2017年2月19日日曜日

季節の変わり目④



                              プロローグ


 北海道の中でも、北東に位置するこの地。
 冬の寒い風が絶え間無く吹き抜けるこの空間で、何を想うのか。それは人によって多々異なる。
 様々な想いが、表面には現れることなく漂う人々の心の中。ここにいるかれらの心の中でも、その想いは様々に形成されていた。
 全身にこたえる寒さに身を竦めて、このところ外に出ることすら嫌になる。
 しかし、今日は例外だ。
「おにいちゃん、チョコレート、はいっ」
「ありがとう」
                                                                   しげや
 目の前で、まるでこちらに見せびらかすようにやりとりをするふたりの男女に、茂也は恨めしそうに顔を歪めて唇を曲げた。
 二月十四日、茂也にとっては真冬と言ってもおかしくない、目茶苦茶に寒い時期  というか日、である。
 この時期の北海道、ただでさえ気温が低いというのに、こんな日があるからこそ極度の寒さに凍えて、さらに自己嫌悪に陥ってしまう男性が続出するのではないかと思えるくらいだ。
 レインボー公園という、そこそこ公園としての広さを持つ、近所の住民  特に小さな子供が遊びに来る公園が、茂也の家から歩いて四十分くらいのところに、ある。
 茂也を含む三人は、その公園のベンチに座っていた。
 むっとした表情で、茂也は隣で愛くるしい笑顔で微笑みまくっている少女を見た。
「ねぇ美夏ちゃん、俺にはないのかな……?」
                                    み か
 という茂也のちょっとばかり期待を含んだ問いに、少女  美夏は笑顔で振り向いて、彼と自分との間に置いてあるバッグの中を探った。
 茂也の期待の含んだ問いももっともで、極寒の外へと出て、わざわざこうして公園までやってきた理由というものが、まさにそれだったからである。
 ぬくぬくと家にいた茂也に、美夏が突然、電話をかけてレインボー公園まで来てくれというので、今日という日に相当の意識があったため、茂也は微かに期待していた。
 そんな茂也の思いが通じたのか、美夏はバッグの中から何やら四角い箱を取り出した。
「はいっ、これ、茂也さんのチョコ。手作りです。もらってください」
「うおおぉっ! サンキューサンキューサンサンキュー、美夏ちゃん  これだよ、これなんだよ、俺が求めてたのはっ」
「サンキューは連続しなくてもいいよ、茂也」
                                                 きょう
 茂也は、美夏越しに多少こちらを馬鹿にしたような表情で見てくる青年  京の言葉を聞くと、さっきからずっと笑顔でどうしようもない美夏の脇から顔を覗かせて、嘲笑した。
「ふっ、京。俺はな、自慢じゃねぇけど、十八年の歳月ん中で、チョコもらったのは総計して五個に達してねぇんだよ。そんな俺にくれる美夏ちゃんに、礼を何度も言わなくてどうする! ああ、なんと喜ばしい女の子なんだ、美夏ちゃんは!」
「ありがと、茂也さん。そう言ってくれるとわたしも嬉しいなっ」
 茂也の熱い言葉とともに自分につかみ掛かってくる両手を、美夏はちょっとだけ怖く感じたがそれでもやはり笑顔のまま、正面から迫りくる茂也の目を見つめた。
 四人座れるほどの大きさのコンクリートベンチ。
 体格の大きい茂也はその半分を占領して、残りの半分に座っている美夏と京、ふたりの兄妹を見つめて、続けた。
「……っつーか、よくよく考えてみたら、俺、いまだかつて美夏ちゃんにしかもらったことねぇんだよな……。そう考えると、すっげー優しい美夏ちゃんは最高だよ。お袋と妹はくんねぇしさ。学校の女どもはなぜだか俺から遠ざかるし。なんでだろーな」
「さ、さぁ」
 雲のかかった空を見上げて、茂也が何やら感慨深げになっているのについつい見入ってしまう美夏だったが、とりあえず彼を見続けた。
 見続けた……。そうしてやらないと、なんだか茂也に悪いような気がしたからだ。同時に、同情もしたくなる。
「そんな俺にくれるなんて、美夏ちゃん、ありがとうっ、茂也は嬉しいよ。本当に、本当に茂也は感無量だね」
「いえいえ、どういたしまして」
 とまあ美夏がそう相槌するわけだが、それから何度も何度も何時間も同じことを繰り返す茂也の口は、京はまだしも美夏の口までも閉ざすことになった。
 四人座れるほどの大きさのコンクリートベンチ。両脇に座るふたりの男性、茂也と京。ふたりの間に座る少女  美夏。
 その少女が十四歳になったのは、十二月のクリスマス・イブの日。
 それから二カ月ほどした今日、美夏はこうしてわざわざ公園まで来て、京と茂也にチョコレートを渡すという、単純ではあるが彼女にとっては重要であるイベントを考えた。
 そして今、それを無事に終えた。満足する終え方をしたと言っても、間違いではない。
 ずっとこちらに礼を言い続ける茂也を見上げながら、美夏はふと思った。
(……あと一カ月で卒業式だね、茂也さん、おにいちゃん)
 茂也と、その友人である美夏の兄。ふたりの卒業式というものに、美夏は興味があるのと同時に楽しみにもしていた。
(高校生も、もう終わりなんだね……)
 そんな美夏の期待する彼らの高校卒業式も、あと一カ月後に控えた。


           第一章 胸の中で蠢く焦燥から


  いわた  かずお
 岩田 和雄。十八歳。高校三年生。あと一カ月もすれば、現在通っている道立山上高等学校を卒業する。
 見た目、平凡な青年だ。
(…………)
 二月中旬のある日、雪の降り積もった家の外の景色を眺めながら、和雄はしばらく黙り込んだ。
 今いるのは、自室である。三階建ての一軒家。その二階に位置する八畳間のこの部屋で、彼は眉間に皺を寄せて、だがその表情とは裏腹に感情を抑えた声で、ゆっくりと口にした。「ぼくは、やっぱり嫌だよ」
 そういった否定的なことを口にすることが、今までの人生の中でどれだけあったか分からない。今のを含めても、まだ十回と達していないだろう。
 というのも、和雄は今、自分の口にした言葉を聞いているはずの人物に、逆うという思いが生まれたことが数少ないからである。
 和雄の感情の欠如した声。それを極当たり前のように受け取って、窓の外に移る庭の景色を眺める彼の後ろに立っている女は、小さく声にした。
「あなた、それでいいと思っているの? お父さんは反対してたでしょう。許されないわよ」
 さきほども同じようなことを、言われたことは言われた。
 今、和雄とその女は、これからの和雄の将来について話し合っているはずなのである、和雄としては。しかし、和雄の耳に聞こえた彼の母親であるその女の言葉は、彼にはただの強制的な、絶対にそうしろという命令にしか聞こえなかった。
 そんな母親の言葉にただ従っているわけにもいかないと、今までに幾つとない強い思いを胸に抱いて、和雄は後ろを振り返って抵抗するように言った。
「だって、せっかく受かったんだよ  いまさら……いまさらそんなことを言って、どうするっていうのさ!」
「だから前から大学は駄目だと言っておいたでしょう! あなたが悪いんです」
「……そんなの勝手に母さんと父さんが決めただけじゃないか」
 母親から強く言われて、気の弱い和雄はすぐに押し黙ってしまい、最後は小さくそう呟いた。母親に聞こえないくらいの声で。
 その後、目の前に立つ母親が呆れた表情で去っていくのをきっと睨みつけて、その母親が絶対に自分の言うことなど聞いてはくれないだろうと悟り、和雄は頭を振った。
「なんでさ、なんでなのさ。行かせてくれてもいいじゃないか」
 そんな和雄の言葉を待つことなく、大学入学の手続きの締め切り日は迫る。
「もう、嫌だよ、うちなんて」
 頭を抱えて、それからしばらく屈み込んでみた。べつにそうしたところで何か変わるわけでもないのだが、気分的にそんな感じだったのだ。
 しばらくの後、和雄は、不安と苛立ちを含んだ気持ちから逃れるべくか、もしくは今、自分の悩んでいるものの答えが欲しかったためか、なんとなく自室にある電話小機に手を伸ばしていた。
 高校のクラスメイトであり、受験勉強のために通っていた予備校でも同じ講座を受けていた、友人としての仲はあまり深くなかったかもしれないが、少なくとも勉強仲間ではあった人物にかけてみる。
 なんとなく、誰かの声を聞きたいという思いが生じるのと同時に、自分の相談に乗ってくれる人というものがほしかった。
 トゥルルルル……
 ありふれたコール音に続き、和雄は幾度と溜め息をついた。
「電話なんて、久しぶりだ……」
 その久しぶりにかける相手というものを頭の中で確認しながら、和雄は耳元に聞こえてくるはずの友人の声を待った。
 数回のコール音の後、
「はい、もしもし立花ですが……」
 という女性の声が聞こえてきた。
「もしもし、岩田だけど」
 電話の相手が一人暮らしであることを知っているため、和雄は普段、彼女と話す口調のまま反応した。
 和雄の声を聞いたその女性は、何やらがっかりとしたような吐息で呟いた。
「……なんだ、和雄君か……。 こんな夜遅くになんの用?」
 それを聞いた和雄は、無意味に悲しくなっていることに気づいた。そう、無意味に。
(……そういえば、僕はなんで立花さんに電話をしているんだろう)
 その理由というものは、やはり、自然に手が動いていたためか、相談相手がほしかったかのどちらかのような気がする。
「うん、ちょっと話を聞いてほしかったから……」
 それが本当に今、自分の望んでいることなのかは分からなかったが、和雄はとりあえずそう口にした。
 そしてそれによって心を落ち着かせたかったのだ  が、
「ごめん、今はちょっと駄目なんだ。あたし今、マジでブルーだから……」
 彼女の方から、こちらを受け入れる余裕がないと言ってくる。
「そうなんだ……。ごめん」
 和雄は仕方なく、暗い声音でそう言った。次いでそれに応えるように、
「和雄君、しばらくうちには電話かけないでほしいんだ。悪いけど」
 彼女の追い打ち。
「……うん、分かった。じゃあ」
 ちょっとばかり心の中で痛みが生じたが、和雄はそう口にして彼女が電話を切る音をじっくりと聞いた。
 ツーツー
 無言の電話小機を耳に当てたまま、和雄はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「…………」
 そして、今は何もしたくない、何も考えたくないという思いを強く胸に抱いて、ベッドに横になった。
 真っ白な天井を見上げる。
「僕は……なんなんだろう」
 声に出た言葉が、和雄の脳裏にどうしようもない焦燥感を引き立てた。

 その日、京が帰ってくるのを待ち焦がれながら、美夏は目の前に置いた簡単な文章の書かれているメモ用紙を見つめた。
『おにいちゃんへ。岩田 和雄さんから電話があったよ。「帰ったら電話ください」だって。わたしはちょっと出掛けてくるから、テーブルの上に置いておいた夕食、先に食べておいてね。妹より』
 その文面をしばらく眺めながら、美夏は頭の中で駆け巡るいろいろな思いを胸に、呆然としていた。
(岩田 和雄さん……か)
 胸中で独白して、美夏は立ち上がると、窓の外を眺めた。
 外に移る、白銀の美しい  とはいえないがそれなりに綺麗といえる光景を目の当たりにして、この季節がいつ終わるのか、そしてこの季節の間に、自分達の人生の中でも節目となる出来事があるのだろうという思いに駆られる。
 それは悪い意味ではなく、心の中のけじめのようなものであって、美夏の胸の中をじんわりと暖めてくれる。
 美夏は、数日後にある京の卒業式というものにいろいろな意味で期待しながら、ふいに微笑してしまった。

 家に帰ってから、妹の美夏が書いたと思しき  というより、家には自分と美夏しか住んでいないため美夏が書いたというのは当たり前のことではあるがともかく、そのメモ帳を見てから京は和雄の家に電話をして、そして友人の茂也を誘って、彼の家へ出向くことにした。
 そして数十分という距離をわざわざ歩いてやってきたところにある、目の前にそびえ立つ和雄の豪邸。
 三階建ての、茂也や京では想像もできないような、本物の豪邸である。
 茂也は、和雄のそんな家を正面に控えて毒ついた。
「けっ、和雄め。でけぇんだよ、家が。……ったく、だから金持ちは困るぜ」
「確かにそうだな。ちょっとは憧れる」
 京は隣でぐっちゃぐちゃになった怒りだらけの顔の茂也を見てから、そう頷いた。
 和雄の父親がどこかの偉い人だという噂は、前から簡単に聞いてはいたが、実際にこうして家にやってくると、それがなんだか生々しく感じられる。
 とりあえず、茂也と京はインターホンを押して、声が聞こえてくるのを待つことにした。 数秒後、
「あ、永川君に柏田君、来てくれたんだね」
 和雄の声が聞こえた。
 その和雄が、自分たちの存在を実際には見ていないというのにこちらの存在が分かっていることに多少苛立って、茂也は門一帯を見渡した。
 高い外壁の一か所に、何やら光に反射して薄く輝く小さな黒い物体が見える。茂也はそれを確認すると、その方向に向かって言った。
「ったくそんなもん取り付けやがって。ま、いいから早く入れてくれや」
「今、開けるよ」
 茂也の声を聞いて、和雄が返事をした。
 その数秒後、立ちはだかっていた鋼鉄の門が開いた。
 がー
 電動なのか手動なのか、ちょっとばかりあやふやな音を立ててから、門は完全に開いた。その様子を立ち止まったまま眺めて、茂也と京は顔を見合わせると、中へと歩を進めた。
 門から数メートル歩いたところにある玄関を通り、中へと入った茂也と京は、どこからともなく聞こえてくる和雄の声に導かれ、三階へと昇っていくことにした。
 で、これもまた広い廊下を幾らか歩いて、左側にあるドアに目を止めて、そこでそのドアにあるプレートに、『和雄』と書かれていることを確認してから、コンコンと響きのある音を立ててノックした。
「どうぞ」
 中から和雄の声がして、ふたりは中へと入る。
「おじゃまします。……ってここで言うのもおかしいよな、普通は玄関で言うもんだし」
「まあ、確かに」
 茂也の呟きに、京が小さく頷いた。
 茂也の言うことももっともで、和雄の屋敷  といっても過言ではないだだっぴろい家の中へと入ってから誰にも人に会うことなどなかったため、今、こうして和雄に会って、挨拶というものを初めてしたのだ。
 そんなことなどあまり気にせず、和雄は彼らふたりを長いソファーに座るよう促して、自分も、それに向かい合うように置いてあるソファーに座った。
 十二畳の和雄のこの部屋。
 置いてある物といったら、この部屋に入った時に和雄が身を置いていた勉強机と、今、茂也と京の座ったソファー並びに和雄の座っているソファー、あとTVといったところで、一見して質素なこの部屋からは清潔そうな雰囲気のみが感じられ、いつも汚れた部屋にいる茂也は特に落ち着かないものがあった。
 と、まあとにかく、大窓があってそこから家の庭を眺めて、茂也と京は和雄の口が開くのを待った。
 そもそも、和雄が彼らふたりを呼ぶことなど、ない。
「いきなり呼んで、ごめん、ふたりとも」
 和雄がすまなさそうに言って、客人に何も出していないことに気づいたためか、一瞬はっとした表情になって立ち上がった。
「あ、ちょっと待って。今、何か飲み物でも持ってくるよ」
「いや、俺らは  」
 「いいよ」と茂也が付け加えるのを待たずに、和雄は足早にドアの外へと出ていった。
「……行動、早ぇな」
 茂也と京は、べつに飲み物など構わなくてもよかったのだが、和雄が直ぐさま出ていってしまったことに咎める気にもなれず、とりあえずは待つことにした。
 そして二秒後、
「おまたせ!」
「はえぇよ!」
 出ていった直後に戻ってきた和雄に違和感を感じ、そして現実離れしたその素早さにいろいろな意味で見入られて、茂也は和雄の手元にある木製の盆から何やら透明の液体の入ったグラスを取った。
「……なんだこれ、水か?」
「いや、ミネラルウォーターさ」
「だから水だろ」
「まあね」
 和雄が微笑みながら、今度は机の椅子に座るのを眺めて、茂也は近くにあるベッドの上に座った。合わせて京も座る。
「で、なんなんだよ、突然……」
「……うん。進路のことなんだ、実は」
 急に暗い表情になった和雄は、しばらく黙り込んで、そしてそれをただじっと見つめる茂也と京に沈黙を崩すつもりでか、口にした。
「いや、一応、僕は前から言ってたように、大学に行きたいんだ」
 和雄に追い打ちするように茂也は続けた。
「ああ、知ってるよ。国立の大学、もう受かったんだろ? 聞いたぜ」
「なに、そうなのか? 僕は聞いてなかった、和雄」
 割り込む形で、京は目を大きく開いて和雄を見つめた。
 続けて口にする。
「それで、どこに受かったんだ?」
 和雄は、京の問いを待ちこがれていたように笑って、笑顔で大きく頷いて、そして椅子から立った。
「うん。驚かないでよ。国立山上大さ」
「  えっ?」
 一瞬、緊張が背筋に走ったような気分にもなったが、とりあえずなんとかそれをふたりは押さえて、ただ、黙った。
「え、なんでそんな顔するのさ」
 和雄が怪訝に思って、ふたりの目をのぞき込んで言ってくる。
 茂也は一旦、首を振ると、京と目を合わせて同時に首を縦に、何やら理解しあうように振って、言った。
「……やめとけ、それは」
「え?」
 和雄は、茂也が何を言いたいのか理解できずに、ただ呆然と問い返した。
 続けて、茂也は深刻そのものの表情で言う。
「まずい、それはまずい」
「なんでさ。『すごい』って、褒めてくれると思ってたのに、僕は」
「あのな……。あの、『山上』だぞ? 山上高の生徒の中でまともなヤツって、一割を切るんだぞ」
「うん。僕たちはその中の一部だよね」
「そのとーりだ」
 断言する茂也に、その表情に何を言いたいのか分かっているように振る舞いはするが、だが、和雄はいまだきょとんとした顔で彼を見入った。
「だったら、大学にどんなヤツがいるのかだって、怪しいもんだろ。よくそんなところに行こうって気になるよな、お前」
 茂也の言葉に、京はただただうんうんと頷く。
 そんなふたりの顔を交互に眺めて、和雄は確かにそうかもしれないという思いが生じて、今までの高校生活を振り返ってみることにした。
 三年間の、もうすぐ終わろうとしている高校生活  とはいっても、授業はもう終わっており、高校での生活はもうすでに終わっているが、確かに、茂也の言う話には、多少引っ掛かるものもあった。
 一年の時  いや、一年の時は別になんら変わったことはなかったのだが、二年に上がったとたんにクラスメイトの大半がおかしくなったのを、和雄は恐怖したものだ。
 しかし、そんなことなどとうに忘れていたし、それ以前にそんなことはどうでもいいと思っていた。
 和雄はそう思いながら、その思いを肯定するように、茂也の方を向いて強い口調で言った。
「まあ、確かに高校ではそうだったかもしれないけど、大学もそうだとは限らないんじゃないかな」
 和雄の言葉を聞いて、茂也は額に手を当てて、大袈裟に呟いた。
「いや、大学も同じだよ。俺、行ったことがあるんだよ、あの大学」
「ああ、それなら僕も行ったことがある。確か、学園祭の時だっただろうか。狂った人、多かったな、そういえば」
 茂也に合わせるように言う京。二人を見ながら、和雄は二人が自分の考えを否定しているような感触を覚えて、反論するように顔をしかめた。
「いや、でも僕は別にそんなことは気にしないよ。あそこに、入りたいんだ」
「……そ、そうか。ならべつにそれでいいよ」
 和雄の、何やら意気込む様子を見て、茂也はこれ以上言うことはやめた。
 それよりも、和雄の悩みとやらのことに気がある。
 そちらに話題を仕向けるよう、京が口にした。
「まあ、それは分かった、だが結局、和雄は何を悩んでいるんだ?」
「あ、うん……」
 京の言葉を聞いてから、和雄は持ってきていた水を飲み始めて、それから悩むような仕草で  実際に悩んで、ゆっくりと口にした。
「大学には受かったし、僕は行く気なんだ」
「ああ」
 相槌する茂也の方を上目づかいで見て、和雄は溜め息をついた。
「両親が……」
「は?」
「両親が、反対するんだ!」
 いつの間にか意気込んでいる自分には気づかず、和雄は続けた。
「僕の両親は牧場をやってるんだけど、僕は一人っ子だから……。だから、牧場の跡取りになること以外、許さないって言うんだ。特に、母親が……」
「はぁ……なるほどな」
「大学の入学手続きの締め切り日まで、あと一週間もないんだ。本当にどうすればいいのか、分からないんだ、僕……」
 その後、しばらく俯いて口を動かさなくなった和雄。そんな彼をどうしたものか、と思いながら茂也と京は戸惑った。
 だが、彼がなんらかのアドバイスを求めているとするのなら、何かを言ってやりたいところである、茂也としては。
 とりあえず、思うことを茂也は口にすることにした。
「そうだな……。本気だったら、自分のやりたいことを貫くべきだと思うぞ、俺は。両親に反対されたくらいで怖じけづいてたら、これから何もやってけないんじゃねぇのか?」
「……僕だってそう思うよ」
 和雄は、茂也の話に軽く頷いたが、それを否定するものがあるらしい。
 続けた。
「でもね、貫くって言ったって、学費の問題があるんだ。僕だけじゃ賄いきれない……」
「確かに、そうかもしれない」
 首を垂らしていく和雄に京が頷いて、そして茂也の方を向いた。
「茂也、今の大学が、年間、どれだけの授業料を学生から持っていくか、知っているか?」 茂也はしばらく考えこんで、それから「さあ」と首を振ってから、口を開いた。
「百万くらいか……?」
「二百五十万だ」
「マ、マジかよ 」
 驚愕して、茂也は和雄の方を向いて、彼が心底悩んでいるようなのを人事に思えず、押し黙ってしまった。
 京は溜め息をつきながらも、続けた。
「もちろん全ての大学がそうではない。しかし、ほとんどがそんなものだ」
「……あー、やっぱ就職にしといてよかったなぁ」
 和雄をちらちらと見ながら、茂也は苦笑して言った。和雄はそんな茂也がある意味羨ましく、だが大学へと行きたい思いは堅い。
「そういうわけなんだ。だから、親の力が必要でさ……」
 和雄はそれだけ言ってから、再びふたりに助けを求めるように目を差し向けてきた。
 茂也はない知識を絞って、ひとつの考えを口にした。
「……じゃあさ、大学とかから金借りるとかして、んでもってバイトでもするってのは?」 そう言うと、和雄は手と首を同時に振った。京も同じように茂也に向かって首を振っている。
「あのさ……、そのくらいのこと、できるのなら最初に考えるよ。でも、無理なんだ」
 和雄が言い切るのと京の首の振り方が妙に頭に来て、茂也はむっとした。
「なんで、駄目なんだよ?」
「授業料は、その年の始めに、全額納入なんだ……。永川くんは知識がないんだね。大学授業料のために貸してくれるところなんて、どこにもないよ。大学の方だって同じ。全て自腹じゃないと、入れないのが現状なんだよ」
「なるほどね」
「分割も何もない。それができないのなら、大学入学は不可。今の日本は、そんな感じなんだ……」
「そーゆーことね」
 茂也は笑いながら、答えていた。

 和雄の家を午後四時頃に出て、レインボー公園にやってきた。別に何をするわけでもないのだが、なんとなく公園に来ていた。
「なーなー、京。アイツ、どーすんのかなぁ」
 茂也は公園のベンチに座って、京に話しかけた。
「俺たちにゃ、何も言えなかったけどよ、大学行けんのかなぁ」
「……親を説得する以外は、難しいだろう」
 京が険しい顔をして言う。
「でもさ、和雄、やべぇんじゃねぇの? かなり思い悩んでたぜ。大学行けなかったら、何するか分からねぇな、ありゃ」
 茂也は、和雄の家で彼の顔をじっと見ていた。家を出る直前なんかは、今にも自殺しそうな雰囲気を漂わせていたのだ。
 そこまで仲の良い友人ではないが、さすがに心配ではある。
「確かに、そうだな」
 京もそう思ってか、手を顎に当ててどこか遠くの方を見ているようであった。
「ま、卒業までは何もなきゃいいけどな」
 茂也は和雄が自分に何か言ってこないかどうかが心配で、ちょっとばかり不安であった。 ふたりはそれからしばらく、無言で公園で遊んでいる子供達を眺めていた。

 美夏の好きなこと……。
「君のことが、ずっと好きだったんだ……。初めて会った時から……」
 ゴクッ
 喉の辺りから、強烈な音が聞こえてきた。そして胸の高鳴りが押さえられなくなる。
「え 」
(わっ、わっ!)
 口元に無意識のうちに手を当てて、美夏は赤面していた。
「あの日、君が俺の手を握った時から……」
 どきどき……
 仕事帰りの貴雄が、待っていた里美の腕を片方ずつ優しく掴んで、そして唇を彼女の唇にそっと近づける。
「貴先輩……。あたしも、思ってた」
(いいな……いいな……)
 そして数秒、ふたりは唇を重ねた。
 すると里美はどこか心が抜けたような表情になって、貴雄の背中に手を回した。
「先輩……。あたしも……好き」
「里美……」
 ふたりは夜の公園で、静かに抱き合った。
『 To Be Continued 』
 そしてエンディングテーマ。
「もうっ」
 頬を膨らませて、美夏はばたっと横になった。
「いつもそうだもんなぁ。いいところで……」
 美夏の好きなこと。
 それは、お気に入りのソファーで、大好きな週一の恋愛ドラマを見ること、である。
「はぁ……」
 横になれるほど大きなソファーではないがそれなりにスペースのあるソファーの上で横になった美夏は、ドラマのスタッフロールを見ながら「ふーっ」と大きく息をはいた。
 ドラマが終わった後は、いつもどこか気が抜けてしまう。感情移入できるかどうかはさておいて、美夏は必ずドラマの中のヒロインに身を置いてストーリーを追っていくので、終わった後はなんだかもどかしい。
 次回予告が流れているうちは、まだ大丈夫だが、
「あ、来週でもう終わっちゃうんだね……」
 それが終わってからCMが始まると、美夏のぐったりとした時間が数十分続くのだ。
「……うう」
 うめき声が部屋中を覆って、TVの音をかき消す。
 部屋にいるのは、美夏ひとり。何か寂しい。なんだか寂しい。
「…………」
 何もしないでいる時間というものがどれだけ辛いか感じることができるこの時間帯。夜のドラマが終わった後の、この時間。
 さらに、今日は京が茂也とどこかへ行ってしまったためというのが重なったのだが、ひとりきりの寂しさがまたいつものように身に染みてくる。
 とるるるる……
 その時、コール音がした。
 美夏ははっと起き上がってから電話へと急いだ。電話が寂しさを削ってくれるはずだ。
「あ、はいもしもし柏田です」
 と美夏が言うと向こうから、燻った、何を言っているのか分からない声が聞こえてきた。「……あのどなたですか?」
 数秒してから美夏が問いかけると、声が、今度ははっきりと自分の姓を名乗った。
「あ、あの立花ですけど……」
「橘……さん?」
「……聞いたことのない名前だな」と思いながら続きを待って、美夏はその声が誰なのかを考えた。「おにいちゃんのお友達かな」とも思ったが、なんだか声からしてそれも怪しい。
 すると声が、今度は怒気を露にした。
「ってゆーか、あんた誰よ 」
「え?」
 いきなり大声で言われてから、ついで「つーつー」と寒い音が聞こえてきた。
「…………」
「切られた……」ということに気づいた。
 いまだ「つーつー」と鳴っている電話に、美夏はしばらく呆然としなければならなかったがなんとか我を取り戻すと、電話を静かに切った。
「…………」
 そして大きく息を吐いてから、静まり返った部屋を見渡して、京がまだいないことを確認してから、息を大きく吸った。
「な、なんなのよいきなり! あなたこそ誰だっていうの!」
 相手が、実は自分の知っている人物だということは気づかず、美夏は大声で叫んでいた。

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