2017年2月19日日曜日

明日に向かって 第3話

「簡単に言うとね。その夢って、ぼけろんが記憶を失う前の出来事なんだ。つまり、ぼけろん

の過去にあった出来事……」

「え!?」

 記憶喪失と夢との関わりがあるという推測。……それは確信へと変わり、そして俺は、頭の

隅でそういった予想はしていたものの、過去と言う言葉を聞いた瞬間、おかしくなった気がし

た。頭の中が、ゴチャゴチャになったような、そんな感覚だ。

 …あの夢が、俺の過去?

 考える暇を与えず、先輩は続ける。

「具体的にいつのことか、っていうと、この村に来る少し前の出来事なんだ。つまり、一年と

少し前。……ぼけろん、信じられる?」

「あれが、俺の過去?」

「そう」

 俺は、先輩の話をよく考えてみた。

 一年前、村にやってきた時の記憶までしか、俺は過去を逆上れない。

 そのことを痛々しく思いながら、俺はここ三日間の夢を精一杯思い出していた。幸いにも、

夢ははっきりと憶えている。

 まず、最初にみた夢……。

 俺が『彼女』と呼んでいた少女-とはいっても俺と年は大差なく感じられた-と、『奴』と

いう、いかにも悪人そうな男から逃げようとした夢だ。

 次に昨日みた夢……。これはおそらく、最初にみた夢の前の出来事だと俺には思えた。夢が

つながっているのを記憶している。

 そして、今日。彼女はいなくて、俺は湖まで奴に追い込まれ、最後に……撃たれた。

「え?」

 俺はそこまで考えて、一瞬悪寒が走るのを感じた。

 …撃たれた?

 夢での最後。俺は奴に撃たれたような……いや、本当に撃たれたのかは、俺は途中で目を覚

ましてしまったため分からないが、……撃たれたと考えると、おかしな気持ちになっていった。
 それよりも、俺はちょっと複雑だった。

 夢の中にいた俺は、『彼女』や『奴』のことをよく知っていた。先輩の話からするのなら、

それは俺の過去に出て来た人達だからだろうが、今の俺には、そういった人達のことを、まるっ
きり知らない。

 自分の過去をこうして考えていくと、それがなぜか妙に複雑だった。

 まぁ、とにかく先輩の話によると、俺のみた夢は、俺が村にやってくる前のこと。つまり過

去のことらしい。

「俺の過去か……」

「うん」

 …え?

 俺は突然、そこで一番の疑問を感じた。それは、普通ならすぐに気付くような、そして矛盾

を携えたような疑問だ。

 さっきは言いそびれて、今になって再び、そしてようやく思いついた疑問を、俺は、今はも

う哀しげな表情のなくなった先輩を見て、問うた。

「先輩、なんで先輩がそんなことを知ってるんですか?」

「あ、そのことも話さなくちゃね」

 俺の疑問を軽く受け取ると、先輩は大きく伸びをした。

 疑問で胸がいっぱいの俺に、先輩は笑顔になって問うてきた。

「ねぇぼけろん。一年前のこと、憶えてる?」

「一年前ですか?」

「そう」

 なんだか妙に楽しそうに、先輩は頷いた。

 一年前、俺はこの村にやってきた。

「………」

 いや、今、過去を失ったという事実を踏まえてこうして先輩と考えてみると、…それは違う

ことに気付いた。

 俺は精一杯考えてみた。

 一年前、一年前……。

 俺は精一杯考えてみた。が、先輩と村長と三人で話していたところが、一番の古い記憶でし

かなかった。

 それからは、先輩と仕事を一緒にやったり、いろいろ教えてもらったりしていたのを記憶し

ている。

 そうすると、なんで今まで俺は村にやってきたと思っていたんだろう。

 少なくとも、今の記憶の中では、俺は初めから村にいた。

「どう、ぼけろん?」

 先輩が聞いてくる。

 俺は、新たに加わった疑問はとりあえずおいておくことにして、先輩の問いに答えた。

「先輩に仕事、教えてもらったのを憶えてますよ。あの時は、すごく優しい人だな、って思っ

たりしてたから、けっこう記憶に残ってるんですよ」

「何? 今は優しくないってコト?」

「いえいえ」

「あはは、いいよ別に。けど嬉しいな。研修の時のこと、憶えててくれるなんて。普通そんな

記憶のいいヤツいないからね。けっこうぼけろん、いいヤツじゃん」

 先輩の、だんだんと甲高くなっていく声を耳にしながら、俺は苦笑した。

「けど、その時の出来事が一番古い記憶なんですよ。そう考えると、俺は昔から村に住んでい

たんですね。だからついさっきまで、俺っていうのはてっきり、村にやってきた異邦人かなん

かかとばかり思ってたんですよ。でもなんか今、こうしてよくよく考えてみると、それは違っ

たみたいですね」

「ううん、それは違うよぼけろん。一年前、確かに、ぼけろんが村にやってきたっていうのは、
事実だよ」

「え? じゃあ、俺の記憶がないのは、村にやってくるもっと前からのことなのか? でも、

そうだとすると、記憶はもっと前から失っていたのに、なんで俺は、『村にやってきた』とい

うことを知っていたんだ?」

 自問していくうちに、俺はわけが分からなくなっていった。自分で何を言っているのかも分

からなくなっていく。

 そんな俺を見かねたのか、先輩はテーブルに乗り出すようにして、俺に顔を近づけた。

「ぼけろんがね、初めて村にやってきた時のコト、教えてあげるね」

 先輩のその話。俺にはすごく興味があり、先輩の目を見入っていった。

「一年前ね、ぼけろんが初めて村にやってきた時のことはね、けっこう印象深いんだ」

「へぇ」

「あの時もね、あたしはいつもみたいに広場で村の子供たちの世話をしてたんだよねー」

 先輩のどんどん楽しそうになっていく話し方に、俺もどんどん引き付けられいく。

「その日に、俺がやってきたんですか?」

「うん」

 一息入れて、先輩は目を瞑った。

「あの日……」

 それを冒頭に、先輩は食堂全体に語りかけるように、やや上向きに話し始めた。





 そう、あの日はちょうど、サリナさんの結婚式の日でもあったの。

 式が終わったのは昼頃。

 ……どうでもいいけどこの村って、イベント、午前中に終わるのがほとんどだよね。

 で、それから昼食を食べ終えて、広場で子供たちと遊んでいると……、

「おーいっ!」

「ん?」

 突然声がしたから振り返ってみると、村長がこっちに向かって走ってきていた。

「ちょっと来てくれないか」

「あ、はい、いいですけど」

 あたしのところに来るなりいきなりそう言って、村の門まで一緒に来るよう言われた。

 子供たちはラミィおばさんに任せることにして、あたしは村長についていくことにした。

「うわぁ、なんですか、これ?」

 あたしがそれを見た時の第一印象。それは恐怖のようなものだった。

 村の門を少し出たところに、見たこともない、村にあるトラックなど比べものにならないほ

どの大きさを持った、そして何か威圧感のある異形なトラックが停まっていた。

 あたしはそのトラックに、嫌なものを感じた。





 嫌なものを感じた……。そこまで言って、先輩は俯いた。

 『嫌なもの』。それを思い出しているのだろうか。

 俺は気になって、俯いている先輩に問うた。

「で、結局、その嫌なものを感じた、っていう予感のようなものは、当たってたんですか?」

「あ、うん、いや、それは最初だけで、べつにそのトラックはなんでもなかったんだけどね」

「そうですか」

 なんとなく俺には、先輩が何かを隠しているような、そんな感じがした。

 ともかく、先輩は続ける。





 でね、そのトラックの中に乗っていたのが、ぼけろん。

 トラック、巨大なわりには、中には荷ひとつ入ってなかった。

 中は真っ暗なところで、……その中央に、ぼけろんは死んだように寝てた。

 あのときは、なんか変な服着てたな。まるで異世界の人のような格好。





 「それが、俺ですか?」

「そう」

「先輩との出会いは、俺は最初、寝てたのか。なんか格好悪いな」

 俺は先輩の話に出てくる俺に対して、少しだけ恥ずかしさを感じていた。

 先輩は、さきほどトラックの話をし始めてから、なんだか暗い雰囲気を漂わせている。

 記憶喪失だという話をした時、哀しい表情をしていて、ようやくもとの先輩に戻ったと思っ

ていたが、再び、だ。

 先輩は俺の顔は見ず、俯いたまま言った。

「初めてみた時はびっくりしたよ。だって……」

 そう言って、また黙ってしまう。

「だって、なんですか?」

「……ううん、いいんだ」

「?」

 また何かを隠しているような感じを、俺は覚えた。





 「君に任せるよ」

「え?」

 村長が、ぼけろんのことについて、そう言った。

 あたしは、村長の唐突な話の切り出しに、一瞬戸惑って、何のことか、なんとなく分かって

はいたけど、一応聞いてみた。

「あの、何をですか?」

「彼の保護だよ」

「……保護、ですか」

 村長は、気まずそうにそう言った。おそらく、あたしにそのことを頼むのが、気が引けたん

だと思う。

「君ならこういうのには慣れているとは思うし、……どうだろうか」

「……分かりました」

 村長は、強要しようとしていたわけじゃないんだけど、あたしは引き受けた。

 っていうのは、なんかこういうシチュエーション、憧れだったし、何より人の世話するの、

好きだったから。

 しばらくしてから、村長は真剣な表情になって言った。

「さっき君に話したこと。最終的には話すことになるだろうが、すぐ言うのは、控えた方がい

いかもしれない。その理由は、君にも分かるだろう」

「……ショックを受けるかもしれないから、ですか?」

「そうだ。だから、まずは村に慣れさせること。後は君に任せるよ」





 村長の声の部分は、先輩が真似して話してくれたんだが、かなり緊迫感のあるものだった。

 『さっき君に話したこと』。先輩による村長の話した言葉。その内容は、俺にはなんとなく

分かっていた。

 ずっと俯いている先輩の顔が、さっきにも増して深刻なものとなっているように思える。

「先輩、その村長が話した内容というのは、俺の記憶喪失のことですか?」

「うん、そうなんだ。それをさっき話したんだけど、ごめんね、ぼけろん。村長の言ったとお

りに、ぼけろんショック受けっちゃったみたいで……」

 俺のことを気遣ってようやく話してくれた先輩。記憶喪失のことを話してくれた時、先輩が

謝った理由が、なんとなく分かった気がする。

 そして、俺はそんな先輩を責めるつもりはなかったし、そんな理由もなかった。

「何言ってんですか、先輩。先輩は俺のことを考えてくれたんだ。先輩が謝る必要なんてない

し、むしろ俺がお礼を言いたいくらいです」

「そ、そう? ありがと、ぼけろん。そう言ってくれると、あたしも嬉しいよ」

 俺について、先輩と村長が話したその内容。それは、確かに俺をショックさせたが、今はも

う大丈夫だ。

 先輩はその先のことも続ける。

「その後、ぼけろんは医務室に運ばれた。あ、医務室って、ぼけろんがさっき寝てたところな

んだけど、……それで……」

「?」

 そして先輩は再び悩む仕草-それはただ単に格好だけではない-をして、顔をしかめた。

 先輩の、さっきから隠すようにしているその動作が、俺には何か嫌なものを感じさせた。

「先輩、隠し事はやめましょうよ。先輩がそんなふうにして話すのを拒むのが、俺には一番辛

いです」

 俺は先輩にやや強い口調で言った。

 人には話したくないことのひとつやふたつはある。今の先輩は、まさにそれを言わないでお

こうとしている状態だ。それならば、あえて聞くのは失礼に値する。

 そんなことは分かっているのだが、先輩が話そうとしないその内容は、俺についてのことで

ある。俺に気を遣って話そうとしないのが、俺にはすぐに分かった。

 それゆえ、俺は先輩にはもう黙ってほしくない。

「でもね……」

 拒む先輩を、俺は遮る。

「いえ、先輩。俺、全てを知っておきたいんだ。初めて知った記憶喪失のこと。それは、確か

に俺にとっては衝撃的なことだったけど、それでも、この機会に自分のことを知れたことは、

よかったと思ってるし、……だから、もしまだ、俺の過去に何かあるとするのなら、今のうち

に全てを教えてください」

 それでも、しばらく何も言わない先輩ではあったが、

「………そうだね」

 理解してくれたようで、先輩は微笑して顔を上げた。

「ぼけろんは……」

「ええ」

「さっきは、トラックの中で寝てたって言ったんだけど……」

 そして、先輩は俺の様子を窺いながら、口をもごもごさせて言った。

「……本当は死んでたんだ」

「は?」

 先輩の言葉に、俺は一瞬絶句した。

 …死んでいた?

 さすがにそれは信じられず、俺は戸惑っている先輩に問うた。

「先輩、それは嘘でしょ?」

 俺の問いに、先輩は真剣な表情で小さく頷いた。

「ううん。これも事実なんだ」

 先輩のその表情。そして記憶を失ったという事実。それを踏まえた先輩の今の言葉。

 ……それらを考えると、俺が死んだという先輩の話は、……おそらく嘘ではないだろう。

 が、俺はもう一度、問うた。

「本当,ですか?」

「うん……」

 先輩の頷き方が、妙に真実味があり、俺を震わせる。

 だが、先輩の言った事実は、普通ならば考えられないことだ。

 …人が……、俺が死んだんだ。ならば、今、ここにいるのは?

「ちょっと待ってくださいよ、先輩。だとしたら、今、ここにいる『俺』は、一体何者なんで

すか?」

 もっともな質問を、俺は口にした。

 そう。たとえ記憶がなくて過去のことを知らない俺でも、死んでいるという過去があるとい

うのは、さすがにおかしく思えた。

 …死んだというのならば、俺はなんなんだ?

 今度はその疑問が、俺の思考を埋め尽くす。

 記憶を失い、そして死んで、……だが今、実際にここには存在している『俺』という人間を

考えると、常人ではないようにさえ思えてきた。

 再び狂いかけている俺をフォローするように、先輩は少し明るい顔で言った。

「うん、ぼけろんはぼけろんだよ」

「だったら、俺、死んでないじゃないですか」

「生き返ったんだよね」

「!?」

 『生き返った』……というその一言。それが俺の脳の中でまとまっていったのは、いつのこ

とであろうか。それだけしばらくの時間がかかった。

 この自然界の中で、生存している生物の営み。生物としての意義。それを崩すようなその言

葉。俺には疑いしか残らなかった。

 というより、『そんなことができるのか』という疑問の方が、正直なところ大きかった。

 だが、生き返ったという先輩の話。それもおそらく、死んだという事実と同じに本当のこと

であろう。

「先輩、生き返る……なんて、本当なんですか? でも、どうやってやるんですか。そんなこ

と、普通じゃありませんよ」

 俺の疑問に二度ほど頷いて、先輩は真顔になって、再びテーブルに身を乗り出した。

「うん、できたんだ。あの頃は。記憶を消す代償にね」

「記憶を消す……代わりに?」

 そこで、俺の記憶というものがどうしてなくなったのか、俺にはなんとなく分かったような

気がした。

「俺の記憶がないのは、そのためですか?」

「うん。まあ、あたしがやったわけじゃないから、詳しくは分からないんだけどね。とにかく

そんなふうに教えてもらった。」

「……そんなことができるなんて」

 先輩の言っていることは正しいのだろうが、なんとも信じがたい事実だ。

 人の生を、記憶をなくすことによって元に戻せるなど……。どういった理屈でそういったこ

とができるのか。

 俺には疑問疑問疑問だったが、今はそのことはどうでもよかった。

 ただ、俺は記憶を失って、そしてそのおかげで生き返った。俺の、そういった今まで知るす

べもなかった過去の出来事。それで俺の頭の中はいっぱいだった。

「けど、今はもうできない。その手術をできる医者がいなくなっちゃったから」

「手術……ですか」

 俺は自分の体を、見てみた。いつもと比べて、特に外見は何も変わることはない。

 だが、先輩の話を聞いたことを踏まえてよくよく上から眺めてみると、……なぜか違和感を

感じた。

 自分の体をまじまじと見ている俺を見て、先輩が聞いてくる。

「……って、そんなこと話しても、信じられないよね」

「そりゃそうですよ。一回死んで、生き返って、記憶を調整されてたなんて……」

 実際に信じ難かった。次々と発覚する、俺の過去。普通の人間に言われたところで、俺は信

じてはいなかったであろう。

「けど、先輩の話には、なんか真実味があって、それにこんな時に嘘をつく人じゃありません

からね、先輩は。だから信じれます」

「ぼけろん、信じてくれるんだ……」

「ええ」

 先輩の表情には、安堵と、喜びに似たものが感じられた。

「で、もう少し詳しく話すと……」

 いい表情を変えないまま、先輩は話し始めた。

「死んだぼけろんがトラックに乗って運ばれてきた翌日、手術が行われたの」

 そこまで聞いた時、俺はふいに疑問が浮かぶのを感じた。

 『手術』。ただ一息で言えるその言葉。だが、そんな簡単な表現で終えられるようなもので

はない、手術というのは。

 ましてや生き返すのならば。

 とするのならば……、

 俺は先輩の話を遮り、問うた。

「ちょっと待ってください、先輩」

「へ?」

「手術って、俺を生き返らせる手術ですよね、記憶を消して」

「うん、そうだけど」

「それって、そんな簡単なもんなんですか? 生き返らすんですよね。だったら、そんな誰で

も受けられるような手術じゃないんじゃないんですか?」

「うん、そうだよ。費用はものすごくかかるし、それに、誰にでも受けられるわけでもない。

ものすごく人種差別のような気があたしにはするんだけど、限られた人だけしか受けられない

の」

 先輩の説明に、俺の疑問は余計に高まった。

「だったら、なんで俺なんかが、そんなすごい手術を受けられたんだろう……。そう思いませ

ん?」

「……そ、そうだね。けど、どうしてなのかは、あたしにも分かんないや」

「………?」

 先輩のよそよそしい態度が、妙に気に掛かった。

「ま、それはそれでいいじゃん。生き返ったんだからさ。話、続けるね」

「あ、はい」

 先輩のぎこちないその様子。俺はとりあえず気になりながらも口にはせず、話を聞き入るこ

とにした。

 俺から窓の外へと視線の向きを変え、先輩は思い出していった。





 手術はもちろんこの村でやったんだけど、他の大陸からやってきた医師も、数人いた。

 その医師たちが手術をやることになった医務館の手術室。……それは、妙に異様な雰囲気を

醸し出していたのを憶えている。

 あたしは怖かったから、手術室の前で待ってたんだけどね。

 …本当に生き返るのかな。

 生き返るのかどうか。あたしはそれだけを考えていた。

 方法も、生き返る理屈も、ただ記憶を消すことによって生き返ることができるって聞いてい

ただけで他には何も教えてもらわなかったから、不安だった。

「本当に生き返るのだろうか……」

「ええ……」

 村長も疑い混じりにそう呟いていた。あたしはただ頷くだけ。

 何時間の手術だったかな。早朝に始まったのにも関わらず、夜中に手術が終わったような気

がする。あまり憶えてないんだけどね。

 ガチャ

 手術室の扉が開いて、中からは大勢の医師の人達が出て来た。

 みんな、疲労と、そして手術を成し遂げたという満足感のようなものを感じていたように見

えた。

 そして最後に出て来たのが、……ぼけろんだった。





 先輩の、昔のことを語るときの顔。まるでそれは、俺が他人ではなかったかのように思える

くらい、人情味があった。

 そこまで話し、先輩は窓から俺の方へ顔を向けて言った。

「んんー、憶えてないかな。手術室から出て来た後、村長とあたしが手厚く出迎えたのを。手

術が終わってからのことだから、記憶、あるはずなんだけど」

「手厚く、出迎えたんですか……?」

 手術が終わって、その手術室から出て来たところなど、俺には記憶がなかった。

 それでも、期待した表情の先輩にそのことを言うのがなんとも辛かったので、俺はなんとか

その時のことを思い出そうとした。

 …村長と、先輩が?

 自問しつつ、考える。……が、やはり駄目だった。

「すみません。そこまでは憶えてないんで……」

「いや、いいんだけどさ」

 明るく言う先輩ではあるが、俺には、先輩の今の明るさは表面だけのものだと、なんとなく

分かった。

 切り替えるように、先輩は一息ついた。

「まぁ、そんなとこだね。ぼけろんが来た時のことは。それからは憶えてるんでしょ? あた

しが仕事を教えたりする時のことは」

「ええ。優しかった先輩のことですから、忘れるはずがありませんよ」

「また言うか……。ま、いいけどね。あ、そうそう、それからね、これはあたしの勝手な推測

だけど……」

「え、なんですか?」

 先輩は、俺が昔のことを理解したのを見計らった後、しばらく間を空けて、自慢っぽく言っ

た。

「ぼけろんのいつもの痛みっていうのは、……たぶん、その時の手術のせいだと思う」

「え? 手術の?」

「そう」

 先輩の言っていることが、俺には全く分からなかった。いつそんなことを悟ったんだろうか。
俺は先輩に対してそういった疑問を持ち、だが先輩のその話には興味があった。

「それって、どういうことですか? 手術の痛みが、今頃になってやってくる、そういうこと

なんですか?」

「まぁ、そんなとこかな」

 先輩の答えに、俺はしばらく考えた。

 ここ三日間に起きた痛み……。それはいずれも激しいものであった。雷が落とされたような、
激しい痛み。

 そして、具体的に痛んだ部分は、頭である。

 そう考えると、記憶を消す手術を行ったために、俺の頭は痛くなった。……確かにそう言え

ば、そう言えるかもしれない。

 だが、今までこういったことは……、むろんこういったことというのは頭が痛くなったこと

ではあるが、一度となかった。

 疑問に思っている俺に、先輩はその答えを言うような感じで口を開いた。

「一年前にやった手術っていうのは、記憶を消すものだったでしょ?」

「ええ、まあ、そうらしいですね」

「……ということは、その『手術の跡』が、今まで残っていたとして、その『手術の跡』って

いうのは、ぼけろんには記憶を取り戻してほしくないと思っているはずなんだ」

「……思っている……ですか」

「うん。ところが、それに対抗するように、『夢』が突如現れた。『手術の跡』にとっては、

もう天敵としか言いようがない敵キャラだね」

「え、なんでですか?」

「だって、『夢』は、ぼけろんの過去を、せっかく記憶を失ったぼけろんに教えようとするが

ごとく現れたんだよ。そうすると、ぼけろんは過去のことを思い出してしまうでしょ。だから、
せっかく記憶を消した『手術の跡』にとっては、『夢』は気にいらない存在なんだよね」

「んん……まぁ、そうなのかな」

「そこで、かつて過去を消したことのある『手術の跡』が、過去を思い出させようとする『夢』
と戦ったんだ。そのぶつかり合いに生じたのがあの痛みなんだと、あたしはそう思うんだよね

……。……どうかな、この推理?」

「………」

 先輩は楽しげに自分の考えを述べていった。……まぁそれはそれでいいんだが、俺には正直

なところ、先輩が何を言っているのか理解できていなかった。

「ああ……なるほど…ね。さすが先輩、なんとなく分かった気がしますよ」

「……あ、ほんと? やっぱりそう思うでしょ。あたしの推測は正しいんだね」

「……え、ええ」

 先輩の話している内容。それが頭の悪い俺には分からないが、一応先輩の話には肯定してお

いた。

「それからもうひとつ」

 さらなる明るさを見い出していく先輩は、続ける。

「ぼけろんには、もうあの痛みはやってこないと思うな」

「え?」

 さすがにその内容には俺は理解しかねるが、理解しておきたかった。

「なぜですか?」

「たぶんだけどね。ぼけろんは、もうひととおり過去の夢をみてしまっている。だから、もう

これ以上痛みが生じる意味が、『手術の跡』にはないと思うんだよね」

 その先輩の話には、矛盾が生じる。

「けど先輩。なんで先輩がそう言うのか分からないけど、今朝みた夢で『ひととおり』夢をみ

たと言えるとしても、今日、俺、二回も痛みで気を失ったんですよ。先輩の話のままには言え

ないと思うんですが」

「……まぁ、ね。けど、あたしにはそう思えるんだよね」

「……はぁ」

 俺は先輩の言葉に納得していなかったが、なんとなく説得力のある先輩のその言い草。それ

を考えると、痛みのことなどこれ以上考えていたところでどうにもならないので、俺は一応流

しておくことした。

「それから、今朝でぼけろんが夢をもうひととおりみたって言ったのはね、理由ありだからさ。
ぼけろんの過去は、今朝の夢でもうおしまい。ぼけろん、夢の中で、湖にいるところを『奴』

に撃たれたって言ったでしょ。その時に、ぼけろんは死んだんだよね」

「え? じゃあやっぱり俺は、今朝の夢で、奴に撃たれて死んでいたのか」

 今朝の夢で、俺は奴に撃たれた感じはしていたが、まさかあれが俺の最後だったなんて……。
そう考えると俺は複雑な気分であった。

 奴に撃たれたのが、俺の最後。

「じゃあ、俺は湖で奴に撃たれて、それから村にトラックで運ばれてきたってことなんですか

?」

「ううん……。ハッキリとは分からないけど、村長がそう言ってからそうだと思う。それと、

殺したのが『奴』かどうかは、あたしには分からない。けどさ、なんとなくはつかめたでしょ

?」

「ええ。……でも、ちょっと複雑ですよ。夢の中で撃たれたのが俺の過去だったなんて、加え

て俺は昔死んだっていうのが、余計に、なんだか頭を混乱させるような気がします」

「うん、そうだよね。あたしは死んだことないから、ぼけろんの気持ちなんて分かるわけがな

いけど、大変なんだってことは、なんとなく分かる」

「ええ」

 感情のこもった、そして暖かみのある先輩のその言葉。俺には嬉しいような、なんとも言え

な気がした。

 過去がどうだったのか。それが俺にはなんとなく分かったような気がしないでもないような、
複雑な気分ではあったが、逆に余計に疑問も浮かんできた。

 俺は、『奴』に殺された。いや、先輩が言うには、俺を殺したのは『奴』かどうかは断定で

きないらしい。だが、俺が殺された過去は、過去を意味している夢と、そしてそれを裏付ける

ように説明してくれた先輩の話によれば、事実らしい。

 そして、俺は村へと運ばれた。村で生き返るための手術を行い、そしてその代償として記憶

を失った。

 なぜ俺なんかが生き返させてもらえたのかは、先輩の言うようにそれはどうでもいい。

 そういった俺の過去の事実については、俺自信、理解したつもりではある。

「けど、先輩」

 俺は、明るく甲高く喋っていた先輩に、静かな声音で、呟く感じで言う。

 俺にはそういった事実のおかげで、どんどんと膨れていく疑問があったんだ。

「俺は奴に殺された。それで、村に来て、生き返った。そのことはもういいんですけど、よく

分かりません。俺って、結局何者だったんですか? 殺されるようなことをしてた、ヤバイ人

間だったんでしょうか。それに、先輩がそのことを知っている理由も、ハッキリをは俺には分

からない……」

 今までの疑問を、まとめて欲しい気分だった。

 第一に、先輩がなぜ俺の過去のことを知っているのか。

 第二に、夢で起こった出来事をしていた過去の俺が、どういう理由で奴に追われていたのか。
そのことは全てが分からなかった。

 間をおかずに、先輩は語ってくれた。

「うーんとね、ぼけろん。あたしがぼけろんの記憶とか、いろんなことを知っていたのは、ぼ

けろんがトラックに運ばれてきた時に、村長がぼけろんのことを話してくれたからなんだ。村

長がそのことをあたしにだけ話してくれたのは、あたしがぼけろんの保護をすることになった

から。けど、さっきも言ったよーな気がするんだけどなぁ?」

「そ、そういえば話してくれたような気も……」

 先輩が苦笑いを含んだ疑問に、俺は苦しく応えた。

「で、まあとにかく。……だから、ぼけろんの過去のことを、……つまり、奴に撃たれたり、

生き返ったりしたことを知っている人は、あたしと村長だけだった」

「……とすると、村長が死んだ今は、俺の過去を知っていたのは先輩だけ、ってことですか?」
「うん。ぼけろんの手術をした医師の人たちはそのことを知っているとは思うけど。みんなラ

ヌウェット大陸から出て行っちゃったからね。まあ、そういうことかな」

「じゃあ、村長から俺のことについて、何か他に聞いてませんか?」

「ううん、全然。ぼけろんが話してくれた夢のコト、つまりさっき話した過去のことしか、あ

たしは聞いてないんだ。だから、『奴』っていう男に追われていた理由とか、『彼女』ってい

う人のこととかは、全く分からないんだよね。村長は死んじゃったから、もう何も分からない。
あたしには知るよしもないし。だから、これ以上、詳しく知りたいというのなら、ぼけろん自

信が思い出すしかないよね」

「……そ、そうですか。いや、そこまで知れただけでも、十分ですよ」

 先輩の苦笑しながらの言葉に、俺は苦笑で返した。

 先輩が俺の過去のことを知った理由。それは村長から話を聞いただけのこと。

 なんとなく気になっていたことが分かって、俺は安心した。

 だがそうすると、先輩にそのことを話した村長は俺のことをもっと深く知っていた可能性が

高いことになる……。

 いや、村長も、先輩のように誰かから聞いただけなのかもしれない。そこのところはよくは

分からないが、……まぁ、今の俺には、どういう理由で俺の過去を知っていたのか、なんてこ

とはどうでもいいのかもしれない。

 そう、どうでもいいのだ。

 俺が今、気に掛かる問題というのは、俺は一体、何をしていたのかということだ。

 平和な環境の中、村で平凡な生活をしている俺。べつに今更そんなことを知ったところで、

どうにもならない。……言い換えれば、昔の記憶など、無くしておいたほうがいいのかもしれ

ないのだ。

 が、俺はどうしても知っておきたかった。

 自分がどういった人間だったのか。記憶がなくなり、死んだところを生き返らせてもらった

ことを知った今、過去のことを知らずにこれから村で生活していくことは、苦難にも思える。

「……俺の過去……。気になるな……」

 無意識にそう呟いていた。

 そう、もっと言えば、俺の過去がどんなものだったのかを知らないまま、これから村で平穏

に暮らしていけるような、そんな気はしないんだ。

「……ん?」

 『村で平穏』。俺はそこまで考えていくと、ふと脳裏にあった、嫌な……というより、関わ

りたくない記憶が蘇ってくるのを感じた。

 昨日の出来事のことだ。見知らぬ長身の男二人と太った男が、突然俺を呼び出してきた出来

事。そして、妙なことを言われたこと。

「先輩」

 俺は、……もしかしたら彼らは俺の過去に関係のある人達ではないか、……太った男に言わ

れた言葉を思い出して、そんな確信のない推測をしていた。

「何?」

 俺の呼びかけに、先輩が応える。

「何か思い出したことでもあるの?」

「いや、そうじゃないんですけど。昨日、食堂で夕食を食べている時だったんですが、俺、変

な二人組の男に、呼ばれたんですよ」

「二人組に、呼ばれた……?」

 『は?』と疑問調に眉を吊り上げて、先輩は問い返してきた。それだけでは、特に当てはな

いようで、先輩はしばらく黙り込む。

 俺は続けた。

「ええ。それで、小屋に……。あ、先輩。村の広場に隣接している森、知ってますよね」

「ああ、あの森ね」

「その奥に、……おかしな、赤い屋根のいかにも最近建てられたような小屋があるんですけど、
先輩、知ってました?」

「ああ、それって、村長がいつもいた小屋のことじゃない? あたし、しょっちゅう行ってた

けど」

 簡単に受け流す先輩の話に、俺は驚愕した。

「え、そうなんですか? そんなの、俺、全然知らなかった……」

「ははは、なんだぼけろん。一年もいるのに知らなかったのか」

 馬鹿にするような先輩の哄笑を耳にしながら、俺はただ黙っていた。

 そういえば、村長とはよく会ってはいたがどこに住んでいるのかまでは知らなかった。そん

なことを知る必要はなかったし、知ろうとも思わなかったから。

 俺は初めて知ったそのことに、新鮮さと、先輩に対する恥ずかしさのようなものを感じてい

た。

 ともかく、それが村長の家であろうと、先輩にそのことを話そうと思っていたわけではない

のだ。

「けど、まぁそのことはいいんですよ。で、とにかくその小屋まで、俺、二人組に連れられて

きて、中に入るよう言われたたから、入ってみたんです」

「小屋の中に?」

「ええ。それで、中で待っていたのが、変な太った男だったんですよ。先輩、太った男のこと、
知ってます?」

「う~ん。そんな『太った男』って突然言われてもねぇ……」

 俺の説明が漠然としすぎているのは、自分でも分かってはいた。が、そうとしか言いようが

なかったんだ。

 先輩はしばらく、俺のあやふやな話を真面目に聞いてくれて、『う~ん』と頭を悩ませてい

た。

 すると、ふっと顔を上げた。

「……あのね。その太った男のことは分からないけどね、あの小屋に入っていい人は、限られ

てるんだよね。基本的に、村長に招かれた客だけ。それも村長が滞在している時だけなんだよ

ね。だから村長が死んだ今、小屋に入っていい人っていうのは、いないはず……いや、ちょっ

と待って。もしかして、その太った人って管理人かなんかじゃない?」

「あ、なるほど。そういう見方もあるな、確かに」

 先輩の言っていることは、もっともであった。

 小屋を管理している人ならば、村長が死んで誰もいなくなった小屋にいても、おかしくはな

いはず。

「……いや、けど……」

 俺は先輩の話を否定する記憶があった。

 あの小屋にいた太った男。それが、仮に管理人だとしても、……俺に対するあの対応と、側

近にいた男二人のことを考えると、何かおかしいような気がする。

 俺の疑問を不可思議に思っている先輩に、言う。

「けど先輩。管理人なんかが、社長椅子のようなものに座って、俺を、二人のいかにもヤバそ

うな男に連れてこさせて、それで組織がらみの脅迫みたいなことを言ってくると思います?」

「ぼけろん、脅迫されたの?」

「ええ。似たようなことを」

「……う~ん。確かにそれは管理人なんかじゃないかもね。ぼけろん、そういうことは早めに

言ってよね。あたしとあんたの仲でしょ。なんかあったらすぐ言うのが、鉄則だよ」

「ああ、はい。分かりました」

 苦い顔をしている先輩に、俺は『ははっ』と笑った。

 同時に、小屋にいた太った男の言っていた言葉、俺はそれを思い出していった。

 それを見計らって、先輩は聞いてくる。

「で、どんなこと言われたの?」

「特に気になるのが、初めにその人と会った時、いきなり『君が例の…』って言われたんです

よ。俺はあんな人、知らないのに」

「『君が例の…』?」

「ええ。それだけじゃなくて、『三日後までには、村を出ていってもらう』……言葉は違って

たかもしれないけど、内容はこんなことを言われました。昨日言われたから、三日後ってこと

は、明後日、ってことですけどね。もう、わけが分かんないですよ」

 テーブルに肘をつけて、先輩は深刻に考えてくれる。

「……どういうことかな、って言うか、そいつら何者なの? 村の人じゃないよね、そいつら」
「ええ。感じからして、そうでした」

「それに、明後日までに村を出ろ、って意味が分からない……。明後日って、何かあったっけ

?」

「いえ、べつに何もないですよね」

「うん……。気になるな」

 昨日、かれらにそのことを言われた時、その時ももちろん、俺は何がなんだか分からなく、

考え込んだものだ。

 だがそれでも、なんとか忘れることはできた。

 しかし今は、先輩と話して、そしてそのことを深く考えていったせいでか、俺は余計に気に

なって仕方がなくなってしまった。

 先輩、……やはりかれらに何の検討もないようで、首を傾げたままだった。

 俺たちふたりは、しばらく食堂の静まり返った空間で、そのことで頭を悩ませていた。いや、
俺たちと言うのは、俺の勝手な言い分なのかもしれない。

 もともとは、俺の問題なのである。そのことに、先輩は自分から首を突っ込んでくれた。む

ろん、それが他人にとっては余計なお世話だという場合は多々あるが、俺にとっては先輩のそ

ういったおせっかいなところが、今は心強いことこの上なかった。

 そんな先輩……、窓の外の景色を眺めながら考えているそんな先輩を、俺はじっと見つめた

まま、ただ何気なくそんなふうに思っていた。

 数十秒経って……、先輩がこちらを向いた。

「たぶん……」

「え?」

 何かを悟ったようなその先輩の口調に、俺は情けない声を出す。
                                                                                ・・
「その太った人たちも、ぼけろんの夢に……いや、夢って言うのはやめよう。ぼけろんの過去

に関係しているんだと、……あたしはそう思うな」

「まさかそんな。……だって、仮に関係した人だったとしても、一年間も何もなかったんだ。

今頃になって、やってくるとは思えない……」

 そうなんだ。過去、一年前に、俺は誰かに撃たれた。それはおそらく『奴』と思われるんだ

が。

 それはそれとして、たとえ俺を撃った人間が、昨日の太った男と関係していたとしても、一

年間も何もなかったんだ。そして、俺は一年前に殺されたのだ。今、こうして俺に何か仕掛け

てくるのは、無意味のような気がするし、おかしいのではないかと、俺には思えた。

 そんな俺を、先輩は否定する。

「けど、分かんないよ? 村長に聞いたところによると、ぼけろんは狙われてた。まぁ、その

理由は分からないけど。で、結局、最後はぼけろん、死んじゃうでしょ?」

「……え、ええ。まぁ」

 『死んじゃうでしょ』と、そう言われると、俺はなんだか複雑だった。

 そんな俺に気付いたのか、先輩は『あっ』と言って、俺の肩に手を掛けた。

「あ、ぼけろん、ゴメン。言っちゃいけない言い方だった」

「いや、いいですよ」

 先輩は乗り出した体を戻して、椅子に座った。

「で、ね。今はとりあえず殺したのが『奴』だとする。『奴』は、ぼけろんを狙ってた。そう

すると、ぼけろんが死ねば、その目的も達することができる。じゃあ、ぼけろんが生き返った

としたら?」

 先輩のその言い方は、何か怖いものを感じた。

 先輩に言われたことを、まとめてみる。

 奴は俺を狙っていた。その目的は、一年前、達せられたはずである。

 だが、俺は生き返った。奴は再び俺を狙ってくる。……先輩はそう言いたいのだろう。

 先輩に、俺は考えたことを言った。

「……つまり、先輩。太った男は、『奴』と関係がある、ってことですか?」

 その問いに、先輩は深く頷いた。

「そういうこと。……って、言い切れるわけじゃないんだけどね。けど、考えられなくもない

でしょ? それと、一年間、何も手を打ってこなかったのは、ぼけろんが生き返ったことを知

らなかったからじゃないかな。だから、今頃になってやってきた」

「……ってことは、俺はまた、命を奪われることになるんですか……?」

 あまり考えたくないことだが、先輩の言っていることが事実である可能性があるというのな

ら、その可能性もあるということだ。

「いや、それは分からない。ぼけろんが言われたのは、ただ、『村を出ろ』ってことだけだっ

たんでしょ? 一年経った今は、命をとる必要がなくなったのかもしれない。それでもぼけろ

んは村を出なくちゃ、彼らにとっては具合が悪いのかも」

「……なんだか、よく分からないことだらけだ。けど、とにかく、ひとつだけは分かりました

よ」

「え、何を?」

 先輩の問いに、俺はしばらく沈黙した。

 ……そう、ひとつ言えること。それは、過去、一年前、俺が命を狙われたことと、そして一

年経った今、こうして俺を狙ったきた彼らのことを考えれば、それは誰にでも考えられること

だと、俺は思う。

 俺は、真剣な顔で先輩に言った。

「つまり、先輩。俺は、そこまで重要な人物だったと、……そういうことなんですね」

 先輩の右目の瞼が半分閉じていったのが、俺には見えた。

「さ、さぁね。それは分かんないけど……」

 先輩のその言い方は、まさに俺を馬鹿にしているものであった。

 だが、命を狙われるほどの俺。たとえ過去のことだとしても、俺がそんな立場に立つなど、

考えられないことであった。

 いや、そんなことは今はどうでもいい。これからどうすればいいのか。それが重要なことで

ある。

「先輩、俺は、どうすればいいんでしょう。このまま、何もしないで村に残っていても、大丈

夫でしょうか。それとも、やはり念のため、自分から村を出ていった方がいいんでしょうか」

「………」

 やっと出てきた相談らしい相談に、先輩はさらに深刻な表情でうなり声を微かに発した。

 いろいろと疑問はあり、太った男に言われたことに素直に従わねばならない……、そんな気

がする。このまま、平穏に明後日という日が過ぎるような、そんな気は、……残念なことに俺

にはしなかった。

 だが、村を出ることは、俺にとってはとても嫌なことだった。

 今までは意識してはいなかったものの、こうして記憶を失ったことを考えると、それは余計

に言えることである。

 村に来てからの記憶しかないのである。その村から出ていくということは、……それは、あ

る意味ではいい経験となるのかもしれない。例えば、気分を変えるとか、自分の人生に見切り

をつけるとか……、そういった感じで。

 だが、今の俺にはそんな気はない。できることなら、平穏に村で過ごしていたい。

 もちろん、太った男に言われたことを間に受けず、そして実際に明後日が過ぎていき、何も

起きない可能性もあるにはあるが、……おそらくそうはいかないであろう。

 深く考え込む俺。それは、今までの中でも、有数の考える『時』だったであろう俺はそう思

う。

 それほど、今回の、問題とも言える出来事が、俺には苦だった。

「ちょっと待ってよ、ぼけろん」

「え?」

 先輩が、俺の思考を遮ってそう言った。

 何を思いついたのか。そう思いながら、顎に手を当てている先輩に目を集中する。

「ぼけろんが話してくれた『夢』のこと。ぼけろん、会話まであたしに全て話してくれたじゃ

ん」

「ええ、憶えてることは全て……。まあ、憶えてることは全て、って言っても、まるっきり夢

はみたままのことを憶えてますからね。完璧なまま、話したつもりです」

「うん。でさ、ぼけろん、初日の夢で、『彼女』に言ったよね。『ラヌウェットへはもう少し

で着く』って。……まぁ、どう言ったかまでは、憶えてないけど。とにかくそんなこと言った

でしょ?」

「ああ、確かにそう言ってました、俺。……なんか、夢では自分で言ってたのに、今考えてみ

ると変な気分ですね」

 そこまで言うと、先輩は急にハイテンションになってつかみ掛かる勢いで言ってきた。

「そう、それを言いたいんだよ、ぼけろん! 夢と過去は、同じでしょ? とすると、ぼけろ

んは彼女と一緒に、ラヌウェットへ向かっていたんだ」

「まあ、そういうことですけど。それが何かあるんですか?」

「で、まぁ聞いてよ。夢からすると、ぼけろんが殺されたのは、ラヌウェットへ向かっている

途中だった、ってコトになる」

「ええ、そういうことです。理由はどうあれ」

「そう。けどさ、夢の会話から考えると、ぼけろんは、彼女をラヌウェットへ送っていたよう

な感じ、しない?」

「……まあ、そんな気もします」

「そうすると……」

 そこまで言うと、先輩は目を光らせて-いや、実際には光らせてはいなかったのだが、俺に

はそう見えた-、一呼吸おいた。

「ラヌウェットには、何かがあると、思うんだよね」

「は?」

 唐突に意味の分からないことを言う先輩に、俺は顔をしかめた。

「なんで、ですか?」

「だってさ……いや、なんとなくね。いや、その前に聞いておきたいんだけど。ぼけろんさ、

さっき言ってた太った男の言うことなんて、聞きたくないよね」

「ええ、それはそうですよ。いきなりあんなこと言われたんですから。村は出たくないです。

けど、何か嫌な予感はしてます」

「じゃあ決まりだね」

「は?」

 先輩の勝手に決めゆくその発言。根拠がよく分からないのだが、とにかく俺は先輩の相変わ

らず明るい顔を見ていた。

「ぼけろん。明日、ラヌウェットで、ちょっとぶらぶらしてみない?」

「なぜですか?」

「太った男のこと、分かるかもしれない。それに、ぼけろんが過去に向かってて、そのせいで

死んだ所だもん。その話を聞いておいて、ただいつものように仕事だけしてくるのなんて、な

んだかもったいないじゃない」

「あぁ、そういうことですか。そうですね。そういうことなら、たまにはいいかも」

 俺は、先輩の提案を受け入れることにした。

 そう。ラヌウェットへは、毎日行っている。それは全て、仕事のためである。

 だが、あくまで仕事のため。そのせいか、毎日行っているラヌウェットのことを、俺たちは

あまり知らないでいた。

 いつも市場にしか用がないため、そして急いで帰ってこないと村には迷惑をかけてしまうた

め、街の構図なんかは全くと言っていいほど分からない。

 太った男のことが分かるかもしれない。……先輩がそう言ったことを考えずにいても、たま

にはみてまわるのもいいかもしれないと、俺にはそう思える。

「明日、ですか?」

 俺は、先輩の提案に依存はなかったが、いきなりのことなので多少ためらうものがあったん

だ。

「もち。だって太った男が言っていたのは、明後日でしょ? だから、何か起こる前に行った

方がいいと思うんだ。べつにいいでしょ? 明日でも」

「ええ、べつに俺はいいですけどね。じゃあ、俺、あとで管理長にそのこと、言っておきます

よ」

「あ、そん時はあたしも付き添うね」

「あ、はい」

 先輩の言っている『太った男のことを調べる』について、俺は期待はしていなかった。それ

は、誰もがそう思うことであろう。

 全く見知らぬ男なのである。

 仮に、ラヌウェットで太った男たちについて知れたとしても、その後、俺はどうすればいい

のか、先輩はそこまで考えているのであろうか。

 いや、その前に太った男たちが、昔……、つまり一年前の俺に関係しているとは限らないの

だ。そんな確証もない彼らのことを知るためにラヌウェットへ行ったところで、何かを得るこ

とはできないのではないかと、俺は思った。

 太った男の言ったことは、確かにとても気になる。

 だが先輩の言うように、そこまでして太った男たちのことを考えても、仕方ないのではない

か。どうせ俺たちには、何もできないのだから。

 俺は、そんな弱きな考えでありながら、先輩に言った。

「じゃあ先輩。明日はなるべく早く行きましょうよ。せっかくなんだから、朝から時間を使っ

た方がいいと思うし」

「そうだね。どのくらい早く出る?」

「二時間」

「えっ?」

 『二時間』。その言葉を聞いた時の先輩の表情は、とても印象深かった。

 朝は無理して俺に付き添う先輩。いつもよりも格段に早い、二時間という睡眠の短縮を、先

輩は可能にすることができるか、俺は少し楽しみであった。

 絶句して口を開けたままの先輩に、俺は笑みを浮かべる。

「いや、やっぱり無理ですよね。先輩には……」

「いや」

 そこで、先輩は崩れかけた顔をきちっと戻し、否定した。

「大丈夫に決まってんじゃん。特別な日くらい、あたしにだって起きれる」

 そうくるとは思っていなかった俺は、感心してしまった。

「……あぁ、そうですよね。じゃあ、明日はいつもより二時間早く、ってことで」

「おう」

 最後に先輩は、大きく返事した。

 明日は『太った男』を知るため、ラヌウェットを見てまわる。結局何も得ることはできない

と思っているのは、今でも変わっていない。

 だが、先輩と、そういう観光気分でラヌウェットへ行くことについては、俺はむしろ賛成で

あった。

 そうだ、そういう気分で行けば、消極的な考えをしなくて済む。

 先輩と疲れる話をして、……もちろん疲れる理由というのは先輩にあるわけではなく、俺の

知らなかった過去を知ったことと、そしてそれについて考えていったことに原因があるのだが、
そんな疲労した自分から逃げたく、俺は窓の外を見てみた。

「……ふぅ」

 思わず溜め息をついた。

 それとともに、俺は心の中に突っ掛かっていたものが消えたことを、深く感じとった。

 …なんか、まだ気になることはあるけど、すっきりした気分だな。

 そう、今の俺はすっきりしていた。

 その理由も、今ではなんとなく分かっている。

 先輩から、『相談に乗ってあげる』……と、そんなことを言われた時からが、全ての知識の

初まりだったような、……そんな気がする。

 先輩に話して、俺は他人には知るすべもないこんなにもいろいろな知識……いや、知ってい

て当たり前の、過去をいう現実を知ることができた。

 それも、普通の人間が味わうような、……そんな生易しいものでは済まされない波乱の過去。
 そんな過去を今まで全く知らなかった俺。ショックがないと言えば、嘘になる。

 だが、それでも知らないよりは、……自分というものを今までより深く知ることができたし、
それに新しいものを見つけたような、そんな気もする。だからよかったと思っている。

 そして……

 俺は、ふと食堂の中の方に目をやった。

 食堂にやってきた村人たちが、次々に定食やらなんやらを受け取って、席についていく。

 先輩と俺は、今まで気つかなかったが長かった語らいを終え、夕食を食べることにした。

 窓から見える空模様が、……普段よりも繊細に描かれているように思える。

 それは、……おそらく俺の今の想いを表しているように、様々な絵柄で、一見みたところで

は逆に何の変哲もないようにも見えるが、だが気持ちよく晴れ晴れとしている、そんなふうに

俺には見えた。

 その夕暮れを何気なく見て、お茶を取りに行っていた先輩が戻ってくると、顔をそちらへと

向ける。

「今日も、お茶ですか」

「そ」

 それだけ言って、お茶を飲み始める先輩を、俺はまじまじと眺めた。

 しばらくして、先輩は俺の視線に気付くと、『ん?』と顔を上げた。

「どしたの?」

「先輩、ありがとう」

「は?」

 何のことだか全く分からない……。そう言いたげに先輩は片方の眉を上げる。

「俺、先輩に迷惑をかけてばっかりで……。それに昨日なんか、先輩が話を聞いてくれようと

していたのに、最初の俺は、逆に反感さえ感じてしまった。……それなのに、先輩は今日、い

ろいろと話を聞いてくれたし、いろいろ教えてくれた。だから……、とにかく、ありがとう」

「はは、とーぜんのコトしたまででしょ。そんな改めなくってもいいぜ! まっ、そこがぼけ

ろんらしいっていえば、ぼけろんらしいんだけどね」

 先輩には、本当に感謝していることが伝わってほしかった。だが、それを先輩は笑って返し

てくれる。そんな先輩らしさが、俺の一番好きなところだ。

「過去、俺は死んだり、生き返ったりしている。記憶がないし、なんだか危なそうな連中には

変なこと言われたりしてる……。けど、もう俺、狂いはしない自信がでてきた。……そんな感

じがします」

「そっか。あたしもさ、ちょっと安心してる。ぼけろん、おかしかったし、……けど、そう言

ってくれると、あたしもほっとするよ」

「ええ。それに先輩の言ってたように、頭痛、気のせいかもしれないけど、本当に起こりそう

な気もしないし」

 俺は、三日間続いていた痛みが、言葉だけではなくこれ以上もう起きないような気がしてい

た。

 夢をみてから、おかしかった俺。

 記憶を失っていたことなど、全く知らなかった俺。一度死んで、生き返ったという非現実的

な過去のある俺。

 さすがにこれには驚かされずにはいられなかったが、今思うと、先輩に教えてもらったこと、
それが返って俺のためになったのだと、そう思える。

 知らない方が幸せなことだってある。本当ならば、俺の過去の出来事も、その部類に入るよ

うな気さえする。

 だからこそ、そのことは先輩も考えてくれていたんだと思う。

 だがあえて、それを俺に話してくれた。その時の俺の衝撃は、先輩も知っている。

 話している時の先輩の表情を、俺は思い出してみた。哀しそうな、そんな表情だ。

 それは、俺のこと想ってのものだったような、……今ではそんなふうに思える。むろん、そ

れは俺の勝手な妄想なのかもしれないが、……それでもいい。

 俺のことを考えてくれた先輩。気を遣ってくれた先輩。……そんな先輩の良いところを、俺

は今まで以上に知れた気がする。

 俺はそのことを胸に深く突き刺して、先輩の方を見つめていた。

「あ、ぼけろん。お茶、おかわり持ってきて」

「はいっ」

 普段より甲高い俺の声。それを発した時の俺は、なんがか気分がよかった。

 セルフサービスのお茶。受け取り場まで来て、俺は先輩の方を向いた。ここから先輩のいる

テーブルまでは、かなり距離がある。そのあいだには、幾つかのテーブルがあり、夕食を食べ

に来ている人も、少なくはない。

 先輩が、俺の視線に気付いたのか笑顔で手を振っている。

 周りの村人達が、俺たちの方を訝しげな目で交互に見てきた。

 だが、俺は快く笑顔で先輩に手を振った。





              第四章 走り抜けて知るもの


                                         1


 冬、真っ只中である。そんなことは一週間も前から分かっている。だが……

 …この暑さは、一体なんなんだ!?

 俺は嘆息まじりにそう呟いた。怒りを込めて、そして苛立ちすら含めて……。

 まぁ、車内ということもあるからなのかもしれないが、この暑さは尋常ではない。

 しかも、まだ朝は早いのである。早朝のすがすがしい心地よさというものが、まるで感じら

れない。

 とにかく、俺はトラックの運転席で、そういった苦痛ともいえる重大な悩みを抱えて、汗を

かきまくっていた。

 村全体。全ての建物の外は、無人状態である。日はほとんど昇っていないため、周囲を見渡

すのにも限界があるが、ある程度は見えている。それでも村人の姿を全く見ることができない

のは、おそらく今日は起きる時間が早すぎたためであろう。

 そんなトラックの外の状態を、俺は眺めていた。

 トラックの外は、風が吹いているように思えるが、……とにかく中は暑かった。

「しかし遅いな……」

 俺は腕時計を見て、独りごちた。

 先輩が来るのを俺は待っている。約束した時間よりも、すでに三十分が過ぎている。普通の

待ち合わせだとするのならば、この時間はたいして長いとは俺は思わないが、今回のそれは、

ちょっとばかり違うのだ。

 そして何より、先輩から言い出したのだ。俺の方が待ち時間が長いというのは、なんとも苛

立つ原因となってしまう。

 そう、今日はいつも仕事で行っているラヌウェットへ、普段とは違った意味で向かうのであ

る。

「はぁ」

 ガチャ

「ん?」

 溜め息をついた瞬間、助手席の扉が開いた。その開いた扉から現れたのは言うまでもなく、

「ゴメンゴメン。ちょっと遅れちゃった」

「まったく、ちょっとどころじゃないですよ」

 先輩だった。

 苦笑している先輩に、俺は意地悪く言った。

 やはりこの時間帯は、先輩には早すぎたのだ。無理して俺の時間に合わせなくてもよかった

というのに。

 いつもより『二時間早く』……。それを先輩が嫌だと言っていたら、俺は変えたつもりだっ

たし。

「ったく。だから先輩には無理だったんですよ」

「いやいや、そんなコトないさ。ただ、ちょっとね」

「ふぅ。 ……ま、いいですけどね。とりあえず出しますよ」

「うん、行こう!」

 いつもの作業服。いつもの笑顔、……いつもと変わらない先輩。

 だが、俺は、先輩の髪形がいつもよりもきちんと決まっていることに、気付いていた。



 村からは、けっこうな距離までやってきた。

 この走行中の時間、普段は眠りについているはずの先輩。さらに、朝、起きるのが普段より

二時間も早かったというのに、起きている。それも、目をしっかりと見開いて。

 まあ、それは今日はいつもと違う日だからではあろうが。

 助手席の、……つまり先輩の方の窓から強烈な風が吹いてくる中、俺はそちらは見ずに、と

りあえず起きている先輩に、何気なく言った。

「しかしなんですね……。こうやって、いつも先輩とは出掛けてますけど、今日みたいにちょ

っと違った、ある意味、観光のために行くような、そんな事前の気持ちでいるのって、なんか

いいですね」

 俺の話に、こちらを向いたのかどうかは分からないが、先輩は『う~ん』と唸った。

「何言ってるのか分かんないけど、言いたいことは分かるよ。まぁね、確かにあたしも、今日

はなんてゆーか、楽しみだし」

「楽しみ、ですか?」

「いやいや、嘘嘘。ぼけろんのために行くんだもんね。……けど正直なところは、楽しみなん

だ」

「いや、先輩が楽しみに思っていてくれるなら、俺はいいんですけど」

 俺はそこまで言って、微かに笑う先輩の声を聞くと、欠伸をした。

 さすがに朝の得意な俺でも、普段でも早い朝からさらに二時間も早く起きるとなると、かな

りこたえる。

 眠気が漂うのを紛らわすためか、俺は、無意識にフロントガラスに映る前方の景色から、視

線を様々な箇所へと動かしていた。

 右の窓から見える相変わらずの殺風景が……いや、殺風景とまではいかないが退屈をしかね

ない景色が、俺を酔わす。

「ねぇ、ラヌウェットってさぁ、どんな街なのかな」

 複雑な表情を浮かべていたのだろう-また、実際に顔を見たわけではないのだが-先輩の声

には困惑のようなものが感じられた。

「いや、どんな街って言われてもですね……、なんとも言えませんよ」

「あたしさ、いつもトラックの中で寝てるだけでしょ? だから、あまり町並みの風景とか、

知らないんだよね」

 そう、先輩はラヌウェットに着いても、トラックの中にいるままなのだ。それは眠っている

からであって、俺が起こしていればおそらく出てきてはいるんだろうが。

「そういえばそうでしたね。けど俺だって、仕事してすぐ戻っちゃうから、ほとんど知らない

んですよね」

「そうだったね。まっ、いっか。着けば分かることだしね」

「ええ」

 着けば分かる。それはもっともな意見である。

 とにかくそんなことを考えていても何も始まらない。俺はトラックをとばした。





 ブォォー……プシュー……

「え?」

 それは俺の意表を突いて起こった。

 言い換えれば、……いや、言い換えなくとも普段の俺では考えられないことである。いや、

考えられないこともないのだが、まさかこんな日に起きるとは思ってもみなかった。

「……マズイな」

 俺は嘆息して顔をしかめた。

 いつものようにボーッとしながら、広大な空の下にあるこの長い一本道をトラックで走って

きたのだが、突然車体がガタガタと来たのである。

 だんだんとそれは音を増していき、そしてトラックの速度もだんだんと落ちていった。

 俺は、速度を上げるよういろいろと試したのだが、……結局は何にもならなかった。

 ……率直に言えば、故障した。

 どこがどう故障したのかは、ただ仕事のため運転をしている俺には何も分からない。だが故

障したという事実は、……本当であろう素人の俺でも分かる。

 普段から気を配ることはなかった。それは、ここ一年、全くこんな状況に追い込まれたこと

がなかったからだが、……まさかこんな時に起きるとは……。

 加えて、村とラヌウェットを結ぶ一本道の距離は長いため、トラックはいつも整備師がしっ

かりとチェックしているはずだというのに。

 俺はどうしうようもない絶望感を覚えた。

「あ~あぁ」

 しかし、そんな感傷のようなものを感じている暇があるのなら、次のことを考えねばならな

い。舌打ちして、俺はどうするかを頭の中でまとめていった。

 まず、この一本道のことだ。そう、まさに一本道である。他には何もない。近くに人の家な

どあるわけもない。そんな山奥のような環境なのである。

 村からラヌウェットまでをつなぐ唯一の糸。そう、唯一でしかない。それがこの一本道であ

る。

「……はぁ」

 俺は、今、分かることを考えた。

 村から、トラックが故障したこの場所まで、村からラヌウェットまでの距離を一とするのな

ら、だいたい十分の九トラックで走ってきた。

 とするのなら、ラヌウェットまではここから十分の一の距離を歩かなくてはならないという

ことだ。そして、そこまで行かなくては人と出会うことは不可能だということでもある。

 いつもトラックで走っている距離の十分の一。十分の一というと楽そうにも思えるが、それ

が徒歩となるとどんなに大変な距離かを、俺は知っている。

 誰か助けを呼ぶにも十分の一。修理をするにも必要なのが、十分の一。

 ……とにかく必要なのが、十分の一。

「……いったい、何時間かかるんだ?」

 トラックの故障。それは、俺の仕事に限りなく多大な影響を及ぼすのを、今、改めて知るこ

とができた。

「まいった……」

 俺は溜め息を何度も何度もついて、助手席に座ってさっきまでは起きていたのに今では静か

な寝息を立てている先輩の方をちらっと横目で見て、もう一度、今度は特大の溜め息をついた。
 とりあえず故障したことを先輩に伝えなければならない。

 先輩の肩に手をおいて、緩やかにゆらす。

「先輩、ちょっと起きてください」

「んん……、着いたの?」

 睡眠の後、特に起こされた場合の先輩は機嫌が悪い。据わっている目を見て、俺は気まずく

先輩に言った。

「いえ、まだラヌウェットに着いたわけじゃないんですが、……なんだか、トラック、故障し

ちゃったみたいで」

「は?」

 トラックの故障の話を聞くと、先輩は何がなんだか分からないという様子で、一旦伸びをし

て、俺の方に体を向けた。

 しばらく頭の中で整理しているようにも見える。そんな先輩は首を左右に二回程曲げて、口

を開けた。

「故障?」

「ええ、故障です。トラックは、少なくとも今はもう使えません。でもって、ここからラヌウ

ェットまで、あと十分の一です」

「十分の一……? 何が?」

「距離」

「はぁ!?」

 先輩も、距離を十分の一という分数で表すと、すぐに理解する。

 驚愕して、そして怒りを込めた表情になった先輩は、『信じらんねえ』とでも言いたげに俺

を凝視した。

 俺はその間にも、考えていた。

 どうするべきか。……もなにも通信手段が何もない。そしてここの辺りを通る人などは極少

数。加えてこんな朝早くから車をとばしている人など、旅行か何かを目的にした以外は、まず

いないため、それを待つのには可能性が低すぎる。歩くしかないのだ。

 先輩は絶句したままの状態でしばらく止まっていたが、ふと表情を取り戻した。

「ちょっと待って。それ、本当?」

「はい、確かめました。素人の目で、ですが」

「じゃあ、動かないの?」

「ええ」

「ってコトはよーするに、……歩くって、コト?」

「はい、そうですね。つまりは、歩くってことです」

「……それなのになんであんた、そんなに明るい表情してんの?」

「そうですか? 俺、そんな顔してるつもりはないですけど」

「ま、いいや……」

 先輩は眉間に皺を寄せた。口元が震えて曲がっており、『はは……』と何度も笑っていた。

 俺も先輩の気持ちは分かるが、とにかく歩くしかないのだ。

「先輩、降りましょうか。誰か呼ばないと、どうしようもないし」

「だね……」

 諦めを含んだ、そんな声音。俺もそんな声を出しているのだろう。なんのやる気も起きなか

った。

 ガチャ

 ドアを開けて、外へ出る。それに合わせて、先輩もトラックから降りた。

「おぉ……」

 俺は、新鮮な空気と涼しい風を受けて、そんな声を出していた。

 トラックの中のあの暑苦しい空気は、……やはりトラックの中だけのものであった。

 外へ出て、気温の明らかなギャップを感じて、俺はようやく解放された気分を味わい、何度

も深呼吸をした。

「さてと、どうしましょうか」

 俺と先輩は、トラックから少し離れた場所まで来て、空を見上げた。

「……って言ってもね。歩くしかないんでしょ。今の時間じゃ、誰も通ってくれないだろうし」
「ええ……」

 空を見上げた顔を下げて、先輩と顔を見合わせると、余計に空しさが増してきた。

 そのまましばらく外の空気を味わい、俺たちはただ立ち尽くした。

「このトラック、どうしましょうか」

 数分休んで、トラックの後ろへと戻り、俺は先輩に言った。

「どうするも何もねぇ……。押してこうよ。ラヌウェットまで」

「へ?」

 トラックの重さと、俺と先輩の二人だけというこの状況を考えると、先輩の言うことには、

俺は賛成できなかった。

 髪をかきあげている先輩。

「いや、ここに停めておいてラヌウェットの人達に直しにもらいに行った方が、いいんじゃな

いですか?」

「けど、ここに停めておくわけにもいかないでしょ。もし傷つけられたら、ぼけろんはどうな

ると思う?」

「あ……」

 先輩の脅迫じみたその言葉に、俺は絶句した。

 トラックは、俺のものではない。仕事のため必要上借りているだけなのだ。今日は特別に貸

してもらっただけのこと。

 トラックの持ち主、先輩よりも俺が恐れているシモンさんに、傷ついたトラックを持って帰

ったとしたら……。

「やっぱり先輩、トラック、押していきましょうか」

「はは、何を脅えているのやら」

 笑って言う先輩に、俺は何も言えなかった。

 仕方なく、俺と先輩はふたりだけでトラックを後ろから押していくことにした。

 巨大なトラック……。まぁ、巨大とは言っても普通のトラックだってこのくらいが当たり前

なのかもしれないが、人ふたりがそれを押して行くとなると、やはり俺は気が引けた。

 だが、そんな感情は、トラックを押し始めるとあっさりとどこかへ行ってしまった。

「トラックって、こんなに軽いものなんでしょうか」

「さあ……ね」

 先輩とふたりだけで、……あくまでゆっくりとしか動かないが、それでもしっかりと進んで

いる。そして、歩きよりも確実に遅いのだが、実際に動いているトラックの後ろ姿を見ると、

俺と先輩だけでこんなものを押せるとは、信じられなかった。



 三十分ほど経った。

 その時間、ずっとトラックを押し続けて来たのだが、ラヌウェットまでの距離はまだまだあ

る。

 だが、さすがにトラックを押しての三十分の歩きとなると、それはもうかなり辛かった。

 俺は、そんな体力の低下を紛らわせるように、すぐ隣で俺と同じようにトラックを押しなが

ら歩いている先輩の顔を見た。

「ところで先輩」

「……なぁに?」

 先輩も、やはり俺を同じように疲れているようだ。言葉に生気がない。

「こんなんじゃラヌウェットを見てまわるなんて、……それどころの問題じゃなくなってしま

いましたね」

「そういやそうだよね。……この調子じゃ、ラヌウェットに着くのは、夕方近くになっちゃう

だろうし」

「ええ……」

「はぁ……」

 少なくとも、今日中にじっくりとラヌウェットを見ていくようなことは、できないであろう。
俺はそう思う。

「ま、頑張りましょうよ」

「はい、そうですね」

 先輩の勇気付け言葉に、俺は苦笑しながら応えた。

 トラックの故障。そのせいで今、こうしてトラックを押している。

 もし、先輩がいなかったら、俺はひとりで押していたことになる。

 今日は仕事ではないが、普段どおりに仕事をするためにラヌウェットへ行っていたとしても、
トラックが故障するのには、変わりはない。

「今日、仕事にしなくてよかった」

「そうだね」

 そして、先輩が俺についてきていなかったらと思うと、トラックを押す力が二倍必要だ。

 …不幸中の幸いってヤツか。

 俺は安堵して呟いた。

「先輩がいて、助かりました。たまには役に立つヤツもいるって、先輩のコトですね」

「あ~、どういう意味、それ?」

「いえいえ」

 眩しい光の中、冬の寒さが嘘のように、俺の額からは多量の汗が出ている。

「はぁ……」

 溜め息をついて、俺はこれからの道程を長く感じて、頬を流れる汗を片手で拭いた。

 その時だった!

 ブロロロロ……

「え……?」

 妙な音に、俺は拍子抜けした声を発していた。

 …ブロロ? 何の音だ?

 自問したところで答えが出てくるわけでもないのだが、聞き覚えのある音に、俺は無意識に

いつぞやの記憶を探り出していた。

 ブロロロロロロ……

「な、何この音?」

 先輩が俺の方を向いてそう言った。

 音が次第にその大きさを増していくのが分かる。

「これって……」

 自然に俺は口にしていた。

 どこからか聞こえてくる音。だが、どこにもそれの元となるようなものが周囲に見当たらな

いこと。

 俺は、しばらく考え込んだ。

 どこかで、聞いたことのある音なんだ。記憶の奥底に眠っているような、そしてそれは俺自

信に関係していること。

 …そうだ、これは確か……。

 俺はそこまで考えて、一旦先輩の顔を見た。キョロキョロとしている先輩の顔には、なんら

かの不安のようなものが感じられる。

「先輩、これは……」

 そして、俺は空を見上げた。

「やっぱりそうだっ!」

 ブロロロッ

 聞き覚えのある音。それは記憶の中にあったのかもしれない。だが、確信して言えることと

いうのは、夢の中に出て来たからである。

 あれは二日目の夢だ。俺と彼女が逃げていたのは、ヘリの中に乗っていたやつらが追ってき

たからであった。

 そう。そのヘリと似たような感じの形。そして近づいてくる時の音。

「先輩。ヘリです!」

「え、どこどこ!?」

 上空には見たことのあるヘリが一体、飛んでいる。俺は先輩にそのことをとっさに告げた。

 俺の声を聞いて、空をくるくると見回していた先輩だったが、すぐに気付いたようで上空の

一点で視線が止まったのが分かる。

 ヘリはゆっくりと……いや、危険を回避するためにやむなくゆっくりとこちらに近づいてき

ているのが分かる。できるだけ早く……、そういった感じが俺にはした。

 先輩がそんなヘリをじっと見つめたまま、唖然としていた。ヘリを見ることなど、今まで機

会がなかったからであろうが、その見方にはちょっとした恥ずかしさのようなものが写ってい

た。

 そんな先輩を尻目に、俺もヘリが地上に降りてくるのをただ見つめていた。

 体が妙にすくんでいるのだ。

 …何か嫌な予感がする。

 そして、ここからすぐに逃げた方がいいような気さえ、俺にはした。だが、俺はヘリの中か

らどんなヤツが出てくるのか気になっていたため、すぐには動けなかった。

 そうしている間に、だんだんと地上に近づいてきている。

「なんなんだろう……」

 先輩の声がし終わったすぐ後、ヘリは地上から十メートル程の高さまで降り、静止した。

 その直後!

 ガー

 空中でヘリの扉が開いた。

「へ?」

 間の抜けた先輩の声。内心は俺もそんな気持ちだった。

 …このシチュエーションは……。

 俺が考える隙もなく……いや、俺が考えるようとするのを遮るように、ヘリの開いた扉から

何人もの人間が飛び降りてきた。

「うわっ、あんなところから飛び降りて大丈夫なのかな?」

「さあ……」

 俺はあやふやに先輩に答えておいた。先輩の質問に付き合っているような余裕は俺にはなか

った。

 さっきから胸騒ぎがしてたまらないんだ。

 タッ

 数人の黒ずくめの人間が降りてきて、綺麗に着地した。彼らを運ぶのが目的だったのか、ヘ

リはそのまま去っていってしまった。

 その光景に、俺は思わず後ずさった。

「な、なんなんだ?」

「ね、なんなんだろ」

 ヘリが去った後、地上に残った人数は、俺と先輩を抜かして五人。

 五人ともが黒い。ストッキングのようなものを全身に覆っており、表情や性別などは悟れな

い。まるでどこかの宗教に属している集団のようにも見える。

 彼ら五人は、トラックに背を向けて立ち止まっている俺と先輩を、静かに見据えた。

「ぼけろん、知ってる人達? ……なわきゃないと思うけど」

「ええ、まさしく知りません」

 不安そうに横目で俺を見て言う先輩に、俺は汗を流しながら答えた。

「けど……」

 何か嫌な予感がするのはさっきからなんだが、それが余計に膨れ上がっていくのが分かるん

だ。

 俺のそんな感覚を理解したのか、先輩も同様の表情をしている。

「ぼけろん……、なんかヤバイ雰囲気だね」

「ええ」

 俺と先輩は、背にあるトラックからじわじわとずれていき、後ろにトラックがなくなったの

を確認して、一歩後退した。

 同時に五人が一歩、前進した。

 表情を悟れないのが、余計に恐怖をひきたてる。

 彼らが何者なのか。そんなことは分からない。それは先輩も同様のこと。聞けば分かるんだ

ろうが、この状況ではそうする気にもなれない。

 俺は、先輩の右手を握った。

「先輩、逃げましょう」

「やっぱり? あの人たちの格好を見たら、ま、こうなるだろうとは思ったけどね……」

 予期していたように小声で呟き、嘆息して先輩は深呼吸をする。

 先輩のその様子を真似して、俺は息を大きく吸った。

「よしっ!」

「行こう!」

 声を合わせて、俺と先輩は振り返って思い切り足を踏み出した。それから全速力で走りだす。
むろんトラックは置いたまま、ラヌウェット方面へ。

 繋いだ手は一旦放して、俺たちは横に並んで走った。スピードは大体同じだったため、ちょ

うどそうなる。

 タタタタッ

「げっ、やっぱり追いかけてきてる!」

「なんでなの!? ってゆーかあいつら何者なんだ?」

 先輩の疑問はもっともだ。だが、そんなことを考えている余裕はない。

 五人は、案の定、俺たちの後ろから、これもまた全速力で追いかけてきている。

 俺たちを狙っているのか。それとも俺を狙っているのか。もしくは先輩を……、そんなこと

は何も分からないが、とにかく今は逃げるしかなかった。

 全員がナイフを片手に、走ってくるのだ。

「あいつら、あたしたちを殺す気!?」

「さあ、そんなこと、分かりませんよっ」

 とにかく、先に走りだしておいて正解だったというわけだ。

 彼らは無言で十メートルほど後ろから走ってくるのが、振り向いて分かった。



「先輩、体力は大丈夫ですかっ?」

「…はぁ……なんとか……はぁ」

 激しい息切れをしているところから、先輩はそろそろバテがきているのが分かる。それは俺

も同じだった。俺自信も、声を出すことすらきつかった。

「くそっ、このままじゃ追いつかれる!」

 追いつかれたらどうなるのか。俺はそれをなんとなく考えてしまった。

 五人いる。それが男であろうと女であろうと、全員がナイフ持ちで追いかけてくるところを

考えると、まずただでは済まない気がする。……というのが、当たり前の発想だろう。少なく

とも何も起きないはずはない。

 …いや、そんな当たり前のことはどうでもいいんだ!

 俺は余計な思考のせいで苦しさが倍増した。

 ならば、もっとまともなことを考えよう。

「……ちょっと待てよ……」

 俺はふと思った。

 俺たちは逃げている。だが、このままいくといずれは追いつかれる。なんせ一本道なのであ

る。あと何時間もこの道を走らなければ、ラヌウェットへ着くことはできない。

 横で走っていて目が閉じかけている先輩を見て、俺は悟った。

 相手は五人。俺たちは何も武器を持っていない。戦ったところで勝つことなどできないのは

目に見えている。

 だが逃げようにも隠れる場所がない。このまま一本道を走れば、いずれは捕まる。先輩の体

力を考えれば、その結果は明らかだ。

 むろん、彼らはナイフを持っているだけで、べつに危害を加えようというわけではないのな

ら、話は別だが。だが、そんなことはありえないだろう。確認していてその場で殺されたら、

もともこうもない。

 とするのなら、どこかに隠れるしかない。

「……でも、この辺に隠れる場所なんて……」

「何……言ってんのよ、さっきから……はぁ……」

 無理にこちらを見てそう言う先輩の声は、俺の耳には入っていなかった。

「……ん?」

 その時、俺はこの一本道の両側に目がいった。

 …こんなところに、田圃なんてあっただろうか?

 普段トラックで通る時には気付かなかった。

 無意識に一本道の両側に広がる広大な景色を、俺は見ていた。

 今走っている一本道の両側には、高低差はあるものの一面に美しいとも言える田圃が広がっ

ている。

 まだ稲は植えたてなのか、一本道より数メートル低くなっている両側の土地は、自然の土で

いっぱいになっていた。

 俺は、この景色を一度、見たことがあるような気がした。

 そう、夢の中で、田圃から逃げるシーンを憶えていたのだ。

 俺は全身が呼びかけるその誘いに、応えるよう先輩に言った。

「先輩、田圃に飛び込むんです!」

「はっ? ……なんでよ……?」

 なぜなのか。確かに俺も分かっていなかった。だが、脳裏の底から蘇るように熱く伝えてく

るものが、そう言っている。

 ともかく田圃に飛び込めば、逃げられるのか、それとも隠れられるのか、それは分からない

がなんとかなるような気がしたのだ。

 俺は極度に疲労を携えている先輩の手をグイッと引っ張り、一本道の端まで走った。

「ちょっ、ちょっとぉ!」

 俺は先輩の手を掴んだまま、田圃の中へと飛び込んだ!

「おわわぁぁ!」

「きゃぁぁ!」

 絶叫しながら、田圃よりも高い位置にある一本道。そこにいた時に思っていたよりも、かな

りの高低差があることに今気付いた。

 バシャーン!

「うがっ」

「いたっ」

 田圃の中へ強烈に入った。激痛が至るところに響いてくるが、今の俺にはあまり気にならな

かった。

 跳びはねた泥を拭いながら先輩の顔を見やると、それはもう酷い泥だらけの顔だった。

「もうっ、いきなりなんてことすんのよ!」

「いや、すみません!」

 さきほどまでの息切れはもう忘れたのか、大声でどなる先輩。地面に腰を強打したらしい。

「大丈夫ですか?」

「んなわけないでしょ! ったく、どれだけ高さがあったと思ってんのよっ」

 先輩の怒声を聞きながら、俺は自分自身に問い詰めた。

 …ここから、どうすればいいんだ?

 『田圃に入れ』と告げるがごとく熱くなった自分の体。

 だが、田圃に入ったからといって何か助かる手段でも見つかるというのであろうか。

 疑問だらけの毎日が嫌になってくる。ともかく田圃のどろどろの土に落ちた時に……いや、

降りた(つもり)時にできた膝の擦り傷を摩る。

 その時だった!

 ズルッ

「うあっ!?」

 突然体が滑ると思ったら、足から土の中に飲み込まれ始めた。

「ど、どうなってんだ!?」

「ちょっとなんなのよこれ!」

 叫んだところでどうにもならない。腕に力を入れようとするが、それよりも強力な力が土の

下から襲ってくる。

 そして数秒もしない間に、田圃にとうとう下半身を飲み込まれたっ!

 次第に土が顔まで近づいてくる。

「くそっ、息ができな……!」

「ぼけろんっ、……うあ…」

 唐突に起こったその現象。理解できずに、どんどんと吸い込まれる。

 土の中に顔が飲まれてからは、俺は意識がなくなっていた。


                                         2


 やはり正面には、天井があった。

「……なんでいつも俺は、意識を失って目が覚めると天井が視界に入ってるんだろうな」

 どうでもいい、だが確かに言えていることを口にしながら、俺は静かに呼吸した。

 気が付くと、俺はいつものようにベッドで眠っていた。だが俺の部屋のベッドではない。そ

して村の医務室のベッドでもない。初めてのベッドだ。そして天井も初めてのタイプだ。

「……えーと、俺、どうしたんだっけ」

 最近、俺はいつもこんな考えを強いられる。が、それはそれでそうしないと何も分からない

ので、無理にでもする。

 …えーとたしか……。

 そうだった。俺と先輩はラヌウェットへ行く途中、トラックが故障したため歩いていた。そ

こへヘリが飛んで来た。乗っていた妙な連中に追いかけられて、田圃に飛び込んだ。それから、
その田圃の土に飲み込まれていった。

 …飲み込まれる?

「……そんなことがあるんだろうか」

 今頃になってようやくその常識はずれの現象に対する疑問を、俺は見い出した。

 そしてそこまで考えていくと、ふと忘れているものを思いつく。

「先輩は!?」

 ハッと思い、腰を起こして俺は周囲を見回した。

 先輩はどうしているのか。

 その答えはあっさりと見つかり、俺はホッとして溜め息をついた。

「すぐそこじゃないか……」

 俺の眠っていたベッドのすぐ横にはもうひとつベッドがあり、先輩はそこで安らかに眠って

いた。

 掛け布団が首の部分までしっかりと被さっている。

「……俺もそうだったっけ?」

 自分の起きた時の状況を思い出しながら、これもまたどうでもいいことを口にして、俺はと

りあえず周囲を見渡した。

 俺と先輩のいるこの場所は、……部屋だ。まあベッドや天井があるんだから、当たり前とは

言えなくもないが。

 そしてこの部屋。あともうひとつベッドが入れば、ちょうど埋まるくらいの広さだ。だから

それほど大きい部屋ではない。ついでに言えば、この部屋の広さは、俺の部屋と同じだという

ことが言える。

 この部屋は、ベッドの他には何も置いていない。寝室といったところであろうか。だがそれ

にしては何もなさすぎる。

 部屋の隅には木製の扉があった。部屋も全て木製。

 ひととおり見渡して、俺はしばらく考え込んだ。

「……こういう時って、どうすればいいんだろう」

 見知らぬ部屋に知らないうちに眠っていたというこの状況。俺はこういったことを体験した

回数が少ないため、戸惑った。

 だが、ともかく何かをしないと始まらない。

「……とするのなら、まずはここがどこかを知っておいた方がいいな」

 俺は出口へと足を進めた。

 さっき追いかけてきた五人のこともあるが、とにかくここがどこなのかを知るのが先決。そ

れには、先輩はとりあえず起こさない方がいいであろう。いきなりパニックになると困るので、
俺が状況を把握してから伝えるのがベターだと思う。

 ガチャ

 扉を開いて奥へと入ってみると、これもまた同じような部屋。だがベッドはなく、こざっぱ

りとしている。

 中央にはあまり大きくはないテーブルがひとつと、その周りを囲んで椅子がふたつ。このテ

ーブルと椅子だけが、この部屋を成り立たせていた。

 全てが木製である。散らかっていないことを考えると、俺にとってはいい部屋とも言えるが、
古びたテーブルや椅子を思うと、少し気が引ける。

 その部屋にとりあえず入ってから、ある程度見渡してみると、もうひとつ扉があった。

「……ここは、民家なのか?」

 肝心の『どこ?』というのが分からず、俺はさらにもうひとつの扉へと向かった。

 その扉は開いており、……だが中が暗い。

 確認のため近づいてみると……

「おおっ、気が付いたか」

「うわっ」

 奥から突然男が現れて、俺は後退した。

「まぁ、そう驚くなよな。座ってくれ」

「ああ……はい」

 いきなりそう言われたが、俺はとりあえず従っておいた。

 中年の男だ。ラヌウェット大陸では珍しい純粋な黒髪だ。短くさっぱりとしている。が、そ

の分髭が濃いのが印象的だった。

 そして、車椅子に乗っていた。包帯まみれの足は、俺には恐怖にも近いものを感じさせる。

 だがそれよりも、俺はどこか目の前にいる男に何かを感じた。

 中年の、俺と向き合うように車椅子に乗った男は、『へへっ』と不敵な笑みを浮かべた。

「体、痛まないか?」

「ええ、なんとか大丈夫ですが……」

 男の問いには気を遣わずに答えた。実際、なんともなかった。

 俺は問うた。

「あの、俺たちをここに運んだのは、あなたですか?」

「ああ」

 男は息を吐いて簡単にそう言った。

 無愛想でありながら微笑みを絶やさない男を尻目に、俺が、今座っている汚れた椅子を気に

していると、男が言ってきた。

「もうひとりのお嬢ちゃんの方は?」

「え? ああ、先輩ならまだ眠ってます」

「そうか。まあいいが」

 男はまた笑った。

「しかし、本当に生き返ったとはなぁ」

「え、生き返った?」

 唐突に言った男の言葉に、俺は一瞬戸惑った。

 和やかな雰囲気を保っていた男に、いきなりそんなことを言われて、俺はつい動きが止まっ

てしまった。

 『生き返った』。それは、確かに俺に言えていることではある。俺がそのことを知ったのは、
昨日であった。

 今、男が言ったことは、明らかにそれを指している。

「あの、俺のこと、知ってるんですかっ?」

「ああ、まあな」

 男の間に受けない返事に、俺はただ驚いていた。

 俺の過去を知っている人物。少なくとも夢の中では、この男は出てきていない。だが、生き

返ったことを知っているのは、俺の過去に関係している人だけだ。

 俺は、なんとなく男に近親感を覚えた。

「じゃあ、あなたは一体何者なんですか? 俺とは、どういった関係の人なんですか?」

「まあ待てよ」

 立て続けに問う俺。

 初めて会ったとも言えるその男。だが、俺のことを知ってそう言うその男には、俺はどうし

ても聞きたかった。

 男はしばらく黙り込んで……だが微笑みは絶やさずに、そして何度か自分で納得したように

頷いて言った。

「……お前のその様子からすると、記憶を失ったってのも、本当のようだな」

 男の、何もかも知っているような言葉に、俺はおかしな意味ではなく引かれていった。

「ええ。そうです。けど、どうしてあなたがそのことを知っているんですか?」

「そう焦るな。ちょっと、話すのにはややこしいことが多くてな、この場合」

 とりあえず一息おいた男のままに、俺は黙った。

「まずは、私の話を聞いてくれ。記憶を失って、知りたいことがあるんだろう?」

「ええ。俺、昔、何をやっていたのか。どうして狙われるようなことをしていたのか。よく分

からないから、知りたいんです」

「そうか。じゃあ余計に黙って聞いてくれ。いきなり見知らぬ中年男に会って、世間話でも聞

かされているような気分でな」

「あ、はい」

 俺は男の言うことに、深く頷いた。

 俺にとっては見知らぬ男でしかない。起きたら知らないうちにこんな家にいたことや、そし

て突然の知らない男に俺の過去を知っていると言われて、そういった唐突なことに俺はなんだ

か状況がよくは分かっていないが、とにかく男の話が今はどうしても聞いてみたかった。

 男は、一体俺にとってはどういった人物なのか。俺を殺したと推測される『奴』の仲間なの

か。……まあそれはここまでしてくれることから考えにくいが、……ともかく男の素性を考え

ながら、俺は男の話を聞き入ることにした。

「お前がどこまで憶えているのかとか、……そういった前置きみたいなのは、全部省こう。今

は、とりあえず話させてくれ」

「ああ、分かりました」

「まず、お前は《キルドカンパニー》という、……まあいろいろやっていたところなんだが、

その会社に所属していたことは、知っているのか?」

「……キルド……カンパニー?」

 男にそう問われて、俺は黙った。

 聞いたことのない名前だった。加えて、俺がその会社に入っていたことなどは、検討もつか

ないことである。

 俺は口を開いた。

「いや、それは知らない……」

「そうか。ならいい。で、そういうわけだ。お前は《キルド》に所属していた。今はその会社

も、潰されたんだがな。まあいい。で、俺はそこの総長に当たった人物だ。ようするに、かつ

て俺とお前は上司と部下のような関係だった」

「そ、そうなんですか」

 男-総長の言った話の内容が、俺にはすぐに把握できなかった。

 しばらく考えている俺を待たずに、総長-いや、正確に言うのなら会社は潰れたというので、
元総長か-は続けた。

「それで、だ。我が《キルド》を潰したのは、極度に対立していた《クウォーラル》という組

織なんだ。……それも、知らないよな」

「ああ、はい」

「それでな、その《クウォーラル》の幹部に当たる人物なんだが、これが厄介なヤツだった。

で、よく聞いてくれ。お前は、その幹部に殺された」

「えっ? 俺を殺したのが、その《クウォーラル》の幹部……?」

「ああ」

 俺が死んだこと。昨日の夢で殺されたような感じがしたのを、俺は憶えている。仮にそれが

本当に俺の最後だったとするのならば、俺は『奴』に殺されたと考えられる。

 そして、元総長の言うことが信じれるとするのなら-いや、こんなところで疑っていても仕

方がない。それに俺が死んだことを知っているのだ。嘘はついていないだろう-、俺を殺した

『奴』は、《クウォーラル》の幹部だということになる。

 そこまで考えていくうちに、無意識に身を乗り出している俺は、元総長に出されていたコー

ヒーを今になってようやく知って、飲み始める。

「それからお前の父も、《クウォーラル》の人間に殺された」

「えっ、俺の父?」

「ああ」

 再び絶句する俺。それをいまだに笑みを浮かべて見ている元総長。

 先輩に俺の過去を聞かされた時、そういった、俺の血縁関係にある人のことを考えたことは

あった。

 元総長の言った言葉を、俺は繰り返し思い浮かべた。

 …俺の父は、死んだ?

 元総長は、断定こそできないが嘘は言っていない。

 今こうして、聞かされてみると、なんだか変な気分だった。

 全く知らない父だったためか俺はあまり衝撃は受けなかったものの、心の中に何かが引っ掛

かってしまったような、そんな気がした。

「俺の父は、どんな人だったんですか?」

「いや、お前の父のことは後でいい。とりあえずお前自信のことを考えるべきだと、私は思う

んだ」

「はあ」

 元総長の、まるで俺のことを他人のように見ていない暖かみのあるその言葉が、なんだか胸

に来るものがあった。

「とにかく、お前が殺されたのは一年前だった」

「ああ、それは俺も知ってますよ」

「そう。そして《クウォーラル》のやつらは勢いにのって、お前の後を追うように《キルド》

を潰していった。そうすると、《クウォーラル》にとっては、敵がいなくなる。うちの会社は、
かなり大きな規模だったからな。そのおかげで俺は今、こうして単に自給自足の腐った生活を

しているんだよなぁ…」

「はあ、そうだったんですか」

 感慨深げに話す元総長。なぜか俺は好感を抱いていった。

「……いや、まあそんなことはどうでもいいんだ。一時、ふたつの戦争規模にも及んだ事件は、
《キルド》の退廃によって収まった。だがな、ここからが私が一番話したかったことなんだよ」
「ここから?」

「ああ。ここ最近、死んだはずのお前が生き返ったという噂が広まった。さすがに私もあまり

信じてはいなかったが、お前を助けた時は驚いたよ」

「………」

 元総長の話は、核心へと進んでいく。それにつれて、俺は聞き入っていった。

「さっき私は、《クウォーラル》は《キルド》を潰した、って言ったよな。『潰す』っていう

のは、全てを根絶やしにするということなんだ。だから、《キルド》の関係者がひとりでも生

き残っているというのは、やつらにとっては、……まあ邪魔と言うか、都合が悪いというか、

……とにかく目障りなんだよな」

「はあ。まあ、なんとなくその意味は分かるような気がするけど……」

「ってことだよ。さっきお前が襲われたのも、きっと狙われてのことだろ?」

「っ! 見てたんですか?」

「おう、だから助けてやったんだ」

「しかし、どうやって……」

 元総長の言っていること。俺が《キルド》に所属していたこと。《キルド》と《クウォーラ

ル》の関係。そういったことは、なんとなく分かった。

 だが最後に言ったことが気になった。元総長がこの家まで運んでくれたのは分かる。

 だが、俺と先輩は田圃の土の中へと飲まれたはずであった。どこをどう助けたのであろうか。
 俺のそういった困惑にも似た表情を察してか、元総長はさらなる笑みを浮かべた。

「そうだよ。お前らは田圃の土に飲まれた。そうだろ?」

「そうです。あれからどうしたのか、まるっきり……」

「だから、俺が助けたんだよな。……まあ、助けたって言うと、少し違うかもしれないが」

「ええ」

 元総長の言っていることが、俺にはよく分からなかった。

 それを解説するように語り出す。

「田圃の中へと飲まれていったお前らは、どこへたどり着いたと思う?」

「へっ?」

「へへへ、地底さ。私が掘った、秘密の地底へと、やってきたのさ」

 俺はさらに再び目を見開いて元総長を見つめた。

 地底……。そんなものがあったなんて知らなかった。いや、そんな単語を耳にすることすら、
機会がなかったくらいだ。

「ここは、その地底だよ。『地底の中の一軒屋』……とでも言うのかな。後で家の外に出て見

れば、分かるだろ」

「ここが、地底……?」

「ああ。上の田圃は、実は単なる見せかけなんだ。まあ普通のやつらは知らないだろうな。そ

れに、田圃に興味があって入ってくるようなやつらも、あの一本道沿いじゃ、あまりいないだ

ろうからな。お前らは、その珍しい人材の一部ってことだ」

「……だから、死ななかったのか……」

「田圃の土の厚さは、大体五メートルくらい。重力で人間は落ちて行くから、窒息する前に通

り抜けてここに落ちてくるって感じかな」

「……なるほど。でも、田圃の土ってやつが、この地底へと落ちてくることはないんですか?

だって、浮いてることになりますよ、土は」

「へへ……」

 俺の問いに、元総長は笑いながら、

「それは秘密ってやつだ」

 言った。

 今の元総長の話、通常ならば信じがたいが、実際に体験した感じでは、確かにそうかもしれ

ない。

 ヘリに乗ってやってきた五人から逃げて、田圃へと飛び込み、そしてここに至る過程がよう

やく理解できて、俺は今の俺の状況が掴めた気がした。

 『田圃へ飛び込め』……と、俺の体が伝えてきたことは、……そしてそれに逆らわずにその

まま飛び込んだことは、……やはり正しかったのだ。

 五人から逃げられたことと、田圃に入ってからの理解できなかった状況を把握できたことで、
俺は安堵した。

 元総長が教えてくれた俺の過去のこと。それら全てを考えていく俺。

 元総長は手を組んで、今度は真剣な表情で言った。

「あとな、今、ヘリのやつらから逃げられたとしても、恐らく《クウォーラル》のやつらはま

たなんらかのことを仕掛けてくると、私は思うな。そのことをお前に伝えたかったんだ。まあ、
さすがにあの戦乱とも言える暴動から一年も経っているから、お前を殺すまではしないかもし

れないが、何かしてくるのは確信できる」

「なるほど……」

 元総長の話を聞いて、俺は頷いた。

 だが、ヘリのやつらは俺を殺すまではしないつもりだったのなら、なんでナイフを持ってい

たのだろうか。

 彼らは全員ナイフを持っていたのを、俺は憶えている。

「……まてよ?」

 ナイフを持った五人のこと。そのことはとりあえずおいておいて、俺の頭はピンと来た。

「そういえば……。村にいたのは、……《クウォーラル》のやつらなのかもしれない」

「どういうことだ?」

 あれは、一昨日のことだった。

 村では見たことのない人達だった。初めてみた印象としては、なんだかヤバそうな……、そ

して嫌な感じだった。

 元総長が身を乗り出して俺に近づいたのと同時に、俺は話し始めた。

「ええ。俺、ラヌウェットからはけっこう遠い小さな村に住んでるんですよ。で、一昨日なん

ですけど、いかにも怪しい二人の正装男と太った男に会ったんですよ」

「二人の正装男と、太った男?」

「はい。二人の男が、食堂にいた俺を呼んで、そこからが出会いってやつです。俺は初めて会

ったのに、彼ら、俺のことを知ってたみたいだったんですよ。で、太った男には、『君が例の

……』とか、『明後日には、村を出ろ』……と。言われたのは一昨日だから明日ですね。……

で、とにかくそういったことをいきなり言われて……。その時はなんのことだか、分からなか

ったんです……いや、今も分からないんだけど。……もしかすると、その《クウォーラル》っ

て組織と何か関係があるかもしれない」

「……確かに、そうかもしれないな」

 元総長は、身乗りしていた体を戻して、車椅子に深く腰を掛けた。

 胸中で、元総長が何かを知ってはいないかと思いながら、俺は言葉を待った。

「総長さん、なんか知ってることとかは、ないんですか?」

「……うむ。知ってることは、もうないが……」

 吐息を俺にかけるような勢いで、元総長は顔を上げた。

「二人の正装男。そして太った男。……曖昧すぎて断定はできないが、確か《クウォーラル》

の社長が、デブだったのを記憶しているんだ。そして側近に男を二人。昔、会食をしたことが

あってな。なんとなくそうだった気がする。だから、お前を呼んだそいつらが、《クウォーラ

ル》の人間だという可能性はあるな」

「やっぱりそうですか」

 断言こそしてないが、俺には元総長の言ったことが、事実のような、そんな気がした。……

というよりも、事実であるに違いない。

 元総長は続けた。

「それから、お前が言われたその内容……。三日後にどうとか、ってのは私は分からないが、

『君が例の……』というのは、おそらくお前が生き返ったという噂によるものじゃないのか?

噂を聞いたそいつは、実際にその噂のモトであるお前を見て、『なるほど、こいつがあの生き

返った男か』なんて思ったんじゃないだろうか」

「そうか」

 太った男の言っていた言葉。元総長の話で、ようやく理解できたような気がする。

 俺は飲み終わったコーヒーカップを指先で弄んで、元総長の話してくれた内容をまとめてい

った。

 死んでいた俺が生き返ったという噂が、最近立った。そうすると、《キルド》の人間を毛嫌

う《クウォーラル》のやつらは、俺を狙う。まあ、殺すか殺さないか、どうするつもりなのか

は今はおいておいて、ヘリに乗っていたやつらはその役割に当たっていたのだ。

 村にいた太った男は、元総長は断言こそしていないが、俺は《クウォーラル》の社長だと思

う。そして男二人は、その側近。

 一年前死んだ俺が生き返ったという噂を、太った男が聞いてから俺を呼んだとするのなら、

太った男の言った『君が例の……』という根拠や意味は、元総長の話してくれたことを考える

とつじつまが合う。

 …待てよ?

 そこまで考えて、俺はふと疑問を感じた。

「ちょっと待てよ? 俺は《キルド》の関係者だから、生き返ったことを知られた今、《クウ

ォーラルの連中に狙われてるんですよね」

「ああ、そうだ」

「とすると、おかしくないですか?」

「何がだ?」

「あなたが、ですよ。俺のところには《クウォーラル》の連中が来てるってのに、あなたは平

然として暮らしてるみたいじゃないですか。《キルド》の総長だったんですよね。なら、俺よ

りももっと狙われるはずじゃ?」

「…ああ、そういうことか」

 元総長ははにかんで、持っていたカップを置いた。

「それは、俺がただ単にこの地底に身を隠しているだけのことだ。ま、自慢はできないけどな」
「とすると、ここがバレたら?」

「まあ、可能性はあるかな。けど、俺は死んでることになってるから、あまり心配はしてない

けどな」

「なるほど、俺と同じような感じですね」

「まあな。つい昔のお前とは、な」

 元総長は笑いながら包帯の巻かれた足を触った。俺は、自然に目がそこへ行きながらもとり

あえず何も問わないで、元総長の言ったことを何度も何度も繰り返し思い出していた。

 先輩ですら教えてくれなかった、……というか知らなかったことが、元総長という、俺の過

去を知っている人によっていろいろと知ることができた。

 なんとなく、そのことが俺には嬉しく感じられた。深い伸びをしてみる。

「大体、分かっただろ?」

「ええ」

 元総長は、俺の返事に満足したようだった。

 俺に、《キルド》や《クウォーラル》のことを話すのが、なぜか嬉しいらしい。表情からそ

う取れた。

 だが、俺は元総長が話してくれた内容だけでは分からないことがたくさんあった。

 夢でみた内容について、深く知りたい。そのことについては触れていない。というより、自

分から話してくれていた元総長の話はここまでだと、俺は悟った。

 元総長は、これ以上のことは知らない。俺は聞きたかったことはまだ多々あったのだが、あ

えて聞くのはやめておいた。

 それは、元総長の生活が、今のままであってほしいという願いからのものだ。なんでそうい

った願いからそういう結論が出てくるのかは分からないが、ともかく俺にはそう思えたのだ。

「総長さん、いろいろ詳しいことを教えてくれてありがとう。村にいた太った男のこと、大体

分かった気がしますよ」

「そうか。なら、私としても嬉しい限りだ」

 満足そうな表情だった。

 俺もなんだか気分がよく、気晴らしのつもりか無意識に首を曲げてコキッコキッと鳴らして

いた。

 ひと呼吸おいて、俺は椅子から立ち上がった。

「さてと」

 この家まで運んでくれた元総長。それだけではなく、俺の過去や今置かれている状況を話し

てくれた。

 これ以上ここにいる意味はない。……いや、そういう言い方は元総長には悪いが、俺と先輩

は、ラヌウェットへ行くんだ。

 仕事を休んでまでこうして来たんだ。余計な時間はとりたくない。

 椅子をテーブルの下へと移動させて、こちらを見上げている元総長に、俺は笑顔で言った。

「総長さん、ありがとう。運んでくれたことはもちろん、話までしてくれて。加えてコーヒー

までも」

「フフ。まあお前がそれで満足してくれるのなら、私は言うことはないよ」

「ええ。じゃあ俺、行かないと。俺、いつもラヌウェットと村をトラックで往復する仕事をや

ってるんですよ。で、今日は先輩と仕事休んで、ラヌウェットへ観光みたいな感じで行くんで、
せっかくとった休みだからなるべく時間のロスは防ぎたいんで。ところで、俺たち、落ちてか

らどのくらい経ちました?」

「ああ。んーとな、一時間と経ってないはずだぞ。だから安心しろ。しかしこんなに朝早くか

らねぇ。張り切ってるな」

「ええ。まあ今日は特別で」

 元総長の言葉に、俺はほっとした。眠った時間というのがとても気になっていたのだ。下手

すると何時間も眠って、向こうへ行っても何もできなくなってしまうから。

「じゃ、先輩さんとやらを起こしてこい」

「ええ」

 俺はとりあえず、飲み終わったコーヒーカップはどこへ持っていったらいいのかを考えなが

ら、元総長には聞かず、……やっぱりテーブルに置いた。

 隣の部屋で眠っているはずの先輩を起こしに、俺は向かった。

「いや、ちょっと待て。まだ言ってなかったっ」

「え?」

 振り返ると、何かを思い出したように元総長が目を大きく開いていた。

「お前、ラヌウェットへ行くって言ったよな」

「ええ、そうですよ」

「しかも、初めてじゃあないんだよな。仕事ってことは」

「ええ、毎日行ってますよ」

 元総長は、一旦渋い顔をして、下から見上げるように俺に問うた。

「じゃあ、あの娘はどうした?」

「は?」

 元総長の声音に、俺は恐怖に近いものを感じさせられた。

 …あの娘?

 ラヌウェットに俺の知り合いはそうそういない。仕事関係で、ラヌウェットにいる食料業に

ついている仲間は何人かはいるが、『娘』というような若い女性の知り合いはいない。……と

いうか、女性は、年齢関係なく職場にはいない。まあ村には何人かはいるが。先輩も、そのう

ちのひとりと言っても、正確ではないが間違ってもいない。

 だが、とにかくラヌウェットにはいない。

 俺は検討がつかず、問い返した。

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