2017年2月19日日曜日

兄妹の苦難 第六話





                    第四話 玲の想い……


                                       1


 佐々木に、呼ばれた。

「はい、なんでしょうか」

 雨の降り続ける中、仕事がもうすぐで終わるそんな時のこと。

 いや、もうすぐ終わるというのは少しばかり表現が違う。

 実際にはもう契約の時間は過ぎており、クルールームから帰宅の準備をしていた時のこ

とだ。

 そこで、佐々木に呼ばれた。

「実はな、柏田兄」

 柏田兄と呼ばれた青年  京は、その自分を呼んだ、なかなか男らしい顔付きの、だが
身長は自分よりも十センチ以上は低い、働き先の花屋であるマネージャーの口調に、何や

ら嫌な予感を覚えた。

 クルールーム。十畳程の、質素で何もない部屋。

 いや、何もなくはないが、単純にクルーのロッカーがそれぞれ個人に与えられているの

と、それから休み時間などにくつろげるよう小型TVが一台、それからそのそばに椅子と

小さなテーブルが幾つか、といった程度の部屋だ。

 最近、花屋でのアルバイトに慣れてきた京は、朝は早くから、夜は遅くまで働くことに

していた。

 今日、クローズまでやるのは自分ともうひとりの若い男性だったのだが、その若い男性

の方はついさっき、仕事が終わったところでさっさと帰ってしまい、一日の疲れにいろい

ろと考え事をしていた京は、こうしてひとりで部屋にいた。

 そこで、いつも昼間は外へ出掛けているマネージャーの佐々木が、京を呼び止めたのだ。
「今のホーソーンは、ちょっとばかり経営不振とやらなんだよ、これが」

「……はぁ、そうなんですか?」

 手近にあった簡易椅子に座って、佐々木はエプロンをはずそうとしている京に深刻な表

情でそう言った。

 初めて聞いたその話に、京は多少、驚きにも似た感情を露にしたが、それでもさほど気

には止めていないようだった。

「でも、梶野さんはいつも『黒字黒字、ふぉっふぉっふぉっ』とか言ってますよ」

 次いで、いつも自分に笑いながらそう言っていた店長の梶野のことを思い出して、京は

佐々木の言った話は信じられない、といった表情を見せた。

 だが、それでも佐々木は深刻さそのものの顔で続ける。

「店長はそう言ってるかもしれない。だが、実際は違うんだ」

「……はあ」

 佐々木の話を聞きながら、京はロッカーまで歩いて、鍵を開けて中から鞄を取り出すと、
佐々木の方を向いた。

 彼が何を言いたいのか、まるっきり分からなかった。

 アルバイトの中でも、まだ三カ月半しか経験のない下っ端に当たる京に、佐々木はそん

なことを話して何がしたいのか。

(世間話、かな?)

 などと思いながら、帰りの支度を終えはしたもののまだ話の途中のマネージャーに気を

使わずに帰るわけにもいかないので、とりあえず京は佐々木のそばに、ちょっとだけ離れ

たところに置いてある椅子を持っていき、そこに自分も座った。

 午後、十時三十分。

 明日も早い。

 眠気はまだ襲ってきていないが、自分の身に無理はしたくない。

 それ故、なるべく夜まで仕事のある日は早く帰りたい。

 そう思っている京のことなど全く気にせず、佐々木はひとり頷いて、続けた。

「結論から言うとだな、正直なところ、クルーを減らしたいんだ」

 その言葉に何を言いたいのか察したのか、京は一瞬目尻に皺を寄せた。

 それから続けようとする佐々木の口元に恐怖を覚えながら、京はとりあえず聞いた。

「……それはつまり、僕をやめさせる、ということですか?」

「いや、そうじゃないんだ、そうじゃ……」

 妙に息詰まった口調で言う佐々木に、何か妙なものを感じたが、京はとりあえずそれは

指摘せずに、言葉を待った。

 言い淀んでからしばらくして、佐々木は京に目を合わせて、今まで考えていたことをう

まく伝えられるか、などと思いながらはっきりと言った。

「お前がやめるかどうかは、俺が決めることじゃない。まぁ、本当はマネージャーが決め

ることなんじゃないのか、なんて思うかもしれないけどな。うちの店は、店長に全て指揮

権がある」

「……ええ、それで」

 佐々木の言うことに何かしら見えたものがあったのだが、だんだんと京には彼が何を言

いたいのか分からなくなってきた。

 そんな京に、続ける。

「店長は甘い。クルーに一度なった者はやめさせたくないとおっしゃる。だが、このまま

ではうちの経営がまずいのも、現実だ。だからこそクルーを減らしたいんだ」

「ええ、ですからなんなんでしょうか」

 さっきから話が進んでいないような気がしてならない京に、口をもごもごとさせて、佐

々木は床を見つつ、俯きかげんに京の目を見た。

「柏田、お前たち兄妹に、やめてもらいたいんだ」

「…………」

 佐々木が何を言いたかったのか、この時間帯に一対一に話し合うことになって、そして

妙に気まずそうにじわじわと本格に近づいてくるところから、なんとなくではあるがそん

なことを話してくるのではないかと、本気にそう思ったわけではないがある程度、想像は

できていた。

 だが、こうもいきなりやめろと本当に言われるとは思っていなかった京には、その佐々

木の言葉が強烈に響いた。

 っと、今の言葉に衝撃を受けて顔をしかめて絶句しながら俯いた京に、

「い、いや、そんなに落ち込むな。今すぐやめろとは言っていない。それに、さっきも言

ったが店長はお前たちのことを相当に気に入っているから、そんなことは絶対にお前たち

に言うことはないし、させようとも考えないと思う」

 それを聞いて、とりあえず少しほっとしたのか、京は顔を上げて、きょろきょろと視線

の合わない佐々木の目を見た。

「そ、それにな、もし無理なら、お前はべつにいいんだ。せめてやめてほしいのは、妹の

方で……」

「美夏を? そ、そんな、美夏は……」

 そこまで言いかけて、自分の妹である美夏のことを思い出して庇うように口にした。

「で、でも、きちんと僕たちは働いてるじゃないですか」

「いや、だ、だからだな」

 おどおどとしている佐々木。

(マネージャー、はっきりしないよ)

 そう思う。

 京にはよく分からなかった。

「い、いや、もうたらたら話してても仕方がない。ようするに、だ」

 そんな佐々木は、とうとう自分がさっきからごちゃごちゃしたことを言っていることに

苛立ったのか、首を大きく振って「いいか?」と結論づけた。

「店長はクルーを減らさない。だが、それだとホーソーンは厳しいんだ。今のホーソーン

は、クルーが多すぎる。そこで、お前たち  いや、妹だけでいいから、店長に自分から
やめたいと言ってほしいんだ」

「! なんでそんなことを?」

「だからホーソーンの経営状態が厳しいと言っておろうが!」

 自分の問いに大声でそう言った佐々木が、いきなり椅子から立ち上がるのを見て、京は

一瞬身を竦めた。

 そういえば、こうして佐々木が感情を露にするのは初めてみた。

 いつも冷静で、人間の心がないとばかり思っていた、そんな佐々木が自分に怒りという

ものをぶつけてきたのが意外であった。

 だが、そんなことに考えを寄せている状況ではないようだ。

(ようするにマネージャーは、僕達が自分からやめることを望んでるんだな……)

 結局佐々木が、自分と妹にアルバイトをやめてほしいと言いたいのだが、それは店長で

ある梶野が決定することであって、マネージャーとしての自分では何もできないから、バ

イトの自分たちがやめると言い出せば、梶野も納得してやめさせることができると、そう

言いたいのだろう。

「……そ、そうですか。話は……分かりました」

 京は、今は怒り狂った表情で、息を荒立てている佐々木の顔を見て、そう言った。

「そ、そうかっ」

 だが今の京の言葉で佐々木の喜びに似た感じの声。

 だが、だからといって「はい」と素直に従えるわけがない。

 これから、仮にこの花屋での仕事がなくなったとしたら、他に仕事先が見つかるという

保証はない。

 いや、それ以前に、ここの、梶野の花屋での仕事生活にピリオドを打ちたくはなかった。
 まだ、三カ月半しか働いていないのだ。

 例えマネージャーにそう言われたところで、京は頷くことはできない。

(しかも、……『妹だけでも』なんて言われて……)

 そう、佐々木は、自分の妹の美夏だけでもやめさせろと言うのだ。

(そんなことを言われて、誰がやめるなんて言うか)

 京はそれを考えた時点で、マネージャーの頼みにも似た話に、応えを決めていた。

 自分の夢は、花屋を経営すること、それだけでなく、花屋の店員として自分の花屋を受

け持つこと。

 その夢に、今一直線に向かっているつもりではある、自分としては。

 そしてそんな自分と同じ夢を持っている妹。

 下手をすると  いや、下手どころではなく、絶対的に自分よりも今の花屋での仕事に
喜びを感じている妹に、そんなことを伝えることなど、できない。

 最近、毎日ここでの仕事を楽しみにしているというのに。

 京は、冷静に考えた。

 佐々木は今、自分に、仕事を自分からやめるよう、妹に伝えることを頼んできたのだ。

「マネージャー」

 そこまで考えて、京は上司と下っ端という関係を忘れて、佐々木にきつい声で言った。

「な、なんだ?」

 それに、やはりおどおどして応える佐々木。

 顔こそ男らしいものが感じられるが、内面のそれはまるっきり正反対だ。

 そんな佐々木を見て、京は椅子から立ち上がると、テーブルの上に置いておいた鞄を手

にとって、クルールームの出口の扉へと向かった。

「ど、どこに行く?」

 その問いには答えず、京は真剣に口にした。

「すみませんが、引き受けられません」

「……なんだと?」

 佐々木の、多少笑顔であった顔に皺ができる。

 そんな彼は見ずに、京は扉を開けて外  つまり店内に出ると、扉は開けたまま言った。
「店長の梶野さんが直接言ってきたら、それには従います。ですが、マネージャーの話に

従うことはできません」

「な、なんだとぉ 」

「今はまだやめたくないんです。許してください」

「き、貴様ぁ、それが俺に対する口の聞き方か 」

「失礼します」

 自分の伝えたいことだけを言うと、

「ちょ、ちょっと待て!」

 呼び止める佐々木の言葉を無視して、扉を閉めた。

「あのガキィ…… 」

 自分よりも幾らか年下の、そして自分には一切逆らうことなどできるはずもない青年が

いなくなった扉を見やって、佐々木は憤怒で悶えていた。

「……よくもぉ」

 小さく声にする。

「……よくも俺をコケにしてくれたな!」

 椅子に座り込み、そして落ち着くよう自分に言い聞かせる。

(……くそっ、俺に従わなかった奴など、かつていなかったというのにっ!)

 そう、かつて自分に逆らった者などいなかった。

(それなのに……)

 その思いでいっぱいになった佐々木。

 しばらく冷静になって時を待った。

   が

「……絶対に、絶対にやめさせてやる! あのくそガキどもぉ 」

 ひとりになったクルールームで、佐々木は絶叫した。

「……ふふふ、ははは、覚えておけ  やめさせるだけじゃない、後悔させてやる……く

くくっ、くははは 」

 夜の花屋・ホーソーンに来る者は、例外としてクルーが来ること以外、誰もいない。

 だが仮に、今、こうして佐々木が絶叫している現場に出くわした者がいたとするのなら、
それはあまりに不幸というものだろう。

 幸い、この夜、誰ひとりとしてホーソーンにやってくる者はいなかった。



 京は、静まり返ったドリームストリートを歩いた。

 歩いた。

 歩いたのだ。

 だが走りたくもあった。

(…………)

 しかし走れなかった。

「…………」

 京は、無言のまま歩いた。

 夜のドリームストリート。公園や広場で遊べなかった時は、ここで遊んだ記憶がある。

 車の通らないこの小さな通りは、子供の頃の絶好の場所でもあった。

 いや、子供の頃だけとは限らない。今、こうしてひとりで歩いている時、車が通らない

ことは何より助かった。

 ひとりで、考えていたかったのだ。

 歩きながら、家への道程を長く感じたい。

 雨が降っている。傘に降り注ぐその雨が、妙に重く感じられた。

 家に早く帰って、自分を待っているはずの妹に心配をさせたくない。そして、今は同居

している玲という友人にも、余計なことを考えさせたくない。

 だが、今はひとりで考える時間というものが欲しかった。

 こうしてドリームストリートをひとりで歩いていると、いろいろなことが考えられた。

それに、安らかな気分も味わえた。

 故、アパートへと向かいつつ、だが少しでも長くこの道を味わいたかった。

(……マネージャーに、大変なことをしてしまった)

 上の者に対して、言葉遣いは変えていないもののあんなことを言ってはならないことは

分かっていた。そして、その結果どうなることかも分かっていた。

 だが、

「……美夏」

 だが自分を抑えられなかった。

 京は妹の名を口にするたび、無性に悲しくなっていることに気づいた。

 花屋・ホーソーンで働くことになった最初の日、本当の喜びを感じていた妹の顔を思い

出す。

(……くそっ!)

 それが、京には相当に辛かった。

 京はマネージャーに、妹に「やめる」よう伝えることはできない、そう言った。

 だが京が、彼の妹である美夏に言わなかったからといって、マネージャーである佐々木

が美夏に会って、仕事をやめるよう薦めるのは、目に見えている。

 それに対する美夏の反応……。それを考えると、京は辛かった。

 今の花屋での仕事に生きがいを感じている美夏は、絶対に、やめるなどと梶野に言うこ

とはないだろう。

 だが、

(マネージャーはたぶん、美夏が『やめたくない』と言ったとしても、それでおさまるよ

うな人じゃないような気がする)

 花屋・ホーソーンの運営一般を行っているマネージャーも、店長にはかなわない。

 だが、だからといっておさまるような、そんな甘い人間ではないだろう、佐々木は。

 仕事を始めてから先輩方から聞いた話を思い出すたびに、そう思える。

 佐々木の最後に見せたあの顔、京はこれだけで済むような気が、どうしてもしなかった。
 とうとう住宅街の入り口が見えてきた。

 住宅街に入ったところにある街頭が、はっきりと見える。

 京は溜め息をついて、さらに歩みを遅くして傘の外側に見える雨の滴を見ながら、思っ

た。

(……たとえマネージャーが何か起こしても、美夏だけはやめさせたくない…… )


                                       2


 立花 玲が、柏田兄妹の家にやってきてから、二週間と数日が経った。

 その二週間と数日の間に何があったのかというと……

 べつに、なんら特別なことがあったわけではない。

 ただ、極平凡な日々がたんたんと過ぎていっただけのことであって、記していく必要す

らない程度のことであった。

 そんな三人での生活にもようやく慣れた  というより、三人暮らしに不自然なものを
感じなくなってきた今日この頃。

 ザー

 梅雨の季節か、雨がやけに多いような気がする。

 今日も、雨だった。

「雨、多いなぁ」

 六畳間の壁沿いに置いてある、青色のゆったりとした大きめのソファーに身をゆだねて、
美夏は溜め息をついた。

「うん、そうだね」

 それに続いて溜め息をついたのは、美夏の座っている青色のソファーのすぐそばにある

桃色のソファーに座っている、玲だ。

 雨が、ここのところ本当に多い。

 ここ四日間、ずっと続いているのだ。

「明日は晴れるわ……なんて、天気予報のおねえさんは嘘つきだよね」

 TVを見てそう思ったのだろう美夏の、そのかわいらしい言葉にふっと笑って、玲は軽

く頷いた。

「うん、そうだね……」

 ソファーからでも眺められる部屋の窓の光景。

 窓の外にはベランダ。そのベランダと共に映る、縦に何本も引かれた透明の線が、美夏

だけではなく玲にとっては、ある種の不安だった。

「雨、やまないのかなぁ」

 再び、美夏が呟いた。

「うん、やんでほしいよね。明日なのに……」

 明日。

 玲はその日を楽しみにしていた。

 美夏も、おそらくは楽しみにしているであろう。

 この調子で雨が降り続ければ、その明日という日に何かしら影響を及ぼすことを避ける

ことができない。

 窓越しに映る多数の雨の滴に苛立ちに近いものを覚え、玲は美夏と一緒に溜め息を何度

もついていた。

 明日、それは、ここにいる美夏と、その兄である友人の京、それからさらにその友人で

もある茂也、そして自分の、計四人で遊園地に行こうと決めた日である。

 彼女にとっては、とても楽しみな日であるのだ。

(でも、雨、この分だとやみそうにないな)

 そんな日が明日に迫ろうとしているというのに、雨が、彼女の願いとは裏腹にまるっき

りやんでくれそうにない。

(明日は、無理かもしれないね)

 心の中で、明日、晴れてくれるという期待がある。

 そんな期待を胸にした自分にそう言い聞かせて、玲はずっと窓の外を眺めていた。

「玲さん、どう?」

「え? 何が?」

 心の中でいろいろと考えていた玲に、突然美夏がそう聞いてきた。

 こちらは見ないで、ただじっと窓の外を眺めながら。

「体のこと。『もう空腹で死にそう』とか言わないくらい、回復した?」

 その美夏の苦笑まじりの言葉に、玲は微笑して口を開いた。

「うん、大丈夫だよ。美夏と京ちゃんのおかげで、ね」

「ならいいんだけど、ね」

 自分の家に来た時、今では想像もできないくらいに顔色の悪かった玲。

 そんな彼女も、今はもう普通の素顔に戻っており、体力的にも回復したようである。

 そのため、もうこうして家の中でじっとしている理由というものはまったくないのだが、
玲はなんとなく家の中で、美夏との何げない談話が楽しくなっていた。

「うん。……けど、体はもう大丈夫だから、そろそろ探さないといけないかな」

 美夏に問いかけるようにそう言って、玲は今まではずっと雨を見ていた自分から現実へ

と戻った感覚を覚えて、京の使っている机を見上げた。

 机の上は何かを挟んであるファイルがひとつ、置いてある。その他、小物が幾つかある

が、それらしい物といった物はない。

 探す……。

 そう、仕事をそろそろ探さなければならない。

 不安定だった体も回復した。

 この家に住まわせてもらっているだけありがたい。

 あとは、自分だ。

「……うん。何かいいの、あるといいね」

 美夏の同意する声を聞いて、玲は彼女の方を向いた。

 最近、前はどうだったかは知らないが、美夏の花屋での仕事は昼間である。

 朝は、玲と一緒に朝食を作って食べるという生活。

 彼女の兄の京は、その朝食を食べるなり花屋・ホーソーンへと向かう。

 そして夜まで帰ってこない。

「でもさ、あたしは仕事がないからこんなこと言える立場じゃないけど、京ちゃん、ちょ

っと働きすぎだよね」

 玲の言葉を聞いてから、「うん……」と小さく呟きを含めて頷いた美夏。

 玲は美夏の顔に不安の曇りが立ちのぼっているのが分かった。

 それは今に始まることではない。この家に住ませてもらって、そして体調がだんだんと

回復して、周りのことに気を配れる程の余裕がでてきた時から、ずっとである。

「おにいちゃん、最近、夜遅いし……。そんなに働くことないのにな……」

 美夏の呟き……。

 その美夏の表情を見つめて、玲は心痛みつつ口にした。

「そうだけど……、でもやっぱり、京ちゃんは京ちゃんなりに、将来のこと、考えてんの

かもしれないね。不景気だからさ、今は。あたし見てれば分かると思うけど……」

「いえ、そんな……」

「ま、家にいる時くらいは休ませてあげるのが、美夏の務めってヤツじゃない? ここに

いる間は、あたしもいろいろ手伝うからさ」

「……うん、玲さんがいると、わたし、助かるよ」

「そう? 嬉しいよ、そう言ってもらえると」

 玲の言葉を聞いてから、気のせいか少しばかり明るい表情を取り戻した美夏。

(……うん、そうだよね。わたしがおにいちゃんをフォローしなきゃ)

 仕事が始まってからは自分のことで精一杯だった。

 そして、それが今、完全に周りのことに余裕を持ち始めたわけではない。

 だが、昼間の仕事で帰宅できる自分と兄を比較して、そしてその兄の一日の疲れのこと

を考えると、美夏は玲の言葉の意味を深く、そしてそれが重要なのだと思った。

 そんな、兄の心配で胸を痛めているだろう美夏の、だが今、自分の言った言葉で気のせ

いか気楽になったような笑顔を見て、玲は、遊園地へと明日行けなくなったとしても、ま

たいずれ行けるという期待を胸に抱いて、外に降り続く雨を眺めた。

「けどやっぱり、明日行きたいよね」

「……? あ、遊園地? うん、行きたいよね、明日っ。雨でも」

 雨を見つめて、そのせいで無意識に呟いたひとりごとに、美夏は一瞬怯んだがすぐに理

解して、相槌した。

   が、

(……雨、でも?)

 美夏の呟いたたったひとことのそれ。

 玲の心に妙に響いて、それが次第に胸の中で大きく広がったかと思うと、脳裏全体を埋

め尽くした。

(……雨でも、かぁ)

 雨でも遊園地は開園するのだろうか。

 その辺の疑問があったりもするが、だが仮に雨でも遊園地に行って、美夏と茂也と、そ

してその兄  京と楽しんでこれるとするのなら  

「……雨か。うん、それもいいかもしれないね」

「だよねっ」

 玲の言葉に、美夏が笑ってそう言った。

 だがそんなふたりの笑顔とは打って変わって、天候の変化は全く見えそうにない。



「なぁ、さゆり。明日、雨がやんだら、一緒に遊園地行かねぇか?」

 ふと、茂也は誘ってみることにした。

 午後の茂也の家。

 洗面所で顔を洗っていたところ、ふいにトイレから出てきた妹と目が合って、茂也はな

んとなく誘ってみた。

 いや、本当は誘うつもりなんかなかったのだ。

 友人の玲を気分転換させるために提案した、明日、遊園地へ行こうという計画。それに

は親友の京と、その妹  美夏も来るはずである。
                                                                    ・・・・
 そのメンバーは茂也にとってかなりのお気に入りであって、そしてそれはいつものメン

バー、とも言えるほどの集まり率である。

 だがそんな中、ふと物足りなさを薄々感じていたのは自分だけだろうか、などと思いつ

つこうしてトイレから出て来たさゆりの目がきょとんとしているところから、なんとなく

彼女も誘ってみてはどうだろう、ってな思いが浮かんだ。

 で、蛇口は開いたまま茂也は、手を洗おうと思いながらも茂也が邪魔で洗えないさゆり

の目を、もう一度見た。

 そんな茂也に「早くどけ」と言いたげな表情で、だがそうは言わないで、その分、さき

ほどの返事を口にした。

「ひとりで行けば」

「うっ、そう来るか」

 さゆりの、考えもしない返答に茂也はショックを受け、やはり最近、妹は自分に冷たい

……と思いながらもそう伝えたところで彼女がこたえることなく平然としていることなど

分かり切っているので、とりあえず押し黙った。

 だが、それでも茂也はなんとなくさゆりにも来てほしいという願望が、なぜか強くあっ

た。

   故、

「玲と京と美夏も一緒だぞ。それでも嫌か?」

「え  ?」

 茂也の今の言葉の前半に、さゆりは一瞬、目を見開くと、また彼の言うことなどまるっ

きり聞こえなくなるのだろういつもの、意識がどこかへふっとんでしまったような表情に

なって、輝かしい、普段の妹とは思えない美しき眼差しで彼を見つめてきた。

 そして  

「その前に、早くそこどいてよ」

「……生意気なガキだっ」

 「行く行くっ」とか言ってくるのかと思えば、丸っきり検討違いの返事に、茂也はさら

なる落胆。

 とはいえ、さゆりに場所をどかした茂也には、今の妹の顔には微かだが期待というもの

が感じられた。

 少なくとも、少し行く気になったのではないかという期待を自分は持つ。

 じゃー

 手を洗いながら、洗面所から少しだけ離れたところにいる茂也の方は向かずに、さゆり

は、茂也のそんな期待に近いものに応えるよう口にした。

「けど、玲ちゃんと京君がいるなら……、あたしも行こうかな」

「おっ、そうか、そうか、そうくるか。そうくるそうくるそうくると思ったよ」

「連続しなくていいよ、クズ兄貴」

「……生意気なっ。ま、いいや、じゃあ行くんだな」

「うん、行く」

 さゆりが頷いたのを見て、それはそれでなんとなく楽しみでもあったのだが、内心では

茂也は多少、気になったりするものがあった。

 さゆりの表情が、やけにポーカーだった。

「さゆり、……あんまり乗り気じゃないみたいだな」

 気になることをさゆりにそのまま言って、茂也は彼女のいつもの友人に対する態度を思

い出してみた。

 友人  京といる時の、さゆりの言葉遣いないし態度、それから晴れ渡った表情。

 楽しそうに話すさゆりの顔を思い浮かべて、茂也は首を傾げた。

(……もっと喜ぶと思ったんだけどな……。玲だっているのに)

 と思いつつも、とりあえずそれは口にしない。

 さきほどの自分の問いには答えずにいつの間にか部屋に戻ってしまった妹に、茂也は気

づかなかった。そんな自分に疑問を覚える。

 それからしばらく考え込んで、なんとなくだが結論を見いだした。

(ま、もう冷めたってとこか。なら俺としても嬉しい限りだ)

 茂也はそう心の中で呟くと、自然に足取りが軽くなって顔が綻んでいた。

 しかし  

「けど兄貴、明日も雨が降ってたら、どうするのぉ?」

 洗面所から少し離れたところにある妹の部屋。

 そこから聞こえた妹の問いかけ。

「いや、それは分からん。玲次第だ」

 それに天井を無意識に見上げつつ答える茂也。

 しかし、さきほど、茂也が単純に出した妹に対する結論は、まったく異なっていた。


                                       3


「晴れた晴れたっ、晴れたんだねっ♪」

「うん、晴れた晴れたっ、晴れたんだよっ 」

「そうなんだ。晴れた晴れたっ、晴れたのさっ!」

「ええ、晴れた晴れたっ、晴れたんですわっ 」

「……ってゆーか、お前ら何者だよ」

 目の前にいる四人が横一列に並んで、そして無意味に連続している現象に、茂也は嘆息

してそう呟いた。

「んなこと空見りゃ分かるっての。それに今更言うな。朝から分かってたことだってのに」
 っと、実際に空を見れば天候など分かるという、しかも朝から晴れ渡った空、今、昼に

近いことを考えると茂也の極当たり前の言葉に、ここに来てからずっと笑顔だった四人が、
急に今までの全生気を失ったかのように茂也を非難の目で見る。

「茂也さん……。そんなこと、言わないで。せっかく晴れたんだから……」

「そうよ、茂也。んなこと言わないでよ。せっかく晴れたってのに……」

「そうだよ、茂也。そういうこと言うのは非業だよ。せっかく晴れたんだからさ……」

「そうだクズ茂也。んなこと言ってるからモテねぇんだよ。せっかく晴れたってのに……」
「……なんなんだよ、お前ら……。みんなしてよぉ。……冷てぇな」

 四人が四人して自分を非難するのを見て、とりあえず自分だけ仲間外れとやらにされた

ような気がしないでもないような気が……、まぁとにかく苛立った。

「京までそっちの見方なのかよ?」

 無意識に呟いたその言葉。

 茂也を含めて、この五人の中で男は茂也と京である。

 その中で京が女性側に立つことに、茂也はなんとも納得がいかないようだった。

 だがしかし、横一列にこちらを見返してくる四人はそんなことは気にしない。京は茂也

の言葉を無視したまま。

 そして四人は、再び口にしてきた。

「おにいちゃんは、正しい者の味方なんですもの」

「京ちゃんは、あたしたちの味方なんだよね」

「僕は、茂也の敵なんだ」

「そうですわよ、クズ兄貴に味方なんているわけないでしょ」

「……もういいからやめちくり」

 とりあえずいまだ続けようとする自分への対抗意識から逃れるがべく、茂也は先に歩み

を進めた。

 先に行ってしまった茂也をしばらくの間、呆然と眺めて、四人は溜め息をついて、茂也

に対する精神的な強さというものを深く知ったような気がした。

「茂也さん、案外……」

「かわいらしいところが……」

「ある……」

「わけがないですわよ、あんなバカ兄貴」

 というわけで、門に残った四人も、ともに茂也を追うことにした。



 《楽園スィーター》という、まさにその名のごとし楽園  というと大袈裟なものであ
って、とりあえず人々が気休めや遊びに来るという地としてそこそこ名の知られている遊

園地がある。

 そこへ、五人はやってきた。

 まだ午前中のこの時間、だが人の出入りはなかなか多い  というより相当のもの。

 やはり日曜日ということがあってか、親子連れが多く見受けられる。人込みの中で、本

当に楽しめるのかどうかという問題はおいておいても、そんな心温まる光景が、玲はとて

も好きだった。

 こういう光景  というより、こういう、つまり仲の良い家庭というものに憧れる。

 園内にいる小さな子や、その親たちを眺めて、玲は自然に微笑みながらそう思った。

(子供って、いいな……)

 いつからそんな思いがあったのか。

 はっきりと分からないが、いつの間にか子供を生むというものに対する憧れがあった。

そして、家庭を持つという憧れ。

 幸せそうな親子を見ていると、いつもそう思ってしまう。そのことに何か違和感を感じ

ることもなく、そして逆に、実際に自分も親になる日が来るのだろう、将来の自分に期待

を持ってもいる。

 最近、すごくその思いが強く、何もできない自分に苛立つこともしばしばある。早く家

庭を持ちたいという、焦った気持ちが先走る。

 大学に入って、友人の佳子と久しぶりに会った時、彼女が身ごもって、そのことに終始

笑顔だったことを思い出す。

 それから、将来そんな体になった自分を照らし合わせると、無意識に笑ってしまった。

「お~い、玲、これ入ろうぜ」

 少しだけ遠くに、人込みの中から茂也の声が聞こえた。独特の高い声を持つ彼の声は、

玲の耳には酷く響く。

「おもしろそうだね」

 次いで茂也のそばから美夏の声がして、京とさゆりがいないのを確認してから、多少心

の中では後ろに引きずられながらも玲は彼らの方へと向かった。

「なになに?」

 小走りに近づいてみると、洋風の建物。

 数十分待ちの行列の中に、茂也と美夏のふたりはいた。

 年寄りが多くいる行列の中に、初々しい若さを保った美夏とごつい顔の茂也、身長さ三

十センチ以上のふたりはあまり合っておらず、どこか違和感を感じるが、まあとにかく楽

しそうに話しているのを見ながら、自分も中へと入った。

「……割り込み、だよね……」

 茂也たちの後ろにも何人かの客が並んでおり、それを見てから後ろめたい気になりなが

ら小声で呟く玲に、茂也は「ふっ」と笑って指を振った。

「んなこと気にしなくてもいいんだよ、玲。気にすんな気にすんな」

「気にすんなぁ、気にすんなぁ、だよっ、玲さん」

「……美夏、茂也に影響されてない?」

 そう言われて、ごめんなさい、などと周囲の人達に心の中で謝りながら、玲は美夏を見

た。

「ちょっと影響されてるかな」

 笑って答える美夏。

 一応、美夏が茂也と昔から仲のよい親しい関係ではあることを知っているが、玲にとっ

てはちょっとばかり軽い考えを持った茂也と、真面目で素直な美夏が合うような気はしな

い。

 その美夏が、茂也の気楽な考え  むろん、気楽が駄目だとは言わないが  を、美夏
が目の当たりにして感化されると、玲にとっては嫌なものの何ものでもなかった。

「茂也、美夏に変なこと教えないでよね」

 そう思いながら、げらげら意味もなく笑っている茂也に警告しつつ  無駄かな、と思
ったりもする玲であった。

「けけっ、大丈夫だぜ、な、美夏ちゃん」

「……ううん、嘘だよ、玲さん。茂也さんったら、すぐ変なお話、してくるの……」

 茂也が玲の言葉を否定するように美夏に言うが、美夏は深刻な表情でそう呟いた。

「……茂也ぁ?」

「……ま、まぁ、とにかくここは待つっきゃねぇな」

 茂也の言葉を境にして、玲たち三人は、しばらく言葉を失った。

 洋館。

 むろんれっきとした本物の洋館ではない。西洋の建物を見ようみまねで建てられた建物

である。

 二階建ての、古びた建物だ。その入り口に向かって何十人もの人々が列を作っている。

 お化け屋敷なのだろうか。らしきものは感じられるが、玲にはそういったものに対する

興味は絶大で、恐怖よりもわくわくとした感情がそれを上回る。

 言葉を失った  のは、客入りのわりに中から出ていく者の数が少ないことで、待ち時
間が予想を大幅に越えてしまったからである。

 行列に佇んで、玲は隣で、そろそろ待つのに疲れてきたのか渋い顔をして口数のまった

くなくなった美夏を見た。

 それから、こちらは笑い顔を絶やさずに、やはり意味もなく甲高い声で前や後ろにいる

老人に話しかけている茂也を見る。

 そして今度は自分のことを、考えてみた。

 自分は今、何をしているのか。

 そう、それを考えた。

 友人の京と、その妹の美夏の家に泊まらせてもらってから、数週間が経った。

 その数週間の間にも、玲は考えていた。

(…………)

 外界からの話し声の接続はカットするように、玲は目を自然に瞑っていた。

 この遊園地へ行くという話になってから、さらにその考えは大きくなっていた。

 高校時代から、想っていたこと。ある人に、想いを寄せていたこと。

 その想いを告白という形で伝えようと、高校の在学中に決心していたこと。それが、伝

えられなかった過去の出来事。

(……うん、そうだ)

 玲は、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 友人の京が、今度遊園地に行かないかと、そう持ちかけてきてから、かつてできなかっ

た告白のことを脳裏に思い浮かべてみた。

 それは、その時にはじめて考えたことではない。だが、その決心というものをつけさせ

たのは、その時だった。

 それから今日まで、ずっと胸の中で言葉を考えた。考えに考えた。

 どうしたら、本当の気持ちが伝わるか。

(……こうして、チャンスが巡ってきたんだ)

 その絶大なチャンスというものに、今日こうして身を置いている、《楽園スィーター》

というものがある。

 今朝から、緊張していたものだ。

 朝からずっと、胸の奥で潜めて、まだかまだかと高鳴っている心の言葉。

 玲はそれをじっと考えて、そしてふいに、堅い決意を宿した自然な微笑を浮かべた。

(……伝えるんだ、伝えるんだよ、あたしっ!)

 それは、とても純粋で、輝きのあるきらめいた、美しい微笑だった。



「違いますわっ、違いますったら違いますのよ」

「えぇ  いや、そう言われても」

「違うんですわよっ、京君ったら!」

「……いや、だからその前に違うもなにもないんじゃないかな……」

「違うったら違うんですのっ!」

「あ、あぁ、分かったよ」

 さゆりの、強烈で、かつインパクト抜群の注意に、京は一応抵抗しながらも最後は渋々

従った。

 UFOキャッチャーと呼ばれる、日本では大きな遊園地にしか置いていないと言われて

いる、単純だが難しいゲームが、ある。

 《楽園スィーター》は、北海道の中では最も大きなそれのひとつであって、UFOキャ

ッチャー館という、そこだけで幾つもUFOキャッチャーが揃っている建物も、あった。

 巨大なドーム型の、最近建てられたものだろう新しい建物。その中に入ってから、京と

さゆりは一回百円のUFOキャッチャーをやっていた。

 館内にはどれだけの人がいるだろうか。地方ではめったに見られないというUFOキャ

ッチャー。その観光とも言うべき目的の人も、少なくないのではないかと思うほどに、人

がいる。

 やっている人をただ眺めている人もいれば、ひとりで占拠してずっとやっている人もい

なくはない。

 その中で分類するとするのなら、ふたりは、ひとりで占拠、の方かもしれない。

 で、そんな中、京はさゆりが文句を言うので、キャッチャーが右移動をするようみっつ

あるボタンのうち、右のボタンを押した。

 ボックス中のキャッチャーが右に移動する……。

「あぁっ! それが違うって言ってるのですわっ!」

「えぇ  なんで 」

 さゆりが再び抗議の声を上げるのを聞いて、京はわけが分からなくなり、一旦手を放し

た。

「だって、さっきは左が駄目だって言ったじゃないか」

 とりあえず先程と同じような展開に参りながらもとりあえず苛立つのを自制して、京は

目を吊り上げているさゆりの目を見た。

 さゆりはそんな京に、一瞬戸惑いの色を見せたがともかく、自分の言った言葉に自信を

持つように口にした。

「……斜め」

「え?」

 小さな声だったため聞きづらく、京がそう問い返す。

 そんな京に、自分の言った言葉が聞こえていなかったことを確認して、さゆりは口を大

きく開いた。

「斜めテクニックは、UFOキャッチャープレイの必須条件ですわっ 」

「……あ、あぁ、そ、そうなの? ……と、とにかく、斜め……だね?」

 さゆりの大声に呆気に取られ、そしてさっきからずっと真横や真縦にキャッチャーを動

かしていた自分に怒っていたのもそのためか、などと理解しながらも、とりあえずもう一

度UFOキャッチャーの方を見た。

「京君、こうしてやるのですわ」

 そう言うと、さゆりは京の後ろから抱き着くような格好をして、彼の右手と左手を持っ

た。

「……なんで手を握るの?」

 京が肩越しに訝しげな表情で見てくるが、さゆりは気にしない。とにかく指導者になっ

た気分なんだろうか、さゆりは京の背中越しにUFOキャッチャーへと近づき、それから

京の手を自分の手ごとみっつのボタンへと近づけた。

「ボタンを、慎重かつ正確に押すのですわ」

「……あ、ああ、それは分かるよ、さゆりちゃん。でも、別に後ろから指導しなくても大

丈夫なんだけど」

「そ、そんなっ! いけませんわ、京君。ハレンチですわよっ…… 」

「……あ、あの、何が?」

 さゆりのペースに呑まれ、とにかく京は後ろからじりじりと頭と胸と腰を背中に擦り寄

せてくるさゆりに従い、ボタンにさゆりの手と一緒に近づく。

(ふふ……)

 さゆりは、京に顔を見られていないからこそなのか、奇妙に笑った。

 そう、実は京が斜めにキャッチャーを移動しなかったからといって、べつにそれに苛立

ちを覚えたわけでなく、ただむしろそれに注意した方が都合がよかっただけのこと。

 それにこうして、兄の茂也と、京の妹である美夏と、そして玲の三人とうまく分かれて

ふたりでここまで来れただけでも、相当に好都合なのである。

 さゆりは、無意識にもニヤッと顔を歪ませて、京の両手を後ろからきつく握った。

 と、まあそれはそれとして、大抵のUFOキャッチャーはそうなのだが、やはりここの

UFOキャッチャーも規則正しく、右のボタンがキャッチャーを右移動、左のボタンがキ

ャッチャーを左移動という操作方法である。

 そう、そして、そして超重要でもある、

 真ん中のボタンが……

「あ、さゆりちゃん! このままだと真ん中、押しちゃうって! 前見て、前!」

「え?」

 京が何やら焦った声で後ろにいるさゆりに言った。

 真ん中のボタンは、景品ゲットボタン。

 京の背中がすぐ目の前にあって、まるっきりUFOキャッチャーの姿が見えていないさ

ゆりには、京の言った言葉が一瞬分からず、そのまま手を、本当は右と左のボタンを同時

に押そうとは思っていてもつい真ん中のボタンに触れる。

 そう、真ん中のボタンは、景品ゲットボタン。

   のはずなのだが、

 さゆりと京の手がボタンに触れた瞬間、

「……え?」

 ドゴーンッ

 京の疑問にも似た声は、強烈な爆発音にかき消された。




                                       4


「あ~、イケてたな、今日はよ」

「うん、そうだね、茂也さん」

「そうね」

 《楽園スィーター》の夕刻、茂也の疲労による溜め息まじりの呟きに、美夏と玲は、確

かにそうだと思って相槌を打った。

「……そうかな」

「……ですわよ」

 乗りの悪そうに呟く京とさゆり。

「そもそも、なんで僕らはこんな目に合うことになったんだろうね、さゆりちゃん」

「そうですわよ、京君」

 さっきからいらいらしてたまらない。

 感情の欠如の方が、まだマシではないのか。大袈裟な言い方ではあるが、そう言えなく

もない。

 京とさゆりは同時にそう思った。

「でも、まぁ、いいんじゃねぇのか、怪我したわけでもねぇんだしよ」

 という茂也の同情の言葉も、今は嘲りにしか聞こえない。

 《楽園スィーター》の、中央広場。

 円形の何もない広大な空間、それを囲うようにベンチが幾つかぱらぱらと置いてある。

さらにそのベンチを囲うようにあるのは、色とりどりの花花。

 そろそろここで、《楽園スィーター》一大イベント、巨大花火が行われる。

 その時、客のほとんどが集まるだろうこの広場には、今はまだちらちらと人影が見える

だけで、ひとつのベンチをとっているかれらは、その少数の一部であった。

「……よくないよ、……まったくさぁ」

 茂也の言葉に疲れ切った様子でそう呟いた京。さゆりは彼の顔を見て、自分も実際疲れ

てはいたもののさらに疲れた気分になった。

 今日はあまり、ここ、《楽園スィーター》で楽しむことができなかったような気がする。
 昼を過ぎた時刻で、UFOキャッチャーをやりに行こうということになって京とさゆり

はそこへ行ったことは行ったものの、そこで唐突に起きたハプニングに、一日が潰れてし

まった気さえしたものだ。

 ハプニング。

 いや、ハプニングではない。少なくとも、《楽園スィーター》側の人間にとっては。

 だがしかし、京とさゆりのふたりにとってはそれが、本当に自分たちを疲労させてくれ

た。

 UFOキャッチャー。全国の遊園地でも普及率の低いそのゲーム。そんなUFOキャッ

チャーを数多く取り寄せてある《楽園スィーター》のUFOキャッチャー館。

 近県からも多くの人々が見にくるということで、一日に一台、特殊機を設置しようと、

三カ月程前に提案されてらしい。

 そしてその特殊機に見事巡り会えたのが、京とさゆりであった。

 キャッチボタンを押すと、爆発するという、ただそれだけの仕掛け。

 押した瞬間、何が起こったのかわけが分からなくなるのがスリル満点らしく、ここのと

ころUFOキャッチャーは人気が群を抜いて高くなっていた  らしい。

   のだが、そんなことを全く知らなかったふたりは、死ぬ気がしたんだという。

 まぁ、人体に影響がないためよかったものの、爆発後に、何やら係員らしき人物が数人

やってきて謝罪みたいなのをしていたのを、今のふたりの頭には残っていなかった。

 それほど、びっくりしたのである。

「でも、そんな体験、あんまできないんじゃねぇのか? だってよ、俺たちの間じゃこれ

からは、たとえその特別な爆発するUFOキャッチャーをやったって、仕掛けが分かって

るわけだし、スリルはもう味わえねぇわけだろ? あぁ、俺が初めて味わいたかったな」

「……実際に体験してみれば分かるって。本当にびっくりしたんだよ」

 茂也の笑いながらの話に、京は嘆息した。似たようなさゆりの顔を見てから、茂也は美

夏に同意を求めた。

「やってみたかったよな、美夏ちゃん」

「うん、そうだねっ」

「……おいおい、美夏……」

 美夏がさっきから笑顔でいることになんのためらいもないが、茂也の言葉に頷いた美夏

には、京は引くものがあった。

 と、そんな京や表情の沈んださゆりに気を取り直してもらおうと思い、茂也は話を切り

替えるようにベンチから立ち上がって口にした。

「まっ、とにかくよ、あとは、花火を楽しむっきゃねぇだろ」

 そこまで言ってから、各々の表情を見て、そして再び美夏の目に視線を合わせて言う。

「なっ、美夏ちゃん」

「うん、花火っきゃねぇよな、茂也さん」

「み、美夏っ? い、いつからそんな言葉遣いを…… 」

 その茂也の同意に再び笑顔で言った美夏の言葉に京は衝撃を受けて、それからしばらく

絶句したかと思うと、今度は笑っている茂也を睨んだ。

「茂也……、お前、美夏に変な言葉教えたなぁ 」

「なぁに言ってんだよ、京。美夏ちゃんは吸収が早くて、先生としては嬉しい限りだ」

「……なんか、話がかみ合ってないぞ」

「本当に見ていて嬉しいこと限りなし。なぁ、美夏ちゃん」

「……だあぁ、もうやめろ! 美夏、茂也の話は聞いちゃ駄目だ! 問いにも答えちゃ駄

目だ!」

「ははっ」

 茂也と兄の、何やら争いっぽい話を聞きながら、美夏は笑った。

 兄を馬鹿にしているわけではないが、茂也と真剣ではない洒落になる口論は、聞いてい

て美夏にとっては楽しかった。

(でも、言葉遣いは大丈夫だよっ、おにいちゃん)

 先程、茂也に合わせて口にした自分の言葉に対する兄の反応を思い出して、美夏は付け

加えてそう思った。

 ちょっとばかり、兄がどう反応するのか、見てみたい気がしていたのだ。

 そんなこんなしているうちに、だんだんと日が暮れていき、さっき、ふと見渡した限り

ではあまり見受けられなかった人々も、今では花火のためだろうぽつぽつと現れ始めてい

る。

 広場のところどころにある、数メートル高い位置に浮いている電灯が、遠くの方からだ

んだんと付きはじめた。

 次第にそれは広場まで近づき、見たところ園内の全てにライトが付いただろう、やや暗

くなりはじめた夕暮れの空間が、再び昼のように明るくなった。

「……こういう時って、一番和やかだよね」

 玲が、唐突にそう口にした。

 同時に彼女に対して、そういえばさっきから口数が少なかったな……などと思う美夏。

 ひとり、ベンチから離れたところで突っ立って、夜空  とまではいかないが夕暮れの
空を見上げている玲を見て、美夏はふっと微笑した。

「うん、和やかだし、気持ちいいよね」

 気持ちいい。

 涼しい風が吹き抜ける。昨日の雨が嘘のようだ。

 じめじめとした気味の悪い感覚も、今ではまったくない、むしろ清々しく、気持ちいい。
「……なんか、便所行きたくなっちまったな」

 そんな気分に溺れそうになった時、突然茂也がしかめた表情でそこにいる全員の顔を見

て言った。

「トイレ?」

 美夏が何げなく問い返す。

「うん。しかも『大』」

「んなこと聞いてねぇっつーの、馬鹿茂也!」

 べつにそういった答えを求めていたわけでもないのに美夏の言葉に茂也がそう言ったの

を見計らって、さゆりが茂也の頭を叩いた。

「い、いってぇな。尻の力が抜けちまうだろ! 早く行かんとっ。誰か、一緒に行かねぇ

か?」
                                                      ・
 叩かれた頭を摩って、それから叩かれたせいで一瞬緩んだ力をなんとかもう一度入れ直

して、茂也は全員の顔を見た。

 っと、その茂也と目の合った美夏が、少しの間、もぞもぞとからだを動かして口を開い

た。

「じゃあ、わたしも行くっ」

「お、美夏ちゃんは茂也思いだね、嬉しいよ、先生は」

「自分で言うな、クズ兄貴!」

 と、再び茂也にきつい言葉で言ってから  

 バコッ

「ば、馬鹿! もれるっつーの!」

「もれろ!」

 茂也の尻を叩きつけた。

 その様子に、美夏は思わず笑う。

 そんな三人を見ながら、とりあえず今はいいかと思いながら、

「僕はいいよ」

 京がそう口にした。

 京の言葉に、多少眉をひそめたさゆりは、「もれるもれる」と連呼している茂也の顔を

見て、しばらく悩む。

 そして茂也が危ないなと思った時、

「じゃあ、あたしも行こうかな」

 決めた。

「玲はどうする?」

 さゆりの返事を聞いた瞬間に、茂也はやや離れたところにいる玲の方を向いて、彼女に

問うた。

 茂也の問いに、迷うことなく玲は近寄ってきて言う。

「あたしはいいよ、さっき行ってきたから」

 玲が、さっきまで茂也の座っていたベンチまで来てからそこに座ると、茂也は軽く彼女

に「そっか」と踵を返してから、そばにいるふたりの少女を見て、大声で言った。

「じゃ、行くぞ! さゆり、美夏ちゃん!」

「はいはい」

 さゆりが軽く答えてから、三人は京と玲を残して足早に駆けていった。

 そして小さくなっていく彼らを背中にしばらく眺めていくと、微かだが何かを話してい

るのが聞こえた。

「急がないと先生の尻が危ないからなっ。そう思うだろ、美夏ちゃん」

「うん、尻が危ない危ないっ」

「な、何  そ、そんな言葉は使っちゃいけないよ! み、美夏ぁ 」

 茂也と妹の会話を聞いて、京が、彼らには聞こえないだろうが絶叫した。

「ははっ」

 そんな京の隣に座った玲が、ふと彼を見て笑った。

「……茂也のヤツ、変なことばっか教えやがって。あれじゃたぶん、言葉遣いだけじゃな

いな……」

 三人の姿が見えなくなった辺りで不安そうにそう呟いた京が頭を掻いたのを見て、玲は

息を大きく吸った。

「そ、そうかもしれないね……」

 その言葉に、こちらを向いて苦笑する京を見つめる。

「……あ~あ、茂也のあの軽い考え、もう少し直してほしいんだけどな」

「うん、そうだね……」

 京が、自分の視線が彼の目の位置で静止しているのに気づいて間を塞ぐよう言った言葉

に、玲は相槌した。

 それを最後に、京がベンチに座ったまま夜空を見上げて沈黙を作り上げるのを見てから、
玲は辺りを見渡した。

 広場に集まってくる人が転々と見えるが、そのいずれの話声も、いまでは何も聞こえな

い。

 それから、京と同じように夜空を見上げる。

 本当に沈黙だった。

 それが願いだったわけでもないのだが、沈黙だった。

 その沈黙を崩してくれるように京が口にする。

「夜空って、こんなに奇麗だったっけ……」

「……うん、この空は、奇麗だよね」

 京の言葉に、無理はしていないがあどけない言葉を口にした。

(京ちゃん……)

 玲は、すぐそばにいる青年の名を、心の中で口にしていた。

 そして、ようやくこの時が来たか、心の中でずっと願っていたこのシチュエーションに

感謝する。

 まさか、こんな簡単にふたりになれるとは思ってもみなかった。しかも、自分からふた

りきりにさせてくれ、などと言わないで済んだのだ。

 茂也には、感謝しなくてはならない。

 だがとにかく、茂也を含む三人が戻ってくるまでは、時間が限られている。

(……京ちゃん)

 玲は、ベンチに座っている京を見つめて、心の中でもう一度、彼の名を呟いた。

 多少、時間のことに焦りを感じながらもなかなか口にできない自分に腹が立ったが、と

もかく頭の中が動転して、うまく沈黙を消すことができない。

 だが、

(ここで言わないと……!)

 ずっと思っていた、願っていた、期待していたこの時間。

 今までできなかったことを現にこの場で達成することに、これから何が変わるというの

か。何を得ることができるのか。それによって何のメリットが生まれるのか。

 それは分からない。

 しかし、今までのようにこのまま時と年だけが過ぎていくことに、玲は不安でいっぱい

だったのだ。

 自分の想いを伝えたい。そう、それだけいい。

 玲はそれだけでよかった。

 いや  

(……う、ううん。でもやっぱり、それだけじゃ……)

 だがやはり、それだけでは諦められないものがあるのも、事実である。

 複雑だ。これまでの関係が壊れてしまうという不安がある。

 しかし玲は、もう決意していたことに戸惑う余裕はなく、そしてそんなつもりもなかっ

た。

(……うん、伝えるんだ)

 心の中で強く思いを描き、そして自分に強く、はっきりするよう言い聞かせる。

 玲は目を瞑って、夜空を見上げて純粋な笑顔をしている京を見つめて、大きく、長く息

を吸った。

「ね、ねぇ、京ちゃん」

「ん?」

 唐突な呼びかけに、京が、夜空を見上げたままだからだろう顎を上げたままこちらを向

いた。

 ベンチの上にいる自分と、そして同じようにベンチにいる、自分の慕う青年。

 ふたりの距離が、小さく思えて、それが彼女に、安心と、勇気を与えた。

 自分をごまかすのは、もう嫌だ。今まで、いざという時に何かとおかしなことを言って

避けてきたことが、幾度かあった。

(もう、そんなのは嫌なんだ……)

 玲は、過去を振り返りながら、こちらを見てくる京を見つめた。

 そして数秒、目と目が合わさった、何の音も聞こえない空間に至福を感じた。

「ど、どうしたんだ、玲?」

 一旦、目が合いすぎたような気がして気を紛らわせて逸らした京が、そう言ってもう一

度、今度は気軽に見てくるのを、自分はじっと、ずっと見つめる。

 そして京がそんな自分に気づいてか、数瞬前に苦笑した顔を、真剣なものへと変えたの

が視界に入って、玲は息をもう一度吸った。

「……玲?」

 京が、その様子を見て問うてくる。

 玲は、ゆっくりと口にした。

「京ちゃん、あたしね、今まで、ずっと好きだった人がいるんだ」

「……あ、ああ」

 玲の、ゆっくりとした、落ち着いた口調を目の当たりにして、京が真剣に頷いた。

 急な話だったのだろう京は一瞬焦ったが、なんとか平常にしている。

 京の目をずっと見つめて、玲は胸の高鳴りに耐えられなくなりそうでも、もう動き出し

てしまった自分に、今までのように歯止めをかけてはいけないと言い聞かせて、そして続

けた。

「その人とはね、高校の入学式の日に出会ったんだ。いつも、いつも微妙な態度しか取っ

てくれなかったその人に、あたしは、ずっと運命、感じてた」

「…………」

 京は、何も応えなかった。

 だがそれでも、真剣な表情で自分の話を聞いてくれていることと、そして目はこちらの

目をじっと見つめてくることに安堵する。

 玲はベンチから立ち上がると、夜空を見上げた。

 美しい星が、自分と、そしてそばにいる青年を照らし出す。

 過去を思い出すように玲はさらに続けた。

「あたし、その人とは楽しかった想い出しか、ないんだ。一緒にいるだけで幸せで、もう

何もいらないんだよっ。その人とそばにいれるだけで、心が満たされるんだ」

「……そうか」

「夏休みにさ、あたし、事故に合ったんだ。車にひかれて、全治三カ月くらい。あたしが

原因だったのに、その人は自分のせいだって言って、一週間だけだったけど、毎日そばに

いてくれた。ひとりで寂しかったんだ……。でも、その人がいてくれて、あたしは本当に

幸せを感じたんだ」

 玲は、かつてあったその想い出の中の一部分を繊細に思い浮かべてみた。そして、無意

識に綻んでしまう顔に、ただそれだけでも心が暖まる。

 夜空を見上げたままの姿勢を崩して、ベンチに座っている京が、いつの間にか立って後

ろに立っているのに気づく。

 玲は、じっと、複雑な表情で見つめてくる京の目を見て、そして深呼吸をして、バクバ

クという心臓音に気を取られる余裕すらなく、口にした。

「……きょ、京ちゃん、言いたいこと、分かる……よね?」

「……ああ、分かるよ」

 京のその返事。聞こえは暗そうだが、今は優しく聞こえたその言葉を胸にしてから、玲

はさらに大きく息を吸って、夜空を見上げると、京に、言った。

「……京ちゃん、あたし、あたし、ずっと、ずっと京ちゃんのことが好きでした。あたし

と……、あたしと付き合ってください……」

(……言えた)

 言えた、言えた。その言葉が脳裏に漂う。

 額に汗すら流れるのに、相当に緊張していたことに気づく。

 ようやく果たせた。

 玲は、自分の今行った行為に対して満足感とともに、だがそれだけでは終えられないと

いう思いにかられて、黙ったままの京に見入った。

「…………」

 唐突だったかもしれない。今まで、ずっと、親しい友人として付き合ってきたのだから。
 だがそれでも伝えたかったのだ。

 京の返事が、待ち遠しかった。

 その、長く、何もない、何も変わらない時間が終わったのは、結構あとのことだった気

がする。

 京は、微かな微笑みを浮かべて、口を開いた。

「玲……。そっか、そんなに僕のことを想っててくれたのか……」

 そこで一旦言葉を切って、京は、今までの玲のように大きく息を吸った。

 そして不安げに見てくる玲の目を見て、笑った。

「ありがとう。すごく嬉しいよ。ちょっといきなりだったから戸惑ったけどさ。でも、本

当に嬉しいよ、玲の今の言葉聞いて」

「……え?」

「まさか玲が、僕のこと、そんなふうに思ってるなんて、知らなかったから……」

「じゃ、じゃあっ」

 京のその言葉を聞いて、玲は答えを聞いたような気がした。

   というより、その言葉自体、答えになっている。

 玲は、今まで高鳴っていた胸が、今度は高踊りになっていることに気づいた。

 そして、続けようとする京の目をまじまじと眺める。

 胸が、熱い。

 今まで、告白のために培った胸の熱さが、馬鹿みたいに思えるほどに熱かった。

 玲は、胸の中で跳ねて跳び回る何かを、そのまま踊らせた。

   が

「玲の気持ち、すごく嬉しいよ」

 京のその、笑顔だが再度繰り返す口調と言葉に、玲はただならぬ不安を感じた。

 家の中でひとり、TVを見ることが多かった玲。

 その中でも、恋愛ドラマはよく見ていた。

 それに憧れてもいた。いつかは、自分もこんなドラマのヒロインになってみたい、と。

 そして今、実際に恋する相手に自分の気持ちを伝えた時、ドラマの中の主人公が、その

時何を思うのか、かれらの気持ちが分かったような気がした。

 だが同時に、ドラマの告白の時、よくある失敗も思い浮かべてみた。

 今の京の言葉が、玲の胸の高鳴りを潰していった……。

「……京ちゃん……?」

 今まで玲は、まず、告白することに思いを注いできた。

 だが同時に、その答えとなる、目の前の青年の返事に、ある期待も持っていた。

   もしかしたら、京ちゃんもあたしのコトが好きなのかもしれない。

 その期待と、今までの思いが同時に頭の中にのしかかってきた。

 玲は、不安な気持ちのまま、京を見つめた。

 その京が、笑顔のまま、続ける。なんとなく、先が予想できた……。

「でもそれは、玲の気持ちに応えることとはべつだ。僕は、玲に応えることはできない」

「……そ、そんな……」

 ずきっと来た。そのままその音で胸に響いた。

 だが玲は、衝撃の思いの次に、それでも京の言っていることに対抗するという考えが自

然と浮かんでいた。

 それが、なぜかだんだんと感情を高ぶらせる。

 そう、なぜだか急に胸の中と頭の中を高ぶらせてきた。

「……なんで? なんでなの?」

 告白する前は、もし、仮に京が断ったとするのなら、それはすなわち、自分に対する思

いはないということですんなり諦める気持ちがあるにはあった。

 だがしかし、実際にこうして京の答えを聞いてみると、玲は無性に耐えられなかったの

だ。

 そんな玲の問いに、京は、今度は彼女の方は向かずに、夜空に浮かぶ、集団で固まって

幾つもある星、その中から離れてあるふたつの星を見上げて、自分の気持ちを確かめるよ

うに口にした。

「想う人が、いるんだ」

「…………」

 その言葉に、玲は肩の力を大きく落とした。

 愕然として見つめる視界の中に、自分とは違う女性を想う青年の姿が映る。

 彼に自分の全てを見つめてもらうことができないという、強く悔しい思いが創造される。
 そんな京は、ふたつの小さな星を見上げたまま続けた。

「想う人……とは違うかもしれない。大切な人、なのかな。自分でも、よくは分からない

んだ。好きなのかも、はっきりとは分からないんだ……」

 そんな京の言い草に、玲にはだんだんと、悔しい思いが膨れ上がって怒りにも似た感情

が込み上げてきた。

 その玲の感情には気づかずに、京は続けた。

「……だからこそ、玲と付き合うことはできない」

「……なんでよ」

 最後の、はっきりとした京の返事に、玲は逆上していった。

 そうしたいと思ったわけではない。冷静な心が、まるっきりなくなってしまった。

(……なんで? なんで京ちゃんはあたしのことを受け入れてくれないの…… )

 心の中で、泣いている。

 表面上、京が前にいるため我慢しているが、心の中が、目茶苦茶になっていた。

 嫌な女にはなりたくない……。

 だが、玲は、繰り返すように口にした。

「……だったら、なんで、なんで駄目なの?」

「……本気じゃなかったら、誰だって付き合えるよ。でも、僕はそれは嫌なんだ」

「でもあたしは本気だよ 」

「僕が、違う」

 玲は、顔を崩していきながらもなんとかそれを我慢して、今では苦い顔をした京の言葉

に痛く、痛く思った。

「玲。玲のことは、好きだよ……。でも……」

 玲はその京の言葉を聞いて  いや、聞こえていなかった。少し前から、頭の中に人の

声が入らなくなってきている。

「なによ……。なによそれ!」

 熱い。熱くてたまらない。

 悔しさが、胸の中をしめてくる。

 その悔しさが頂点に行き届こうという時点で、玲は、京につかみ掛かった。

 その時、玲の脳裏に何か、特別なものが舞い込んだ……。

 自分より幾らか高い京の胸をきつく叩く。

「あたしじゃ……あたしじゃ、駄目だって言うの…… 」

「玲……」

 京のその小さく自分を呼ぶ声と同時に、玲は彼を押し倒していた。

 彼女の感情が、壊れた……。

「どうして  今までずっと一緒だったじゃない…… 」

 花火の時間が近づいていることを知っている人々が、だんだんと中央広場に集まる。そ

の中の幾人かが、自分たちのことを何かと思って見てくるが、そんなことはどうでもよか

った。

 いや、もうどうでもよくなっていた。周囲の光景など目に入らなくなっていた。

 それよりも、自分が何をしているのか、玲は悲しく思った。

(……あたし、何を……何をしてるの…… )

 告白をした相手の首を、締めているのだ……。

 体が勝手に、彼の首を締め続ける。

 ただ……ただ、振られたというだけのことなのに  そしてそうなる可能性がないわけ
ではないと、自分に言い聞かせていたというのに、今の自分は、何をやっているのか。

(やめてよっ! 京ちゃんに何すんの )

 心の中でそう思っても、玲の体は勝手に行動していた。

   殺せ……。

(……え )

 唐突に、声がした。

 いや、今はそんなことはどうでもいい……。

「玲……、すまない……」

 京が苦しそうにそう口にするのが分かった。

(な、なんで京ちゃんが謝るの  いけないのはあたしだよ!)

 声が、出なかった。

 だが、抵抗しようとしない  というより何もしようとしない京に、心だけはべつに、
玲の体と感情に、益々どうしようもない思いが襲った。

(……京ちゃん!)

 心の中ではそう思っても、体が勝手に、何も抵抗しようとしない彼の首を締めている。

 京が、きつく目を瞑った。

「玲……」

 玲は、きつく締められてもまだなお自分の名を口にする京を、さらに締め続けた。

 そしてそんな京を見ていると、頭の中のどこからか、もうひとりの自分の声がした。

   京ちゃんを、殺せ……。

(……な、なに言ってんの  あたし……、何を言ってるの )

 頭の中から騒ぎ立てる言葉。

 今、その言葉が、自分の思っていることではない。

 そんなことがあってたまるか、玲の心が頭の中から聞こえたその言葉に対抗すべくそう

響いた。

 だが、それが感情を引き立てる。

 感情が、心についてこない。感情が、頭の底から聞こえたその言葉に味方するように京

に対する怒りに燃えていた。

 体も……、勝手に京を死に追いやろうとしている。

 っとその時っ、

「おっ? なんだなんだ? なにやってんだぁ 」

 遠くから、トイレから戻ってきたのだろう茂也の声が聞こえた。

 薄暗いためまだあまりはっきりと姿形が見えないが、その後ろにふたりの小柄な人影も

見える。

「……おにいちゃん 」

 まだ、玲が何をしているのかに気づいていないのだろう、だが疑問に思いながら走って

やってくる美夏。

 そんなふたりと一緒に駆けてくるさゆり。

 三人の、自分たちの名を様々に呼びながら近づいてくる姿を見て、感情から解放された

玲はようやく京の首から手を放した。

 玲はその後、しばらく呆然と立ち尽くしていた……。

 横たわった京がまったく動かなくなったのを見て、そして今までその原因となっていた

自分の両手を見た。

 それから玲は、何も周囲に気を配れなくなっていた。

「玲、なにやってんだ 」

「おにいちゃん! おにいちゃん!」

 茂也や、その妹のさゆりや、今し方、自分が首を締めていた京の妹が、自分や、倒れて

いる京に対して口々に叫んでくるのに耳を傾けることも、できなかった。

(……な……なんてことを……。……京ちゃん……、ごめんね、ごめんね。あたしは……

もう……)

 本当はこんな……、断られたからといってしつこく迫るつもりはなかったし、ましてや

京の首を締めるなんて……、そんなつもりはなかったのに。

 体が勝手に動いたなんて、他人から見ればただの腐ったいいわけにしか過ぎない。

 玲は、途中から囁いてきたもうひとりの自分の声を思い出した。

   京ちゃんを、殺せ……。

 自分の心の奥底には、そんな思いがあるのか?

 最初はただ、自分の想いを伝えようと思っただけなのに……。

 なぜ、なぜこんなことをしてしまったのだろう。

 京が、好きではなかったのか。

 仮に、首を締めるとまでいかなかったとしても、あそこまで感情を高ぶらせて京につか

み掛かったのは、自分自身、本心からだ。

 振られたからといってそんな最低なことをしたんじゃ、京が自分のことを好きになって

くれるはずがない……。

「……うぅ」

 玲はこの時になって、はじめて涙を流した……。

 悲しさのせいなのか、悔しさのせいなのか、後悔のせいなのか、分からなかった。

 それら全てだったのかもしれない。

(京ちゃん……)

 最後に心の中に木霊したその名が、痛かった……。

 今朝、もうやんでいたはずの雨が、降り始めていた……。

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