2017年2月19日日曜日

兄妹の苦難 第四話





                     第二話 動き出す者


                                       1


「……となることは、言うまでもない。分かるだろ」

 彼女は教壇に立っている老人を見て、それから今座っている椅子、そして手前にある長

机の上に置いてある幾つかのテキストとそれに関連するイラスト集などを眺めて、しばら

く自分の世界へと入っていた。

「そしてここが……」

 そのためだんだんと薄く消えていく教壇にいる教授の話。

「……あたしは」

 声にしていた。それが誰かに聞こえていようといまいと、彼女にはどうでもよかった。

 仮に聞こえているとするのなら、さらにその誰かが自分のために何かいいアドバイスを

くれるとするのなら、どちらかというと都合がよかった。

 だがそんな期待をしていたわけでもないし、そんな者がそばにいるわけでもない。

 彼女は、ふいに空しさを感じた。

   なんで自分はこんなところにいるんだろう。

 いや、もっと正確に言うのなら、なぜ、自分はこんな大学へと進学してしまったのだろ

うか。

(……バカみたい)

 その思いが唐突にも現れ始めたのはいつのことか。本格的な講義を受けた、次の日辺り

だったような気が、今ではする。

 それからはいつも、こうして彼女はぼんやりと、今、こうして自分が大学に入って講義

を受けていることに疑問を感じた。

 医学部へと入った。

 そう、医学部へと入った。

 それはなぜなのか。自分でも分からなくなっていた。

 いや、分かってはいた。だが、それは自分の意志で医学部に入りたいと思っていたわけ

ではない。医学部に入ることで、必然的に自分に利益となるものがあったため、こうして

彼女は医学関係の講義を受けて、それから毎日毎日実習をして、家へ帰る暇もなく大学の

教室で勉強を重ねた。

 だが、その利益となるものを失った。

(……ははは)

 自分で、そうやって興味もない医学の勉強をして毎日を何も感じることなく一カ月過ご

してきたことに、心の中で笑ってしまった。

 だが同時に、そんな自分に腹が立ってきた。

 こうして、こうして、なんのために勉強などをやっているのか。いや、それはそれでひ

とつの知識となり、将来、役に立つかも分からない。そんなことは分かっている。

 だが、彼女はこんなことをやるために大学へと進学したわけではないのだ。

(……それなのに)

 それなのに、今ではつまらない大学生活を強いられている。それでも、自分はそれにめ

げることなく、毎日しっかりとやってきた。

 いや、めげるとかそういう問題ではなった。

 もう、どうでもよかったのだ。何もかもがどうでもよくなっていた。

 だからこそ、こうして無心でこんな勉強などをしていられる。

「…………っ」

 だが、それでいいのだろうか。こんなことをしていても、今まで自分が求めて、そして

憧れていたものを無残にも捨てていいのだろうか。

 大学四年間という時間は、今の彼女には大きい。

 その間に、彼女の一番恐れていることが起こり得る可能性がある。それはこうしてひと

り、自分だけ大学などに入り、そしてやりたくもない講義を受けているために起きてしま

うことだ。

「……おいっ」

 ならば、自分は今、何をすべきか。

 せっかく入った大学をやめてしまうのか。

「聞いているのか、お前」

「  え?」

 彼女はようやく自分に向けて発しられた注意に気づいた。

 考えに夢中だったため、目を閉じてしまっていたのだろう。

 教授は教壇の上から彼女を指さして、大声でそう言った。ところどころにいる、この講

義を受けにきた学生も迷惑そうに彼女の方を向いて何やらぼやいている。

「寝るのなら、出て行け」

「…………」

 その教授の言葉に、彼女はしばらく押し黙った。

 教授の言ったその言葉が、妙に彼女の心を揺らしてくる。ある程度厳しい教授なら極当

たり前とも言えるその言葉、そして確かに、眠るくらいなら出る必要などないとも言える

その言葉。

 だが、彼女にはその言葉が、本当に心の中で響いていた。

「…………」

 しばらく黙ったままの彼女に苛立ちを感じたのか、教授がもう一度口を開こうとしてい

るのが分かる。

 自分の中で揺らぐ心……。

「……だから嫌なんだよ、若い者は。早く出て行け」

 老いた教授のその投げやりな言葉。

 今までの自分の心の中での葛藤。それとともに、巡ってくる不安。

 今の老人の言葉だけではないが、一カ月近くも悩んだ末、彼女はこの時、決心した。



 朝の日が、まだ完全に昇りきっていない、すがすがしい時間……。

 掃き掃除。窓ふき。花の手入れ。

「美夏、今度はそっちお願い」

「はいっ」

 少女は店内の至るところを見渡しながら、そう言われると今度は指示されたところへと

駆けつける。

 それから今やっている店内汚場所清掃を続けて、自分の任務をまっとうしていった。

「……あと、一時間くらいかな」

 そう呟いた少女  美夏の一日の仕事の始まりは、上記。そして終わりも上記。

 美夏は、自分の身につけているエプロンをみやった。

 小柄な自分でも合うよう小さめのサイズのものを頼んだのだが、何かの手違いでやや大

きめなものを着ることになってしまった。まぁ、それはそれでそこまで仕事の邪魔になる

わけでもないためあまり気にはしていないが。

 それよりも、そんな、サイズこそ違うが仕事をしているという証でもある自分のエプロ

ンが、今では誇りにも思える。そして、ただそれだけで嬉しい。

 四月の春真新しい時期もそろそろ終わりを迎え、そして今は、だんだんと暖かくなる日

の日差しを心地よく感じることもそろそろできないだろうか、などと思える時期へと差し

かかるような、そんな時期。むしろ言うならば、季節の変わり目か……。

 新しい時期を迎える少し前、緊張と不安を感じながらも仕事を始めて早三カ月。

 スコール通りと呼ばれる、紋別町でも犯罪の少ない穏やかな地域、手富渡の有名な通り

から脇道を通って少しだけ歩いたところにある、三階建ての二階に位置する花屋・ホーソ

ーン。

 そこで働くのも、だんだんと慣れてきた。

 職場の雰囲気は、まず、外からの光がほどよく入ってきて暖かく、その光によって反射

されるそれぞれの花についている初々しい水滴が心を和ませ、従業員の人々も優しく楽し

い人が多いので、明るさでいっぱいだった。

 そんな職場へと来るのが、そしてそこで働くのが美夏にとってはとてもいい気分転換で

あって、仕事を辛いと思うことはあるもののそれでも楽しかった。

 広い店内の外壁とも言える壁のほとんどには窓があり、そこの、指示されるの部分と汚

れている部分を濡れた雑巾で拭いていく。

 ところどころ、毎日のように何かの汚れがついてしまうことが、客や店員にとっては嫌

なものの何者でもないが、だが逆に美夏にとってはそれが自分の仕事の元となって、そし

てそれをすることに嫌なものはあまり感じないので、むしろ好感が持てるほどだった。

 まだろくな仕事はさせてもらえなく、そして今やっている雑用は楽しいと言えば嘘にな

るが、自分にはちょうどいい仕事ではあったし、大変な花の搬入や、それに関する仕事が

ないだけ楽なのかもしれない。

 だが、そんな美夏にも不満に近いものがあった。

 バイトの先輩方へのお茶入れ。

(なんでそこまでさせられるのかな)

 苛立ちこそ感じないものの、まるで社内のOLのような気分がしてならなく、べつにそ

れが嫌だったわけではないのだが、バイトの人にそこまでしなくてもいいのではないか、

と思ったりもした。

 しかも、自分も一応はバイトの人間なのだし、毎日毎日休み時間になると自分だけお茶

を入れなければならない。

 そんな規則のようなものを、誰が考えついたのか。それは、自然になってしまったもの

なのかもしれないが、店長の、自分の大好きな梶野老人が考えたものだと思うと、少しだ

け心が痛かった。

(けど、今はそんなことを考えてても仕方がないからね……)

 と、まあそれはそれとして、今は自分の仕事に集中しなければならない。

 それだけを考えて、同時に、しっかりと花屋らしい仕事をさせてもらえるよう頑張らな

いと、……そう美夏は思って窓拭きを続けた。

 今日は開店してから間がないこともあって、まだ客入りは少ない。

「いらっしゃいませ」

 そんな、まだ人の少ない空間に新たな客が来た。その客に挨拶をしたレジにいる店員が、
その後、「あ、おはよう」と付け加えるのを耳にしてから、美夏は「知り合い、か」など

と思いながらもその客の方は見ずに、ひたすら窓拭きに専念した。

 と、直後、そんな美夏の背後に人影  おそらくは今し方やってきた客だろう気配を感
じた。

 それからしばらくその気配は止むことなく、ただじっと息をひそめているような感じさ

えしたので、美夏は何かと思いつつ後ろを振り返った。

 そしてはっとして叫びにも似た声を発した。

「  あ、おにいちゃん!」

「やっ、美夏」

 そこには笑顔で美夏を見つめていた、彼女の兄  京がいた。

 それから京は、中腰で窓を拭いていた美夏に合わせるように自分も腰を曲げて、隣に寄

ってきた。

「やってるね」

 そう言うと、京は美夏の拭いている窓、雑巾の触れている部分にふっと息をかけた。

 そんな京を隣にして見ながら、美夏は手を休めた  というより、止めたまま口を開い
た。

「うんっ。……けど、どうしたの、おにいちゃん。今日はお休みでしょ?」

「そうだよ」

 それを聞くと、美夏は少しだけ顔を赤らめてから、やや俯いて言った。

「……じゃあ、わたしのこと、見に来てくれたの?」

「うん、まあね。しっかりやってるみたいだから、何も言うことないけど。似合ってるよ」
「……えへへ」

 赤面のやまない美夏が、それを隠すように強引とも言える動きで手を動かすのを見てか

ら、京は店内の様子を見ていった。

 二月の初旬、かれら兄妹がここの花屋で仕事を始めてから、ふたりがともに働く時とい

うのは少なかった。というより、近くにいる時というものがない。

 美夏の雑用とは打って変わって、京の仕事は花の搬入だ。

 まぁ、毎日というわけでもないが、ふたりが店内で顔を合わせるのは限りなく少なかっ

た。

 そんなふたりは、互いが互いに相手の仕事を見ることも少ない。

 美夏は、兄が自分の雑用ではあるが仕事を見にくることに、兄妹という関係としてバイ

トの先輩方に見られていても、そんなことを意識することがなかった。

 そしてそれとはべつに兄に見られることが恥ずかしくもあったが、なんとなく心温まる

ものがあった。

 そんな兄は、今日は契約日ではなく、日頃の疲れを休むために家で休んでいるはずだっ

たのだ。そんな京がこうして店に顔を出してくることに疑問があったのだが、今の兄の言

葉は嬉しかった。ただ、純粋に。

 と、そんな京が、窓を拭く手の止まらない美夏から視線をずらして立ち上がった。

「けどさ、今日は客としても来たんだ」

「え?」

 美夏はそう言った京に、よくよく今までのことを考えて驚愕さえした。

「お客さん……?」

「うん。たまには客にもなってみようかなってね」

 そう言って店内を見渡す京を尻目に、美夏は雑巾を窓の上で動かしていくのだが、その

内心は驚きでいっぱいだった。

 客……。そう、花屋で働いてはいたものの、いまだかつて花というものを買ったことが

なかった。

 むろん、客として花屋へ足を運んだこともなく、それに対する興味というのがなかった

わけでもなかったのだが、それがなんだかおもしろい言葉に美夏には聞こえたのだ。

「……お客さんかぁ」

 兄の、べつに富んだ発想でもなんでもないその言葉に、美夏はそれだけですごく新鮮に

思えた。

(わたしも、お客さんになってみようかなっ)

 今日は無理だが、いずれそうしてみようと思う、美夏であった。


                                       2


「ほら、これ」

「へぇ、やっぱり明日は入れないんだね。わたしも入れなかったよ、ほら」

 京から受け取ったタイムカードを見て、美夏は自分のを見せた。

 ある日の夕刻、一日の仕事も終わって  普段は大体夜までやるのだが、今日は気分的
に早めに上がったのだ  、美夏は炊飯器の炊飯終了の音が鳴り終えるまで休むことにし
て、兄とこうしていつものお気に入りのソファーに座っているのだ。

 TVの音はいつも小さめ。見ていない時もつけている。なんとなく、そうしていると不

安が消えていく。

 そんなTVの中からの人の声を聞いて、美夏は兄のこれから一カ月間の仕事の時間を見

ていった。

 大体、前の月、前々の月と変わらない。

 というより、あまり変動のないようにしているようだ。いや、それよりもこれが一番の

時間なのかもしれない。

 週四回は最低でも働いている。自分もそうなのだが、毎日毎日は、さすがにまだ疲労を

感じるのでやむなく避けているのだろう。

 時間も日によって変わるが、八時間くらいやるのだろうか。この兄の時間に対して自分

の時間の少なさにちょっとした、複雑な心境ではあるが、無理はよくないことは分かって

いるし、それに兄もそう言ってくれる。

 何より、お金に困っているわけではない。というか、正直いってこんなに働かなくても

今のところは全然生活には余裕である。

 今は仕事の関係でニューヨークにいる、ふたりの両親が仕送りを月に何万もしてくれて

いるので、むしろ仕事などしなくても大丈夫な状況ではある。

 だが、それに頼り切っているようでは、将来的にまずいことが分かっており、それに今

から働いておくことも自分の身になると、兄とともに自分も思う。

 だからこそ美夏は、兄と職をともにすることで働くということを実際に体験しておこう

と思ったのだ。

 高校を卒業してからというもの、大学へと進学しなかった京にとってはそれはなおさら

言えることだ。もう、学生という甘い身分ではない。

 自分から生活をしていかなければならない。それに対する意識というものは、彼には十

分あることを、美夏はいつも触れ合っていて分かっている。

 それ故、安心もできる。

 自分たちのこれからのことをしっかりと、そして具体的に頭の中に計画やらを立ててい

るわけでもないが、それでもこうして普通に、平凡に生活していけることに幸せを感じる。
 美夏は、自分の座っているソファーの隣で、同じ型のソファーに座って自分のとあまり

変わらないだろうタイムカードを見ている京を見て、無意識に微笑んだ。

 ついで、

 ピーッ

 炊飯器の音が高高く鳴った。

「あ、ご飯できたっ」

「みたいだね」

 京の軽い相槌を受けて、美夏はTVの音から遠ざかるがごとくキッチンへと向かった。

 京は、キッチンへと歩く美夏の方を見てから、満足したのか美夏のタイムカードを自分

のと重ねて棚の上へと置いた。

 それからキッチンの美夏をもう一度見て、少しの間考えてから、ご飯を盛ろうとしてい

る美夏のところまで行って、それに何かと思って見てくる美夏に頷く。

「ご飯くらいは、兄ちゃんもやるよ」

「え? どうしたの、突然」

 それを聞くと、京はまた少しの間考えて、苦笑した。

「……やっぱりさ、食事の準備くらい美夏に頼ってばっかりじゃ、駄目じゃないかなって

思ってさ。なんか兄ちゃんさ、家のこと全て美夏にやってもらってるから……、それなの

に仕事は美夏もやってるなんて、兄ちゃん、最低のような気がしてきたんだ」

「……おにいちゃん。べつに、わたしは全然平気だよっ」

 美夏は、唐突に言い出したその京の言葉に驚きながらも、そして言葉にしたとおりに自

分が家事をすることに不満はなかったし、兄は今までどおりにしてくれればいいとも思っ

た。

 だが、

「いや、やっぱり美夏もこれからは仕事で大変だから、兄ちゃんも少しずつだけど手伝っ

てくよ」

 だが京がそう言ってくれたことは、内心ではすごく嬉しかった。加えて自分のからだの

ことを気遣ってくれるのが、同居していれば当たり前で、そしてそれが同居する者にとっ

て必要なことでも、美夏にはとても嬉しかったのだ。

「うん」

 美夏は笑顔で頷いて、それから京に、食器だなから茶碗を取り出すと手渡した。

「あ、そうそう、明日、休みだけど、ちょっと茂也とホーソーンに行ってくるよ。カフェ

の方にね」

 京の言葉を聞いてから、美夏は、先程、京のタイムカードを見てから考えていたことを

瞬時に思い出して、同時にそれに対する考え  というより予定を打ち消した。

 次いで、それを表面に出さないようにしながら相槌する。

「あ、そっか……。う、うん、分かった。……お話でもするの?」

「ま、そんなところかな。あまり遅くならないようにするから」

「うん、分かった……」

 そんな自分の対応に気づいてか気づかなかったのか、京は「ごめん」などと言い、茶碗

にご飯を盛っていった。

 そんな、すぐそばの兄を見ながら、美夏はなんとなく微笑んでしまった。

(ま、いっか。休みなんていつでも取れるしね)

 明日は自分はどうしようか、そのことに集中しながら、同時にやっぱり疲れたから一日

中休もう、などと思って食事の支度に向かう美夏であった。

「おにいちゃん、冷蔵庫から今朝のお漬物、取ってみて」

「『みて』……か。まだまだだってことだね、兄ちゃんは」

「へへ」

「けど、これからは変わるからね」

「うん」

 何げない食事の支度中での、極普通の会話。それだけでも楽しめるのが、兄妹の喜びで

もあった。

 キッチンにいるそんなふたりを尻目に、隣の部屋のTVから流れる、微かな人の声。

 画面からすると、ニュースなのか、人物の姿が三人ほど映し出されている。

 いづれも陰険な表情だ。そんな男たちを解説するように、TVの中からは微かな人の声

が囁いていた……。

「麻薬所持及び強盗殺人の容疑で全国指名手配中の凶悪……」

 だがふたりには、それがなんなのかという疑問以前に、ふたりが互いに話をしているせ

いか聞こえていなかった。



「ふぉっふぉっふぉっ」

「……なぜ笑うのです」

 花屋・ホーソーンでの、夜のひととき。

 店長室で、梶野はいつものように、いつもの人物と話をしていた。

 一日の売り上げを中心に、店の向上から、とりあえずこれからのホーソーンのことにつ

いて、会議のごとく話をしていくのだ。

 それが夜のこの時間。従業員のほとんど  いや、梶野自信と、それから今話し合って
いる人物を除けば、全員、もう帰っている時間である。

 そんな静かな夜のこの時間。店長室ではいつものごとく、梶野としてはあまり興味のな

い話を、こうしてしているのだ  が。

「俺はどうしても気に入らないんです」
                                                                          さ さ き

 花屋・ホーソーンで、店長の次に、まぁ単純に偉いとされているマネージャー・佐々木。
 マネージャーとしてはまだ若い男で、二十五前後であろう。身長を含めて、見た目は小

さく、幼く見られがちではあるが、店の運営のほとんどを彼がこなしていることもあって、
実際の彼を知る者はそれなりに評価もしている。

 そんなマネージャー・佐々木が、いつものように店のことについて話をしてくるのかと

思えば、そして実際にいつもの変わらない、梶野にとってはつまらない客入りや取り入れ

る花の種の話をしてきた、だが今日はちょっと違った話題も提供してきたのだ。

 店長椅子に座って、机を挟んで向かい合っている佐々木が怒りに近いものを感じている

のが、梶野には分かった。

 そして、そんな梶野を責めるように佐々木が続ける。

「なんであんな子供まで働かせるのです! バイトの人間も、もう十分に足りていたとい

うのに、……だというのに。それにかれらがいなくても仕事はもう十分にこなせているの

ですよ。赤字以外のなんでもないじゃないですか!」

「ふぉっふぉっふぉ」

「『ふぉっふぉっふぉ』じゃありません!」

 梶野はとりあえず自慢の笑いをしてから、だがそれに文句をつけられてしゅんとする。

「でも、でものぉ。あの子らはいい子だぞぉ。わしはやめさせたくはないぞぉ。しっかり

と働いてくれてるしぃ」

「まぁ、確かに働きぶりは他の者に比べれば言うことはありませんが……」

「だろぉ? それに契約した時間はしっかりと出てることだし、週に一日くらいしか入れ

ないで、さらにそれを休むバイトさんもいるようじゃないかのぉ。そういうのに比べたら、
こっちとしても助かるじゃないのかのぉ」

 それを聞いてから、佐々木はしばらく黙り込み、そして俯き、だがそれでも梶野に対抗

するように口にした。

「……ですが、俺は納得しないんですよ。何より、兄はまだいいとして、妹の方が若い!

……納得いきません。バイトを捜してる人間が世の中にはたくさんいるというのに」

「だが、年齢は関係ないだろぉ。それに、十五歳くらいでも働いてる子はいるぞぉ。十四

歳なら、べつにいいと思うんだがなぁ」

「……店長! ……くっ」

 梶野のたらたらした口調と、それに合わせたようなたらたらとした動きに、佐々木はこ

れ以上言っても無駄だということを悟り、そして一応は一日の店の状況も話終えたため、

立ち上がった。

「ですが、かれらはやめさせるべきです……」

 そうとだけ最後に呟いて、佐々木は「失礼します」と言って店長室から足早に出ていっ

た。

 そんな佐々木を遠目に眺めて、なんとなく佐々木が何かしそうな気がしながらも、梶野

はゆったりと椅子に座って、誰も聞いてはいないだろうが、気楽に笑顔で口を開いた。

「ふぉっふぉっふぉ。佐々木くんも心が狭いのぉ~。ふぉっふぉふぉっ!」

 それは、今までにない大笑いであった。


                                       3


「ご注文をどうぞ」

「えーとね、アイスコーヒー×2でお願い」

「……アイスコーヒーがふたつ、ですね。以上でよろしいでしょうか?」

 若いカップルからの注文をしっかりと書き留めて、彼女は足早に戻った。

  店内にいる客のほとんどが、十代半ばから、二十代前半くらいの女性だ。ところどころ

男性の姿も見受けられるが、見たところその全てが女性の付き添い、といった感じである。
 とまあ、昼間のほとんどがそんな状況である。

 この時間はまさにそれで、お昼の休み時間か何かに、とりあえず休みに来ているOLな

んかが主流であると、彼女は思っている。

「すみませーん」

「はーい」

 再び、店員を呼ぶ、おそらくは注文が目的であろう自分ら、もしくは自分を呼ぶ声がし

て、彼女は、ウエイトレスの中でも空いているのは自分だけだと判断すると、早歩きに出

口付近にある客席にいるひとりの若い女性のところへと向かった。

「はいっ、ご注文をどうぞ」

 その女性のところへ着くや否やそう聞いて、彼女はその客の顔を見た。

「  ?」

 どこかで見たような  などと思いながらもとりあえず自分の仕事をまっとうに笑顔の
まま注文を待つ。

 と、そんな彼女の疑問にも似た記憶を肯定するように、その客は聞いてきた。

「あ、あの、祐里さん、ですよね」

 その問いに、これからどういった話をしてくるのかという疑問が先走りながらも、彼女

はほんの数秒沈黙した。

 対角にふたり座れる椅子に、それを両脇に小さなテーブル。

 その片方の椅子に座っているのが、その小柄な少女だ。

 セミロングと極一般に言われる髪の長さを考えると、きわどいところでやや長めなその

髪は黒髪ではなく、やや自然に茶色をしている。おそらく自毛だろう。

 自分よりもどのくらい年下かは分からないが、今いる客の中でももっとも低い年齢に位

置すると思え、そして幼さが感じられた。……もっとも、童顔で身長の低い、内気な自分

も人のことは言えないのだが。

「ええ、そうですけど」

 そんな小柄の幼い少女をどこかで見たことがあるような、そんな気がしてならなく、そ

のため快く少女の問いに応えた。

(あ、この子もしかして……)

 彼女  祐里は少女の、髪とほぼ同色をしている薄茶色の瞳を見つめてから、ふと少女
が誰なのかを思い出した。

 そんな彼女を待つ暇もなく、少女はキョロキョロと店内を見渡して、問うてきた。

「あの、柏田 京という男の人を知ってますか? あの、わたしの兄なんですけど」

「ええ、知ってますよ」

 不安げな少女の顔には、だが曇りのない綺麗なものが感じられ、まだほとんど知らない

その少女に、祐里は無意識に好感を得た。

 祐里の笑顔の応えに、少女は何か暖かみを感じたのか、先程までの焦ったような表情は

和らぎ、逆に笑顔になったような気もした。

 祐里はそんな少女がますます気に入ってしまい、それから少女のことが気になりもしは

じめていた。

「あの、あなたのお名前は、なんていうんですか?」

「え? あ、わたし、柏田 美夏っていいます」

 少女  美夏は、自分にそんな問いがくるとは思ってもみなかったのか、驚いたように
一瞬だけびくりとからだを動かすと、平静を保ってそう答えた。

「美夏さんっていうんですか」

 そう呟いてから、少女がコクッと頷くのを見て、ほんの少しの間だけ頭の中でその名前

を繰り返してみた。

 そんな祐里を見てから、美夏は当初の目的を思い出したように口を開いた。

「あの、それで、今日、兄がこちらに来ませんでした?」

「今日?」

「はい。今朝、ここに行くって言ってたんですけど……。見ませんでしたか?」

「……う~ん」

 美夏の期待した瞳を見てから、祐里はしばらく考え込んだ。

 今日は、昼のこの時間までほとんど客席の巡回(?)をしていたため、もし注文があっ

て自分がそれに気づいていれば、おそらく覚えてはいただろうが……。

 だが祐里にはそんな記憶はなかった。曖昧ではあるが、なかった。

 美夏がどうして兄を探しているのかはさておいて、彼女が期待して自分の返事を待って

いるのを思うと、少し言葉を考えてしまった。

「……そうねぇ、今日はたぶん来てなかったと思うんだけど」

 それを聞いて、案の定、いや、それ以上に愕然として首を垂れて俯く美夏。

「……そうですか」

 そう言うと、美夏は椅子から立ち上がって、大きく腰を曲げて一礼すると、「お仕事中、
すみませんでした」と言って足早に出口へと向かっていった。

 そんな美夏を見ながら、多少戸惑いながらも祐里は手を伸ばしていた。

「あのっ、ちょっと待って!」



 ドリームストリートという、大きくはないが和やかな雰囲気が漂い、ひとりで散歩する

にはとてもいい通りがある。

 車のとおりも少なく  というより、狭く通りづらいため、道の真ん中を歩いていても
危険を心配する必要がほとんどない。

 昼の日差しもまだ完全ではない今も、人のとおりさえ少なく、車なんてもってのほかで

あった。

 ところどころに十字路があるが、そのほとんども小さな道である。

「…………」

 滅多に来ない場所  でもないのだが、あまり来ないところだ。べつに嫌いではないが、
自分には用のないところだと思っている。

 そのためあまり道が分からない自分は、左右を注意しながら今来た道を確認し、キョロ

キョロと歩いていた。
  さいとう か こ

 斎藤 佳子。高校を卒業して早二カ月だ。下腹部が最近妙に膨らんできているため、以

前に比べると少し不格好になってはいるが、顔立ちは整っている。

 この年齢でこの身長は少し低めだが、佳子はあまり身長のことは気にしていなかった。

……というより、そんなことを気にする必要は、まったくないのだ。

 とりあえずそんな彼女は、今日、この通りを歩いている。

(……この辺じゃなかったかな)

 目的地である場所が確かこの辺だと思うのは、いつのことか過去に来たことがあったか

らだ。

 だが、今こうして歩いていると、曖昧ではっきりと覚えていない。

 とにかくドリームストリートをしばらく歩いて、ところどころにある左右の道を遠目に

眺めながら、佳子は頭の中の記憶にある道筋をたどる。

 っと、

「  ?」

 正面の、百メートルは軽く離れたところから  ちなみにそれよりもさらに向こうには
突き当たってスコール通りがある  ふたりの人の姿が見えた。

 まだ遠くて性別なんかもまったく分からないが、とりあえずそのふたりがふらふらと歩

いてこちらに向かってきているのが分かると、佳子はなんとなく自分の足取りが早くなっ

ているのに気づいた。

 そして次第にそのふたりの姿がはっきりと見える距離になって、そしてそのふたりが誰

なのか、自分の思い当たる人物だと気づいた時、佳子は走った。

「茂也、京クン!」

 そこには、ふたりの青年  茂也と京の姿があった。

「もう、二時間も待ってたんだぞっ。どこで何をやって…… 」

 佳子は口を途中まで開いたところで、異変に気づいた。

 ふたりの姿、そこまではべつにいいのだが、片方の平凡な青年  京が鼻血を流してい
るのがいつもと違った光景で、かつ佳子には恐怖すら感じられた。

 京に肩を貸して、しかめっ面でなんとか歩いている茂也  だがこちらは無傷のようだ
  のそばまで行き、それから京と彼を見比べて、問うた。

「ど、どうしたの、これ 」

「い、いや、何……」

 と答えたのは京。片方の手で鼻を隠すようにして、体勢が崩れているためかなり低い位

置から自分を見上げる京に、佳子は疑問でいっぱいだった。

「ねぇ、なんなのよ、これ。何かあったの 」

 佳子の響く声に耳を痛そうにして、茂也はゆっくりと道端に京を休ませるために座らせ

た。今も、車のとおりはなく、かれらを興味して見る人影も、ない。

 佳子は道端に座った京をまじまじと眺めて、それから彼の顔を近くで見てから、どうや

ら傷付いたのは鼻だけではないことを悟った。

「……実はさ、ちょっと危ねぇやつらに絡まれて、な」

 茂也は目を逸らしながら、そう口にした。



 気づいたら吹っ飛んでいた。

「ジン、もういいだろ! 死んじまう!」

「やめてくれ、頼むよ、ジン」

 自分を庇うように仲間からの声が聞こえるが、それは直後に彼らにも危害が加わること

を意味している。

 そのとおりに  

 ゴキッ

「ぐぁっ」

 鈍い音とともに何かが折れたような音が鳴って、それから片方の仲間の声が聞こえなく

なった。

 さらに連続して  

 バチッ

「うぎゃああ 」

 何かが焼ける音。そしてそれに伴い「ひーひー」という悲鳴が、彼の耳元に聞こえてき

た。

 そしてそれからしばらくの静寂とともに、彼らのリーダー的存在である、若い男  ジ
ンは小さな棒  とても軽く、その先端からは微かな匂いがする  を手に持って、何度
も何度も勢いよく吸い込んだ。

「……すうぅっ……。ハァ……」

 そしてしばらく俯いたまま、呼吸を続け、それからずっと止まったかと思うといきなり

天井を見上げて、ジンはそこで口を開いた。

「……いいかげんにしろよ、お前ら」

 ジンは低い声で、獣が唸るあの声と同じくらいの声量でそう言った。

 四畳ほどの部屋だ。ベッドがふたつ置いてあり、そのベッドがない、わずかなスペース

には木製の椅子が置いてある。ただしその椅子は今は横に転がっていた。

 最初に投げられた自分が、もっとしっかりと粘っていればあとのふたりもこんな目に合

うはずはなかった。

 そんな自分の弱さに腹が立つ。だが今は、自分たちのリーダー、ジンの気を落ち着かせ

るのが先決だ。

 そんな思いが通じたのか、ジンは残りのふたりのことは気にせず、倒れたまま動けずに

いる彼の方へとやってきた。

「……悪かった、今回は予定外だったんだ……。次は絶対にやるから……」

 うつ伏せだった彼は強引に仰向けにされて、なんとか歯を食いしばるとそう言った。

 いつも聞き慣れた言葉だろうとは思っていても、これしか彼に言うことなどない。

「……そうか」

 ジンは彼の言葉にそれだけ呟いて、頭の裏をかりかりと掻くと、彼の右腕を思い切り引

き上げて立たせた。

「  つぅ!」

 同時に全身に走る痛みに耐え、彼はすぐ目の前にあるジンの顔を見た。

 ……笑っている。いや、それはいつものことだ。

 だが、今日のジンは狂気に満ちている。

 そんな考えが頭の中を張り巡らせている中、ジンは唐突に背を逸らした。

 しばらくその状態を保つ。

 何をしかけてくるのかと疑問に思ったその時から半瞬後、いきおいよくジンは頭を彼の

顔面へと突き出した。

「ぐあぁ!」

 ぐちゃっという気味の悪い音が、まだ意識の残っている残りのふたりにも聞こえた。
       とこ

 それから彼は床についた……。


                                       4


 カフェ・ホーソーンの客入りも、だんだんと本格的になってきたその頃……

「へぇ、だからかぁ」

「うん」

 カフェ・ホーソーン、その店内の中央に位置する、メインシートと呼ばれる幾つかある

広い客席の中のひとつに、ふたりはいた。

 祐里の驚いた相槌に、美夏は笑顔で、そして赤面しながら頷いた。

 それから、さらにその理由ともなる話を、長いが話そうと思った。

「でもね、それだけじゃないの。もっと、もっとあってね、それでね……。えへへ」

 その理由でもある過去のことを思い出し、そして今、その過去の出来事のおかげで何を

想うのかを考えると、美夏は恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなく、だが一方では第三者

に話したくて話したくてどうしようもなく、歯痒さで頭の中はいっぱいであった。

「『えへへ』って、……もう、まったく美夏ちゃんったら」

 そしてそのせいで真っ赤になってしまっている自分の顔にも気づかずに、笑いながら言

う祐里の顔を俯き加減に見た。

 先刻、美夏が、兄の京がここに来なかったかという問いとともに現れて、その答えに満

足のいかなかった美夏が帰ろうとしたところ、祐里はふいにそれを止めて、話でもしない

かと持ちかけた。

 美夏にとっては兄のことが気になってもいたが、祐里という新しい女性と話ができると

いうことの方も気になったので、じゃあ少しだけ、ということで、こうしてカフェ・ホー

ソーンでふたりはひとときを過ごしているのだ。

 ちょうど祐里も今日は昼まででアルバイトは終わりだったので、今は客としているとい

うことになる。

 話の内容は……、まぁ世間話というか、そんなところだ。

「でね、その時はすっごく寂しくて……」

 祐里は、美夏という、最近知り合った青年  京の妹と話すことに興味があり、こうし
て実際に話してみて、人見知りの激しい彼女は美夏には心を開けた、そんな気がしていた。
「だからすっごく暖かかったんだっ」

 続けざまに話す美夏を見てから、よくよく考えると彼女ばかり話しているような気がし

てきて、ついで美夏の休むことなく自分のことを話す時の笑顔は、祐里には見ていて悪い

気はしなかったもののたまには私の話も聞いてほしいな、などと思いもしていた。

 と、しばらくそんな調子で話していた美夏が、ようやく今日の現実を見つめ直したよう

な、そんな表情になって、呟いた。

「……それにしても、おにいちゃん、どこ行ったのかな……」

「……美夏ちゃん?」

 深刻そうだった。

 それは今日、美夏がここカフェ・ホーソーンに来た時からそうだったのだが、祐里には

どうしても分からなかった。

 ……というのも、美夏の兄が、行き先場所を話していたところにいなかっただけのこと

であって、ただそれだけのことなのに美夏は他のことを話す時は笑顔でも、時折見せる表

情は深刻そのものだった。

(まだ、美夏ちゃんは幼いからそんなにおにいさんのこと、心配してるのかしら)

 小さな子が親のいないことに心配することに美夏を合わせて祐里は考えながらも、だが

美夏はそこまで幼いわけではないとも思う……。

 そんな美夏に疑問でいっぱいだった祐里は、とりあえず落ち着くよう気をかけながらも

問うた。

「ねぇ、美夏ちゃん。なんでそんなに心配するの?」

「え? だって、おにいちゃんはここに行くって言ってたから、いないのはおかしいと思

って……」

 美夏のその言い草とその時の表情が切なく、祐里は頷いた。

「うん、それは分かるけど。でも、そう言っただけで、他のところに行ったのかもしれな

いじゃない?」

 それを聞くと、美夏は首を振った。

「ううん、それはないの。おにいちゃんは、出掛けることに関してはしっかりとわたしに

話すから……。そういうことで嘘は絶対つかないし」

「ふーん……。でも、じゃあ仮にそうだとしても、ここに来た後、他のところに行ったの

かもしれないわよ」

「でも、祐里さんは見なかったんでしょ?」

「うん、まあ、そうだけど」

「……それに、それだけじゃないの」

「……?」

 美夏はそう言うと、しばらく俯いて、なんでこんなに兄のことを心配するのかと問いた

いくらいに不安げな表情で呟いた。

「おにいちゃんの友達で、斎藤 佳子さんっていう人がいるの。その人から、ここに来る

前に電話があって、おにいちゃんが今日、ここに来る約束だったのにまだ来ない、って言

うんです。だから……」

「はぁ、なるほど」

「だからわたしも、一応確認するつもりでここに来たんだけど……」

 一層崩れていく美夏の顔と、それからほとんど空きのない客席を見てから、祐里は何度

か意味もなく頷いていた。

 心配する理由としては、まあ十分ではある。おそらく、美夏の言う、出掛ける時はその

場所を言うということが、彼女をこうも心配させているのであろう。

 加えて、佳子という兄の友人からの、兄が来ないという連絡が来れば、まあ兄想いの妹

ならば心配するかも分からない、そう祐里は考えた。

 だがしかし、やはりただ来ていないだけで道草をくっているかもしれない兄をそこまで

心配する美夏の心情が、祐里にはいまいち分からなかった。

 だが、これ以上美夏の心配する気持ちに何か言ったところでプラスになるような気がし

なかったため、祐里はとりあえず今は一緒にここにいようと思った。

 それだけではなく、美夏との話は楽しかった。……まあ、もう少し自分の話もさせてく

れればもっといいのだが。

 まあそれでも美夏が、疑問すら残るほどここまで心配している理由も分からないが、と

りあえず彼女の笑顔が好きなので、祐里は話題を変えるように笑った。

「でも、美夏ちゃん。こうしておにいさんのことを気にしてても仕方ないでしょ。それだ

ったらお話してた方がいいんじゃない?」

「ええ、まあ……」

 それに曖昧に答えて俯きかげんにこちらを見上げる美夏。

 低身長の自分と身長的にも近いものがあって、祐里は美夏が気に入っていた。

「それに、美夏ちゃんの話って、なぜか他人事のように聞こえないのよね」

「え、ほんと?」

 それに異様に喜ぶ美夏。

「ええ。だから、もっとさっきのお話の続き、聞かせて?」

「うん。……わたしもね、祐里さんには、なんでも話せるような気がするんだっ」

「え、ほんと?」

 それに異様に喜ぶ祐里。

「うん、じゃあね、さっきの昔のことだけどね……」

「うんうん」

 こうして、なんでもなかったかのようにふたりは元の話へと戻っていった。


                                       5


 茂也はしばらくの間、声が出なかった。

 そんな茂也と、その原因を作った話をしおえた佳子を見上げて、京は黙っていた。

 そして、京が自分を見ていることなど全然気にせず  というよりも頭から京のことな
ど消えうせていた茂也が、問い返すように口を開く。

「大学をやめた、だと……? 本当か?」

「……うん、本当なの」

 そんな茂也の開いた口の中から多量の唾液が流れ出てくるのを見てから、佳子は俯いた。
 三人は、茂也の家にいた。

 ドリームストリートのあの場所からでは、茂也の家が一番近かったため、とりあえずそ

こで京の顔を修正しようということになり、こうして休んでいた。

 病院へ行った方がいいと言った佳子と茂也の話は聞かずに、京は大丈夫だと言って、だ

が今は茂也の部屋のベッドに眠っていた、はずなのだが、目を開けているのは佳子と茂也

は気づいていない。
        れい

「じゃあ玲は、今はどうしてるんだ?」

 茂也の不安げな表情を幾らかは和らげたいところだが、それをできないことが、現実に

はある。

「……うん、なんか、おじいちゃんの家に帰るって言ってた。玲は、両親、いないからね。
それが一週間くらい前の話だから、もう北海道にはいないと思う」

「そ、そうか……」

 平静を保ったつもりで相槌したその言葉も、佳子には苦悩の結果として生み出されたも

のとしか見受けられなかった。

 そんな茂也の顔を、うつろな目でちらちらと見る京は、今は言葉にするのも辛い状態だ

ったため何も茂也にはできない。

 茂也は、その後しばらく「そうか……」と呟き続け、唇を咬んでいた……。

 大学をやめた……という人物の話になったのは、ついさっきのことだ。
                                  たちばな

 その主人公ともいえる人物の名は、立花 玲といった。彼女は、ここにいる三人の友人

たちの中で唯一大学へと進学した女性である。

 親友であった佳子は、進学してまだ一カ月と経っていない大学を突然やめると言い出し

た玲のことが心配でならなく、そしてその玲と高校時代、それなりに中のよかった京と茂

也に話しておこうと、今日、カフェ・ホーソーンで集まることで話そうと思っていた。

 と、まあそんなわけでちょっとした手違いからかこうして茂也の家で話すことにはなっ

たものの、ふたり  いや、京は眠っている(と佳子は思っている)ため茂也の反応とい
うものは、なかなか想像以上に愕然としたものがあった。

 佳子は、茂也の玲に対する想いを知っている……。

「……茂也」

 何も言えないが、名前だけを無意識に口にしてしまうことを、彼がどう思っているのか、
などという今はどうでもいいことが頭の中に浮かんでしまう。

 玲の祖父の家の住所は、佳子は詳しくは知らない。大学の話を聞いた時にそのことを聞

こうとしたのだが、玲は教えてくれなかった。

 いや、それどころか自分のことは忘れてほしい、そうまで言われた。

(……玲、勝手だよ)

 玲が何に対して思い詰めているのか、それが分からなくもないが、だが親友だと思って

いた、そしてそう自分に言ってくれた玲が、あまりにも何も話さなすぎなことに、佳子は

辛く、そして玲に怒りさえ感じてしまった。

 ガチャッ

 っとその時、唐突にも、部屋の隅にあるドアがおもむろに開き、甲高い声が室内に響い

た。

「飲み物、どうぞ!」

 そしてその声に振り向いた茂也と佳子。だが、ドアの向こうには既に人影はなく、ドア

は開いた時の音もなく閉まっていた。

 そしてそのドアの下、小さな木のお盆。その上には、みっつのグラス。さらにその中に

は白い液体  牛乳がある。

「……妹さん?」

 佳子は額に汗を流しながら、さりげなく茂也に聞いた。

 それに軽く頷いて、茂也はその牛乳を見た。

「……あ、ああ。妹の、さゆりだよ」

 そう自分で言いながらも、その妹である、さっきここへその牛乳を運んだ人物がそうで

なかったことを望みたくもあり、だがそんなことなどあるわけもないことに痛く感じ、茂

也は嘆息した。

「……けど、なんで牛乳なんだ?」

「……そ、そうね」

 そんな奇妙な空間を感じているふたりを遠目で見て、京は微笑した。

 と、それはさておいて、……玲のことを、佳子は考えてみる。

 玲の思い詰めていたもの。

 それを考えながら、佳子は黙ったまま何も言わずにベッドの横に座ったまま動かない茂

也を眺め、それから眠っているだろう京の顔を見つめた。

 っと、その佳子の視線に気づいて半分開いた目でこちらを見ていた京が瞼を閉じたのが

分かった。

「あ、京クン。起きてたんだ」

「…………」

 京はそれを聞くと、眠っていることを続けようとすることに無意味なことを感じ、ゆっ

くりと腫れた瞼を上げた。

「玲は……、もう、帰ってこないのかな」

 京の僅かに開いた口から聞こえるその言葉は、聞き取り辛いが、それでもその言葉の中

に含まれた同情のようなものを感じて、佳子は頷いた。

「……うん。たぶん、帰ってこないと思う。どうせ、東京の方が、玲には合ってると思う

し」

「……東京、か」

 茂也が重い口を開くのが見えた。

 かれらの友人である玲という女性は、生まれたところが北海道であったにしても出身地

と呼べる場所は東京であった。

 今までの人生の中でも大半が東京暮らし。生活面でも不便な北海道のこの地域。玲がも

う戻ってこないことになってもおかしくなく、そして仮に東京が出身地でなかったにしろ、
ここ手富渡を出て東京などの都会へと旅立つ若者は、少なくなかった。

 そのことを考えると、茂也は、あんなところまで自分は行くつもりがないこともあって

か、玲が遠くに行ってしまったことに、どうしようもない憤りを感じていた。

 六畳のこの部屋。畳張りの茂也の部屋は、ベッドの上が真っ白なことを除いては、大半

のスペースを埋めてしまっている様々なゴミが目に付く。

 四つある中のひとつの壁を全く見えなくしている大きな本棚。何に使うものやら、そこ

の全てを埋めているのが、多量の透明な下敷きと、缶詰の空きである。

 そんな空間で、三人はじっと、互いが互いに話しかけることもなく、静かな時を過ごし

ていた。

 高校を卒業してから、たまに来る、茂也のこの部屋。玲と待ち合わせるにもここが多か

った。

 だが、最近では近くにいい喫茶店ができたということで、あまりここへは来ることもな

いだろうと思っていたのだが、今日は例外だ。

 そう、例外だ。

「あっ」

 っと、その例外であることを再び思い出して、佳子は真剣になって俯いている茂也と京

に  いや、むしろ京に問うた。

「さっきも聞いたけど、教えなさいよ。京クン、茂也」

 その言葉から何を問われているのかに気づいて、京は黙ったままだったが茂也は笑って

口を開いた。

「いや、べつに隠してるわけじゃねぇんだよ」

「だったら言いなさいよ」

 茂也の含み笑いが余計に佳子を逆上させ、そして茂也はそれをまともに受けず、だがそ

のおかげで玲のことを微かに忘れたようなのは、少しだけだったが心が休まった。

 そもそも今日、茂也の家へこうして来た最初の原因。そして、自分が二時間も待ってい

た、カフェ・ホーソーンへとふたりが来れなかったというそもそもの原因。

 その話を、茂也と京は結局何も話していなかった。

 何回も話を聞こうとしていたのにも関わらず、毎回毎回話を逸らされ  しかも、玲の
話をしようと初めから思ってはいたものの、それでも最後に驚かすつもりでストックして

いた内容だったその話を先に話したので、佳子はだんだんと、苛立ちすら感じはじめてい

た。

 そんな佳子を笑っていた茂也ではあったが、やはりその限界というものを感じてか、眠

っていた京の方を向いた。

「実はさ、京のヤツがな  」

「茂也っ」

 大声を出そうとして止めようとした京の言葉も今は小さく、佳子に聞こえるか聞こえな

いかといった程度のもので、そしてそんな京の声の中に含まれた『恥じ』という感情をう

まく受け取り、今まで黙っていた茂也だが、続けた。

「まぁまぁ、京。べつにいいじゃねぇか。いいことしたわけだしよ」

「いいこと?」

 佳子の問う声が聞こえたところで、京は断念してこちらから顔を反らした。

「……もう、勝手にしてくれ」

「へへ、そうかいそうかい」

 やけ気味に言う京を、何かと思いながらも佳子はとりあえずそれよりも茂也を見た。

 茂也は指を立てて、横に数回振ると、笑った。

「京も、俺も、最初はしっかりとホーソーンに行こうと思ってたんだぜ? でもよ、京っ

てさ、お人よしすぎんだよ」

「ふむ……」

 茂也の、まだ意味の分からない話に、二時間も待ったことのむかつきを思いだしながら

も我慢して、佳子は聞き入った。

「スコール通りに出てさ、脇道に、婆さんが男三人に脅されてたんだよな。それを助けよ

うって……。あの怪我はよ、その男三人にやられたもんなんだよ。……っと、まあそんだ

けのことなんだけどな」

 その話に、佳子は目を大きく開いてこちらからでは顔が見えないが京の方を向いた。

「へぇ! 京クンって、そんな正義感強い人だったんだっ」

「そうなんだよ、佳子ちゃん。京さ、なんか最近、昔と変わってきちまったんだよな。い

い意味でだけどよ。中学、高校ん時はずっと無愛想だったってのによ、なぁ、京クン」

「……う、うるさい」

 やはりいまだ口を開くと痛みが走るのか、京は小さく、それも大声で言いたいのに言え

ない悔しさを感じて、そう言った。

 そんな京を見ていておもしろく、そして感心もして、佳子は何度も「へぇぇ」と口にし

て、京に対する考えを新しくしていった。

「でもさ、男三人も相手に、怪我はしたものの無事に帰ってきたってことは、勝ったって

ことなんでしょ? すごいよね」

「へへ、まぁな」

「『まぁな』って、なんであんたが偉そうに言うのよ?」

 その佳子の言葉に一瞬ぐたっと体に重みがのしかかるのを感じて、茂也は体を小刻みに

している京を見た。

 そんな茂也と京を交互に見てから、佳子はきょとんとする。

「え、あんたも一緒にそのお婆さんを助けたの?」

「『あんたも』って、俺が助けたんだよ、ほんとはな」

「え? ちょっと意味が分からないよ、それ」

 しばらく過去のことを振り返りながら、茂也は意味の分かっていない佳子に説明をして

いった。……京と、互いに赤面しながら。

 茂也の話によると、こうだ。

 カフェ・ホーソーンへと向かうべく、そこに一番向かいやすい通りとしてスコール通り

を選び、茂也は京と待ち合わせてふたりで行くことにした。

 で、そのとおりにふたりはスコール通りを通り、ホーソーンへと向かった。

 その途中のことだった。

 路上に突如として現れた、見知らぬふたりの若い女性。

 年齢的に自分と同年代か、もしくはそれよりも年下の彼女ら。ふたりとも顔が好みであ

ったのに加えて、長身の自分に合わないようなあまり高くない身長  ちなみに茂也は身
長の低い女性が好みだ。だが、それとは裏腹に大人びた顔付きと、その顔付きとマッチし

たような、まさに女性的な肉体。一見しただけではっきりと分かる腰のくびれ。胸に膨ら

む豊富な、ボリュームある柔らかそうな美味な肉!

 「こ、これは 」と叫ぶや否や、茂也は彼女らに駆け寄ったという……。

 そんな茂也に呆れて、京は道端に、彼が戻るまで  戻ってくるかどうかも分からない
くらいあやふやな状況ではあったが  待つことにしたのだが……。

 そこで聞こえた脇道からの悲鳴にも似た老人の声。

 京がそれに駆け寄ったところによると、三人の、いかにもヤバそうな男たちが、ひとり

の老婆を締めているのが発見できた。

 そして、その状況と会話の流れから、京は急いでかれらの前へと走り、三人のうちのひ

とりの男に「やめろ」と叫んだ。

 するといきなり殴りかかられ、京はあっけなく倒れたという。だが、それでもなんとか

老婆を助けようとした京。

 そこへ、右頬を少しだけ腫らし、赤らめた茂也が気づいて、寄ってきた。

 茂也は、倒れながらもひとりの男の足元で何やらやっている京を見て、それから脇道の

奥にいる老婆の引きつった顔を見てから状況の判断を素早くすると、三人の男を一気に片

付けた……。

「っと、まあそんなわけよ。だからよ、その婆さんを助けたのは、俺なわけよ」

「…………」

 茂也の話に、なんとなく今日の出来事が理解できたのか、佳子はしばらく複雑な顔をし

てから、そしてベッドでこちらを向いていないが京の顔を見て、言った。

「って、あんた、威張れる立場じゃないでしょ、それ」

 その言葉に苦笑しながら、茂也は「へへっ」と笑うと、佳子の表情を窺うように言った。
「……まぁ、女から見ればそうかもしれねぇけどな。でもよ、男三人は辛かったぜ、さす

がの俺でも」

「うるさい、あんたは見損なった。勝ったのは勝ったのかもしれないけどね、京クンの方

がよっぽどマシだわ。あんた最低」

「え~  なんでだよぉ! しっかり婆さんを助けたんだぜ? 十分褒めてくれてもいい

じゃねぇかよ」

「……どうせ京クンがそのお婆さんを助けようとしてなかったら、無視してたでしょーが」
「おいおい、玲みたいなこと言わないでくれよ。それに、それはねぇぜ。俺だってな、京

と同じくらい正義感に燃える男なんだ」

「あー、もううるさいうるさい。あんたと話しててもおもしろくもなんともないわ。あた

し、もう帰るから。見損ないには用がないって言うしね。玲のこと話したのは、間違いだ

ったみたいだわ」

「なんだよぉ、それ」

 そこまで言ってから、佳子は立ち上がって部屋のドアへと向かった。

 くしゃくしゃな、自分の言うことを理解してくれないことに悔しさを感じた茂也の顔を

見て舌を出すと、次に佳子は、ベッドの上で、今はこちらを見てほっとしているような京

の顔を見た。

「じゃあね、京クン。しばらくは会えないけど、生まれたら連絡するね。バイバイ」

「う、うん。その時は呼んでよ」

「へ?」

 いきなりわけの分からない話に、茂也はふたりの間に、何やら自分の理解を越える不可

解な絆があることに気づいた。

 ガチャ

 そんな茂也を待つ暇も与えず、佳子はドアを閉めた。階段を降りていく音がして、それ

から一階の辺りであろう、妹のさゆりの声が甲高く響くのが聞こえた。

 そしてそんな幻想にも似た外界からの音声に茂也はしばらく捕らわれて、だがようやく

気を取り直して、天井を見つめたまま口を閉じ、声には出していないが笑っている京を見

た。

「お、おい、京」

 それから、今し方感じた疑問と、そしてそれによる嫉妬にも似た怒りを京にぶつける。

「お前、いつの間にそんなことまでしてたんだ 」

 それに気づいて笑顔の京がこちらを向く。

 立て続けに、茂也は続けた。

「こ、子供だと  俺より先を越しやがって! ……ったく、佳子とできてたなんて、俺

はまったく知らんかったぞ、このやろう! ……フッ、だがな、後悔することになるぜ。

ガキが生まれるってことはな、これからの人生、それが重荷になるってことだからな。自

由な遊びはできなくなっちまうってことだ。カッカッカ!」

「なにひとりでハイテンションになってんだよ、茂也。佳子はもう結婚するんだぞ、知ら

なかったのか?」

 茂也のうるさく自分をあざ笑う声を聞いて、笑顔から呆れ顔になった京が口にする。

 それを聞いた茂也は、さらに驚愕の表情を浮かべて、目を見開いて絶句した。

「け、け、けっ、っけっけっけけけ結婚までしてたのか、お前は 」

「誰が結婚したなんて言ったんだよ。それに僕の話なんてしてないって」

 嘆息して、京は茂也が少し我に返るのを見て、首を捻った。

「茂也、知らなかったっけ」

「何をだ 」

「高校の時から付き合ってる人がいたんだよ、佳子には。バイトの先輩だって言ってたか

な。……それにしても、お腹、膨らんでたよな、佳子」

「……むむむ」

 とりあえず京が佳子と関係があったなどという誤解は解けたものの、茂也はなぜか納得

のいかない様子でしばらく唸っていた。

「……しかし佳子め。俺を差し置いて他の男といつの間にそんな関係になってやがったん

だ!」

「……まぁ、いいんじゃないのかな。僕は佳子が子供生むの、楽しみだし」

「ケッ。なんか気にくわねぇなぁ。……これってもしかして、嫉妬か?」

「……さあね。僕に聞かないでくれよ」

 茂也の愚痴らしき佳子への文句を京は聞きながら、痛む顔に口を開くことさえ余計に辛

くなって、しばらく黙ることにした。

 高校三年の時、茂也が佳子を狙っていたのは、なんとなく分かる。まぁ、それはいつも

のナンパと同じ要領での狙いだが。

 その程度のことでしかなかったと思っていた京は、佳子に対する今の茂也の態度が、な

んとも不可解でもあった。

(まぁ、僕の知らないところで、いろいろあったのかもな)

 などと思いながらも、とりあえずは今は休んでいたかった。

   のだが、

「なぁ、京、聞いてくれよ。佳子はよ、一度俺と付き合ってくれるって言ったんだぜ?」

「……ふーん」

 いまだ続ける茂也の話に、ただひとりで話させているのも可哀想なので、京は痛む口を

我慢して相槌をしてやる。

「それなのに、俺を差し置いて変な男と結婚しちまうなんてよ」

「……うん」

「そりゃあねぇと思わねぇか?」

「……まぁ」

「だろ? あの女、許せねぇぜ。ちくしょう。ぜってぇ奪ってやる。男から引き離してや

る。そんでもって強引に押し倒して、それからそれから何をするかってぇと、まあ言うま

でもねぇよな、京」

「…………」

「でよ、その後俺の子供を身ごもった佳子は、自分の運命を諭すんだよ。『あぁ、本当は

茂也が運命の人だったんだ』ってな。それから俺とあいつは毎晩毎晩抱き合いまくって朝

は辛くて辛くてたまんなくなっちまうんだよ」

「…………」

「そんな抱き合うシーンもビデオに撮ったりなんかして、みんなに公開すんだよな。そう

するとますます興奮した佳子は、俺におねだりしてくるわけだ。カカカッ。でもってその

現場を生で公開するってのもいいな。一日ずっと抱き合う茂也と佳子の、愛の巣スペシャ

ルなんて名前付けてな」

「…………」

「それから子供を五十人も生ませて、でもそれでも俺はあいつを休ませねぇ。使い込んで

使い込んで使いまくってやるぜ。けっけっけっけっけっけ。笑いがとまんね  」

「やかましいっ!」

 本当に笑いが止まらなくなっている茂也に大声で叫んで、京は枕を投げ付けた……。



「いてて……、ちょっと悪化しちゃったかな」

 ふらふらになった体を、無理するまではいかないが辛く感じながら、京は家路を歩いて

いた。

 夜のドリームストリートは、最近人どおりが少ない。

 十時を過ぎたばかりであるこの時間も、自分以外は誰も人の姿は見当たらなかった。

 茂也の度を過ぎた妄想に大声を出したせいで、京の唇の切り傷は悪化していた。まあ、

自分が勝手に大声を出したのが悪いのだが……。

 右下唇が横にスパッと切れていたのだが、それに大声を出したことでスパッがパカッに

変わってしまい、開いた傷口からは止まっていた血が再び出てきた。

 と、そんな京の姿を見てようやく現実に戻った茂也は、とりあえず今日は自分の家に泊

まるよう説得したのだが  ちなみに妹のさゆりも加勢して説得にあたったのだが、京は
自分の妹  美夏を心配させないためにも、しばらく休ませてもらうだけで帰るといって、
こうして夜のドリームストリートを歩いているわけだ。

 あれからしばらく休んだものの、まだ体がジンジンする。

 特に顔。

 茂也の家に行ってから、彼の妹のさゆりに手当をしてもらったため、京の顔はところど

ころにガーゼと包帯が付き、巻かれている。

 そんな傷顔を吹いていく風も、今は冷たい。

(電話くらい、しといた方がよかったな)

 普段の妹の自分に対する態度を考えると、彼女が自分のことを心配しているのではない

かと心に痛むものがある。

 京は痛む体を少しだけ無理して、急いで歩いていった。

 アパートの階段を昇って二階に出たら、向かって右側の突き当たりの一室。

 ドアの前まで来て……、そこで京は一旦立ち止まった。

「……つぅ」

 瞼が熱い。さゆりにガーゼを被せてもらったことが裏目に出たのか、じんじんと地鳴り

のように響く右目の瞼が、今になって異様に熱くなってきた。

 左瞼はなんともないのだが、だがその上の部分、額が切れていることに気づいたのは、

ついさっきのことだった。前髪に隠れてさゆりも気づかなかったのか、今は血は止まって

はいるもののよくよく意識してみると、痛む。

 顔だけではない。右太ももが内出血してる気がしてならない。今は黒のシャープなパン

ツをはいてるため見えないが、内から痛むことから察すると、その可能性は高い。

 他にも、男たちに倒された時にできた裂傷が幾つかあるが、大きな怪我に至るまでのも

のはなかったため、それは安心だ。

 だが、傷のことを考えると、悔しさでいっぱいになる。

(……僕は、弱いよな)

 茂也がたとえナンパをしていた男だとしても、助けに来てくれなかったら、自分ではあ

の老婆を助けることはできなかった。

 いくら相手が三人だったとはいえ、自分はすぐに倒された。

 そんな自分を尻目に男三人を、それも全員一撃で地に落とした茂也の力。それに対する、
自分の劣等感。

(……はは)

 悔しかった。情けなかった。

 今ひとり、こうしてよくよく考えてみると、本当に自分が嫌になるくらいだった。

 同時に、京はもうひとつのことを考えてみた。

 今日、男たちに絡まれていたのは、自分とは全くの無関係な女性だった。

 それだから、今、こうして自分に対する反省というものは、簡単にできる。

 だがもし、あれが老婆ではなく、自分の大切な人だったとしたら……。

(……僕は、僕は……)



 そんなもので済まされる問題じゃ、ない。



 茂也や佳子には見せたくなかった自分の悩む顔。

 だからこそ口にはしなかったが、男三人にやられて、それから茂也の家にやってきてか

らも、ずっと思っていたそのこと。

 京は、ドアの前で目を閉じてから、しばらく思い悩んでいた。

 そして数分後、そんな、静寂と自分のみの世界から目を覚ます。

(……いや、今は、それだけじゃないよな)

 自分のできることには限りがあるが、それでも今できることの方が先決だ。

 京はそう思って、だがいつかは茂也のような、自分の憧れと言っても過言ではない強さ

に引かれるだけではなく、自分自身でも身につけようと決心しながら、とりあえずドアノ

ブに手をかけた。

 ガチャ

   開いてる?

 ふいに、今までの感傷を消されたような思いに惑わされながらも、京は一瞬不可解に思

った。

 妹の美夏は、必ず家にいる時は鍵を閉める。そう京は彼女にきつく言っている。

 ……とすると  

(閉め忘れ、だな、美夏)

 そう思い、そして、妹が、遅くなったことを心配しているだろうことに謝ろうと思いな

がら、京はドアを完全に開ける。

 だが、

(……暗い?)

 暗かった。真っ暗だった。

 人の気配すら感じさせないほどの、そして不気味な一瞬を感じて、京は眉間に皺を寄せ

た。

「美夏? ……もう寝ちゃったのかな」

 そう思いながらも、だが玄関の電気が付けていないことに、一度は閉め忘れだと思った

鍵が開いていたことの疑問が蘇ってくるのを感じる。

(寝てるのなら、部屋の電気が付いてないことはまだ許せるにしても、玄関の電気が付い

てなく、それからドアの鍵も掛かってないなんて……)

 そう思って一瞬、京は悟った。

(まさか泥棒  ?)

 とそう心の中で思ったその時、

「……フフフ」

「   」

 真っ暗な部屋の奥から、光がないため姿形ははっきりと窺うことはできないが、誰か人

がこちらに  すなわち玄関にいる京の方に歩いてくるのが分かる。

 京は、今し方した声が、女性のものではあるにしても妹の美夏のものではないことが一

瞬で分かり、そして顔が見えないため恐怖にも似た感情を胸に広げた。

「だ、誰だ 」

 京は、竦みかけている体をなんとか動かして、玄関から開いたままのドアの方へと一歩、
一歩と後退する。

 嫌な恐怖が、彼を襲った。

 そして、ドアから外へと後ろ向きに下がる京に、部屋の中から近づいてくるその人影は、
ドアの外の、アパート内部の至るところの壁に  というより天井に下げられている白熱
型電球に照らされるように、ゆっくりと、本当にゆっくりと死んだように  いや、人間
の考え出した空想の生物  ゾンビのように現れた。

「な、何 」

 京は、天井にある白熱型電球に照らされたその顔に見覚えのあることに驚愕して、それ

から絶句した。

 そして、その思い当たる人物の名を、彼は口にした。

「れ、玲なのか 」

 京のその言葉に軽く頷いたそれは、だが彼の思っていた彼女の姿とは少し、あらゆる意

味で変わっていた。

 なぜ自分の部屋に彼女が来ているのか、そんな疑問が頭の中を駆け巡る。

 それとともに、本当に彼女が自分の知っている彼女なのかという疑問を胸にする。

 だがそこにいるのはやはり、高校時代、学校の中ではほとんどの時をともにした女性、

玲だった。

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