2017年2月19日日曜日

季節の変わり目③





                             プロローグ





 運命。

 あなたはそれを信じますか?

 運命。……それは、人の意志ではどうしようもない、そして人の生き方や物事、成り行きな

どが生まれつきのように変えられないもの。定義上での意味はそうだったと思う。

 それを信じる人、信じない人。多々あるとは思っています。

 運命は変えられない。運命は変えられる。

 信じている人の中でも、そのどちらかの考え方、それも、人それぞれによって考えが違うと

は思う。

 ……ただわたしは、

 運命は、変えられても変えられなくても、それはあまり気にしてはいないの。

 ……ただわたしは、

 わたし以外のどんな人が、わたしのような考えを持っていなくても、……そして運命という

ものを信じている人がこの世界にいないとしても、

 ……わたしは、『運命』があると信じている。

 そして、わたしはそれを確かめたい。

 結果がどうなってもいい。そう思っている。

 ……いえ、それは嘘かもしれない。

 むしろ本心から言うのならば、できたらわたしの心を受け止めて欲しい。

 運命という、わたしが唯一、心を寄せて、そして心の安定を保てる言葉。

 だからこそ、わたしは確かめたい。

 ……最後のチャンスである、今年の『クリスマス・イヴ』に。





 彼女には、想いがある。

 それは、他人には分かりえない、……いや、人それぞれ様々な想いがある、それを考慮する

のなら、彼女の場合も、例外ではない。

 ただ彼女には、その想いを素直に自分の中で表現できているのか、それが悩みであり、不安

の種でもあった。

 だが、信じるものがあるということ、それを、彼女は誇りに思い、そして、それが彼女の心

の支えになっていること、……そのことを彼女は自覚していた。



 彼女は、自分の心に素直になる決意をした……いや、今までも素直なつもりではあったが、

本当の意味での『素直』は表現できていなかった。

 だからこそ、彼女は自分の信じるものを貫こうと、そう堅く決意したのである。

 彼女……。その決意をしたのは、……そしてそれを確かめる意を決したのは、高校三年の、

初冬のことである。




                         第一章 出逢い





 枯れ果てた木々と、生ぬるい寒さと言えるような暖かみのある空気はなく、肌寒いという言

葉では言い切れぬほど、そして言い換えれば厳しい季節。

 行き交う人々。コートに身を包んだ女性。小さな革のジャンパーを強引に着込んでいる、大

柄な中年の男性。

 人それぞれが、この寒さをしのぐために厚着をしているのが一目で分かる。

 冬……それを、誰が、どうとらえるか、そんなことは、今の彼女には関係のないこと。

 ただ言うことができるのは、彼女にとって今年の冬というのは、今までとは一味違った、あ

る意味将来に結びつくかもしれない大決心をした季節。

 つまり今年の冬というのは、今までの冬とは全く違うのである。

「ちょっと寒いかな」

 彼女は公園にいる。

 この寒い季節に似合わぬ服装。下着一枚と、その上にはあまり厚くもないトレーナーを一着

と、ジーンズ。夏でも対応できるような格好である。

 その気楽な格好が、彼女は寒さを通り越して好きであった。

 レインボー公園。その名の由来というものがどこから来たのか、この辺に住む人たちは大体

知っている。彼女ももちろん知っていた。

 公園からは、丘を一瞥することができる。その先の町並みまでもが、視界に大きく広がり、

風が心地よく吹き、人々の心を和ませることと夢を与えるところから、由来は来たらしい。

 名前のとおりに、ときおり虹がかかるとも言われている。

 そんなレインボー公園に、彼女はよく来ている。寂しかったり、不安が募ったりした時には、
公園にやって来て、『時』を共にする。それが、彼女にとっては一番の安らぎとなっていた。

 今日も、公園の隅にある大樹の根本に腰をかけていた。

 そこから丘を見渡し、絶景の眺めを楽しみながら、彼女は寒さを感じることなく、静かな感

慨というものを味わっていた。

「玲さーん」

 大樹に身を任せていた彼女は、自分の名前を遠くから呼び、走ってこちらにやってくる少女

の姿を見やった。

 公園の入り口から、缶ジュースを一缶ずつ、両手に持って走ってくる少女の姿は、どこか可

愛げがあり、彼女は微笑した。

「はぁはぁ」

「ごくろうさま」

 少女は息を切らして、大樹の根本に腰をかけている彼女の隣に自分も座ると、片方の缶ジュ

ースを彼女に渡す。

「こっち、玲さんの分ね」

「ありがと」

 彼女-玲は,缶ジュース-コーラが入っている-を受け取ると、

 パチンッ

 缶の蓋を開けて、一口だけ、素早く口の中へ流し込んだ。

「はぁ、いいねっ」

「はい!」

 玲の飲みっぷりを満面の笑みで眺めて、少女-美夏も自分の持っていた缶の蓋を開けて、玲

の真似をするように勢いよく飲み込んだ。

「おー、美夏も大人になったってヤツだね」

「え? 本当ですか?」

「うん。その飲み方は、あたしのような大人にしかできないからね」

「へぇぇ」

 玲のよく分からない説明を、美夏は本気にしながら目を輝かせて聞いていた。

 玲と美夏は、十代という若い世代で年が四歳も離れているのに、妙に気が合うのは、玲の美

夏への接し方が、四歳分の年の差を感じさせない程の、幼稚さにも似たものがあるからかもし

れない。

 そんな彼女らの出会いは、京という青年から始まった。

「玲さん、あの話、早くしてくださいね」

「うんうん、分かってる」

 美夏に促され、玲は適当に頷いた。

 玲の通っている学校は、北海道でも進学率がトップクラスの……いや、トップの有名校であ

る。

 現在高校三学年の彼女。そんな高校のクラスメイトに、一年の時から知り合いがいる。

 それが京という青年である。美夏は、京の妹にあたる人物で、玲が京とよく話をしているせ

いか、玲と美夏はいつの間にか、仲のよい姉妹のような間柄になっていた。

 二人は丘を眺めて、しばらくジュースを飲みながら話をしていた。

「明後日は、クリスマス・イヴですよね」

「そうそう。街の方は夜中までキラキラしてるんだろうな。この辺はあまり人が通らないから、
あんまり活気立たないとは思うけど……。けど、それが返ってロマンチックなんだよね」

「玲さんもそう思います? わたしも静かな方が好きだなぁ」

 玲は街から少し離れたこの場所に住んでいることを、ある意味で誇り高く思っている。

 十二月二十二日。今年のクリスマス・イヴも、とうとう明後日に迎えた。

 毎年この時期、若いカップルが楽しそうに歩いているのを見て、悔しいような、羨ましいよ

うな、……そういった自分に対する劣等感のようなものを感じていた玲。

 彼女は、ちょっと今年は自分でも緊張しているのを感じていた。

「ねぇ美夏。京ちゃんっていつもさ、クリスマスの日、どんなふうに過ごしてるか、分かる?」
 玲の突然の質問に、美夏はきょとんとして目を丸くしたが、数秒経つと、笑顔になって口を

開いた。

「お兄ちゃんは、いつも家にいますよ。大体いつも、わたしとお母さんがお料理作ってクリス

マスのお祝いするの。今年はお母さんがいないから、わたしだけで作るつもりですけどね。お

兄ちゃんは、普段のお兄ちゃんとはちょっと違って、すっごく優しくなって……あ、いつも優

しいんですけどね、けどそれよりももっと優しくなって、二個プレゼント買ってきてくれるの。
今年も、買ってきてくれるといいんだけどなぁって、ちょっと期待してたりします」

「美夏にプレゼントを?」

「うん♪」

「二個なの?」

「毎年二個です」

 玲は納得したような顔つきをしたが、内心では少し複雑であった。

 美夏の両親は、どういう理由かは聞いていないが、今年の春からニューヨークへ行ってしま

い、ここ一年近く、美夏は兄の京と二人暮らしをしているらしい。

 ついで、京と美夏の仲が、普通の兄妹の関係を疑いたくなるほどとてもいいことを、玲は前

から知っている。

 そのせいもあってか、兄のことを話す時の美夏の生き生きとした笑顔が、玲に嫉妬にも似た

感情を与える。

「あたしには、京ちゃん何もくれないのにな」

「エヘヘ、いいでしょ」

「ったく、その笑い方はやめなさい」

 横にいる美夏を肘でグリグリと押して、玲は苦笑した。

 公園の入り口付近から、こちらからは死角になって見えないものの、音で犬が走ってくるの

が窺える。

 その音と同時に、美夏が突然何かを思い出したよう『あっ』と言った。

「そうだ、玲さん、早く教えてください。さっきから話、逸らしてるみたいにも思えますよ」

「あ、そうだった、ゴメン。けど、そんなに知りたい?」

「うん」

「そっか」

 玲は嘆息まじりにそう言った。

 美夏が知りたがっている、その『話』。それは、玲にとっては忘れられない出来事。

 玲が、今日、美夏に会ってから問われているのは、そのことであった。

「じゃあ、どこから話してほしい?」

「いっちばん初めからがいいな」

「よし、じゃあ、会う前のところから、詳しく話してあげる」

 過去のことを……、三年近く前のことを、玲は回想し始めた。

 始めて会った時のこと。それは、べつになんのことはない、単なるありふれた日常である。

それこそが、玲と京の出逢いであった。

 美夏が、なんでそこまで自分と京との出逢いを知りたがるのか、……それは、友達として仲

がよくなりたいからなのか、それとも純粋に出会った時のことを知りたがっているのか、それ

とも……いや、そういった理由は、玲にはまるっきり分からなかったが、とりあえず知りたが

る美夏の表情が、玲にはなんとも言えなく、過去のことを話すことに抵抗があったわけでもな

いので、思い出しながら話すことにした。

 ……それも詳しく、そして演出深く。

「そうだね。じゃあ……、っとその前にね、美夏にとっては、あたしと京ちゃんの出逢いを、

どうとも思わないかもしれないから、そこんところを注意してね。本当にどうってことのない

話だから」

「あぁ、はい、分かりました。けど、どうってコトないなんて、そんなことはないと思います

よ」

「うん、まぁいいんだけどさ。けどね、あたしには特別な思い入れがあるんだよね」

「うんうん」

 玲はそこまで言うと、一旦目を瞑り、一呼吸おいて、目を開いた。

「そう、……あの日が、あたしと京ちゃんの……」

 美夏の顔を見て、そして今度は空を見上げて、言う。

「『出逢い』……」





 東京では咲いていた桜も、まだ時期が来ていないせいか、桜の木は花が咲くのを待ち遠しく

思っているような感じだった。

 北の地、あたしの生まれたところ。実際にその空気を感じたのは、この時が初めてだった。

 道立山上高等学校。あたしはその高校に進学することにした。

 入学式を済ますと、あたしたち一年生は、これから一年間過ごすことになる教室へと案内さ

れた。

「へぇ、そうなんですか」

「うん」

 まだお互いに慣れていないせいもあって、1-Eの教室内は、緊張の張り巡らされた会話が

流れていた。

 みんな席を立って、お互いに友達になろうと必死になっていた。互いが互いに何気ない会話

をしていたり、作り笑いをしているのが見え見えの男子もいた。

 そんな多少ざわさわした教室内で、あたしはひとり、自分の席に座っていた。

「………」

 あたしは、みんなのように明るく振る舞うことなど、できなかった。それ以前に、そんな気

にもなれなかった。

 ひとクラス三十人。男女半数ずつ。

 席は出席番号順。名前順にその番号は決められていて、あたしの姓は『立花』であるため、

大体真ん中の辺りだった。

 その真ん中の席では、周囲の人達の話し声がよく聞こえた。

「中学校の頃は?」

「ううん、全然!」

 そんな会話を耳に挟んで、あたしは深く溜め息をついた。そして、そのまま担任の先生がや

ってくるのを待っていた。

 そんなあたしの目の前に、ひとりの男子がやってきた。

「ねぇ、君。名前、なんて言うの?」

 それは中学生の頃、まだ東京に住んでいた時に、路上で話しかけられてよく耳にした言葉…

…、そして聞き慣れた話し方だった。

「………」

 あたしは無視した。べつに中学時代に話してきた男たちのように、下心があったわけじゃな

いんだろうけど、あたしには話す気がなかった。

「あ……そう」

 あたしの対応に彼はそう言うと、三人くらい集まった男子達のところへ戻っていった。彼ら

はあたしの方をちらちらと見ながら、何かを話していた。

(どうせあたしの悪口でしょ)

 そう思った。けど、べつにそれでもよかった。あたしには関係のないことだから。

 とにかくその時のあたしには、気落ちした心と、何のやる気も起きないどん底の無力感、…

…それしかなかった。

 大好きなパパとママが離婚して、……そのため一人暮らしを強要された時のショック。それ

がその時のあたしの心の底に、沈殿した泥のように残っていた。

 家に帰ったところで、何かあるわけでもない。学校へ行っても、心の安らぎとなるようなも

のはない。

 ただ学校へ行って、勉強をして、帰宅する。そんな毎日を送るんだろう高校生活に期待する

こともなく、そう思っていた。

 教室に入ってから、数十分が過ぎた。室内の様子は、さっきからあまり変わっていない。

 ただ時折、窓の外から吹いてくる風が、あたしのセミロングの薄い茶色をした髪を撫でてい

った。

「ねぇ、彼氏いる?」

「えぇ~? まさかぁ」

 あたしのすぐ前の席にいる女子ふたり。今度は恋の話を始めたようだ。

 いつの間にか、クラス中が和やかな雰囲気になっていた。二~四人のグループになって、と

ころどころで会話をしている。

 そんな彼らを、あたしは一周見渡して、意味もなく瞬きをした。

「中2の頃なんだけど、すっごくカッコよくて……」

「あたしもそーいうのいたよ」

 あたしは再び大きく溜め息をついて、胸中で舌打ちをした。

 いまだかつて恋をしたことのないあたし。……自分でも分かったいた。彼女らを妬んでいた

んだ。

「恋……か」

 無意識に口にしていた。その声はひどく淋しく、切なかった。

 あたしはそんな自分に苛立ちを感じて、ふと、前にいる女子ふたりの向こう側、大きな黒板

を眺めた。

『ご入学 おめでとう!!』

(誰が書いたんだろう……)

 黒板いっぱいに書かれたその大きな文字。字体がグチャグチャで、パッと見たくらいじゃ読

めないほど、汚い字だった。

 ちょうどその文字が書かれた右の方、『ご入学 おめでとう!!』の『!』のすぐ右隣にい

る男子に、あたしの目はいった。

「……?」

 さっき話しかけてきた男子に比べると、真面目そうな……だが、何か冷たいものを感じる男

子だった。

 彼は、あたしが気付いて見る前から、こちらを見ていた。

(……何?)

 三秒ほど目が合って、あたしは気まずさに目を逸らした。

 その時からか、何か熱いものを感じていた。

「………」

 視線を逸らしたあたしは、しばらく目の前の机の表面を見つめていた。

 視界には入らないものの、前の方……つまり黒板の方から、視線を感じていた。

 その視線はむろん黒板の前にいる男子のものだろうと、あたしには感じられた。

 ずっとこちらを見ているような感覚を覚えたので、あたしは気になり、俯いていた顔を上げ

てみた。

「………」

 やっぱりその男子はあたしの方を見つめていた。そのせいか、なぜか不思議と高まっていく

胸に、あたしは恥ずかしさを感じた。

 目が合うと、誰でも気まずくなってしまうもの。

 再び、あたしはその男子から目を逸らそうとした。が、その前にその男子の方が先に視線を

逸らした……というより下を向いたため、あたしの目は彼の方を見つめたままだった。

 そのままその男子の方を見ていると、彼が右手に何かを持っていることに、あたしは気付い

た。

 彼は、その右手に持っているものと、あたしを見比べているようだった。あたしの目を見る

と、右手に持っているものに視線を移す。その動作を四、五回繰り返すと、彼はこちらに向か

ってゆっくりと歩いてきた。

「………?」

 無表情のまま近づいてくるその男子に、あたしはじっと顔を向けることで応えていた。

 あたしの前にいる女子ふたりの横を通り、あたしの机の前で、彼は立ち止まった。

 数秒何も言わないまま、ただ立ち止まっているその男子。あたしの目は、自然に彼の瞳の奥

へと吸い込まれていった。

 無意識に高まっていく感情のせいで何も言葉にできそうもなくなったが、それでもなんとか

あたしは何か喋ろうと思い、口にした。

「……あの、何か?」

「これ……」

 あたしの問いかけに彼はそれだけ言うと、さっきから右手に持っていた紙切れのようなもの

を差し出してきた。

「!」

 それを見て、あたしは目を見開いた。

「立花さんの、でしょ」

 彼は問うような口調でそう言った。あたしは驚愕を隠しきれないまま、彼の目を見て、頷い

た。

 彼の手からその紙切れを受け取る。

 ちょうどその時だった。あたしの手が彼の手に触れたのは。

 暖かい感触が手の中に残ると、あたしの目は無意識に彼の瞳を見つめていた。

 そんなあたしを見ても、彼はただ何も言わずに黙っているので、あたしは無理に、震えた唇

を動かした。

「あ……あの、ありがとう」

「……いえ」

 あたしの返事に小声でそう応えると、彼はこめかみを少しだけ掻いて、自分の席へと戻って

いった。

 彼の様子をじっと見つめていて、……あたしは胸の中で熱く燃えたぎるものを、我慢するこ

ができなかった。





 美夏の笑顔は、……呆れたような、……だが憧れを感じているような、……そんな複雑な表

情へと変わっていることに、玲は気付いた。

 冬の寒さも吹き飛んでしまったような、……そんな生暖かい奇妙な風が吹くのを、美夏は感

じていた。

 玲はそんな美夏を横目で見て、『ふぅ』と溜め息をつくと、大きな欠伸をした。

「ねぇ、美夏。感想はないのかな」

「………」

 美夏はそれを聞くと、しばらく苦笑していた。

「その苦笑いは何よ」

「だ、だって玲さん。それどころか、わたしの方が問いたいくらいですよ」

 美夏は苦笑から、本当の笑いへと変えて、玲の方に体を向けた。

「ちょっと聞いてもいいですか?」

「うん、いいよ」

「玲さん、誰に語ってたんですかっ。わたしに話すような口調じゃないじゃない。まるで、何

かの物語を聞かせてもらってるような、そんな感じがしたわ」

「ははっ、なんだ、そんなことか。けど、リアリティーがあったでしょ? こっちの方が美夏

にも伝わりやすいかな、って思ってさ。嫌だった?」

「いえ、そうじゃないんだけど。うん、けどさっきはそんなふうには言ったけど、わたしは玲

さんのそういう話し方、けっこう好きです。ドキドキしたし……」

「そう言ってもらわなくちゃね」

 玲は微笑して、美夏の肩に手を掛けた。寄り添うように美夏を促して、玲は大樹に全身で寄

り掛かる。

 冬の寒い空気を退けるように、高らかと浮いている雲を見上げて、玲は笑った。

「美夏、『運命』って、信じてる?」

「運命、ですか?」

「そう、運命」

「……うん、わたしは信じてますよ。そういうの、憧れるし」
                                          ・・
「あ、ほんと? うれしいな。美夏もそういうクチなんだぁ」

「うん、占いとか。『運命の赤い糸』なんて言ったら、わたしの中でも最高に思い入れがある

の」

「よかった。なら話せるね」

「え?」

 運命。その言葉が、美夏は好きである。信じてもいるし、『もの』としてではなくても実在

してほしいとも思っている。

 玲もまた、美夏と同様であった。

「美夏、あたしはね」

 玲は美夏の方は向かずに、呟くようにそう言った。

 ついさっき話していた過去の出来事を、玲は繊細に思い浮かべてみる。

 美夏の兄である京との出逢い。

 なんのことはない。ただ紙切れを渡されただけの、出逢い。……いや、そんなものは出逢い

と言えるようなものではないのかもしれない。

 玲は、こちらをじっと見つめている美夏の視線に気付いていた。

「あたしは、あの時の京ちゃんと手を触れる出逢いにね、運命を感じたんだ」

「えっ?」

「美夏は……いや、美夏だけじゃなく他の誰もが、『たかがそんなことで』って、思うかもし

れない。けどさ……」

 黙ったまま、……そしてしっかりと自分の話を聞いてくれている美夏の方を、この時になっ

てようやく見て、玲は一度大きく頷いた。自分に言い聞かせるように。

「けどね、運命の出逢いにね、カッコイイ出逢いとか、ダサイ出逢いとか、……そんなものは

ないって、あたしは思うんだよね。京ちゃんとの出逢いには、何かを感じさせるものがあった

んだ。だから、あたしと京ちゃんの出逢いは、運命だったんだって、そう思ってる。……けど

美夏、普通、そんなこと言うヤツ、いないよね。……やっぱり、あたしって、馬鹿なのかな」

 玲の、真剣で、そして強く想う心が伝わったのか、美夏は瞳を輝かせていた。

「玲さん……。馬鹿だなんて、そんな。わたし、そんな玲さんの意外な一面が、すごく好きで

す」

「ありがと。けど『意外な一面』っていうのは、ちょっと引っ掛かるかな」

「あ、ゴメンなさぁい 」

 美夏に不敵な笑みで鋭く言って、玲は再び空を見上げた。

 入学当時のこと。それを考えると、とても素直に笑っていられる今の自分が信じられない。

 当時は、なんの感情も外に出すまい……と、そう堅く決意してはいたものの、……だが、こ

んなふうに少しマヌケな性格になってしまったのは、ある意味ではよかったのかもしれない。

 そのせいで、京という青年と、今まで、いい友達としてやってこれたのだ。……いや、京は

そうは思っていないのかもしれないが、少なくとも、玲はそう感じている。

 感慨に浸る。

 しばらくそうしているうちに、玲はふと黙り込む美夏に気付いた。

 玲は、美夏の方を見た。

「……美夏?」

 さっきまで笑顔で話を聞いていたというのに、今になってどうしたのか、深刻に何かを考え

ているような、そんな様子が窺える。

 玲はそんな美夏のことを怪訝に思い、彼女の肩に掛けている左手を、大きく揺さぶった。

「美夏、どうしたの?」

「え?」

 不自然だった。その返事も、そしてその返事の後、繕った笑顔も。

 美夏のその様子が、玲には気になって仕方がなかった。

 もう一度問おうとする前に、美夏が俯いていた顔を上げる。

「玲さん」

「何?」

「つまり、『運命の出逢い』を、玲さんはお兄ちゃんに感じた。今の話は、そういうコト、よ

ね?」

 さっき話したばかりではあったが、急にそういうことを問い返されると、玲は少し赤くなっ

てしまう。赤らめた頬を右手で隠しながら、玲は頷いた。

「……うん。そういうコトだよ」

「つまり……、お兄ちゃんのコトが、『好き』ってコト……なの?」

「え? あ、うん。……まぁ、……そう。……もうっ、何よ美夏。そんなコトいちいち聞かな

くてもいいでしょっ! ……返事に困るじゃない」

 今まで、自分が京のことを好きだということを、直接ではないが、いくらか話してはいた。

 だが今回は、こうして美夏にダイレクトにそう言わると、……玲は多少戸惑ってしまう。

 赤面がやまない頬。熱くなっていく体。

 玲は気を紛らわせるため、周囲を見渡した。

 相変わらず人の数は少なく、公園には寒い北風が吹いている。

「ねぇ、美夏。美夏は好きな人とか、いないの?」

「えっ?」

「だってさ。美夏って、あんまりそういうコトについては、自分の話しないでしょ? だから

さ、気になるのさ」

 美夏とは、よく会って話をしている玲。美夏も玲にはいろいろな話をしてくる。

 だが恋の話となると、玲が一方的に話をしているのが現状だ。

「あ~、何赤くなってるのかな、美夏ちゃんっ! やっぱりいるんだね」

「………」

 赤面する美夏の顔を見ていると、なんともからかいたくなってくるのか、それともかわいが

りたくなるのか、玲は美夏の額を軽くポンッとつついた。

「い、いや、そんな、わたしは……」

「なになに?」

「あの、その……」

 口をモゴモゴする美夏。

 そんな少女が好きな男のタイプを、玲はこの時になってはじめて考えてみた。

(そういえば美夏って、どんな人が好きなんだろ)

 直接聞いてみればすぐに分かる、そんなどうでもいいことなのだが、美夏があたふたとして

答えないので、玲はちょっと考えてみた。

(美夏の感じからして……、優しい人ってトコかな)

「れ、玲さんっ。わたし、ちょっと、買い物しておかなくちゃいけないからっ」

 っと、玲の、美夏の好きな男のタイプについての思考を遮るように、玲から遠ざかるがごと

く美夏は立ち上がった。

「え?」

「だから、今日はこの辺で帰りますねっ、じゃあっ」

「ちょっ、ちょっとぉ!」

 止めようとする玲を無視して、美夏がどんどん遠ざかっていくのが分かる。

「どうしたのかな……美夏のヤツ。『買い物』なんて、あたしから逃げる口実だってバレバレ

なのにね」

 公園の出口まで行くと、飲み終わったコーラの缶をそばにあるクズかごの中へ捨てて、そし

て再び走っていく美夏の姿を何気なく見ながら、玲はひとり、大樹に寄り掛かっていた。

「あんなに焦った美夏、初めて見たな……。そんなに好きな人の話をするのが恥ずかしいのか

な。それとも……」

 玲は、もう美夏の姿が見えなくなった公園の出口から、丘の方へと視線を移して、そして空

を見上げた。

「あたしには話したくないってコトなのかな……」

 靡いている自分の髪が、さらに勢いを増した寒風によって激しく揺れるのが分かる。

 そんな風にも逆らわず、ただ流れに任せて、静まり返った公園の切なさのようなものを感じ

ながら、玲は独白した。

「明後日……か。……京ちゃん、来てくれるかな」




                 第二章 感じることの友情





 「あいつ、いつ来るのかな」

 翌日、学校から帰ると、玲は家で過ごしていた。

「……遅い」

 苛立ちを抑えることができず、そしてそれをどこかにぶつけることもできず、玲は独り言を

幾度と呟いていた。

 十二月二十三日。それは、緊張がさらに張り巡らされる日。クリスマス・イヴの前日。

 その緊張を壊すがごとく存在するのが、彼女の、とある友人であった。

 その友人の名は、茂也と言った。

 その茂也が、今日、『玲の家へ行く』と、学校から帰る途中、突然現れて言ってきた。

 何のことだかよく分からないが、とにかく今の玲は何か気晴らしになるものが欲しかったの

で、そういった意味では茂也は十分な存在となっていた。

「……だけど、何時頃来るかってコトくらい、言えって感じよね」

 夕刻、玲は部屋でTVを見ながら、茂也が来るのを待っていた。

 ピーン

「おっ? 来たかな」

 ブザーの音に素早く反応して、玲は玄関先へと向かった。

「はーい」

 覗き窓から見てみると、これはもうなんとも言えなく馬鹿っぽくこちらを覗こうとしている

茂也の顔が見えた。

「俺だよ。茂也さっ!」

 ガチャ

「おう、玲。遅くなって悪かったなって感じよぅ」

「それはもう遅すぎ。それよりなんであんたそんなにテンション高いの?」

「ま、いいってコトよ」

 玲は茂也を部屋の中に入れると、自分は扉を閉めて鍵を掛ける。

 十畳一間の真ん中辺りに置いてあるブルーのソファーに茂也が堂々と座るのを見て、玲は彼

のすぐそばまで寄った。

 バタンッ

「でっ!? 何すんだよ、玲」

「あんた、態度でかすぎ」

 ソファーに座っていた茂也を思い切りどかすと、玲は、今度は自分がそれに座った。

「ったく乱暴なヤツだな、お前はいつも」

「余計なお世話ってヤツだね。あんたがそんなコト言ってもあたしはやり方を変えるつもりは

ないさっ」

 ようやく立ち上がった茂也。玲は少し離れた所で立って、見下すように眺めた。

「ところでお前、足の方は直ったのか?」

「……ええ、なんとかね。まだ少し痛むけど」

 茂也の問いを聞いて、玲は少しの間、戸惑ったが、すぐに答えた。

 玲はここ最近まで、病院に通っていたのだ。

 夏休みの間、ちょっとした交通事故に遭ってしまい、二カ月間もの入院生活が続いた。

 リハビリも含めてようやく回復したといったところである。

「まだ少し痛む……? いや、それは嘘だ」

 その様子をいかにも疑っているような表情で茂也が呟く。

 小さかった声も、玲にはちゃんと聞こえていた。

「なんでよ」

「今のお前の蹴り、並の力じゃねぇからな」

「うっさいなぁ。そんなコトどうだっていいでしょ」

 だんだんと苛立ってくる感情を無理に抑えず、玲はついていたTVの電源を消すと、茂也の

そばまで寄った。

「ったく、こんだけ待たせといて、言うことはそんだけ? あんた一体、何の用があって来た

わけ?」

「ああ……、そうだな。本題へといくか」

「はっ?」

 怪訝な面持ちの玲を上から見下ろし、茂也はカーペットに座った。それに合わせて玲もソフ

ァーへと戻る。

 玲が初めて茂也に会ったのは、高校二年の頃だっただろうか。京の友人として紹介されたの

がことの始まりだった気がする。

 それからは、京と三人でいろいろ話したり、遊んだり、まあさまざまなことをやってきた。

「……けど、べつにあんたなんかどうでもよかったんだけどね。ただ京ちゃんの付属品だった

だけで」

「何?」

 独り言として言った言葉を、茂也がわけの分からない表情で見てくる。

「ま、それはそれで、何が本題だっての?」

「ああ、そうだな」

 茂也は『ふう』と呟いて、一旦玲から視線を逸らすと、自分が腰を下ろしているカーペット

を見つめる。

 その様子を首を傾げて見ている玲は、ただ黙っていた。

 しばらく考え込む仕草をして、茂也はふいに笑みを浮かべた。

「ちょっとな、手伝ってやろうと思ってな」

「は?」

「お前さ、ついこないだ話してくれたじゃん。京のことだよ」

「あ……ああ、そのコトね」

「明日、京を呼ぶんだろ?」

「……う、うん」

 俯いて頬を染めていく玲が、なんだかかわいく思えながらもとりあえずは何も言わないで、

茂也は笑った。

 玲は基本的に、誰にも自分が京のことを好きだということを隠してはいない。そして、それ

を京自信にも話してはいるのだ。

 が、それはあくまで客観的な伝え方であるため、京はあまり相手にはしてくれない。

 そこで玲は、真剣に京に自分の想いを伝えようと決心したのである。京が真面目に考えてく

れるように自分も真剣な言葉で、だ。

 茂也はそのことを知っている。恋のトークが好きな玲は、普段からよくそういった自分のこ

とを話すため、茂也には容易に伝わっていたのだ。

「だから俺がよ……」

 茂也は玲の恋路を手伝おうというのだ。さすがにこれは今日まで玲は考えていなかったため、
多少の緊張……と言うべきか、それとも胸が熱くなる……と言うべきか、いや両方が同時に玲

の全身を覆っていった。

 茂也は一呼吸後、明るめに言った。

「明日、京に伝えてやろうと思ってさ」

「ええっ? いや、やっぱりそうゆーコトは自分で話した方がいいよーな……」

 玲が考えた京への告白。そのシチュエーションは極ありふれたものだとも思ったのだが、玲

にはこれが一番の雰囲気であると信じている。

 それが、クリスマス・イヴである明日なのだ。

 茂也は玲の戸惑った顔を眺めながら、とりあえずは説得するように彼女に近づいた。

「まぁいいから聞けよ。お前が直接伝えるのも、そりゃもちろんオッケーだ!」

「だから、あたしは本当はそーするつもりだったのに……」

 拒否しつつ、だが心の奥では茂也がそうしてくれることを望んでいるのかもしれない。……

そう玲は自分で感付いていた。

「でもよ、玲。むっちゃいい雰囲気を出したいのなら、お前自信が言うより、俺がそのことを

あいつに伝えた方がいいと思うんだよな」

「……んん、まぁ……ね」

「だからよ、俺に任せてみてくれよ」

「……う~ん、そうねぇ」

 京に伝えたること。それは、むろん玲の告白する内容のことではない。茂也もそこまでは玲

の手伝いなどしようとは思わない。

 だが、『明日のこと』を伝えることが、それに関わる、……そして、それに大きくつながる

ものとなるのは、茂也の言うとおり、玲も分かっている。

 しばらくの間、……本当にしばらくの間、玲は黙り込んでいた。

「……ま、俺のことじゃねぇからよ、無理は言わねぇけどな。まあ、善意で言ってやってるだ

けだからさ、考えてくれよな」

 茂也はそこまで言って、ただ俯いたまま黙っている玲を一旦見つめると、玄関口へと歩いた。
「そうだ、玲」

「ん?」

 玄関まで歩いた茂也がこちらを向いた。

「あのさ、いつも話してくれてたような気もするんだけどよ。もう一度だけ聞いてもいいか?」
「何を?」

「なんで京が好きなんだ?」

 茂也の声が妙に裏返っているのに、玲は気付いた。

 玲が、茂也の友人でもある京を好きな理由……。それを茂也に初めて話したのは、ずっと前

のこと。

 それからも何度か話したことがあったような気はしていたのだが、再び茂也がそう言ってき

た。

 玲は一回首をひねると、嘆息した。

「前から言ってるじゃん。京ちゃんとあたしはね、結ばれる運命なんだよね。言葉で表せられ

るような問題じゃないのよ。分かるかな、茂也クン?」

「………」

 茂也の納得のいかない表情が、玲には余計に納得がいかなかった。

 人が、人を好きになる。

 その理由というものは、多々ある。それぞれのタイプというものがあるだろうし、何かと気

になったら、それも恋と言えるであろう。

 そして何より、『運命』というものがあって、生まれてから誰と誰が結ばれる……、そんな

恋を、玲は信じているのだ。実際に、そんな恋にめぐり会えたと玲は思っている。

「茂也は、そーゆうの嫌いなのかな。理由になってないとか、そんなふうに言うのかな」

「ああ。俺はそう言いたいね」

 靴を履こうとしていた茂也は、一旦その手を止めて、玲の方をしっかりと見た。

「恋ってのはさ、運命だけじゃないだろ。俺は運命に捕らわれるよーな恋は、したくねーけど

な」

「ふ~ん。まあ、あたしも昔はそう思ってたよ」

 ソファーに座っていた玲は立ち上がって、冷蔵庫へと向かった。

「けどね、茂也」

 冷蔵庫の中に入っている、コーラ二リットル入りのボトルを取り出して、玲はグラスをキッ

チンのそばにある棚から取って、注いだ。

「恋にはね、なんてゆーのかな、直感って言えばいいのかな、とにかくそーゆうのがあるんだ

よね。だからさ、まあ茂也の『なんで好きなのか』っていう問いに対する答えは、あたしには

ないけどさ、あたしは、京ちゃんが運命の人だ、って思ったから、結ばれたいし、好きでもい

られる」

「……そういうもんかね」

「そういうもんだよ、恋ってのは」

 およそ二百ミリリットル入るグラスにいっぱい入ったコーラを一気に飲み干すと、玲はほっ

と息を吐いた。

 恋愛観。それも、人それぞれでさまざまである。

 だが玲にとっては、他人が自分の考えをどう思おうと、そんなことに屈するような恋をして

はいない。

「運命。仮にそれを考えないとしても、あたしは京ちゃんが好きなんだ。理由なんてないよ」

「……そーっすか」

 恋、そして京に対する想いでは、誰にも負けない。

「ま、そこまで言うのなら、俺は認めるぜ、玲」

「おうっ、認めてよね」

 ようやく納得がいったのか、茂也は止めていた手を動かし始める。完全に靴を吐くと、もう

一度玲の方を振り返った。

 玲の話を聞いて、気のせいか笑顔になった茂也。玲は、それを見てふっと笑った。

「じゃ、俺はこれで帰るから。用はそれだけなんだよな。ま、俺の力に頼りたくなったら、電

話でもしてくれや。じゃーな」

「………」

 そう言って、茂也は勢いよくドアを開けて、そして勢いよく出ていった。

 バターンッ

 ドアの閉まる音が、玲の部屋だけではなく、マンション全体へと響き渡る。

「……はぁ」

 溜め息をついて、玲は俯いていた顔を上げると、首を一回転回して、消しておいたTVをつ

けた。

 茂也のいなくなった部屋を見渡して、玲はなんとなく寂しさのようなものを感じていた。

 それはおそらく茂也だけではないだろう。誰でも同じだったような気がする。

「……なんだか、寂しいよね……」

 一人暮らしをしている玲にとっては、ひとりでも、……そして誰でも、客としてやってきて

くれることは、何よりも嬉しかった。

 玲はしばらく悩んだ。

 TVから鳴っている様々な音……、それは人の声や、人工的になっている音-ようするに音

楽-、さらに動物の鳴き声までもが聞こえてくる。

 それによって、幾分か余計に入り込んでくる感情を紛らわせることができるが、……なんだ

かむなしいものを感じるのは否定できない。

「茂也のヤツ、……そういえばあたしの恋の相談に乗ってくれるのって、今回だけじゃなかっ

たような気がするな……。あいつ、いいヤツかも」

 京のことが好きな玲。それは、自分でも認めている。そして、それを他人に話すのが好きな

玲。

 今までも、何度か茂也に話したことはあった。

 だがいずれも、それは単なる話であって、『実行』という意味では、何にも結び付いてはい

なかった。

 旧式の暖房では、この部屋を全体的に暖かくすることはできない。良くて床下のみ。

「今日は、早く寝ておこう」



 冬の夜……。それは寒い。だが、それだけでは言い表せないものが、幾つもある。

 心のどこかで、何かが叫んでいる。自分自身へのメッセージなのかもしれない。

 全身に響き渡るそのメッセージを胸に、玲は、平坦でほとんど物を置いていない古い机の上

にある携帯電話を手に取る。

 TVの音量を下げて、玲はソファーに座った。

 記憶してある番号。ひとつ目ではなく、ふたつ目に入れてある番号。

 トゥルルルー

 コール音がいつになく、自分の微妙な感情を表しているような、……そんな気が玲にはして

いた。




           第三章 想いは冬の夜に乗せて…





 十二月二十四日。クリスマス・イヴ。

 昨夜から、じっとこの日が来るのを恐れていた。

 いや、そうではない。楽しみにしていたのだ。

 ……いや、それも違う。それだけでは言い表せない感情だ。

 それは様々な想い。いろんなものが混じり合っている。

「今日が、最後だっ!」

 そういった、心の中では痛いほど揺れ動く想いを噛み締めて、玲は朝を迎えた。





 「立花ぁ! ちょっと来ぉいー!!」

「は~い」

 担任のはげ頭の呼び声にやる気なく反応して、玲は教壇の前へと向かった。

 道立山上高等学校。

 二学期の終業式、それは、十二月二十四日、まさにその日であった。

「お前はなぁっ。ぬぁあーんで、こーいっつも十ばっかとるんだ!! いいかげんに気合を抜

けって言っとろーがぁ! でもってたまには八をとれ、八を!」

 担任のはげ頭はそう叫ぶと、左手に持っている通知表を右手で強烈にパンッパンッと叩いて、
玲を凝視した。

 終業式も終わり、しばらくしてからのH・Rだ。

「あ~、もう。うっさいなぁ、あんたはいつも。べつにいーじゃないっすか、クラスの誇りに

なってるんですからぁ」

 担任のはげ頭から自分の通知表をひったくると、玲はあまり興味もなくその中身を眺めた。

「やっかましぃー! お前のせいでプレッシャーかかっとるヤツが何人もいるのだぁ! 少し

はそいつらのことを考えろ、っつってんだろぉーー!!」

 担任のはげ頭は、クラス中に聞こえるようにそう叫んで、顔を真っ赤にしていった。

「あーもう、うっせーなぁ。そいつらはそいつらで勝手にプレッシャーかかってりゃいいじゃ

ねーかよ」

 とりあえずいつもと変わりようのない通知表。それに一息かけて、玲は元の席へと戻ってい

った。

「だぁぁ!! お前はどーーしてそう生意気なんだぁ!!! いっぺん死にやがれぇ!!」

「あんたが死ねば」

 担任のはげ頭がとうとう頭のてっぺんから血を飛び出させているのを無意識に見ながら、玲

は『はぁ』と溜め息をついて、自分の机の上に置いてある缶コーラ(三百五十 )を手に取っ

た。

「どうしてこのクラスは、こう……、いつも狂ってるのかなぁ」

 その疑問がいつも沸き上がってくる。いや、その中には自分も含まれているのかもしれない

のだが、ともかく玲は教室内を見渡してみた。

「……げひゃひゃひゃ!!」

「あんた、スリッパ食べてよ」

「わたし、この間、パリが来てたんだって。信じてるよね」

 とりあえず、今のところ自分が冷静にしているのを確認して、玲は飲み終わった缶コーラ

(残り二 )を、シャーペンを耳の中に入れて絶叫している男子と、その男子に抱き着いて無

意味に何度もキスをしている女子のふたりに向かって、思い切り投げつけた。

 ゴンッ

「あうちっ!」

「ばーか! 死ね!」

 クラス中が騒いでいる。

 この光景がいつものことだと知ったその時、精神に異常をきたす者も少なくないという噂が

立っている。

 それはこの学校の特徴であり、悩みでもある。

「次ぃ! 並川!!」

 なんとか出血を止めることに成功した担任のはげ頭。今度は玲の次の女子の名前を呼び、手

元の通知表を眺めて絶叫している。

「……もう帰ろっかな」

 玲は、ふいに感じたむなしさと、それから意味もなく学校にいることに対する緊張感のなさ

から逃れるがべく、そう呟いた。

 進学率が、少なくとも北海道の中ではトップの道立山上高等学校。

 その高校に入った時のことを、玲は思い出してみた。

「……こんなんじゃなかったんだけどなぁ」

 そう、こんなんじゃなかった。

 入学してから、少なくとも一年間-ようするに進級するまで-は静かに、そして真面目に授

業を受けている生徒というのが当たり前だった。

 ともかく、そんな真面目に思えたクラスに突如異変が起きたのか、二学年に上がった途端に

おかしくなりはじめた。

 そんな道立山上高等学校。

 その学校に通うのも、これで最後だ。

「寂しくない……って言ったら、嘘になるのかな……」

 騒がしい教室内で玲はひとり、担任のはげ頭の方を見ながら、そう独白していた。

 三学年の玲。そして、二学期の終業式、それが今日。

 三学期の授業は皆無……。

「よぉ~し、これで全員分の通知表とかいうヤツは渡したからなぁ!! 後はおめぇら勝手に

してろよぉ~!! うぎゃああ!!」

「えきゃきゃきゃきゃ!!」

 叫びつつ、……だが不快な笑顔を携えて昏倒する担任のはげ頭。それに続いて山彦のように

絶叫しつづける生徒たち。

 そんな彼らを見ながら、玲は叫んだ。

「新聞食ってろ!!」





 七階建ての校舎の裏庭には、玲は度々、顔を出している。

「今日も行こっと」

 H・R終了後、この学校にいる残りの時というものが、刻々と少なくなっていることに複雑

な心境で、玲はいつもはあまり見ない校舎内の天井やら廊下の隅やらを眺めながら、裏庭へと

やってきた。

 玲の友人たちのほとんどが、狂っている。それゆえ、玲はあまり彼らと干渉しようとはしな

い。

 H・Rが終わり、帰宅してもよいのだが、……残り少ない高校生活を感じとり、こうして裏

庭にやっくることにした。

 裏庭、……とは言ってもグラウンドとそれほど敷地面積の差はなく、十分にくつろげる広さ

ではある。

 その裏庭の中央にあるのが、バラ園。

 石垣に囲まれたそのバラ園が、玲は好きであった。それはただ単にバラが好きだというわけ

ではなく、……いや、実際のところは特にバラが好きというわけではなく、そのバラの周りに

存在している池であった。

 とりあえず、いつも顔を見せているそんなバラ園に玲はやってきた。

「……うぅ、さむ~」

 そういえば、ブレザーを教室に忘れてきた。

 いつもはシャツだけでも寒さなど気に掛からないのに、今日は冷え込んでいるせいか、玲は

体の隅まで染み込んでくる寒さに、呻き声を出した。

「まぁ、後で取りにいけばいいか……」

 バラ園の周囲にある石垣に腰を掛けると、両腕で体を抱くようにして、しばらく池の水を眺

めることにした。

「あ、玲。やっぱりここにいたんだ」

「え?」

 唐突に後ろから聞こえた声に振り返ってみると、片手にブレザーを持っている女子生徒が近

づいてくるのが見えた。

 すぐ近くまで来て、彼女は玲の隣に腰を掛けると、持っていたブレザーを玲に渡した。

「はい、忘れ物」

「あ、持ってきてくれたんだ。ありがとね、佳子」

「いえいえ」

 玲の親友でもあり、いろんな面でのライバルでもある、斎藤 佳子。

 佳子とは三学年の時に同じクラスになり、それからはいつの間にか親しい仲となっていた。

 そんな佳子、ここ最近、妙に明るいので玲が問い詰めると、……どうやら彼氏ができたらし

い。

 玲はそのことにいろいろと文句やら皮肉やら、様々な嫌みをぶつけていったが、佳子にはそ

んなものは一切通用しなかった。

 ようするに、彼氏に夢中で頭には玲のことなどないらしい。

 佳子は体をぶるぶると震わせて、小声に近い声で呟いた。

「担任のはげ頭、死んだって。さっき救急車が走ってったから何かな、って思ったけど。まぁ、
あんなヤツはどうでもいいんだけどね」

「ふ~ん。クリスマス・イヴに、死亡、……か。まあ、あいつにはお似合いかな」

「まあね」

 担任のはげ頭。彼は今年で定年退職を迎える。そのことをいつも生徒たちに誇らしげに語っ

ていたが、……迎える前に死んでしまうとは、なんとも痛々しいことこの上ない、……玲はそ

う思った。

 とにかく、そんなことはどうでもいい。

 玲は、とりあえず渡されたブレザーに腕を通していき、着終えると一旦立ち上がって、空を

見上げた。

「どうでもいいけどさ、あと卒業式だけになっちゃったね」

 その言葉を聞いて、笑顔だった佳子も多少の困惑じみた様子を見せる。

「そうだね。……なんか、寂しいよね」

「……うん」

 佳子の寂しいという言葉、玲には深々と胸に突き刺さった。

 今、玲の通っている道立山上、その学校に通うのも、残るは卒業式のみとなってしまったの

だ。

 そのことが、今の玲には気をはやらせる一番の原因となっている。

 っと、

「ねえ、玲。今日、京クン呼ぶんでしょ?」

 佳子が唐突に、……それも怪しげに口にした。

 それを、玲は一瞬戸惑いながらも気を取り直して答える。

「え? な、なんで知ってるの? 佳子にはそのコト、話してなかった……よね?」

「うん。実は、あのうるさい茂也から聞いたの」

「……は~。なるほどねぇ」

 なんとなく納得ができ、玲は苦笑した。

 茂也と佳子の関係というものは、実に浅はかなものである。ただ、茂也が佳子に勝手に声を

掛けているだけのものであった。

 ともかく、玲は佳子の言った茂也のことは、あまり気にならなかった。

 それよりも、佳子がそのことを知って、何が言いたいのかということが気になる。

 目を笑わせている佳子は見ずに、玲は一回大きく頷いた。

「うん、そうだよ。茂也の言うとおり」

 それを聞くと、しばらく佳子は俯いて黙り込んだ。

 次いで、目に浮かべていた不気味な笑みを消す。

「……そっか。あ、けど勘違いしないでね? あたしはべつにそのことを咎めようってんじゃ

ないのよ? たださ、玲って、こういうことになると、あんまり得意な方じゃないでしょ? 

だから、心配してさ」

「うん……。けど、大丈夫。あたし、今日はしっかりやるから」

「うん、ならいいんだ」

 それからしばらく、佳子は池を眺めて頬を赤めらせている玲を静かに、見守っていた。





 卒業式。あとは卒業式のみとなった。

「……うん、それはそうだ」

 だが、卒業式のことは期待していない。

 今日、こうしてようやくの決心で自分の胸に秘めている想いを、京という、その想いの対象

にぶつけるということは、限りなく玲には深刻な問題である。

 いつもは、外見上明るく、そして馬鹿のように見せてきた玲。

 そして、それは内面的に間違っているわけではない。彼女もそれを自覚している。

 だがそれでも、こういった真剣に人のことを想い、そしてそれを伝えるということが、どれ

だけ難しいことか、玲には想像もできなかった。

 クリスマス・イヴ。

 この日を逃して、そして卒業式へと伝える『時』を延ばすことは、すなわち彼女の決断を崩

壊させることにつながる。

「……うん、そうだ。せっかく決めたんだから」

 玲は独りごちた。

 今日、……そういった自分に対する強い決意があるからこそ、この日が最後のチャンスであ

り、そして最後の『賭け』なのである。



 帰路はいつもと変わらない。いや、ある意味では変わっている。

 毎日学校に通う時に通るドリームストリート。レインボー公園に直面しているその通りは、

たいして大きくはない。

 むしろ言うならば、中型の車がようやく通れる程度の小さな通りである。

 そこを通りかかった時、ふいに、玲はその道の脇にそびえる木々を眺めてみた。

 葉という葉がなく、そしてなんの飾り気もない。枯れ果てた木々が、季節を意味するような

感覚を覚える。

 だが……、それから、その上に降り積もる、雪を眺めてみた。

 玲は口を丸く開いた。

「え? ゆ……き?」

 そう、雪だ。

 白さはこの上なく、輝きすら浮かべ、そしてそれを見る者を絶句させ、さらには魅了するが

ごとく存在する、雪。

 玲は、その名のごとく魅了させられた。

「いつの間に、降ってたんだろう……」

 自分でも気が付かなかったのだ。

 今朝、起きてから外に出て、……だがその時には降っていなかった。そして、学校の校門を

出るときも降っていなかった。

 木々に薄く積もっている雪から、今度は自分の体を見てみた。

「やっぱり、雪……」

 雪の降る量としては、この地ではたいしたことではない。

 だが、玲には自分の制服に染み込んだその雪が、……体こそ冷たくしていくものの、心の胸

の奥深くを暖めていくような、……そんな気がしていた。





 トゥルルルー……

 電話のコール音。誰もいない部屋の中で、それは鳴り響く。

 トゥルルルー……

 十畳一間の、狭くはないその部屋。暗く……、そして静まり返った部屋の中で、コール音は

幾度と鳴っていった。

 っと、

 ガチャン

 受話器を取るような音がして、そして次に、

「はいっ、立花で~す。ただ今、外出していて出られません。御用の方は、『ピーッ』って鳴

った後に、メッセージを入れてね♪」

 ピーッ

 留守番電話のメッセージが流れた。

 そのメッセージから数秒後、電話親器から、甲高い声が鳴り響いた。

「よ、よう、玲。茂也だよ。なんだか、留守電に入れるのって、気まずいよなぁ。……いや、

まあ、そんなこたぁどうでもいいんだよな。それでよ、あのことなんだけどさ、京にはちゃん

と伝えたぜ。お前の家に、七時に行けってよ。……って、お前、もう五時だぞ。なんでいねえ

んだよ。ま、いいけどさ。それでさぁ、他にもいろいろとあるんだよな。言いたいことがよ…

…」

 甲高い茂也のメッセージ。それが終わるのは、この時から数分後のことであった。

 そしてそれから、数秒後、玄関の扉の開く音が鳴った。





 部屋は薄暗い。むろん電気がないわけではない。

 和やかな雰囲気を出すために、消している。

 ソファーに座ったまま、玲は静寂の時を過ごしていた。

 午後六時五十分。時計はその時刻を指している。

 部屋の中央から、少しだけずれたところにはテーブル。その上には、様々な料理が用意され

ている。

「京ちゃん、喜んでくれるかな……」

 一時間半という短い時間で、これだけの料理が作れたというのが、自分でも信じられないく

らいだ。その料理を着飾るように、両脇に置いてあるふたつのグラス。

 そしてワインの銘酒、『ディルナータ』。

 多少高かったが、無理して買っておいた。そのビンを、テーブルの真ん中に立てておく。

「見事……だね」

 並べられた料理。それからディルナータ。

 さらには暗くしてある部屋に、窓から差し込んでくるわずかな青い光。

(自分で言うのもなんだけど、これほど素晴らしいロマンチックなムードを醸し出すのは、あ

たしでしかできないね)

 ……そう思った。いや、思うどころか確信していた。



 午後七時ちょうど。

「そろそろ来るかな……」

 ブルーのソファーに座ったまま、玲は幾度と過去の出来事を振り返ってみた。

 なんとなく、過去のことを思い出していたかった。



 三年前のこと。……いや、正確に言えば、二年半前のこと。

 入学式の日、京と出逢った時のこと。

 なんでもないただの出逢い。いや、出逢いと言えるようなものではなかった。

「……けど、それからいろいろあったよね……」

 高校一年の、修学旅行の日。

 出身地である東京に行った時のこと。懐かしい気はあまりしなかった。

 その代わりに想い出となってくれたものがある。

「なぁ玲。コーラ、いるか?」

 三百五十 入りの缶コーラ。京がそう言って、缶コーラをくれた。

 原宿での出来事だった。やはり、この時もなんのことではない、ただコーラをもらっただけ

のことだ。

「……ほんと、なんでもないんだよね……」

 それなのに、なんでこんなにも京のことを想ってしまうのだろう。むしろ疑問に思えてしま

うくらいだ。

「ふふ、けどそれが運命なんだよね」

 そう、運命なのだ。玲はそう信じている。

 テーブルの上に置いてあるふたつのグラスのうちひとつを手に取り、玲はそれに唇をそっと

触れた。

 京がコーラをくれたあの時からだったのか、自分がコーラを好きになったのは。……いつ好

きになったかはあまりはっきりと憶えていないが、とにかく玲はコーラが好きだった。



 ふとそこまで考えていくうちに時計が気になり、机の上に置いてある目覚まし時計を眺めた。
 暗いためあまりはっきりとは見えないが、針の位置はなんとなく認識できた。

「……七時……三十分、か」

 いつの間にこんなに時間が過ぎてしまったのか。昔のことを思い出すたびに、玲は時の流れ

を忘れていった。……それだけ京との何気ない日常生活が楽しかったのかもしれない。

 再び玲は、……今度は進級した時のことを思い出した。



 京と、また同じクラスだった。そう、同じだった。

 春の遠足の時のこと。こんな年になって、なんで遠足なんて行かなくちゃならないんだ、…

…そう思った時のこと。

「遠足ってさ、つまんないよな。けどさ、たまにはこういうのもいいのかなぁって、思うんだ

よな。玲は、そう思わないかな」

 京は遠足が嫌いだと言ってた。だが、否定はしていなかった。

「……そういや京ちゃん、いつも遠足の時はコーラ、持ち歩いてたな」

 過去三回あった遠足。一年に一回ある遠足。そのうち二回、玲は京と同じ班で一緒に行動し

ていた。

 その中でも、京は常にコーラのビンを持っていた。缶のコーラを持ち歩くことは少なく、ビ

ンが主。

「……けど、ビンの中の色、おかしかったな。黒っていうより、茶色だったもん。腐ってたの

かも……」

 玲は独り事を繰り返し、軽く笑った。

 そしてそんな遠足が二回終わり、何の問題も起こすこともなく三学年に進級。



 ひととおり回想していくうちに、玲は再び時計を見てみた。

「……そういえば京ちゃん、遅いな……」

 不安気に呟いた。

 八時七分。時の流れが妙に早くはないかと苛立ちを感じさせる。

「もう一時間も経ってるのに……」

 玲が京に来るように言ったのは、七時だ。そのことを茂也は伝えたはずである。

 ともかく、玲は手に持ったグラスをくるくると回して、京を待っていた。

 外の様子が窺える。冬のこの時間帯は、すでに日が沈み終えており、……だが窓からは微か

な光が差し込んでくる。

 その光だけが玲の部屋の様子を著しく照らし出す。

 テーブルの上に置いてあるディルナータを見て、玲は再びグラスを口元へと近づけた。



 三学年に進級して、京と分かれた、……というよりクラスが変わってしまった。

「……けど、全然そんな感じはしなかったのよね」

 毎日、休み時間には京のクラスへ行ったし、京も自分のクラスに来てくれた。

「……まあ、京ちゃんは大体勉強のことを聞きにきただけだけど……」

 そのことを思い出し嘆息しながらも、玲は過去のことがいい想い出でしかなかった。

 今年-つまり三学年になってからの一番の想い出といったら、大きくふたつだ。

 夏に、京と花火へ行ったのだ。あまり乗り気ではなかった京ではあったが、やりはじめてか

らはそれなりに自分の意志でやっていたような気がする。

「……けど、この時はあまり京ちゃん話してくれなかったな……」

 そして、花火に行った五日くらい後のことだった。

 玲は、事故を起こしたのだ。夜道でふざけて走っていて、突然横道から出て来た車に撥ねら

れたのだ。

 ……いや、そんなことは玲にはどうでも良かった。大事なのはその後のことだ。

 その日、病院に運ばれてから、ずっとそばにいてくれた京が心強かった。それから一週間ほ

どではあったが、毎日通ってくれた。

「……京ちゃん……」

 あの時のことが忘れられない。玲は幾度と京の名を口ずさんでいた。

 事故にあってからはしばらく病院を出れなかったため、あまり京と話をしていなかったが、

ようやく今日というチャンスに巡り会えたのだ。玲はそれを大切に思っている。

 だが……

「……遅い……」



 今までの回想が途切れていった頃、玲はある疑問が出てきた。

 九時二十三分。正確には時計はそれよりも先を指していた。

 窓から射し込んでくる青い光が、今はどこか哀しいものを感じさせるような、そんな気さえ

する。

 しばらく、玲はその青い光を眺めてながら考えてみた。

 テーブルの上に置いてある自分の作った手料理。それを眺めて、今度は暗い部屋の天井にあ

る手動のライト。

 本当にしばらくの間、玲は考えてみた。

「………」

 自分のやったことを、考えてみた。

「………」

 京という青年が好きだ。そんなことは前から分かっていることだし、それに対して誰にも負

けていないと、そう思ってもいる。

 その告白を、今日という彼に会える最後の日に賭けた。……いや、彼に会える最後の日、と

いうのは他人から見ればおかしなものかもしれない。

 ……だが玲にとっては、これが最後のチャンスなのである。

 ……むろん卒業式には彼に会えるだろう。

 だがその時にちゃんとした告白ができるのだろうか。

 今、こうして自分から誘って何もできずに緊張している自分が、時を延ばしたからといって

告白できるのだろうか。

 いや、べつにそれは卒業式に限らなくてもいい。明日にでも電話で呼んで、話せばいいこと

だ。

 だが、玲にはそんなことができるほど器用ではなかった。……むしろ不器用すぎるくらいだ。
 自分には、勇気がない……。電話をして呼び寄せて、そして告白など、……無理だ、……玲

は自分のことがよく分かっている。

 つまり、玲にとっては、今日が最後なのだ。

 それに今日はクリスマス・イヴなのだ。絶好のチャンスでもある。
                ・・
 そして、これを最後にしようとも思っている。

「だけど……」

 九時四十分。

 問題の京が来ない。

 玲は急に不安が襲ってくるのを感じた。

「京ちゃん、ひょっとして来てくれないのかな……」

 その可能性というものがないわけではない。

 だが、当初はそんなことは考えていなかった。

 京は必ず来てくれる。いつも、初めは嫌々そうな顔はしていても、結局はなんだかんだ言っ

て京は来てくれた。

 しかし実情はこうだ。そろそろ三時間経つというのに、京は連絡さえしてこない。

 静まり返った部屋の中、玲は一瞬恐怖に近いものを感じた。

「京ちゃんは、あたしのことが嫌いだったのかもしれない……」

 考えたくもないことだ。だが、それは本人から聞かないとまるで分からない。

「そうだ……、京ちゃんはあたしのことが嫌いだったんだ」

 いつも、玲に対して嫌そうな顔を見せる京。だが、それは表面的なものだと玲は思っていた。
 一旦、玲はソファーから立ち上がった。

「……けど、いまさらそんなこと言ったって、しょうがないよね……」

 そう、そんなことを言っていたら何も始まらない。

「京ちゃんは、きっと来てくれる。たとえあたしのことが好きでなくても、来てくれるよ……」
 今までのことを回想すると、不思議と不安が消えていってくれるのだ。

 だが、京は自分のことを嫌いなのかもしれない。

「……だとしたら、あたしはどうするんだろう」

 玲は自問して、窓に近寄っていった。

 仮に京が自分のことを嫌っていたとする。だとするのならば、自分はふられるのを恐れて告

白をしないのか。

 玲は、窓に掛かっているカーテンに手を掛けた。

「……ううん、あたしは告白する」

 ふられたとしても、告白をしないでそのまま終わるよりは、納得がいくような気がした。

 何より何もしないでいるよりは、先へ進める。

「けど、……来てくれない」

 時は刻々と刻み続ける。

 京から連絡がないのなら、京の家へ連絡を取ればいい。

 だが……

「それじゃ、駄目なんだ」

 玲は、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

(……京ちゃんが来てくれなくちゃ、意味がない)

 そして、それは京が玲のことをどう思っているかにつながる。

 今日はクリスマス・イヴだ。それがどういう日なのか、そしてその日に家へひとり誘われた

という意味が、どういうことなのかということくらい、誰だって分かるだろう。

 だから余計に玲は、京が来るのを一方的に待ちたかった。

 そして、玲はひとつの結論へとそれを持っていった。

 京が来なかったとするのならば、……それが答えなのだと。



 窓の外は、一面雪景色に覆われている。

 青い光が、カーテンをどかすと一斉に部屋の中へと舞い込んできた。

「……雪……」

 一言呟いて、玲は今までのことを思い出していた。楽しかった京との想い出。



 何十分と、玲は待った。

 何十分も、何十分も。自分が慕う青年が来てくれるまで。

 だが……



 輝く一面の雪と、降り続く夜空からの雪を一瞥して、それから何度も何度も時計と窓の外を

交互に見て、

 玲は……

「……京ちゃん」

 悟った。

(京ちゃんは、……来てくれない)

 その結論がどこから来たのかは、分からない。

 だが、一面の雪景色を眺めて、……そして終わろうとしているこの日……クリスマス・イヴ

という日を感じて、そう体の全てが、悟った。



 今まで感情というものを露にしたことなど、一度とない。

 少なくとも、人がいる前では、一度とない。

 だが、無性に哀しくなっていく心の動きが、止められない。

「……きょ……う……」

 最後に呟いたその一言。

 それからの玲の瞼は重く、そして熱くなっていった。

 涙が、抑えられなかった。



 本当に今まで想っていたことを伝えたかった。

 今までずっと、耐えてきたのだ。

 クリスマス・イヴ。

 だがその日の夜も、……青い光と降り注ぐ雪の中で、

 ……終わろうとしている。





                               エピローグ





 運命。

 それを一言で言うのは、難しいかもしれない。

 運命。

 わたしはそれを、信じていた。

 他人がどう言おうと、わたしは自分の考えを全うしようと、そう思っていた。

 もちろん今も信じている。

 そして、信じていたい。

 けれど……。





 レインボー公園。その名の由来というものがどこから来たのか、彼女には分からない。

 いや、分かっている。分かっているけど、今はそんなことは考えたくなかった。

「………」

 いつものように、彼女はレインボー公園に来ていた。

 冬の寒い風に当たりながらも、そんなことは関係のないほど体はべつのことでいっぱいだ。

 大樹に身を任せ、これもまたいつものように丘の向こうにある町並みを眺める。

「……いい風」

 余計なことを考えなくて済む。そして、気分を紛らわせてくれる。……そんな場所。

 丘を見ている目線を、今度はジーンズのポケットに入っていた紙を取り出してそちらに移す。
 古ぼけた紙-写真は、三人の親子の顔が写っている。……いずれも笑顔であった。

「……パパ、……ママ」

 写真を眺めて、彼女は複雑に揺れ動く心の中を貫くような声を耳にした。

「れーーいー!」

「え?」

 ふいに顔を上げてみると、公園の出口-すなわちドリームストリートの方からひとりの青年

の姿が窺えた。

 自分を呼ぶ声と共に走ってくるその青年。

 その様子を見て、彼女は急いで写真をポケットの中へとしまった。

 彼は彼女の元へとやってくると、隣に腰を掛けた。

「よっ、玲。やっぱこんなとこにいるとはな……」

「悪い? くそ茂也」

「あ~、そう言うか」

 彼女-玲の言葉に、彼-茂也は皮肉まじりに次の言葉を言おうとするが、玲が哀しそうな表

情を崩さないことから、言うことを変えた。

「……卒業式、終わっちまったぞ。みんな、写真とか撮ってるのに、いいのか?」

「うるさいな、あんたには関係ないでしょ。写真なんか、嫌いよっ」

「あ、そーですか」



 そう、クリスマス・イヴ、あの日から二カ月ほどの時が流れた。

 三月三日。ひな祭りでもあるこの日、それが道立山上高等学校の卒業式であった。

 丘を見たままこちらを向かない玲をちょっと見て、茂也は一旦溜め息をつくと、笑った。

「しかし、久しぶりだな。俺たち会うのって、あの日以来だっただろ。なんかいいよな」

「よくねーよ! ばか茂也! あんたがね、留守電じゃなくて、きちんとあたしに話してたら、
あたしは京ちゃんの家に電話してたんだから!」

「おいおい、そりゃねーだろ。お前が留守電聞かなかったのがわりぃんだからよ!」

「うるせーよ、黙ってろ! あたしは気分がわりーんだ!」

「ったくよく言うぜ」

 玲の非を認めようとしないことに、茂也は嘆息して、とりあえず持っていた卒業証書を玲に

見せた。

「けどよ、美夏ちゃんの誕生日だったからってさ、京もアホだな。俺だったらお前を取るのに

よ」

「へ、あんたなんかに誰が取られてやるかってんだ!」

「…うっ、相変わらずきびしいな」

 卒業証書を自分の手元に戻して、一旦真面目な顔をした茂也に、玲は……困惑の表情を浮か

べると、口にした。

「……京ちゃんはさ、シスコンだよっ。あたしが家に呼んだのに、美夏を取るなんて」

「シス……コン?」

「だってそーでしょ。普通だったらあたしのところに来ると思わない?」

「……お前、知らないのか?」

「え? 何を?」

 何を言っているのかさっぱり分からない。……そんな気分だった。

 余計にわけのわからない表情になっていく玲を見て、茂也は笑みを浮かべていく。

「はは~ん。知らねぇのか」

「だから、何を?」

「さあてね」

「くわぁ! 教えろこのくそ茂也!」

「や~なこった!」

 そしてそれから一時間、凄まじい形相をして走ってくる玲を尻目に、茂也は楽しんで逃げる

のであった。



 ともかく息が回復した後……

「で、とにかくイヴの日にお前の家に行かなかったのは、事実だろ。でもって、兄妹だからっ

て美夏ちゃんを取ったのも事実だ。京には告白すんのか? というか、まだやっぱり好きなの

か?」

 茂也の問いが、玲には苦しかった。

「うん……。京ちゃんは好きだよ。けどさ、……告白は、やっぱ無理だわ」

「なんでだ?」

「なんでかな。わかんないけど……。けど、とりあえず今は、このままの関係でいたいから」

「あっそ。やっぱこのままってヤツか」

 今まで、ずっと想いを胸に秘めてきた。

 そして、ついにそれを言える時が来たというのに、そのチャンスであるクリスマス・イヴを

逃してしまった。

 決心のついた時にそれをしておかなかったこともあってか、これからまた告白するぞ、とい

う決意がどこかへ行ってしまったのだ。

 そして、心の中が不安定になってしまった。



 それはさておいて、走った後、ふたりはしばらくベンチに座っていた。

 それから何気なく再び大樹のところへ戻ろうとしたところ、茂也が真剣な表情で待ち構えて

いるのを見て、

 ……玲は怪訝な面持ちで茂也の方を振り返った。

「何その顔、どしたの? 気持ちわるぅぅ」

「なあ玲、真面目に聞いてくれ」

 茂也は、……なぜか真剣だった。

「何それ。あんたらしくもない」

「いいから聞いてくれ!!」

 ビクッ

 体が震えるのを感じた。

(な、何よ茂也のヤツ。こんな気迫じみて……)

 両肩に手を置いて顔を近づけてくる茂也を見て、玲はとりあえず彼が何を言うのか待った。

「俺さ」

「………」

 茂也の顔は、本当に真剣だった。

 本気だ。玲は直感的にそう感じとった。

 そしてそれは、自分を想ってのものだと、そう感じた。

 次第に高鳴ってく胸が、妙に熱かった。

 すぐ目の前にいる茂也の顔を見て、彼の口の動きをまじまじと眺める。

(茂也……)

 そうだ。

 よくよく考えてみると、茂也が今まで一番自分のことを想ってくれていたのかもしれない。

 恋の悩みも、相談も、自分の勝手なトークも聞いてくれた。

 今までのそういった過程を思い出しながらも、玲は、今度は彼の目を覗いた。

 ……光り輝いている。

 そしてそんな玲に応えるように、茂也は続ける。

「俺は、お前のことが……」

「茂也……」

 自分の肩を強く握っている茂也の手。……大きかった。

 そして、玲の直感どおりに、……茂也は口元を動かした。



「俺は、お前のことが、好きだ!」

「あっそ」

「え?」

 一瞬奇妙な時間が過ぎるのを感じて、茂也は玲の肩に置いておいた手を離した。

 すると、玲が言う。

「あのねぇ、あたしはあんたのコトなんか、大っ嫌いだから。勝手にしてくれる?」

「お、お~いぃ! そりゃないだろ!」

 茂也が自分のことが好きだから、……だがそれがなんだというのか。

「悪いけどさ、あんたの顔、気持ち悪いんだよね。近寄らないでくれるかな」

「なんだよ~、なんだかいい感じだったのによ~」

「うるせーな。あたしは京ちゃんが好きなんだよ。何いきなりコクッてんの? 今まで何回も

言ってんじゃん。あたしは京ちゃんが好きだって。それ考えて言ってんの? ってゆーか、あ

んたバカ?」

「うっ。け、けどよぉ」

「あんたなんて眼中にないの。あ~、あたしの恋は冬のままだ。春は来ないのかなぁ」

「そんなぁ……」

 ぐったりとうなだれている茂也。

 だが玲は、正直なところは……

(正直なところもクソもないの。茂也みてーな気持ちわりーエロヤローは大嫌い!)

 ……大嫌いらしい。



 冬の風には想いがある。

 レインボー公園。大樹の根本にも、……クリスマス・イヴに降った雪が、微かに残っている

ような、そんな気がしないでもない。

 実際に、……少しだけ、座った時に服が湿ってしまった。

「茂也! あんたはこれからも、あたしと京ちゃんを結び付ける重要な役柄なんだからね。そ

こんところをわきまえなさい!」

「……そりゃねーっすよぉ」

「黙れ! あんたはあたしの下僕にすぎないの!」





 玲の想いは変わらない。……茂也の想いは、いつ実るのか。

 運命を信じて、……そしてそれに身を任せていた日々。

 玲は、多少運命に対する考え方を変えた。

「自分から、……だよね」

 ……今までも、自分から、ではあった。

 だが、それは運命というものに頼っていただけにすぎなかった気がする。

 今度は、運命という言葉の上で、本当の意味で想っていきたい。

 隣でワーワー騒ぐ茂也。

 そんなことはお構いなしに、玲はレインボー公園を出た。



 ジーンズのポケットの中に入っている一枚の写真。

 小さい頃から、玲にとっては一番の宝物だった。

 そして、入学式の日、なくしたと思っていたそれを、さらなる宝物にしたのが……

(……京ちゃん )

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