーラがとてつもなく好きな美夏も京と同様に、場合によってとか、合わない

食事とか、そんなものは何もなく、そして他人がどう言おうと関係なく、気にしないで飲

んだ。

 適度な大きさに切り取ったケーキふたつを、それぞれ人皿ずつ乗せて、ひとつは自分の

ところに、もうひとつは京の前へと置き、美夏はコーラの入ったグラスを持った。

 それから、正面で自分と同じような表情をしている兄と見つめ合い、それからしばらく

沈黙を漂わせ、ともに微笑を浮かばせて、それと同時に美夏は口を開いた。

「乾杯、だね」

 それに応えるように、京は手に取った麦茶の入ったグラスを宙に浮かせて、テーブルの

真ん中の方へと近づける。

「乾杯、だな」

「うんっ」

 カンッという美しい響きとともにグラスとグラスが重なり、ふたりの兄妹は、静まり返

った冬の夜、和やかな雰囲気と、高級とは言えないものの愛情の籠もった料理の中で、何

もなく、そして平凡ではあるがささやかな幸せを、……深々と噛み締めた。

 九時を過ぎたといったところか、この時期ではその時間帯が相当に遅く、そして何か寂

しいものを感じさせるような、そんな感じがしてならないのは、毎年のことである。

 だが、代わりに今日という日が無事に訪れてくれたことは、たいしたことではなく、そ

れが平凡な人間にとっては当たり前のことなのかもしれないが、美夏にとっては嬉しく思

えた。

 京の好物は多々あるのだが、その中でも特に好まれているのは、ハンバーグ関連の料理

である。さらにその中でもハンバーグスープは相当に好きで、出す度に京は飽きずに毎回

喜んで食べてくれる。

 市販されているハンバーグのレシピに自分なりにアレンジを加え、そのハンバーグを特

性のスープと混ぜ合わせる。ハンバーグに染み込んだそのスープが絶妙なのだ。で、もっ

と言うならハンバーグを一口程の大きさに切り、さらにスープとともに煮込むのが、美夏

の特性ハンバーグスープの完全板で、その味は京の舌を自分の独特な世界へと猛烈に引き

込むものとなる。

 むろんそれは、京に喜んでもらうために料理しているのだが、自分でもその味は結構気

に入っており、作るときには自分でも楽しみにするくらいのものでもあった。

 そんなハンバーグスープは今日は多めに作ってあり  実は昼間から何も食べないで料

理に専念していたため、美夏は極度におなかがすいていたのだ  、京も興奮に近いもの

を外に現していた  というと少し大袈裟ではあるが。

 が、そのハンバーグスープも早くもなくなり  そしてそれだけではなく大半の料理も

自分と兄で平らげてしまった。

 料理が一段落したそんな時に、それに夢中だった京もいつも言ってくれる自分の料理の

感想を、さすがに御馳走ということで多々話してくれて、そして笑顔で口を開いた。

「なぁ、美夏」

「なに?」

 食べ終わった皿と、京が帰ってくるギリギリまでずっと料理していたため洗っていなか

った鍋やフライパン、ボールなどを洗い始めた美夏はキッチンから、手は洗剤と水を行っ

たり来たりしながら聞き返した。

「実はさ、さっきも言ったんだけどさ  」

 ガシャンッ

「きゃっ」

 強烈な音とともに美夏の小さな悲鳴がした。

 京は何かと思い、急いでキッチンにいる美夏の方を振り向いた。

「あぁー……。割っちゃった……」

 苦痛そうな、そして苦笑じみた表情で舌先を少しだけ出して呟く美夏が見える。

 京は立ち上がってキッチンへと歩いた。

「お皿、割っちゃったのか? 虫か?」

「ううん。ちょっと手が滑っちゃって……」

 床には、量からいって数枚と思しき皿の破片が散らばっている。その破片を手で拾おう

としている美夏に京は危なっかしく思い、阻止しようとして手を伸ばし、

「美夏、触ったら危ないよ。掃除機持って  」

「いたっ!」

 そう注意したが遅く、美夏は右手の小指辺りに小さな赤い線をひいた。同時に突然切れ

た指に驚いたのか、美夏は尻餅をついてしまった。

「美夏、大丈夫か 」

「ごめんなさい……」

 なぜか謝ってしまいながらじくじくと痛む小指を押さえる。そんな美夏を見て、京はタ

ンスへと向かった。

 それからタンスの上に置いてある様々な箱やら置物(らしきもの)を手探りでかき分け

て探す。

「ちょっと待っててな。……えーと、救急箱は、と……」

「ごめんね、おにいちゃん」

「なになに、謝ることじゃないだろ。……あったっ」

 薄い水色をした、片手で持てるくらいの大きさと重さの箱を手に取って、京が戻る。

「水洗い、した方がいいかな」

「そうだな」

 それから立ち上がる。

「……あれ、なんか辛いな」

 傷としては、見たところたいしたことはないのだが、なぜか妙に痛むような気がして、

加えて精神的に恐怖のようなものを感じ、美夏は腰を起こすのも辛くなってしまっていた。
「美夏、大丈夫か?」

「うん……」

 そうは答えたもののやはり辛く、美夏は顔をしかめた。

(あれ、なんかからだが……)

 昼間からの料理による疲労か、美夏は立ち上がれなかった。

 そんな美夏を見ていられなく、

「よしっ、美夏」

 京は美夏の両脇を抱えて、うまく立ち上がらせた。

 そのまま体重は京に任せて、美夏はキッチンの蛇口から少量水を出して傷口を流した。

「つぅ……」

「がまんがまん、だ」

 痛みを我慢し、ひととおり流し終えると、抱き抱えてくれている京から身を離して、床

に膝を着く。

 それから自分のからだに疑問を感じる。

(……どうしたのかな。なんだか、やけに辛い……)

 その疑問を考える余裕もなく、思考力が低下してきていることに気づいた。

「美夏、ソファーに座って」

 やはりそこまで行くのにも辛く、結局再び京の肩を借りて、赤いソファーへと移動させ

てもらう。

 そしてそこにゆっくりと座ると、瞼を閉じた。

 そんな美夏を見ながら、京はキッチンの床に置いてある救急箱を取ってきて、美夏の右

手を持った。

「ガーゼ、付けておくから。血、まだ出てるし。その上は、包帯かな」

「おにいちゃん、眠くなっちゃった」

 右手に、傷口から流れる血によるじんわりとした生暖かい感覚と、その上から覆い被さ

るようにして触れてくるふわふわしたガーゼの感触、そしてそこのそば、兄の指が触れる

暖かい感覚を感じて、美夏は眠くなってくる優しい気持ちに身を任せた。

 瞼の完全に閉まった、そしてそれを意味するように一定の間隔で揺れ動く妹のからだを

見て、京はふいに微笑を浮かべた。

 ……なんだか、見ていると、心が和んで、そして微笑ましくなってしまった。

「……そっか。けど、指の方は大丈夫だからな」

 そう言っても聞こえたかどうかは分からなかったが、京はしばらく、眠りについた妹を

見てから、押し入れに入っている掛け布団を一枚と、厚手の毛布を一枚取り出して、ソフ

ァーに眠った美夏の上にかけた。

 それから自分も、ふいに、今日はソファーで眠りたくなってきて、布団を取り出して美

夏の隣にあるソファーの上に置いた。

 今日伝えようと思っていた朗報のことをしばらく考え、それから窓の外を眺める。

「……まぁ、明日でいいか」

 独白して、京は戸締まりをした。

 その確認を全て終えてから、キッチンのある部屋の電気を消して、それからソファーの

ある部屋の電気も消す。

「……ふぅ」

 一息して、京は暗くなった部屋では色も分からないが青いソファーの上に座り、隣のソ

ファーで眠る美夏を眺めてから、心の中で思った。

(料理、ありがとな)

 その思いを大切にして、京は布団の中に潜った。


                                       2


 狭い部屋の一室で、四人はいつものように、それぞれがそれぞれに味わっていた。

「なるほど、な。それならいいかもしれん」

「だろ?」

 その四人の中でも一番大きな男は、正装をした、その大男に比べると子供にも思えるま

だ若い男が自分の話した内容に好感触を得た感じを受けると、にやっと笑った。

 異様に盛り上がった筋肉を全身にまとわりつかせている大男、その脇には二人、一般市

民が見るところあまりいい印象を受けない男がふたり、それぞれが乱れた服装でくつろい

でいる。

 そんな二人には目もくれず、若い男は手に持った、細く短い爪楊枝ほどの大きさの棒を

くるくると回した。

 それほど目につくゴミはないが、家具  とはいっても椅子やベッドなど単純に過ごす

ことのできる程度のものではあるが  が多くあるため狭く思える。

 特にベッドが二つもあるのが問題なのかもしれない。加えて、今、大男の座っている椅

子は、そのベッド二つを除いたせっかくのスペースをかなり塞いでしまっている。

 男四人がいるだけでも信じられないくらいに狭いこの空間、正直こんな話をしているほ

どの精神的な余裕はまったくなく、この四人の中でも誰もが耐えられないくらいであった。
「で  ?」

 という問いとともに、若い男が大男に向かって踵を返した。

 大男はその問いに一瞬戸惑いながらもなんとかそれを表面には現さないよう注意しなが

ら、冷静に聞き返す。

「で、ってなんだよ。それだけだ」

 その答えに数秒沈黙を漂わせ、若い男は手に持った棒を口元に近づけて、大きく吸った。
「っくぅ……」

 それから大きく息を吸って、そして俯いてから大男を見やり、それから再びにやっと笑

うや否や  

 バゴッ

「  うっ 」

 突然陰険な表情へと一変し、大男の顔面を大振りに殴りつけた。

「おい、なにすんだよ!」

 と言ったのは、ふたりの様子を傍観していた残りの片方の男だ。

 激痛に耐え切れず呻いている大男を尻目に、若い男は残りの二人に向かって、凶悪な顔

で言った  いや、脅迫した。

「お前達……、それだけで彼が喜ぶと思っているのか? 分かってるだろ  そいつの他

に、二人だ」

 その言い草に二人は顔を見合わせて、だがどうしようもないことと、選択する余地がな

いことに諦め、渋々首を下げた。

「……ちっ、分かったよ。その代わり、《Q》はみっつだぞ、俺らそれぞれに、な」

「いいだろう。だが、必ずだぞ。……じゃあ、もういい。そいつを連れてってくれ」

 倒れている、いまだ顔を押さえて苦痛の声を発している大男の肩を片方ずつ持ち、二人

の男は玄関を出ていった。

 ドアの閉まる音を聞き、若い男はひとり、ベッドの上に横になった。

「…………くくくっ」

 次第に、今の話の内容、そして今後のことを考えると、必然的に出てしまう笑いを堪え

ず、若い男はどんどんと声を高くしていった。

「……はははははっ」

 夜の闇に消えてしまうが、それでも若い男の笑い声は自分で生きるがごとくしばらく響

いていた。



 朝の料理には、二種類ある  とはいっても、料理の内容  たとえば、ディナータイ

プの料理、とか、簡単な食事、といった、食べられるような意味としての種類ではない。

 ここでの意味は、もっと簡単なものだ。

 で、そのうちのひとつは、昨夜に予め考えておいた料理のこと、である。もっとも基本

的にいつもはこの料理になるのだが、それはその言葉のとおり、考えておいただけあって

作る予定なども立っており、それなりに準備もしてあるためてきぱきとできる。

 そしてもうひとつというのは、ついつい昨夜考えておくのを忘れて、そしてとっさに考

えついた料理のことである。

 これは自分でも驚くのだが、毎回変わる。

 何が変わるのかというと、今まで作ったことのないようなものを自分で編み出して作っ

てしまうという、なんとも嬉しいような複雑なものなのである。加えて今まで何回かそん

なことがあったのだが、そのいずれの料理も相当に旨かった。というのは、やはり新鮮さ

があってのことかもしれないが。

 ともかくそういうわけで、毎回昨夜に考えておかないと、意図的ではないが自分の作れ

るメニューがどんどん勝手に増えてしまうという、まるで貯蓄預金のようなものとなって

しまうのだ。

 と、今回もまさにそんな状況で、今朝の料理もまた、とんでもない突発的な料理となっ

てしまったのだ。

「……どう?」

 という、いつもとなんら変わりのない感想の聞き方で、少女は兄に聞いた。

「…………」

 少女の兄  京はしばらく噛み続け、そして目を瞑ると、料理評論家のごとく格好をつ

けて妹  美夏に指を立てて呟いた。

「……兄ちゃんには、どうしても、どうしてもこれが分からない。でも、それでも現実を

否定することはできないんだよな」

「うん」

 美夏もそれに真剣になって応える。

 そして、京はそんな美夏の目の前でびしっと腕を振って、問いかけた。

「……どうしてこう、毎回毎回、同じ答えしかさせてくれない料理を作るのかな、美夏は」
 その京の問いに、美夏はゴクッと唾を飲むと、確信の笑みを堪えようとしながらもそう

できず、ついつい綻んだ顔になって、だが一応は真剣な眼差しを残して、再び、口にした。
「……と、いうことは?」

「うますぎるっ!」

「やったっ♪」

 とうとうその、笑顔にも似てつかない顔を、確実な笑みに変化させた。

 そしてまだ、口の中に残っている、細かくなった牛肉を気にしている兄に抱き着いた。

 それからあたふたとする兄に、確認する。

「ほんとに?」

「うん。……けどさ、なんとも言えないよ、ほんとに。毎回毎回、飽きるほど新しい料理

作ってるのに、毎回毎回新鮮で新しい味を作っちゃうんだもんな。すごいよ、美夏は。…

…まあ、そのせいで兄ちゃんは毎回毎回同じ感想になっちゃうけどさ」

「それでもいいもん♪ おいしいって言ってくれれば」

「ああ」

 そう、美夏の料理を食べた後、京は必ずその感想を言うことにしている。べつに美夏は

それを強要しているわけではないのだが、やはり自分の料理を食べてもらった時の感想と

いうのは聞きたいものだと、そう京は思っているので、美夏の料理の感想は、例え新しい

料理ではなくとも必ず言っていた。

 だがその感想も、毎回が毎回同じものになってしまうのは、美夏の料理が一定を越した

旨さを保つことからのものであろう。

 京は、そんな自分の感想力とでもいうのか  が少ないことに、多少の情けなさがあっ

た。

 ま、それはそれで美夏にとっては、おいしいと一言、言ってもらえるだけで十分なので、
どうでもよかったのだが。

 美夏は京が自分の作った料理の味に旨いと言ってくれたことに毎度のことながら喜び、

そして自分も食事に有り付くことにした。

 自分の椅子に戻り、それから今日作った料理の中でも主食に当たる『牛肉の特性煮込み

焼き』に手を付けた。

 その様子を軽く眺めて、京は食べながら言った。

「美夏、実はさ、昨日も言ったけど  」

「あ、お花屋さんのこと?」

 思い出したように京の言葉を遮り、美夏が問い返す。

 それに軽く頷いて、京は嬉しそうに笑った。

「そう。三軒目で、ようやく取れたんだ。全部合わせると、十軒になるかな。けど、とに

かくそこは来週から雇ってくれるって」

「ほんと? やったね、おにいちゃん!」

「ああっ」

 美夏も笑顔で言う。

 高校三年の京も、後一カ月程で卒業となる。大学進学を志望しない京は、高校を卒業し

たら、とりあえず花屋でアルバイトを始めることにしたのだ。

 その花屋でのアルバイトというのも、就職が花屋希望なので、ついでといったらちょう

どいいのか、ともかく信頼できる、そしてずっと置いておいてくれる店がよかった。

 それで、京は最近になって、この辺一帯にある花屋を手当たり次第に当たって雇ってく

れるところを探していたのだ。

 最近、アルバイトさえ雇われる若者が減っており、中高年なら尚更のこと、アルバイト

を探すのにも一苦労かかるほどだ。就職困難なこの時代、失業した者たちが食べていくの

は、極めて難しい。

「おにいちゃん、ほんとによかったねっ」

 そんな中、京がこうして働き先を見つけてくれたことが、美夏にとっては何よりも嬉し

く、そしてそれが自分の将来、そして自分の夢をも左右するかも分からないことなので、

表面にはあまり出してはいないが感極まっていた。

「ああ、これで美夏も一緒にやってけるよ。夢の第一歩だっ」

「え?」

 京の言葉の一部に多少の疑問が生じて、美夏は怪訝な面持ちで兄を見つめて、そして声

に出していた。

 そして、問う。

「美夏も、って?」

 それを聞いてから、京は嬉しそうに、そして期待をさせるように笑った。

「美夏のことも話したんだ。ふたりで雇ってくれないかって。まだ年齢的に若いけど、美

夏だったら十分働いてくれるだろうからさ。そしたらさ、喜んで了解してくれたんだ」

「う……そ?」

 美夏は、信じられずにそう口にしていた。

 ついこの間、年が明ける寸前に十四歳になったばかりの美夏は、ちょうど今は中学二年

の年代である。あと一カ月もすれば、本当だったら  というより普通の子供だったら、

中学三年に進級するだろう少女である。

 しかし、いろいろとわけがあり義務教育である中学には進学せず、小学校で学生生活を

終えた美夏、そんな彼女の今は兄とのふたり暮らしで、学校へ行く兄が会社へと行く夫と

するのなら、美夏はそれを待つ専業主婦のような立場であった。

 そんな美夏にも夢があり、それは兄の京と全く同じで、自分で花屋を  いや、兄とふ

たりで花屋を持つというものであった。

 そんな夢へと一歩近づいた兄の今の話はまさに夢のようであり、美夏にはさらに何も言

えない、現実から遠ざかってしまうような気さえ感じたのだ。それも無理はなく、夢は夢

で、今の時代にこんなにも近くに感じられるようなことなんて、心の底では憧れてはいた

ものの諦めてもいたのだから。

 そんな美夏の塵のような夢を大きく膨らませてくれた京の言葉が信じられず、だが一方

では信じ、そして胸が熱くなっていた。

 固まってしまった美夏を見て、京はようやく食べ終わった食器を持った。

「ほんとだよ。近いうちに来てくれって言ってたから、兄ちゃんもその時は一緒に行くよ」
「そんな……そんな」

「え、美夏、嫌だったのか?」

「ううん、まさかそんな! 嬉しくてしょうがないのっ。だって、だって  」

「うん、そうだな。でも、ほんとなんだよ。兄ちゃんもうれしいくてさ。昨日、雇うって

聞いた時はほんとに信じられなかったから。誕生日だったし、最高だったよ」

「うんっ」

 どうしようもない喜びになんと言ったらいいのか、どう表現したらいいのか分からず、

だがとにかく今は思いきり走り回りたい気分で、美夏は食器をキッチンへと運ぶ京を見つ

めた。

 それからテーブルの上に乗っている、まだ片付けていない自分の食事を急ぎ目に食べ終

えると、美夏はパッと立ち上がってそれからすぐにキッチンへと運んで、さらにすぐさま

洗った。

 今は勉強として使用していない机の上に置いてある数枚の書類に目を通して、京が皿洗

いをしている美夏に聞いてくる。

「なぁ、美夏。いつ行ってみる? 兄ちゃんも、一緒に行くからさ」

 兄の方に視線を送りながら、美夏は考える暇もなく言った。

「おにいちゃんがよければ、わたしはいつでもいいよ。だって、ね」

「ま、そうだけどさ」

 美夏の返答を聞いてからしばらく京は考え込み、それから「よしっ」と言って決めた。

「明後日にしよう。いい?」

「うん。でも、なんで明後日なの?」

「んん、なんとなく。記念すべき日は、明後日って感じがするからな」

「うん、そうだね」

 ……そうなのかな、とも思ったりした美夏ではあったが、兄のその言い方には説得力が

あり、仮にそれがなかったにしろ明後日という日はいつものように暇ではあるし、それに

兄の言葉にはなんでも応えたい。

 故、美夏は相槌した。

「けど、どんなところなの? おっきい?」

 京の話を聞いてから、驚愕でいっぱいだった美夏ではあったが、やはり職場となる場所

への興味はあって、重要なその質問をしたかった。

 そんな美夏の問いに京は笑って言った。

「へへ、そうくると思ったよ。けど、それは秘密だな。まぁ、小さくはない、とだけ言っ

とくよ」

「ふ~ん。行ってのお楽しみ、ってコトだね」

「そっ」

 それからしばらく皿洗いをして、全部片付くと、美夏は赤いソファーに座った。

 京が持ち出してきた吉報のことが頭にいっぱいだ。それはおそらく京も同じだろう。

  机に向かっている京を見て、美夏は最近になって感じてきたことを考えた。

 何もないが主婦としての生活も慣れた。結構な時、やっていたのだから。

 家で、外から帰ってくる京を待つのも、おもしろいのかと言われるとそうではないが、

それもよかった。

 そんな日々に幸せを感じて、それでもう十分でもあったのに、さらに自分にもこんなに

早くに仕事ができるなんて、思ってもみなかった。

 多少の不安もあるが、それでも花屋で働けるなんて、夢であったのだからこれ以上言う

ことはない。

「ほんと、最高だなぁ」

 ひとりごとを言うのが、最近増えてきていることに年を取ってきているような気がしな

いわけでもないが、それほど今の自分は幸せなんだろうと、身に染みて感じている美夏だ

った。

 冬の朝は、早ければ早いほど寒い。

 ちょうどこの時間は、寒さのピーク時間を越えているためそこまで寒いわけではないが、
まだ日が昇り切っていないため窓から差し込んでくる太陽光が少なく、いつもは暖かく感

じるソファーもまだ暖まってはいない。

 それが暖まるまで、美夏はこの場所で過ごす。それが美夏の何げない幸せでもあった。

「本当に、幸せだぁ……」

 美夏のそんな幸せな思いを、強調、増幅するように、京は書類に目を通していた。



 道立山上高等学校という、北海道でも進学率で有名な公立高校がある。

 道内のみならず、本州から南の地方までの学校のほとんどを脅かす程の講師陣が見守る

中、生徒達はそろそろこの時期には、自分の進路に決着を付けているものだ。

 そんな道立山上には、もうひとつ、有名なふたつ名があった。

 《狂れる猛獣》。意味はそのままなのか、その理由はとにかく校内にいる生徒、教師、

講師、全てを含み、精神的に狂った者が多いという噂からきたものだ。

 その実態もそのままなので、知らずに校舎に入った者の大抵は失心してしまうほどのも

のらしい。

 彼はその中で、狂う部類に入らないまともな人間である。むろん、まともとはいっても、
道立山上の中でのことであって、一般の人間から比べれば、極普通の青年である。

 道立山上の進路の九割五分は、大学進学である。おそらく彼は、その残りの五分に入っ

ているためかまともな精神でいれたのかも分からない。

 この年代でこの時期、気楽に過ごせるのは彼のような人物であろう。

 高校三年に進級して、夏休みの前にはもうすでに就職先が決まっていたため、彼は勉強

に夢中の生徒達を見て、なんらかの優越感を感じていたのは、間違いないと自分でも気づ

いていた。

 とまぁそんな彼には、今日は友人とのアポがあった。なんとか早起きをしたいといった

ところだ。

 冬の朝は辛く、それでも起きなければならないというのは、たとえどんな用事にしても、
大変なこと極まりない。

 今日、目を見開いてから初めて映った光景というのは、なんともしょっちゅうのことな

のだが、それでもいつも眠いため反射的に動くこともできない彼にとっては至って複雑で、
そして痛いものであろうことは分かり切っているものであった。

 目に映ったそれは、急激な勢いで目前に迫り、そしてだんだんと風を切る音が高くなっ

たかと思うと目の前が真っ暗になる感覚を覚え、そして彼は倒れるのだ。

 そんなことは日常茶飯事。そう、いつものことなのであるが、だがそれならとっととよ

ければいいだろうと他人からは言われるような気もする。

 でも、眠さには負けるのだと、自分に甘い誘惑をかけつつも彼はそのまま眠りについた、
いや、つきそうになったのだが、そこで再び新たなるいつもの映像が映って、仰向けにな

った彼の目の前を覆って、そしてだんだんと大きくなると、激しい音をたてるのだ。

 バムッ

「いでっ!
                         しげや

 という叫び声を発して、彼  茂也は目を覚ました。

 そんな茂也の目の前に、というより顔の上に見事乗っているのは、白いひとつの枕だ。

 それをゆっくりと片方の手でどかしながら、茂也はだんだんとどいていく白い枕から覗

かれる人物に嫌気が差しながら、とりあえず完全に枕を顔からどかした。

 それからその人物の口元が揺れていくのが分かる。

 と、それに合わせて大声!

「起きろぉ。クズ兄貴ぃ!」

「うぎゃ、うるせー!」

 耳の奥まで響く声に絶叫しながら、茂也はいきおいよく起き上がった。

 そして目の前に立ちはだかる少女に向かって叫ぶ。

「少しは優しく起こすってことができねぇのか、てめえは!」

 と、その叫びに呼応するように目の前の少女から怒声が返ってくる。

「できねーよ、馬鹿! 起こしてやってるだけありがたく思え!」

 茂也はなんとか完全に立ち上がると、自分より三十センチ近くも小さい少女の額を押し

て言った。


「ケッ! 起こされてやってるだけありがたく思え!」

「じゃあ、もうこれからは起こしてやんねーよ」

「嘘ですよぉ、さゆりちゃん」

「分かればよろしい」

 少女  さゆりの脅迫に茂也は優しく微笑み返して、同時に胸中で舌打ちした。

「ったく……。うちの妹も美夏ちゃんみたいにかわいければな……」

「なんか言ったか、クズ兄貴」

「いやいや」

「まったく……。今日は八時に約束でしょ? 急ぎなさい」

「はいはい……」

 渋々頷きながら、茂也は妹からほっぺたを何度かパンパンと叩かれて、「ふあぁ」と欠

伸をしながら伸びをした。

 あと一カ月もすれば、高校を卒業し、そして晴れて建設会社へと職を繋げる茂也には、

ひとつ年下の、現在高校二年の、もうすぐ三年に進級する妹がいる。

 その妹の名は言うまでもなくさゆりといい、いつも朝は彼女に起こしてもらっているの

だが  目覚まし時計では起きれなく、そして両親もまったくの無関心状態なので妹のさ

ゆりしか頼る術がないのだ  、それでも朝は辛いので、こうして枕を顔面に投げ付けら

れる始末となっている。

 と、そんな妹に起こされてから、茂也は時間のことをやっと思いだし、急いで妹を部屋

から追い出して、服に着替えた。

  それから、二階の部屋であるここから一階へと降り、そして洗面所へと急いで顔を洗っ

て歯を磨く。さらに自分の短髪にジェルを多量につけて、キマッたかと思うと、一瞬後に

はそこに茂也の姿はなくなっていた。

「え~と、確かこの辺だったよな」
    て ふ と

 ここ、手富渡の中でももっとも有名な、観光名所と言っても過言ではないほどに名の知

られている地に、レイン広場という、これまた広大な広場がある。

 日曜には特に親子連れがよくやってきて、何もないが心休まるところとして市民には好

評だった。

 そんなレイン広場の出入り口に接続するがごとくある大通りに、スコール通りという、

その名からしてまさにレイン広場と関係の深いもの通りがあった。

 茂也はそのスコール通りを通って、今日、会うはずの友人との約束場所へと向かってい

た。

 大きめの、田舎者が持つような地図を片手に、茂也はスコール通りの左右にある脇道を

交互に見ながら、とりあえず時間的にまずいものを感じて、急ぎ目に歩いた。

「こっから、あと五ブロックくらいか?」


 自問しながら、今日も腹をグーグーと鳴らしながら、自分の方向感覚の良さを味わい、

久々の散歩を楽しむ。

「なぁ、俺らもあんたが承知してくれんと構わんのよ」

「……?」

 唐突な脅迫じみた声にそちらの方を見てみると、ちょうど通りの左脇道の少し入ったと

ころに、数人の男の姿が見えた。

 疑問に思い、そして好奇心も多少あったためか、だが友人との約束の時間が迫っている

ことに後ろめたさに襲われながら、茂也は通りを歩きながら遠目にかれらを眺めた。

 だんだんと脇道の奥の方まで見える角度になってから、男数人の奥にひとりの老婆が目

に映った。

「あたしはそんなものに手は出さん」

「だったら力づくで  」

「いや、それは駄目だ」

(なんの話してんだ?)

 なんのことかよく分からないが、茂也はそのまま歩き続け、だんだんとその脇道が後方

になるにつれて見えなくなっていくうちに、それよりもやはり友人の約束の方が優先だと

判断したので、とりあえずそれは気にしないことにした。

(ま、見ちまったからには助けるべきなのかもしんねぇけど、婆さんに危害を加える様子

はなかったから、いいよな)

 それとともにあまり関わらない方がいいと思ったこともあってか、茂也はその数分後、

その男たちと老婆のことなど綺麗さっぱり忘れたのであった。



 で、その数分後。

「ここだな」
                      ひとけ

 スコール通りを歩いて、少し人気も減り、建築物も寂れたものが多くなりかけてきたこ

こで、茂也は立ち止まった。

 あれからしばらく歩いて、途中にある脇道に入り、それから少しだけ歩いたところに、

今は人こそいないが、なかなか立派な建物があった。

 三階建ての高さだろうか。中途半端な高さなのであまり詳しくは分からないが、おそら

くその程度だろう。

 一階には外から中を覗けるよう大きめの窓が点々とあり、さらに中に映る光景に、茂也

は好感を得た。

 入り口の外には看板がふたつあり、片方を見てみると、『カフェ・ホーソーン』と書か

れていた。

 とりあえずそれを見てから中に入り、バイトらしき店員の人だろう若い女性からの「い

らっしゃいませ」という声に茂也は笑顔で手を振って応えると、数あるテーブルの中をひ

ととおり見渡して、まだ友人が来ていないことを確かめて、適当に気に入った場所に腰を

かけた。

「ま、遅刻はなんとか阻止できた、ってとこか」


 それからしばらくここから見える外の景色を眺めてから、さきほどの女性店員がテーブ

ルの前にやってくるのを見た。

「ご注文をどうぞ」

 茂也はその女性店員の顔をしばらく眺め、それから上から下ヘと目線を上下させてから、
注文を言ってくれない茂也のその様子に戸惑う女性店員に、最後に目を合わせて止めた。

「……あ、あの、ご注文を」

「おねえさん、あなたの名前と電話番号を注文したいんだ」

 カッコつけて短い髪を強引にかきあげ、だがその様は他人から見たらヘボいことこの上

ないことなど全然気にかけず、むしろ格好よすぎるだろう自分の今の様子に惚れ惚れしな

がらも、茂也は立ち上がって女性店員の両手を取った。

 恐怖でも覚えたのか  おそらくまだ店員としての経験があまりないのだろう、年齢的

にも若く見えるその女性店員は口元を震わせてから一歩後退して、だが茂也が両手を掴ん

でいるので、離れることができない。

 かといってお客に対する態度というものを上司にきつく言われているのか大声を出した

いがそうもいかなそうなその表情も、今は引きつっている。

 そんな女性店員に同情でもしたのか、余計に茂也は笑って、慰めるように微笑んだ。

「何をそんなに脅えてるのかな。僕はただ、あなたのような美しい女性が、僕のようなあ

なたに相応しすぎる男に名前と電話番号を教えてくれることが、この世の中にとって一番

の糧となるような気がしてならないだけなんだ」

 そこまで言ってから、その言葉で余計に怖がる女性店員の肩に手をかけて、全くこちら

のことなど気づいていないその辺の客や店員を尻目に、茂也は、震えて声の出ない女性店

員の耳元にフッと息をかけると、店の出口の方向を向いた。

「というわけだから、これからちょっと遊びに行こう!」

「何が「というわけだから」なのか知らないけど、約束をほっぽり出してそういう展開に

するのか、お前は」

「な、何 」

 出口に向かおうとして、突然目の前に現れた青年の姿に驚愕しつつ、「しまった」とい

う、その中でもふたつの意味を持つ失態に茂也は青年から一歩後退しそうになった。

「柏田くん!」

「え?」

 女性店員は茂也の腕から、今まではなかった力が急にどうして、今は強引に、力の抜け

ている茂也を引き離して飛び出した。

 そして青年の背の後ろに隠れると、ちらちらとこちらを窺うように見てくる。

 何がなんだかよく分からない茂也は、とりあえず後ろにいる女性店員と青年を見比べて、
ふたりが顔を合わせて何かを話しているところから、まず分かることを察した。

 そして、それを聞いてみる。

「ひょっとして……知り合い?」



「まったく……」

「すまねぇ」

 青年にいろいろと文句を言われて、だが茂也にはそれに対抗できる口がなかった。それ

は全て事実による結果のことなのだから。

 ところでふたりは今、カフェ・ホーソーンに再び、いる。いや、再びは茂也だけだった

が。

 とにかく、自分との約束を忘れてまでナンパをしかけた茂也に、青年はなんとも言えな

く、呆れ返ったほどであった。

 前々から青年には、茂也がこういう男であることは承知の上ではあったが、まさか今日

までするとは思ってもみなかったのだ。

 茂也は今度はきちんとカフェオレを頼んだ。

 それから青年とテーブルに向かいながら、こうして反省させられているのだ。

「で、でもよ、京。あんな可愛い子が知り合いなら、なんで俺にもっと早く教えてくれな

かったんだよ」

 それでもやはり諦め切れず、茂也は青年  京に聞いた。

 茂也にとって、京というのは親友の中の親友だ。性格こそまるっきり違うが、幼い頃か

らの仲で、自分では腐れ縁だと思っている。

 そんな京は、茂也のナンパ癖だけは特に嫌っており、だが咎めることはしないものの、

それでも限度があるものだと、茂也は今日、痛いほど聞かされた。

 客入りがだんだんと多くなってきたのを見計らってか、京が大きめな声で言った。

「しかし……茂也はすぐ手を出すからな。それにしても、あの人、大学生だぞ。二年生だ

ったっけかな。年上は駄目なんじゃなかったのか?」

「な、何? あんな小さな可愛い童顔が 」

 京の話を聞いて、多少  どころかかなりのショックを受けて、茂也はしゅんとなった。
 それをまじまじと眺めて、京が溜め息をつく。

「なんだよ、それ、ひどい言い方だな。年上とはいっても、すごく親しみやすい人なんだ

ぞ。それでもやっぱり、駄目か?」

「ああ、駄目だ」

「……まぁ、べつにそれならそれでいいんだけど」

 と、茂也の好みの話に乗せられながら、京はしばらく、その大学二年生である女性店員

が働いているのを眺めながら、

「いや、そんなことはどうでもいいんだよ」

 乗せられているのに気づき、言った。

「二十分遅れに加えて、ナンパだもんな。茂也……、ほんとに困った奴だな、お前は」

「いや、ちょっと待てよ。だって、ナンパは抜きにしても、二十分も遅れてはいないぞ。

それに俺の方が先に来てたじゃねぇかよ」

 茂也の言葉を聞くと、京は頭を抱えてしばらく黙り込んで、それから苦笑した。

「あのな、茂也。誰がカフェに来いって言ったんだよ。僕が言ったのは、花屋のホーソー

ンの方だよ。看板見たらすぐ分かっただろ?」

「何? どこにそんな花屋があるんだよ」

 茂也は京が何を言っているのか分からず、しかもそんなことは全然聞いてなかったよう

な気がしてならなく、次第に向きになっていった。

 そんな茂也を見ながら、京は嘆息する。

「どこって、ここの二階だよ」

「なんだとっ 」

「『なんだとっ 』て、この前話したじゃないか。一階がカフェになってて、二階に花屋

があるって。聞いてなかったのか?」

「い、いや……。聞いたような聞いてないような……」

「まぁ、もういいけどさ」

 そう京が言ったもののとりあえず茂也はその話題から逃げるがべく、先程のナンパしか

けた女性店員が警戒しながら自分の前にやってきてテーブルの上に恐る恐るカフェオレを

置こうとするのをにこやかに見てからそれを阻止し、手渡しで受け取った。

「きゃっ!」

 それに恐怖して、その女性店員は茂也からカフェオレのカップを取られるや否や、走っ

て消えてしまった。

「……なんだよ、あれ。そんなに怖がらなくてもいいじゃねぇかよ」

「ははは。茂也らしいな」

「ちっ」

 舌打ちをしてから、茂也はそれから今、こうしてここにいる理由を考えながら、店の天

井を無意識に見上げた。

 最近建てたばかりなのだろうか、いやに真新しい木で敷き詰められている。その天井に

沿って眺めていって、隅まで眺めてから今度は横の壁を眺めて、大窓がいくつかあるのを

見て、次に店の中でくつろいでいる客を眺めていった。

 そんな茂也を見ながら、京はふと笑みを浮かべた。

「いいとこだろ? 半年前に建てられたばかりなんだってさ」

「なるほどねぇ。どうりでやけに店だけじゃなく客も新しいわけだ」

 スコール通り周辺にある店のほとんどが、その開店している時間には常連が誰かしら必

ずいる。

 そんな中で、しかもこの辺で見かけない客もいることもあってか、茂也にはあまり馴染

めないものがあった。

 客と客は、たとえこういう店であっても互いにワーワー騒ぐものだと、茂也は勝手にそ

う思っているのだ。

「しかしよ、京。悪いところじゃねぇよな」

「うん。僕もここにしてよかったと思ってるよ」

「それに、一階がカフェなら、いつでも降りて休めるしな」

「まぁね」

 茂也は満足そうにそう言って立ち上がると、まだ飲み終わっていないカフェオレをその

ままに、店内を見渡した。

「じゃあ、京、花屋、見せてもらうぜ」

「そうだな」

 今日、茂也が京に呼ばれた一番の理由というのは、まさにそのことであった。

 高校を卒業した後の就職先が決まっている茂也。京も花屋で、完全な就職ではないが、

とりあえずバイトという形で働き始めるということで、茂也はその職場には興味があった

から、来てみようと、まあそうなったわけだ。

 最近、就職のことで頭が一杯の茂也は、京の仕事場を見るのが気休めになるのと同時に、
なんとなく花屋にも興味があったためか、余計に行きたくなっていたのだ。

 そんな茂也の言葉を聞くと、京も立ち上がり、テーブルの上の茂也のカフェオレを見た。
「でも、勘定は、茂也だぞ」

「あ、ああ。分かってるよ」

 財布を出し掛けていた京の言葉に期待していたことが崩れたのがショックで、茂也はや

むなくジャンパーのポケットから財布を取り出した。

 とりあえず三桁ほどの勘定をケチることなく支払った  まあ当前のことだが  茂也、
とその親友、京は、カフェ・ホーソーンから出ると、そこからすぐ壁づたいに備え付けて

あるなかなかセンスのいい階段を昇った。

 そこを昇りながら、京はどうしても納得できないような表情で茂也に聞いた。

「なぁ、茂也、本当に二階に花屋があるって分からなかったのか?」

 それを聞くと、茂也は至極真面目な表情になって京の肩を掴んだ。

「本当だぜ、京。あの可愛い店員さんに話しかけたのも、やむないことだったんだからな」
「……なんでそれがやむないことなんだよ。けど、外に看板あっただろ。本当は、最初か

ら花屋なんてどうでもよかったんじゃないのか?」

 茂也の普段からの行いを考えていると、京にはどうしても彼の言っていることが信じら

れない。

 加えて、実際に女性店員をたぶらかしていたことには変わりがないのだから。

「いや、そんなこたぁねぇよ。花屋には本当に興味があったし。だってよ、普通、そんな

ところ行く機会なんてねぇからな、俺は。それに京が働く場所だってんなら、俺も知っと

いた方がいいだろ」

「……そうだけどさ。……うん、ま、いいや。今更そんなこと確認してもどうにもならな

いしな」

「そーゆーことだぜ」

 そう、確かに京が今更そんなことを茂也に問いただしたところで、どうにもならないの

だ。……ただし、自分が二十分待っていたことに苛立ちを感じたことを除けば。

「けどよ……」

「ん?」

 そんな、くだらないことに対する多少の憤りのようなものを感じてしかめた表情をして

いた京をチラチラと横で見ながら、茂也はそろそろ階段を昇り終えるところで、そう口に

した。

「実は、さっきから気になってたんだけどよ……」

「何を?」

 二階への階段を昇り終え、そして正面に幾つか花が並んで、そしてその花を両脇にした

入り口が見えると、茂也は後ろめたそうにもごもごとする。

 そんな茂也の態度に、昔から彼を知っている京にはなんとなくこれからの展開が予想で

きながらも、とりあえず確認するように聞いた。
                     ゆ り

「もしかしてだとは思うけど、祐里さんのことを聞きたいのか?」

「な、何  ゆりっていう名前なのか?」

 その茂也の反応に呆れるにも程があることをつくづくと伝えたいのだが、とりあえず京

は嘆息した。

「ちょっと思ったんだけどさ」

「ん?」

「……普通その前にさ、『どうしてそのことだって分かったんだ 』とか聞かないかな」

「そっか、祐里っていうのかぁ」

「聞いてないね、僕の話」

 茂也は気に入った女の子のことになると著しく感情が高ぶり、そして何を言っても無駄

になってしまう時がある。

 その時の茂也を元に戻すには自然に任せるか、もしくはその女の子に冷たく追い返され

るかしなければ駄目なのだが、そうなる前に、京は奇妙で不気味な顔をしてどこか遠くの、
おそらくはカフェ・ホーソーンで出会った女性店員  祐里のことを考えているのだろう

茂也の両肩を掴んで揺すぶりながら言った。

「おいおい、茂也。まだ逝くのは早いぞ」

「へへへ……。もうゲットしかねぇな」

 「もう駄目だな」と諦めながらもとりあえずは先程のことを思い出して、京は言い聞か

せた。

「けど茂也、年上は駄目だったんじゃなかったのか? 大学生だって言ったら、あんなに

ショック受けてたのにさ」

「フッ、何をおっしゃる京都の京君」

「……なんだよ、京都の京君って」

 だが京の言葉をまるっきり無視して、茂也は階段のそばへと寄って、そこから身を乗り

出すようにして一階を見下げた。

「東京の京君、愛にはそんなものは関係ないのさ」

「……今度は東京か?」

「可愛くて、それからあんなにチャーミングなら、年なんて、そんな壁は越えられる!」

「……あっそ」

 くどいが、茂也がこうなると元に戻すには、彼の想う女性から直接きついことを言われ

るかもしくは、時が経って冷めるまではどうしようもない。

 京は過去、数十回にも及ぶ彼のこの性格  というより体質か  を痛いほど知ってい
るので、これから花屋の中へと案内することが、結果としてどうなるのかを悟って、それ

から意識をしっかりと保っているのかどうかも分からないほどふらふらと祐里のことを考

えている茂也の腕をとった。

「祐里……祐里……祐里」

「……ったく」

 幾度と祐里の名を叫び続ける、自分より幾らか身長の高い茂也を見上げる。


 それからしばらく冷たい風を受けて、だがそんなことなどおかまいなしに祐里のことを

考えている茂也の逝っている目を見て、心の中で決めた。

(……今日はもう駄目だな)

 そして京は朦朧としている茂也の手をとって、渋々、一階への階段を降りていくことに

した。

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