2017年2月19日日曜日

季節の変わり目②



                              プロローグ


 平和な日々を送る。毎日が平凡で、平和で、なんのトラブルもなく幸せな毎日を送る。
 そんな日々を憧れとしている人。忙しさや貧困など、そのほか様々な問題を抱えている人々なんかは、そんな日々が実現するとするのなら、望むものはこれ以上なし、なんて言いたくなるかもしれない(いや、そー言ってくれると信じたい)。
 しかし、そんな、平和で平凡で刺激的なものの全くない日々が、毎日、なんの変化もなく訪れるとしたら……。
 そんな生活を、微かだが我が身に感じている少女が、ここにいる。

 ピピピピッ
「う、うーん」
 耳元で激しく目覚まし時計が鳴った。それを聞いて、少女は時計の頭にあるボタンを「カチッ」と押し、うなり声をあげた。
 夏も終盤にさしかかり、そろそろ秋だというのを表すがごとく少女の住むアパートのそばの木々には紅葉が目立つ。多少寒さを感じるが、まだ暖かい風も感じる。
 時計を見ると、七時ちょうど。
 爽やかな朝の空気を大きく吸い、少女は腰を起こした。
 目覚まし時計をいつものようにテーブルの上に置く。
          み か
 少女  美夏は口の中の気分の悪さと、ボサボサになった自分の髪が気になり、洗面するために玄関そばにある洗面所に向かった。
 ジャー
 顔を洗い、歯を磨く。髪を水と手串で直すと、鏡の中の自分の顔を見ながら大きく伸びをした。
「う~、さてと」
 自分に言い聞かせるようにシャキッとそう言うと、美夏は敷いたままの布団のそばにあるタンスまで歩いた。袖の長い白いトレーナーと、特に飾り気のない赤いスカートを取り出して素早く着替えると、部屋の窓を開けた。
 ガラガラ
「うぅー、気持ちいいな」
 伸びながら独白して、次はキッチンに向かった。使い慣れたキッチン。ところどころに古傷がある。
 そのキッチンに向かい、ハンガーに掛けてあるエプロンと三角巾を手に取る。それらを手早く身につけて、美夏は再び伸びをした。
「よし、今日もやるぞっ」
 大声を出して、朝食の支度を始めた。
 そんな美夏はひとつ、憧れに近いものを心の底にしまっていた。
(……なんでもいいから、何か起こらないかな)
 平凡な生活。自分にとってそれが一番幸せなことだと理解はしていても、心の中ではそんな生活に退屈さを感じていた。
   夢でもなんでもいいから、とにかくなにかあってほしい。
 ……それが美夏の願いであった。
 美夏、十三歳。幼さの残る外見とは裏腹に、その笑顔に秘められた熱い想いと強い眼差し。
 数日後のある日のこと……、そんな少女に事件は起こる。


            第一章 唐突にも、こんなコト


 で、その数日後のある日のこと。
「ふぅ、ふぅー、す~」
 北海道の東北。とあるアパートの二階、202号室の部屋、そこに美夏は住んでいる。様々な食べ物がキッチンの上を覆い、周りは蒸気でいっぱいになっていた。
「あ~、けむたい」
 独りごちて顔の周りに襲いかかる煙を片手で振り払い、美夏はおたまに掬った特製スープに息を二、三度吹きかけると、ゆっくりと口の中に流し込んだ。
「まあまあ……かな」
 軽く呟いて、中鍋の中におたまを戻す。それから中の白いスープをゆっくりとかきまぜる。
 スープに混ざっているジャガイモや人参、その他もろもろの野菜が渦を巻いた。
 今日の朝食は、『味は薄めの栄養百十P野菜スープ』。夕食の方がこのメニューは合うような気も美夏にはしていたが、時々、朝食として出すのは、彼女の兄が「朝食べると元気が出るよ」と言ったことがあるからだ。ちなみに、『百十P』は、110%のことらしい。
 鍋に通していた火を止めて、美夏はキッチンから部屋の方を振り返った。
「おにいちゃん。起ーきーて」
                       きょう
 静かに眠っている兄  京を声で起こす。続いて京のいる布団まで歩いた。屈んで彼の肩を揺らす。
「おにいちゃん、朝だよ」
「んん……」
 眠たそうに呻く京の手をとって、美夏は大きく彼の体を引いた。
「あ、ああ、もう大丈夫だよ」
 美夏にそう言うと、京は頭を左右に振って目を覚ました。彼の髪が強烈に乱れているのを見て、美夏はいつものように小さく笑った。
 美夏の兄、京は現在、近くにある高等学校に通っている。
「はあぁ、眠い……」
 京がもごもご呟きながら顔を洗いに洗面所まで行っている間、美夏は次の仕事をすることにしている。
 洗濯。なるべく早めに終えるよう、美夏は毎日、朝早くに洗濯機をかけていた。
 美夏の使用する洗濯機は、彼女の両親  現在はわけあってニューヨークに行っているが、その両親から受け取ったお金で買った物である。購入してからはどのくらいの時が経っただろうか。……大体半年くらいであろう。
(そういえば、お母さんたちがいなくなってから、そんなに経っているんだなぁ……)
 美夏はふとそんなふうにひと昔前のことを思い出していた。
 二回に分けて行う洗濯。一回目は、あまり汚れていないものを選ぶ。
「ん?」
 ふと洗濯物を分けているうちに、美夏は気付いた。
「おにいちゃん。昨日、タオル汚さなかった? なんか変な色付いてるよ」
 美夏の甲高い声を聞くと、学生服に着替えた京はあまり憶えがないようで首を横に傾げた。
「ん? いや、知らないぞ。兄ちゃん、べつに昨日はタオル汚すようなことしてないけどな」
「そう? ふーん……」
 納得のいかない美夏ではあったが、とりあえずこのタオルのことは忘れることにした。ただ洗えば済むことだし。
「けど、やっぱり変な色してるなぁ。少し臭いし……」
 とりあえず一回目の洗濯機をかけると、美夏は朝食の乗っているテーブルの前に座った。「ふああ……」
 大きく欠伸をすると、ちょうど今、朝食を食べ終わった京が立ち上がった。
「ごちそうさま。今日のは特にうまかったよ」
「うん。ありがとっ」
 食器をキッチンに運ぼうとする京の感想に、美夏は笑顔で応えた。
 毎日のこと。そう、毎日のことなんだが、京はいつも料理を食べた後、感想を言ってくれた。その感想を聞くのが、美夏にとってはうれしく感じられたのだ。たとえ毎日同じ感想でも、だ。
 そんな、いつもと大差ないが気持ちのよい京の感想を頭の中で反復させ、ひしひしと身に染みさせながら、美夏は食べ始めた。
 ジャーッ
 洗面所から京が流している水の音が聞こえる。それを聞きながら、朝食の出来栄えを確認していく。
「うん。確かにいつもよりおいしいかな」
 美夏が朝食を終える頃に、京は家を出る。いつも、一日の始まりはこう過ぎていく。
 今日もその進み方に変化はない。
「じゃあ、美夏。行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
 ガチャンッ
 美夏の大きな返事に続いて、ドアが閉まった。
 高校三年生の京。あと半年もすれば、卒業となる。
 ひととおり食べ終えて、美夏は自分の食べた食器をキッチンまで運んで、水を流した。
 洗剤を取り出して、食器洗い用に使っているスポンジにかける。それに水を加えて泡立てる。
「よしっと」
 そして、汚れた食器を次々に洗っていく。

 午前十一時、その頃にはすでに一日にやるべき仕事は終わっていて、美夏はカーペットの上に横になってTVを眺めていた。
 退屈な時間は、TVを見て過ごすようにしている。今日も、いつもと大体同じ番組を見る。
 時々、違う局の番組を見たりもするが、やはり退屈なのは変わらない。
「あーあ。なんだか、退屈……。おにいちゃん、まだかな」
 美夏は無意識に言葉にしていた。
 義務教育である中学校には行っていない、行かせてもらえない美夏にとって、京が家に帰ってきた時に話してくれる学校での出来事は、一日の大きな楽しみなのである。
 ガチャッ
 その時、玄関のドアノブを動かす音が聞こえた。
(……な、なに )
 唐突な音に息を飲み、自然にすくんでしまっている体を抱くようにして、美夏は大きく溜め息をついた。
「な、なに驚いてるんだろ、わたし……」
 玄関のドアを開けようとして鳴った音だろう。美夏はそのことを理解していたんだが、恐怖を感じてしまった。
「もしかして、またセールスの人かな……」
 誰に言うでもなく呟いていた。
 とりあえず、今、ドアの外にいるであろう人物を確認するために、玄関まで足音を立てないよう近寄る。
 ガチャ……ガチャ
 その間もずっと、ドアノブを動かす音は聞こえてくる。
「…………っ!」
 覗き窓から覗いてみると、あまりはっきりとは見えないが、黒い服装の、いかにも怪しい人間が、ドアを強引に開けようとしているのが分かる。
(ど、どうしよう……!)
 美夏は狼狽したが、とりあえずは部屋の奥へと、これまた足音を立てないように戻ることにした。
 過去に数回、特に京が学校に行っている時、もしくは何かの用があって京がいない時に、こういうことがあった。
「あぁ……どうしよう」
 美夏はおどおどしながら顔をしかめた。
 奥の部屋へと戻り、しばらく部屋の隅に立ちすくむ。
 ブザーを押して、こちらを呼ぶ気配がなければ、かといってそのままおさまるようでもなく、ただひたすらにドアノブをがちゃがちゃと鳴らしてくる外の人間に対し恐怖を抱きながら、美夏はそのまましゃがみこんだ。
「……とにかく、帰ってくれるのを待つしかない……よね」
 独白しながら、美夏は何度かあった、何の用か全く分からない訪問の時のことを思い出した。
 いつもは鍵を掛けたままドアを開けなかったが、かれらはしつこくドアの向こうから開けるよう言ってきたものだ。
 今回の場合、声がないところが少し違ってはいるが。
 ドンドン
 ドアを叩く音が重々しく聞こえる……。
「……いや……」
 小さく、そして弱々しく口にした。
 覗き窓から見たとき、顔が何かフードのようなもので隠れていたため見分けられなかったが、「男」に分類されるだろう外にいる人間は、おそらく、セールス関係、もしくは何かまずいものに関わっている者だろうと美夏は思った。
 ドアを開けて、そして何の用かと聞いてしまえば、それはそれで楽かもしれない、この不安でもやもやとした嫌な気持ちから逃れるには。
 だが、ドアを開けたら大変なことになる可能性があることを、美夏は知っている。過去に、ドアを開けた瞬間、いきなり酷い目に合ったことがあるのだ。その時の男たちと、今、外にいる男の容貌をあわせて考えれば、ドアを開けた時の予想は大体つく。
 近所の人に助けを求めるにも、男のいるドアを通らねばならない。ここは二階。外には人の気配がない。
 警察を呼ぼうにも、呼んだところで子供扱いされて、こちらの話など聞いてもらえない。やはりこれも、過去の経験で分かっていた。
 ガチャガチャッ
 ドアを開けようとする音に、再び体が震えるのを感じた。
「早く帰ってよ……」
 小声でそう言って、奥の部屋の隅にじっとする……。

 ……そろそろ一時間になる。
 ガチャガチャガチャ
「……もう……いや……」
 小さな精神力は、もう限界の域に達した。
 しつこくドアノブを回している外にいる人間に、普段よりさらなる恐怖を感じる。
 部屋の隅でうずくまって、いつ帰るのかという疑問を頭の中で叫び続ける。
「いつまでいるの……?」
 ガチャガチャンッ 
「  !」
 ドアを開けようとする力はさらに増す。金属音が激しく鳴り響いた。
 美夏は耳に手を当てて心の中で、祈った。
(……おにいちゃん!)

「と、いうことだ。どーだ、おもしれー話だっただろ?」
「つまんねーよせんせー」
「いや、けっこーおもしろかったけどねー」
 京は嘆息混じりにその光景を見ていた。
 四時限目の授業。頭の禿げかかった担任の教師の話に、特に何を感じることもなく、京は聞いていた。
 クラス中がいつも、大体騒いでいる。ギャーギャー騒ぐ者もいれば、突然、泣き出す者もいる。
「これが本当に進学校のトップクラスの光景なのだろうか」
 最近、特にそういった衝動に駆られる。
 とまあそれはそれとして、一日の授業が終わった。二学期に入ってからは、毎日が午前授業だ。
 これはこの学校の方針で、三学年の午後は自宅学習という形を取っている。もちろん学校でも教科によっては講義が開かれているのだが、それの参加は個人の自由だった。
 京は、午後は毎日、早めに帰宅していた。というのは、午後の講義に参加する必要はないし、友人達もすぐに帰ってしまうからだ。
「なんだか、今日は疲れた……」
 学校の帰り道、いつもは友人の茂也と話をしながら歩いているのだが、ここ最近、茂也は就職先で仕事を習い始めているため、京は一人で帰っていた。
 茂也のことを考えながら、京はふと道端に立っている樹を眺めた。ついこの前までは新緑溢れる初々しい木々が立ち並んでいた。
 それが今は、紅葉掛かっている。
「そろそろ、夏も終わる……な。まあ、どうでもいいことだが」
 とりあえず今の自分には関係のないことだ、そう思って京は歩を進めた。
 しばらく歩いて、アパートの前まで来た。
 自分たちの部屋のある階段を昇る途中、上の方から奇妙な音が鳴っているのに気付く。
「ん?」
 階上を見上げながら静かに階段を昇ってみると、二階の一室、202号室  美夏と京の住んでいる部屋だ  のドアの前で何かをしている長身の男を見つけた。
(なんだ? ……うちのドアを、開けようとしているのか?)
 長身の、中年小太り男は眼鏡をかけていた。頭にレインコートのようなものを被っており、あまり表情は悟れない。
「…………?」
 疑問に思って近づいてみると、思ったとおり、男はドアを無理やりに開けようとしていた。
 鍵穴に針金のような物を差し込みながら、ドアノブを激しく回転させている。
 男はまだ、すぐ近くにいる京の存在に気付いていない。どうやらドアを開けることに夢中のようだ。
 京は静かな声でその男に問うた。
      ひ と
「……他人の家のドアの前で何やってるんですか」
「   」
 京の声に瞬間的に男は反応すると、素早く一歩後退して、京との間合いを開けた。
 男の様子を見て、京は一瞬、考えた。
「そうだ、美夏は  」
 「中にいるのか?」と、美夏の安否が気になった京がそう声に出す前に、男がとっさにこちらに跳んできた。
「  な 」
 一瞬、男の動きが視界から外れた。
 と、その半瞬後、突然、目の前に現れた男に目が追いつかず、体が反応できないまま京は男の体当たりを直接くらった。
「うぐっ!」
 どがっという強烈な音とともにアパートの壁に押し付けられ、激しい痛みに声も出せなくなる。
「けけけっ」
 こちらの腹部に入り込んでいる男の体を苦しまぎれに上から見下ろし、京は、男の言ったおかしな笑い声に、尋常でない異常さを感じた。

「え?」
 うずくまった体に静めていた顔を、美夏はゆっくりと上げた。
 外から聞こえていた、あの忌ま忌ましい恐怖の金属音が突然やみ、代わりに聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おにいちゃん?」
 京が、やっと学校から帰ってきてくれたのだろうか。その思いでいっぱいになり、美夏は立ち上がるために腰を起こそうとした。
「あ、あれ……?」
 しばらく同じ姿勢で座っていたせいか、体が思うように動かない。
 外に行こうとする美夏の意志に抵抗するように、彼女の体は麻痺して動かなかった。
「動け……ない」
 歯を食いしばっても、無駄だった。
 そんな美夏の耳に、京の声と、かすれた聞き覚えのない声が入ってきた。
 何を話しているのかはこの部屋まで聞こえないが、京の声は激しい怒声となって美夏のいる部屋に響いてきた。
「おにいちゃんが、男の人と喧嘩してるんだ……!」
 美夏は、聞こえてきた京の声や、ガタガタとドアの向こうで鳴り響く音から、そう判断した。
「行かないと!」
 美夏が行ったところで、どうにかなるわけではない。そんなことは十分に分かっていたが、それでもそうしなくてはならないと思ったのは、胸の奥から熱く伝わってくるものを感じたからだ。
 だが、動けない。
 ガタァン!
「うわぁ 」
「   」
 ドアの向こう側から、何かが崩れる音と、凄まじい絶叫が聞こえた。
 絶叫の方は誰が発したのか、美夏にはすぐに分かった。
「おにいちゃん 」
 大声で叫んで、美夏はすぐさま外へと行こうとしたが、いまだに動けなかった。そんな体に苛立ちを感じる。
   何か嫌な予感がする。
 先程の京の叫び声から、何も聞こえなくなった。
「……くそぉ」
 美夏は、動けない自分に苛立ちを感じて、急に悲しみに襲われた。
 っとその時、
 ガチャッ、
「………… 」
 美夏は、ゆっくりと顔を上げた。
 ドアの開いた音が鳴り、誰かが入ってくる気配がする。
 緊張に満ちたその時間が、美夏にはたまらなく嫌だった。
「おにいちゃん……だよね」と自分を落ち着かせるように心の中で呟いて、美夏は玄関の方を見た。
 外にいた男が、帰ってきた京の持っていた鍵を奪って家の中に入ってきたという可能性を、美夏は大きく否定したかった。
 この部屋は玄関に隣接しておらず、隣の部屋の壁があるため誰が入ってきたかはすぐに把握することができない。
 足音を恐ろしく感じて、顔を自分の体の中に沈めた。
(……なんでこんな、こんな怖い目に遭わなくちゃならないの?)
「今日もいつもと変わらない日なんだろうなぁ」、そんなふうに思っていた朝が懐かしい。 美夏は、強く目を瞑った。
 そして  
「美夏……」
 美夏を安堵させる一声。それを聞いた時、美夏は心から熱く浮き上がるものを感じた。
 顔を上げてみると、美夏の目の前で、京が苦笑いを浮かべて立っている。その京の顔をじっと見つめる。
「お兄ちゃんがいる!」、当たり前のことを何度も何度も繰り返し頭の中で叫んで、美夏は安堵感と、恐怖からの解放を感じて、泣いてしまった。
 明るい表情の京は、部屋の隅でうずくまって、そして嬉し泣きしている美夏の隣に腰を下ろしてきた。
「よかった。美夏、無事だったんだね」
「うん!」
 今日という一日に、再び戻ってきた『平和』を感じることができて、なんだか急に元気が出てきた気がする。
 だが、気にかかることがあった。
「……ねぇおにいちゃん。さっき、外で叫んだよね。何があったの?」
 美夏はまず、落ち着いた自分のことよりも、心配だったことが重要だった。
「あ、聞こえてたんだ。たいしたことじゃないんだよ。ただ外にいた男に変なもの見せられてね、それで驚いて叫んじゃったんだ」
 京は外で起こっていた状況を簡単に話してくれた。
 怪しげな中年の男が、ドアを開けようとしていたこと。その男を京が見つけたら、突然、体当たりしてきたこと。その後、発狂したと思ったら、今度は脱ぎ出したこと。と思ったら、男はいきなり走って去っていったこと。
 美夏にとってはいずれの内容も、聞いてからは、もうどうでもよくなっていた。京が帰
ってきた。怖かった男はもういない。それで十分だ。
「ドアはまだ開けられてなかったから、たぶん美夏も大丈夫だとは思ったけど、本当に無事でよかったよ、ほんと、心配だったからさ」
 そう言う京の姿は、疲労に満ちていた。美夏はすぐそばにいる京に寄った。からだも、完全にではないがある程度、自由に動けるようになっている。
「うん。おにいちゃんも無事でよかった。声がした時は心配だったから」
「ああ。けどあの男、また来るかもしれないから、今日みたいに出ちゃ駄目だぞ」
「うん、分かってる」
 そう言って、美夏は大きく溜め息をついた。その溜め息は、むろん安堵感から来るものだった。
 そんな一騒動があって、美夏は精神的にも肉体的にも疲れていた。
「なんだか、疲れちゃった……」
「休んだ方がいいよ。兄ちゃんの飯はいいからさ」
 京は、いつもは昼食が作られていたことを気にして言ったのだろう。今日の美夏は昼食をまだ作っていなかった。
 京の声を聞いて、美夏はそばに一緒に座った京の肩に寄り掛かった。
「おにいちゃん。怖かったよぉ……」
「よしよし」
 思い出すと急に涙が出てきた。美夏はそれを抑えることができず、京の右手を強く握り締めた。
 京は美夏の頭を優しく撫でて、目を瞑った。
「怖かったよな、美夏。だから今は何もかも忘れるんだ」
「うん」
 美夏は頷いて、京の温もりを感じていた。


        第二章 こんな怒り、初めてだった


 目の前が真っ暗だ。何も見えない。
 漆黒の闇の中を、美夏はうろたえて走っていた。
「ハァ……ハァ、ここは……どこ?」
 不安を隠しきれずに呟いた声は、自分でも驚くほどかすんでいた。
 本当に真っ暗だ。その真っ暗な回廊を、美夏はただひたすら走った。
 なぜこんなところにいるのか。ここはどこなのか。そういった疑問が頭の中を駆けめぐる。
 一人きりの恐怖から抜け出したく、美夏は叫んだ。
「誰か! おにいちゃん、どこにいるのぉー 」
 周囲を懸命に見回して探す。おろおろして、美夏は次第に動悸が激しくなっていくのに気付いた。自然に高ぶっていく不安に合わせて、美夏の表情が崩れていく。
 恐ろしい。何が恐ろしいのかは分からない。だが、とにかく何かが恐ろしかった。
「…………?」
 どのくらいの時間、走っていたであろうか。進んでも進んでも終わらない闇の世界に、一線の光が見えた。
 無意識に光に近づくにつれて、その一線の光の下にあるものがはっきりして、美夏はそれが何か分かると勢いよく駆け出した。
「おにいちゃん!」
 気付いたら、突然、暗闇にいる自分。周囲に誰もいない孤独。美夏にとって、それらの解放となってくれる京の姿があった。
 屈んでいる京を見つめながら、美夏は彼に向かって走った。
「おにいちゃーん」
 再度大声で叫ぶと、屈んでいた京がこちらを向いた。美夏は京のそばに寄ると、すがりついた。
「よかったぁ。誰もいないから怖かったよ。気付いたらこんなところにいるし、もう何がなんだか分から  」
「……美夏」
 きつく美夏が抱き締めると、京はさっきまで彼女の方は向いてはいたものの俯いていた顔を上げた。
 酷く沈んだ声に、美夏はそばにある京の顔を見た。
「お兄ちゃん……?」
「美夏……」
 近くで京の顔を見て、今、はじめて気付いた。京の顔が、真っ青だった。力が入っておらず、今にも倒れそうだ。
「ど、どうしたの 」
 美夏は震えている京を支えて、彼の身を案じながら問うた。
「美夏……美夏。腕が熱いんだ……。腕が……。苦しいんだ……、美夏。早く……アイツを」
「え,何  腕がどうしたの?」
 腕という言葉に、美夏は目を下に向けていった。
 それから学生服を着た京の袖を、ゆっくりと上げてみる。
「   」
 そのすさまじい状態に、美夏は絶句した。
 何が彼の腕をこうまでしてしまったのか。美夏はその疑問で頭がいっぱいになった。
 京の左腕、関節の部分から肉が溶けており、中の骨が見えている。滴る血が、その腕に触れた美夏の腕を流れていった。熱い……。
 美夏は、恐怖と、京の苦しむ顔に、どうしようもない絶望を覚え、ただ京の顔と腕に見入った。
「苦しい……からだが……熱い、……美夏」
 今にも死にそうな表情の京の言葉で、我を失いそうになった美夏に、ふっと意識が戻る。「い、いや……」
 美夏は静寂の闇の中で、大声で叫んだ。
「いやぁ   」

「いやぁ   」
 自分でも驚くほどの大声だった。近所迷惑くらいにはなったかもしれない。
「……はぁ……はぁ……」
 美夏は大きく目を瞑った。多量の汗が顔を覆っている。白いお気に入りの袖の長いふっくらとしたトレーナーも、グショグショに濡れていた。まるでついさっきまで水の中に浸かっていたかのようだ。
「ふぅ……」
 おおげさな溜め息をついて、美夏はとりあえず落ち着くのを待った。
   ゆ……め……か。
 まるで現実のような映像が、しっかりと脳裏に焼き付いている。本当に夢だったんだろうか。恐ろしく現実味があって、今みた夢が生々しかった。
「はっ 」
 急に襲われた不安に息を飲んで、美夏は瞬間的に辺りを見回した。
 辺りの様子、自分の心配したことが的中していなかったことに、美夏は深く安堵した。
「よかった……」
 小声でそう呟いて、美夏は、すぐそばにいる京の顔を見て、ほっとした。
 京は隣で眠っていた。表情こそ見えないものの、静かな寝息とともに疲れを癒しているように思えた。
 まさか今の夢が本当に起こっていたとしたら……、そう思った美夏には、当たり前のようなことでも京の無事な姿がうれしかった。
 大きく溜め息をついて、美夏はしばらく、眠っている京の肩に寄り掛かっていた。
 時計の針の動く音。それ以外は何も聞こえない。静寂に満ちた部屋の中を、美夏は座ったまま見渡した。
 窓から射し込んでくる夕暮れの日差しが、床の一部を照らし出す。その光景は、大抵、毎日見ているものなのだが、いずれの日もあまり意識して見るようなことはなかった。
 今日は、それが妙に気になる。まるで何か不吉な予感を感じさせるような、そんな不気味な色だった。
「いつの間に眠っちゃったんだろう……」
 昼間の、今はもういない怪しい男のことを思い出してしまう。思い出すだけで、背中に悪寒が走る。なるべくそのことは忘れるよう試みたが、なかなか忘れられない。
「五時三十分……か」
 時計を見ながら、読み取った時刻を無意識に声にしてみた。
 夕暮れ時というのは、美夏にとって、あまり好きな時間帯ではない。一日が終わるという前兆、それは淋しいだけのものだと、美夏は毎日この時間が訪れる度に思っていた。「さてと」
 美夏は、眠気のせいで多少モヤモヤした視界から抜け出すように、切り替えの言葉を発した。
 気分を入れ替えて、京の肩にかけていた体重を戻すようにして立ち上がる。同時に京の体を押すことになったが、彼は深く眠りについているようで、まったく動かなかった。
 昼間の男のせいで不安をかかえていた美夏。それをずっと見守っていた京。美夏は、心の中で感謝した。
 TVをつけて、音を最小にいた。静かな部屋の心細さから逃げるには、TVが一番だった。
「うーん……、今日は何にするかまだ決めてなかった」
 夕食のメニューは大体昼頃に決めるのだが、今日は怪しい男が来たせいで、まだ何も考えていなかった。
 冷蔵庫を適当に覗いて、何にしようかと考える。ふと、ここ数日はお店に買い出しに行っていないことに気付いた。
「あぁ……」
 嘆息して美夏はかゆくなった目を擦った。まだ眠い。
「まぁいいや。とにかく何か作ろっと」
 眠っている京の方を無意識に見て、美夏は微笑した。

 グツグツ
 有り合わせの材料で作ることにしたのは、カレーライス。
 昔から、なぜか馴染みの深いメニューで、作るのがとても好きだった。味にはかなりの自信がある。
 ちなみに美夏にはもうひとつ、自信のある料理がある。ハンバーグ系統のメニュー。五種類ほど作れる。お祝いどきにしか作らないのだが、その味は絶品だ、と京はよく言ってくれる。
「カレーは何日ぶりだったかな」
 最近の料理は大体自分が考え出したものが多く、一般的な料理は作っていなかったので、美夏はそんな考えにふけってしまった。
 しばらく経って、適度な煮え具合になった。
「そろそろいいでしょ」
 誰かに問うような口調でそう呟くと、美夏は大鍋の中をおたまでかきまぜていた手を止めて、弱火にしていた火を止めた。
 ジャーに入ったご飯を適量、しゃもじで掬って大きめの皿に盛る。ルーをその上にゆっくりとかけた。それをもう一度、繰り返して、それら二つの皿を両手に持つと、テーブルの前まで持って行く。
 っと、
「いい匂いがする」
「あ、おにいちゃん。起きた?」
 ちょうどテーブルの上にカレーライスを置いた時、部屋の隅で眠っていたはずの京の声が聞こえた。
 どうやらカレールーの匂いで起きたらしい。
「今日はカレーなんだけど、いいよね?」
「あ、ああ」
 どこか力のない京の声だったが、美夏はその返事だけで満足して、笑顔を作った。
 夕食を食べる気力がないのか、いまだに顔を伏せて座っている京を見て、美夏はテーブルの前にある椅子に座ると、「うんうん」と頷いた。
「おにいちゃん。疲れてるかもしれないけど、食べないとダメだよ」
 カレーライスの中に入った大量の野菜を思い浮かべながらそう言って、京の方を見てみる。京は一瞬だけはにかんできたが、すぐに顔を伏せた。
「? おにいちゃん、食欲ないの?」
 美夏は、普段の京と今の彼が異なることを怪訝に思い、首を傾げた。
 黙ったまま部屋の隅に座り、京は顔を伏せている。表情が悟れない。
「どうしたの?」
 不安そうに問う美夏に、京はやはり何も応えなかった。
 そんな京の様子を訝しく思い、美夏は椅子から立って彼のそばに寄った。
 そばまで来た美夏に気付かないのか、京はただじっとしていた。いや、震えている。
「おにいちゃん? ちょっと……こっち向いてくれる?」
 美夏は、京がこちらを向かないことが、なぜか妙に気になり、そう言った。
 だが京は震えるだけで動かない。
 美夏の胸に、急に不安が襲いかかってきた。そのせいで体がすくむのを感じる。京の身が、異常に心配になった。
「おにいちゃん、こっち向いて!」
 大声で叫んで、美夏は京の顔に手を当てた。そして無理やりこちらを向かせる。
「   」
 真っ青な顔だった。その言葉どおり、京の顔は死んだように真っ青になっていた。
「ど、どうしたのこれ 」
 思ったことをそのまま京にぶつけて、美夏はあたふたと息を激しくしていった。
 苦痛に苛まれた京は、何か言いたそうだった。京の口元を見て美夏は耳を傾けた。
「美夏……何でもないんだ。心配すること、ないよ。兄ちゃんは……」
「なに言ってるの  これのどこが大丈夫なの 」
 何を隠しているのかは分からないが、何かを隠し、そして京はそのことを心配させないようにしている。美夏は直感的にそう思った。いや、それ以前に京の顔を見れば誰にでもそんなことは分かるだろう。
 美夏は京の身を心配して、「何かの病気かも」と判断すると、電話のある隣の部屋へと急いだ。
「救急車呼ぶから、おにいちゃん、ちょっと待ってね」
 近くにある病院を思い浮かべながら、急いで電話をかける。
「美夏、兄ちゃんは……大丈夫だよ……」
 電話を終え、苦し紛れになんとか声を出している京を振り返り、美夏は改めて酷い顔をしている京に気付いた。
 瞼が半分も開いていない。唇は紫。表情は、想像上死人だった。
 自分に心配をかけまいとしている京の表情が苦しく思える。
「大丈夫だから……、心配するな、美夏……」
 京がまた、小さく声を出した。
「……なんで、なんで嘘つくの? そんな嘘、うれしくないよ」
 美夏の必死の目を見て、京は哀しそうな顔をした。
 その時、美夏は京の左腕に、何か違和感を感じた。
「…………?」
 京の左腕だけを見つめて、美夏はゆっくりと彼に近寄っていった。
 美夏の、自分の体のどこかを真剣に見つめてくる視線に気付いて、京は口を開いた。
「どうしたんだ……美夏。……兄ちゃんは、何ともないぞ。来るな……」
 隅に寄り添って逃げていくような京に、美夏は近づく。
 そして京の体に触れて、美夏は彼の学生服の左腕袖を上げてみた。京は、美夏のその行為を止めさせようとするが、抵抗できないほど衰弱していた。
「  え 」
 京のその腕を見たその時、一瞬、美夏の体が硬直した。脳裏にある記憶が蘇ってくるのを感じた。
 そう、『夢』。
「ど、どうして…… 」
 唇を震わせて、心臓を激しく鳴らして、美夏は、つい一時間ほど前にみた夢を鮮明に思い出した。
 なぜ今まで気付かなかったんだろう。それよりもなんで京の腕が、こんなことになってしまったのか。
 まるっきり  ではないがほとんど夢と変わらない光景に、美夏は恐怖のみを感じた。「美夏……見ちゃだめだ」
 京が苦しそうに美夏を止めようとするが、美夏はじっと彼の腕を見つめた。
 京の左腕。間接の部分から下の肉がなくなっており、中の骨が見えている。
 ただ夢と異なっているのは、血が流れていないことだ。だがその代わりに、映像が生々しい。
 京の腕が、見ていて痛々しかった……。
「おにいちゃん、これ……どうしたの  腕がすごい状態だよ! なんでこんな……?」
「……はは、ごめんな……美夏、心配かけて……。ほんとに、ごめん……。兄ちゃん、……ドジっちゃって……さ」
「え? それじゃよく分からないよ」
「はぁ……はぁ……」と息切れをする京を見て、美夏はしばらく考えた。
   いつこんな怪我をしたの?
 その疑問のついでに気づいたのは、京の腕がしばらくの間、何かに当てられていたようだったことだ。おそらく出血を止めるためだろうと、美夏には思えた。
 さっきまで元気そうだったのに、……なぜ? いつの間にこんなことに。
 美夏はそう思いながら、ふと昼間のことを思い出した。
 怪しい男が、ドアの外で鍵を開けようとしていた。その現場を京が見つけて、彼の絶叫とともに男は去った。そう美夏は京に聞かされていた。
 絶叫は男の裸体に驚いてしたもの。
   けど、本当にそうなの?
 そんなことであそこまで凄まじい声を京が出すはずがない。今になってようやくそのことに気づいた。
「……とすると、あの時の絶叫は……」
 考えをまとめて、美夏は確信した。
 京のこの腕の怪我は、その時にできたものなのではないだろうか。
 あの凄まじい京の絶叫は、腕を切断されたから発せられたものなのではないか。
「……そう、そうとしか考えられない」
「美夏……? 何を言っているんだ……」
 京の声がか細く聞こえる。
 美夏は、こちらを見上げて苦しそうに壁に頭を寄りかけている京に、今、考えていたことを単刀直入に聞いた。
「おにいちゃん、昼間に来た男にやられたんでしょ」
「美夏……。そんなことを聞いて、どうするんだ……?」
「やっぱりそうなのね!」
 京の問い返す言葉に、美夏は自分の考えていたことが的中したことを悟った。
 ちょうどその時、
 タッタッタッタッ
 ドアのすぐ外から、急いで去っていくような足音がした。まるで逃げていくような、そんな音に聞こえた。
「もしかして……!」
 美夏は玄関の方を振り返った。
   今、あの男はすぐ外にいたんじゃっ。
 階段を降りる激しい足音が聞こえる。美夏はその足音を聞いて、立ち上がった。
「……美夏! 何をする気だ……!」
 後ろから京の声が微かに聞こえた。美夏は振り向いて、京の目をじっと見つめて、彼に言い聞かせるように言った。
「ごめんなさい、わたし、救急車に付き添えない。もう少ししたらお医者の人が来るはずだから、静かにしていてね」
「お、おい……美夏!」
 京が何かを言いかけて、だが苦しくて声を思うように出せないのは気にせず、美夏は大きく頷いて  
   そして玄関の方を再び振り返った。
「美夏……!」
 美夏は、京の引き止めようとする言葉に背を向けたまま、急いで玄関まで走った。
「おにいちゃん、わたしが敵討ちしてあげるからっ 」
 靴を履いてそう言うと、美夏は玄関脇に置いてあった黒い傘を手に持って、すぐさま鍵を開けてドアを開けた。
「かたきうち? 美夏……! 待つんだっ……!」
 美夏は、背中越しに微かに聞こえた京の声を体全体で受け止めた。
「敵討ちだなんて……」
 閉まったドアを漠然と見ながら、京は続きにくい言葉を無理やりにして声に出した。
「……まだ兄ちゃんは死んでいないのに……」
 少し、悲しかった。

 苦痛を耐えながらも自分のことを心配してくれる京の言葉に、本当はすがりたい。
「でも……」
 胸の中で燃える……熱い想い。それがそうすることを許さない。
 階段を走って降りて、アパートの前まで出た。多少肌寒い空気が、今の美夏にはちょうどよく感じられた。
 ふと、脳裏に京の顔が浮かんだ。苦しそうだ。
 自分のことを一番理解してくれる、たったひとりの男性、それが京だ。
 そんな彼を傷つけた男が、美夏にはたまらなく憎かった。
「絶対に……許さない 」


                  第三章 安堵したわたし


 意外に、夜のアパートの外は暗かった。
 左右を交互に振り返り、少しの間じっと立ち止まってみる。
「……こっちね」
 直感的にそう感じて、美夏は路地を左に曲がった。
 先刻、ドアの外で不審な足音が聞こえて急いでアパートの外に出た美夏は、周囲を見回した。
 時計は持っていないが美夏の覚えている限りでは、現在の時刻は午後七時といったところだ。
「ついこの前までは、まだこの時刻でも明るいはずだったのに……」、そう思いながら夜の闇を恨んだ。秋にさしかかり、そして冬へと向かうように、そばに立っている木々は様々な意味で変貌していく。
 アパートを出て、正面に少し歩くと大きめの通りに直面する。その通りは気にせず、美夏は脇道へと向かった。その脇道へ出てしまうと、中は入り組んだ道に入ってしまうため、誰構わず隠れた人間を捜すのは困難になる。
 男がこの辺に住む者だとするのならば、この脇道を選ぶ可能性が高い。
「はぁ……はぁ」
 胸が締めつけられるように苦しい。さっきから全力で走っているため、息がしにくいうえ、体がばててきている。だが止まるわけにはいかない。
 男を捕まえて、そしてその後、自分は男にどういう仕打ちをするつもりなのか、走り始めてから急にそんな考えが美夏に浮かんできた。
 京の様子を見ていて、昼間の男が京に怪我をさせたと悟った時、その時は男を殺してやりたい! そう思った。
 だからこそ、こうやって外まで追いかけて来たのだ。
 だが今、こうやって走っていて冷静に考えてみると、
「……そんなことしても……どうしようもない」
 息切れの間に呟く。
 でも、おにいちゃんの仕返しだけはなんとしてもしたい!
 たとえ無意味なことでも、何か、攻撃的なものを男に与えなければ納得できない……。
 幼児的ではあるがその想いだけが、美夏を走らせていた。
 住宅街。美夏と京の二人の住んでいるアパートは、同じものが幾つか連なって建てられている。
 それぞれが同じアパートだというのに、それぞれがバラバラの位置に建てられているため、しばらく住んでいる美夏でさえ、あまり住宅街全体の構図が把握できていない。
 夜の闇をものともせず、静まり返った住宅街を懸命に走る……。
 しばらく路地を走っていくと、再び道がわかれた。
 ……今度は十字路だ。
「……あ~、もう!」
 いい加減体力の限界に、足の力が入らなくなってしまった。
 さっきからしつこく分割されていく道に、精神的にも疲労を感じる。
 しかし男に復讐がしたい。その想いは今、こうして道端に膝がついてしまっていても変わらない。
 だが、もう限界だった。悔しいが、美夏は諦めた。心の中で、京の顔を思い浮かべてみる。
「……もう、駄目」
 男はおそらく、もう遠くへ行ってしまっただろう。
 極度の疲労と、京を襲った男に復讐できないという、どうしようもない悔しさ。そして、よくよく考えてみると、部屋にいた時にドアの外で聞こえた、いかにも怪しい足音。あれは本当は男のものではなかったのかもしれない。
 ひとり、暗く、そして入り組んだ路上で屈み込んでいる自分……。
 情けなけなくなってきて、美夏は急激に悲しくなってしまった。
「……わたし……、馬鹿みたいだよね……」
 その呟きからしばらく、美夏はじっと静寂をひとり感じて、奇妙なまでの静けさに、今、自分が何をしているのかを認識した。
 疲労で動けなくなってしまった体を無理に起こして、自分の家の方角を向く。
「……もう男のことは諦めよぅ。……救急車、家に着いた頃だよね」
 そう呟いて、美夏は今まで夢中に走ってきた時の想いを仕方なく捨て去った。
 それよりも京のことが気にかかる。救急車の、あの「ぴーぽー」という音は、家から少し離れてしまったためか今のところ美夏には聞こえていない。
 家に向かう途中、美夏はあの痛々しい京の腕のことを思い出した。
 いや、正直なところ美夏が気にかかっていたことは、京は本当に無事なのか、ということである。
 京は何も話してくれなかったため断定はできないが、傷つけられたのは昼間のことだと思われる。
 そして仮に、昼に左腕が半分切られていたとして、それから京の異変に気付いたのは、約六時間後のこと。
「おにいちゃん……」
 一際不安に襲われる美夏は、走る速度を上げた。
 腕が半分に切断され、何の手当もしないで六時間もの時を過ごしていたら、平気でいられるものなのだろうかという疑問が、詳しく人間の体について知らない美夏に、不安とともにまとわりついた。
 息を飲んで、とにかく家へと急ぐ。
(そういえば……)
 もと来た道、今度は二手にわかれている道を、右に進んだ。
(そういえば、お兄ちゃん、帰ってきた時、すごく元気そうだった)
 ふとそんなことを思い出した。
 昼間の、何ごともなかったかのように家に帰ってきた京のこと。
 ……だが、あの時にはもうすでにあの男に腕を切られていたはず。
 美夏の眠っていた空白の時間。
 敏感な美夏である。眠っていたとはいえずっと京の肩に身を委ねていのだから、もし京が少しでも動いたとするのなら、目を覚ましたはずである。そのため、京がどこかへでかけた可能性は、ありえない  そう美夏は考えた。
 とすれば、やはり京は家に帰ってきた時から激痛を我慢していたことの確実性は増す。だが京は笑顔だった。
「…………」
 美夏はそこまで考えて、息ができなくなってしまった。
 本当は苦しいはずの京が帰ってきた時、自分はどういう状態だったのか。
 恐怖に戦き、部屋の隅で座っていたのを覚えている。
 美夏はそれを思い出すと、頭の中が切ない想いでいっぱいになり、何も考えられなくな
ってしまった。
   きっとおにいちゃんは、わたしに心配をかけまいと思って何も言わなかったんだ。 はぁはぁと息をして、再び走りだす。
「…………」
 美夏は、京が許せなかった。
(わたしのことなんて、心配しなくてもいいのに……!)
 心の底から、京に伝わるよう強く思った。
 いや、しかしこれはあくまで美夏が推測したものである。実際は腕の怪我の時間帯も、笑顔だった理由も、美夏の考えとは異なっているかもしれない。それは京に聞かなければ分からない。
 だが美夏は、そのことを京に聞いたところで彼が本当のことを話してくれるはずがないことを知っている。もとよりそんなことを聞くつもりはない。
「…………」
 かわりに美夏には、京に言いたいことがひとつできた。
 いや、『できた』というのは少し違うのかもしれない。
 むしろ、幼いながらも初めて出会った時から心の中に秘めていたこと。
 そう、それは……
 刹那っ、
「   」
 路地を走っていた美夏の目の前が真っ暗になった。
 唐突に現れた真っ暗な視界のせいで、さらに動悸が激しくなっている。美夏は息苦しさに顔をしかめて、自分の置かれた状況を瞬時に考えた。
 もう少しで、自分たちの住むアパートの前に出るところだったはずだ。
 だがそこで、突然、視界を遮られたのだ。
「ゲヘヘヘ」
「  !」
 奇妙な声が目の前から聞こえた。
 とっさに一歩、後退する。
 その時になってやっと理解した。目の前が真っ暗になった理由を。
 夜の闇に、突然、現れた黒い影の正体は  
 男だ!
(……こ、この人だ! ドアの外にいた人は!)
 美夏は、昼間、ドアの外にいた男の姿を思い浮かべると同時に、京の言っていた男の容貌を思い出した。
 夜の暗い色に合わせたような真っ黒のレインコート。加えて怪しい光を放つ、真っ黒のサングラス。高い身長に比例するように太ったその巨体。中年太りとでも言うだろう、下腹部が妙に膨らんでいる。
 男は奇妙な笑みを浮かべて、美夏に寄ってきた。
「  い、いや 」
 生理的に男を毛嫌い、また一歩、後ずさる。
「へっへぇ……、まぁ待ちなよ」
「寄らないで!」
 こ、こわい……! あらゆる意味で、美夏は心の中でそう思った。
(……ど、どうしよう)
 美夏はさっきまでの強きな想いはどこへ行ったのか、恐怖に顔を引きつらせていた。
「ねぇお嬢ちゃん……」
 ビクッ
 男のいやらしい目を見て、不気味な声を聞いて、体全身が震えるのを感じた。硬直して動けなくなる。
 恐怖が、からだ全体に染み込んできた。
 男の目的を、とっさに考えてみる。置かれた状況を考えれば、その答えは簡単だった。
(この人……、もしかして昼間ドアを開けようとしていたのも、このことが目的で )
 そう考えて、美夏は心底恐怖した。
 そんな美夏に、男は少しずつ近づいてくる。ボソボソと何かを呟きながら、男はゆっくりと、ゆっくりと歩いてきた。
 美夏は顔をひきつらせて、正面に迫る男から後ろを振り返った。
「……え 」
 今まで真っすぐに走ってきたのだ。それならば、正面に男が現れたのだから後ろを向けば、逃げる道  即ち今走ってきた道があるはずである。
 だが、……おそらく男に恐怖を感じて無意識のうちに動いてしまっていたのだろう、美夏の向く方向には壁しかなかった。
 背後、左右両方も高い壁のみ。
「……はぁ、はぁ」
 急に心臓がバクバク鳴り始めた。耳にまでしっかりと聞こえる音を聞きながら、美夏は退路を絶たれたことを理解した。
「だれかぁ!」
 美夏は襲われることを恐怖して、男が自分の大声を遮ってくることを予期しながら大声で叫んだ。だが、男は、美夏が助けを呼ぶのをただ黙って見ているだけで何も咎めてこない。
 そんな男を怪訝に思うが、再び美夏は叫んだ。
「だれか! だれか、助けてー!」
「無駄だよ」
 叫ぶ美夏を静かに見据えると、男は小さく呟いた。
 その後しばらく助けを求めたが、確かに誰も来てはくれない。人の気配も感じない……。(……そ、そんな……。  ん?)
 だが  そこで美夏は一瞬、冷静に見つめ直してみた。
(……なにを……なにを脅えてるの、わたし)
 夜空を見上げて、震えている足と手をギュッと引き締めて、自分がなぜ、外に出ているのかを思い出した。
「わたしは……」
 美夏は呟いた。そして心の中で考えた。
 『復讐』。
 そう、そのためにここにいるのだ。復讐の対象、その男から来てくれたのだ。むしろ好都合ではないか。
 恐怖を感じながらも、自分の意志を貫くように男と対峙した。走っていた時も自分の右手に握り締めていた、家から持ってきた黒い傘を前に出す。
 両手で握ると、美夏はなんとか男に対する恐怖に対抗するように、唇をきつく噛んだ。
「ヒュー、かわいいねぇ、その格好。そんな傘でどうするつもりだい?」
「おにいちゃんの腕をあんなにしたのは、あなたでしょ!」
 美夏は、最後に確認するように男に強く言った。美夏のその様子を笑いながら見て、男は大声を出した。
「ゲヒャヒャヒャヒャヒャ」
「な、何がおかしいの 」
 美夏は、男の異常な姿をじっと見つめていた。
 しばらく笑い、男はゆっくりと顔を掻いた。大きな欠伸をして、溜め息をつく。
「何を言うかと思ったら……。なんだよ、そんなことかよ。あの男、お嬢ちゃんの兄貴かい。おれはてっきり、彼氏かなんかだと……。ふっ、そうだよ。そのとーり。おれの邪魔すっから腕切ってやったの。腕切るのってのは、並大抵の力じゃ無理なんだな、これが。骨が堅いんだよねぇ、知ってた?」
「…………」
 美夏は何も言わずに静かに男の続きを待った。
「なにもそんなに怖い顔すんなよ。たかが腕一本だろ? おれとお嬢ちゃんのこれからのお楽しみに比べりゃ、たいしたことじゃねーじゃん、な?」
「……最低だよ」
 他人事のようにそう言って近寄ってくる男に、美夏は吐き捨てた。
 京の苦しそうな顔を思い浮かべる。心の底から熱いものを感じた。目の奥が熱い。頬に流れるものを感じて、美夏はひたすらに冷静な心を求めた。
 ゆっくりと傘を男に向けると、美夏は目を一旦、閉じて、ゆっくりと開く。
 そして男の顔を凝視した。
「あなただけは、許さない……!」
 涙声が入っていたが、美夏は自分でも驚くほど恐ろしく落ち着いた声音を発していた。
 だが、そんなことは今はどうでもいい。目の前にいる狂人、それを倒すことだけを美夏は考えた。
「たああぁ!」
「へっへー」
 美夏は渾身の力を一本の傘に込めて、男に向かって上から振り下ろした!
 ボグッ
(   )
 その瞬間、時が止まったかのような静寂な夜を感じた。妙に柔らかい音が、静まり返ったこの小さな路地に響いた。
(やった……の )
 男の頭上に美夏の傘は強烈に当たっていた。代わりに両腕に伝わってくるビリビリした痺れのようなものが、妙な感覚だった。
「……うぐぁ」
 頭を抱えてゆっくりと後ろに下がっていく男に、あっさりすぎて、美夏には自分の力で男を倒せたという実感がしばらく沸いてこなかったが、数秒、男が蹲っているのを見て、京の復讐を果たしたことを感じた。
(……けど、こんな簡単で、いいのかな)
 苦痛に顔を歪ませた男は膝を地面につけた。
 とにかく屈んでいる男を上から見下ろし、美夏は男に大声で言った。
「あ、あなた、自分がおにいちゃんに何をしたか、よく考えて! わたしはあなたを、絶対に許さないからっ!」
「そ、そうかい……。うぐぐ……」
 美夏の言葉に静かにそう応えると、男はしばらく止まった。
(とにかくこの人には、自分のやったことを反省してもらわなくてちゃ!)
 美夏はそう思って、倒れている男のそばに近寄った。
「あなたはいつも、おにいちゃんにしたみたいに、ためらいなく人をすぐに傷付けたりするの?」
 そう問うと、男は顔を上げた。
「……だとしたら?」
 男の問いに、美夏はきっぱり言った。
「最低  それ以外の、何者でもないよっ!」
「……そ、そうかい……。だったらその最低以外の何者でもない男が、どこまで、そして何ができるのかを  」
 息切れしながらも、男は小さく言った。
「?」
 眉をひそめて、美夏は男の言った言葉の続きを待った。
「見せてやるぜぇ  ゲヘヘェ」
「   」
 そう言い終えた瞬間、男は瞬時に美夏に跳びかかった。
「きゃっ」
 美夏は自分に襲い掛かる素早い男に反応できず、そのまま押し倒された。
(そんな! 思い切り頭を叩いたのに……。効いてない! やっぱり、あんなに簡単に終わっちゃいけなかったんだっ)
 後半部分は多少おかしな解釈だったような気もするが、とりあえず美夏の頭の中には瞬時にその思いが走った。
 美夏の傘で強打されたはずの男は、何事もなかったかのように口元に笑みを浮かべて、美夏の顔に自分の顔を近づけた。
「さぁ~てさてさてさてっ。ヘヘヘ~、お楽しみはこれからよぅ」
「きゃああ!」
 仰向けになった美夏の上に、馬乗りになるように男は乗った。その拍子に傘を振り落とされ、両腕を地面に押し付けられる。
「や……、やめて!」
「なぁお嬢ちゃん。手初めにちょっと聞いていいかい?」
 両腕を押さえ付けられながら、美夏は男が何を言いたいのか、疑問に思いながら口にした。
「な、なによっ」
「家の中に、タオル、あったでしょ」
「え?」
 お腹の上に乗っている男のせいで、息がしづらい。
 美夏は、男の言葉を頭の中に漂わせながら、今朝の洗濯物を思い出した。
 確か、汚れたタオルがあったのを記憶している。自分には見覚えのない、兄の京も知らない汚れたタオル……。
 そういえばその時は、知らないタオルだったことを気にもとめていなかったが、よくよく考えてみると、見知らぬタオルだった……。
「……も、もしかして、あなたの……なの?」
「へへへ、そうそう。におわなかった?」
 気味の悪い言い方だった。
 嫌な予感がしながら、問い返す。
「……にお……い?」
「くくくっ。実はあのタオルには、おれの体液が染み込んであったんだよ、お嬢ちゃん」
「なっ  」
「お嬢ちゃんの家の外から、窓に投げ込んだのよ。うまく入ったんだなぁ。気づかなかったんだ、お嬢ちゃん。喜んでくれたかい?」
「さ、最低!」
「カッカカカ」
 美夏の軽蔑の眼差しに、男は気持ち良さそうに笑うと、今度は笑いを含んだ目で、美夏の胸元をじっくりと眺めた。
「まあ、そんなことはどうでもいいや、お嬢ちゃん。じゃあさっそく、っと! カカカッ」「い、いやっ!」
 中年とはいえ、体格の大きい男である。力のない美夏には何の抵抗もすることができない。
「お、おねがい! やめ、やめて……」
 美夏の必死の抵抗を楽しむように、男は美夏の白いトレーナーの襟首に手をかけた。
「さてさて、まずはスタンダードに、そして序曲として、上からだよなぁ、ギャハハ。ほらほら……、おいおいどうした? このままだと服が破かれちゃうぜ。もっと叫べよ、も
っと抵抗しろよ、お嬢ちゃん! ケケケ!」
「うぅ……」
 叫んでも  誰も来てくれない。誰かが聞いていてもおかしくないはずなのに、夜の静まり返ったこの路地に、人の気配が増えることはなかった。
「だれか! だれか助けてぇ!」
「そうそうそうそう。それでいいのよ、うん。叫ぶ姿がまた、かわいいねぇ、お嬢ちゃん。ケヒャヒャ!」
   い、いかれてる……。
 美夏はそう思いながら、男の腕を引きはがそうと腕を掴んだ。
 だが男の腕は動くどころか、逆に遊ばれるだけであった。
(……こ、この男!)
 心の底から怒りを感じて、美夏は笑っている男の腕に思いきり噛みついた!
「いで!」
 その瞬間、男はひるんだ  が、それも一瞬のこと。
「はなして!」
 美夏は叫んで、全力で男を振りほどこうとするが、男に全身で乗られているため身動きが全くとれない。
 むしろ、美夏の噛み付いた行動は逆に男に火をつけてしまったようで、中年の、さっまでは笑っていた男の目には、激しい怒りが迸っている。
「こ、このガキィッ! おとなしくしていればつけあがりやがって!」
 怒声を美夏に浴びさせると、男は離れてしまった両手で再び美夏のトレーナーの襟首の部分を強く掴んだ!
「……い、いや!」
「うるせぇ 」
 ビリリ
「いやああーーっ 」
 夜の闇に悲哀の声が響いた。シャツを着ていないトレーナー一枚だけだった美夏。そのトレーナーが、襟元から一気に胸の部分を通りこしてスカートのベルトまで引き裂かれた。 美夏の瞳に多量の涙が溢れた。
 そのとき、
「美夏っ!」
「  ?」
 少し離れた場所から美夏の名を呼ぶ声がした。
 思いがけない、そして信頼ある声に、美夏は心の底から安堵した。同時に、繰り返し見ていたアニメのワンシーンを思い浮かべる。よくある話だったが、あこがれの感動アニメ。「なんだ?」
 男は声のする方の路地を見て、そう呟いた。美夏に乗り掛かっていた体を起こす。
 暗い一本道の向こうから、人影が見える。それは、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
「美夏っ!   み、美夏 」
 その人影は美夏の名前を呼び、そして美夏の姿を確認すると、走る速度を急激に上げた。 人影の顔が見える距離になって、男はフッと笑った。
「なんだよ! またおめぇか。邪魔するんだったら、昼のような怪我じゃすまねぇぞ」
「おにいちゃん……」
 男は影の正体を知ると、昼のことを思い出したようで影に脅迫した。
 美夏の上半身は、さっきまで着ていたはずのトレーナーが破られて、胸が露になっている。
「  っ 」
 人影は美夏を見て、眉間に皺を寄せた。
 胸を隠すことすら忘れて自分の方を見つめてくる美夏を見つめて、影  京は男の方を向いた。
 静かな声で、だがどうしようもない怒りを覚えて、京は男を凝視した。
「……美夏に、何をした……」
 息切れの激しい京の格好を見て、男は笑いながら言った。
「これは怖いねぇ。別にまだなんにもしてねぇよボーズ。安心しろや。ま、とはいってもこれから始まるんだけどなぁ。それより、おれとやるってのか? そんな使えなくなった腕でよ。ケヒャヒャ」
「…………」
 美夏は二人の様子を、ただ見ていることしかできなかった。
 だが、その中でも京の腕は視界に入っていた。
 京の左腕、暗いが大体の様子は一見して分かる。
 美夏は、彼がいまだ腕の処置をしていないことを知った。同時に京が、彼の腕よりも自分を選んだことに、美夏は哀しかったが、とても嬉しかった。
 腕の痛みを耐えながら、京は怒りとともに男を凝視して、そしていきなり大声を出した。「きさまは殺してやる   」
「やってみろや」
 挑発するような男の言葉にのるように、京はどこから持ってきたのか金属バットを右手に持って、男に振りかかった。
「くらえ   」
「なっ」
 京が手ぶらだと思っていたのか、男は驚いて後ろを振り返ったがもう遅い。京のバットが男の頭上を強打する!
 ボスッ
 鈍い音が鳴って、男はその場に倒れた。あっさり倒れてしまった男だったが、美夏は同情する気にはならなかった。
 そのまま男は息をしなくなった……。
「はぁ……はぁ……」
 美夏は、京の姿をじっと見ていた。息切れする京のそばに寄って、京の背中に顔を触れた。
 体をすり寄せて、安心するように大きく息をはいた。
「おにいちゃん……」
「……美夏」
 京の肩は大きく揺れていた。
 男を  いや、男の頭をバットで強烈に叩いたのだ。男の命に問題がないはずがない。 京はそのことを考えて悔やんでいるのだろう。美夏には分かった。『殺す』とその場で言ってはいても、その時の感情だけで、必ずしも現実の問題を踏み越えられるとは限らない。
 だが今はそんなことは考えたくなかった。ただ、京のそばにいたい。心が落ち着ける、そんな安心のできる場所。
「……おにいちゃん、ありがとう。うれしかった……」
 美夏は、今、思っている想いを、そのまま京に伝えた。
「美夏……」
 京の背中を大きく感じて、美夏は疲労と、そして急に安心したことが重なり、その場に膝をついてしまった。
 その様子を見て、京は自分の着ていた学生服を右手だけで上手く脱いで、美夏の肩に優しく掛けた。
 京の、いつでも、どんな時でも優しく接してくれる心に唯一、美夏は心を寄せることができる。
「おにいちゃん」
「……ん、なんだい?」
「……わたしね、お兄ちゃんと一緒にいられるだけで、しあわせなの」
 美夏のか細い声を聞くと、京はしばらく黙り込んで、それから目を瞑って頷いた。
「……うん。兄ちゃんもだよ」
 そんな、京との何気ない話をしているうちに、美夏はだんだんと意識が遠のいていくのを感じた。
「……み……か?」
 それに気づいて、京がこちらの左肩を支えてくるのが分かる。
「美夏……、どうしたんだ」
「ううん、大丈夫」
「美夏! 起きるんだ」
「…………」
「美夏、起きてくれっ 」
 精神的疲労のせいか  
 意識が、なくなった。


                              エピローグ


「美夏! 美夏っ 」
「……うう、ん?」
 美夏は強烈なインパクトのある自分を呼ぶ声に、目を覚まさせられた。
「あ……れ?」
 横になっている美夏の真正面には、心配そうに見つめている京の顔がある。
 その京を通り越した先の光景、多少汚れた天井がある。
 腰を起こして周りを見渡した。見覚えのある光景に、美夏は片目をひそめて考え込んだ。「あ……れ?」
「美夏、大丈夫か?」
「え……? あ、……うん」
 すぐそばにある京の顔を見て、美夏は彼の問いにあやふやに応えた。
 家に、戻ってきていた。そのことに気付くのに多少時間がかかったが、とにかくあれからどうなったのかを美夏は必死に考えた。
 男に襲われた美夏のところに京が来た。その後、京がバットで男の頭を叩いて、深く安堵してから、それから……。
(記憶が……ない……)
 しばらく考えている美夏を見て、京は立ち上がった。
「ちょっと心配したよ。うなされてるんだもんな」
「……うなされてたんだ、わたし」
「ああ。それも『おにいちゃん! おにいちゃん!』って、兄ちゃんのこと、ずっと呼んでたんだよ。だから兄ちゃん起こしたんだけど、……大丈夫?」
「う、うん。なんとか」
 美夏はさっきまでのことを思いだして、大きく溜め息をついた。男のしたことを思い出すと体が震える。
(……あんな男、死んで当然だよっ!)
 心の中で大声を出した。
 再び溜め息をついて、美夏はその拍子に胸の部分を触ったみた。
「……え?」
 パジャマを着ていた。美夏は破れたトレーナーを着ていたはずだった。
(……おにいちゃんが着替えさせてくれたのかな)
 そんなふうに思って、美夏はちょうど京が洗面所から戻ってきたところを聞いた。
「おにいちゃん。パジャマ、おにいちゃんが着せ   」
「どうした、美夏?」
 途中まで聞いて、美夏は京の左腕に目がいった。
「おにいちゃん! 腕、なんであるの 」
「え?」
 美夏が問うと、京は気の抜けたような声で問い返してきた。
 京の左腕は、あんなに酷い状態だったのに、再生でもしたかのように  いや、何事もなかったかのようにきれいな腕をしている。
 美夏の問いに、しばらくの間、京は考えていたが、軽く微笑して布団の上に座っている美夏のそばに寄った。
「美夏、寝ぼけてるな? おかしな夢でも見たんじゃないのか?」
「え? だ、だっておにいちゃん、あの男に腕を切られたんだよ」
「男? ……ははっ、初めてだなぁ。美夏がこんなに寝ぼけてるのなんて」
「わたし、寝ぼけてなんか……」
 京は笑って美夏に言うと、テーブルの前の椅子に座った。
 美夏はその様子を見て、しばらく考えた。
「あ、美夏。今日の朝食は兄ちゃんの分はいいから。目覚ましで美夏が起きれないなんて、今までなかったからなぁ。それほど夢が辛かったんだろ」
「……目覚まし?」
 そう言われて、美夏は布団の横を見てみた。いつも美夏の使っている目覚ましが置いてある……。
 朝の心地いい空気が、美夏の顔の周りを漂う。涼しい風が、何よりすがすがしかった。
 見慣れた部屋を一望してから、美夏は起こしていた腰を倒して、布団の中にもぐりこんだ。
(……夢……?)
 ゆっくりと、じっくりと考えてみた。
 美夏は男に襲われそうになった。京の腕は、男に切断されたはずだ。だが、京の腕は完全に無事だ。美夏の、男に押し倒された時に擦ってできた腕の傷もない。
 そして何よりも、京が笑って、美夏が寝ぼけている、と言う。目覚まし時計も、布団のそばに置いてある……。
「…………」
 美夏はゆっくりと、じっくりと考えてみた。
「……ゆ……め」
 布団の中で何回も、何回も、何回も呟いてみた。
「ゆめ……」
 ……確かにそう考えるのが、一番、自然……。
「そ、そんな、夢だなんて……」
 急に疲れてきて、美夏は大きく溜め息をついた。
 嫌な出来事であったのは確かだが、だがそれが夢だったとなると、複雑な気分になる……。
「……ん? なんか言った?」
 ボソッと呟く声に気づいて、京がこちらを向いた。
「う、ううん、なんでもない」
 京の声を聞いて、美夏は心底安堵した。

 ついこの前は夢でもなんでもいいから、何かあることを望んでいた美夏ではあった。
 が、もし現実に、夢の中のような出来事が本当に訪れたとしたら  
(…………)
 嘆息して、美夏は心の中で、こう思った。
(……やっぱり平凡な生活が、一番いいな)





                              FIN.

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