2017年2月19日日曜日

兄妹の苦難 最終話





                  第五話 憤りから路上へ


                                       1


「……ゃん」

 唐突に声が聞こえた。

 耳が遠くてはっきりと聞こえず、そして何を言っているのかも分からないが、それは自

分に向けての声だということは理解できた。

 ずっと真っ暗だった世界に、光りが灯る。

 静かで暗かった世界。何か自分に誘惑すらしてきそうな甘い声が、その世界で何度か聞

こえたが、彼はそれを無視して、遠くで自分を呼んでいる人物へと向き直った。

 なんとなく、その人物の方が自分にとって重要で、そして大切なもののような気がした

からだ。

 光が灯ってからしばらくして、意識を少しだけ取り戻す……。

 そして再び、声がした。

「……ちゃん、あぁ……、よかった」

   よかった?

 何がよかったんだろう。今し方聞こえた声に単純な疑問が浮かんだ。

   いや、それよりも僕はどうしたんだ?

 次いで浮かぶ疑問を胸に、京は瞼を開いた。

   というより、瞼は半分、既に開いていた。だからこそ、瞳の中に映るその映像が、
自分へ向けてそう言ったのだろう。

(……あ、そうか)

 なんとなく分かった。

 今、自分がどういう状態にあるのか薄々理解しはじめて、京は目の前に映る幼さの残る

少女の顔を見つめた。

 京が上体を少しだけ起こすと、少女はだんだんと笑顔になって、そしてその笑顔を絶や

さずに彼の頭を自分の胸の中へと抱き寄せた。

「よかった……」

 少女は、胸の中で京の暖かい感触に心底安らぎを感じてそう口にして、それから一旦離

れると、彼の両肩に手を置いて、ゆっくりと彼を押した。

「……でもまだ寝てないと、駄目だからね」

 少女の瞳から頬にかけて、うっすらとだが何かの跡が残っているのが理解できた。

 その少女の顔をしばらくうつろな目で見つめて、京は少女の言うとおりに体を横にした

まま顔だけを横に向かせた。

「……ここは?」

 一応、自分がどういう状況に置かれているのか、なんとなく理解はしたが、それでもま

だあやふやな部分があって、京はそう声にした。

 いや、ほとんど声になっていなかった。小さかったし、言葉として認識することさえ難

しく思えそうな、そんなあやふやな声。

 しかし  

「病院だよ」

 少女は京の口から出た、そんな小さな声を瞬時に理解すると、笑顔でそう答えた。

 それを聞いて、京はとりあえず顔を動かさずに目だけで軽く周囲の様子を見てみた。

 横になった自分の下にあるのは……、少女が場所を教えてくれた時に、見なくてもなん

となく分かりはしたが、真っ白なベッドがある。感触がやけにふわふわと柔らかく、なか

なか自分の家では味わえない心地よさだった。

 そのベッドのそばに置いてある椅子に、終始笑顔の少女が座ってこちらをじっと見つめ

ているのが、京の視界に映った。

 その少女越しに部屋の扉が見えた。それほど大きくはないが、この部屋から出るための

ものである。

 ここは、個室なのだろう。ベッドは京の寝ているもの以外にはなく、そしてその他のス

ペースにはほとんど何も物はなかった。

 ただ、壁沿いの棚の上に一輪の花が飾ってあるのを除いて。

「そっか……」

 京は、今度ははっきりと口にした。

 理解、できた。

 なぜ、こんな、病院という自分には全く関係のないはずの建物の一室にいるのかという

疑問。

 その答えが、だんだんと現実に対する意識の回復が進むにつれて、完全にではないが京

の頭の中に舞い込んで、そして彼の心の中を複雑にしていった。

 それと同時に、京は少女の笑顔の絶えない顔を見つめて、口にした。

「美夏、あれから兄ちゃん、どうしたのかな……? 死にはしなかったみたいだけど……」
「あ……、うん。わたしが救急車を呼んで、それからすぐにこの病院に運ばれたんだ。最

初、わたしも心配だったんだけど、とりあえず大丈夫みたい」

 笑顔だった美夏が、多少苦い表情になってそう言ったことに、京はやはり複雑だった。

 次いで、その複雑になった原因とも言える人物について、いろいろと考えながら、問う

た。

「玲は……、玲はどうしたんだ?」

「  え?」

 一瞬、目をひそめて美夏は言葉に詰まった。

 そんな美夏を怪訝な面持ちで見つめながら言葉を待つ京。

 言葉に詰まる……。そう言うと、京の質問に対して答えに戸惑う……、そう聞こえてし

まうが、べつに美夏はそうだったわけではない。

「…………」

 ただ、京の質問によって、忌ま忌ましい、怒りのような感情が込み上げてくるのを防げ

なかったからだ。

 忌ま忌ましい、許しがたき出来事。

 それが頭の中に浮かんで、そして美夏に答えさせないようにしていた。

「……美夏?」

 いつの間にか、顔に怒りを露にしていたのに気づいたのか、京が多少不安げに自分の名

を呼んできたので、美夏はその時点で、なんとか忘れようと思いながらもとりあえず兄の

質問には答えようと思い、あまり考え込まないようにしながら、簡単に口にした。

「あ、うん。玲さんは、なんだかおにいちゃんに悪いことしたって言って、出ていった…

…。でもそれからはわたしも分からない」

「……いなくなった、ってことか?」

「うん。うちに、は」

「……そうか」

 最後に呟いた京の言葉、そして彼の口調が、妙に美夏には引っ掛かった。

 兄には、それを期待していなかった。なんとなく、自分の答えにそんな言葉を呟くのだ

ろうとは思っていたものの、美夏にとっては、それが胸を燃え上がらせる原因となる。

 その燃えたぎる思いをなんとか堪えながらも、美夏は、今は遊園地での出来事を思い出

して悔やんでいるのだろう京の顔を見つめて言った。

「でもおにいちゃん、玲さんは、おにいちゃんを殺そうとしたんだよ? わたしはおにい

ちゃんに、そんな顔、しないでほしいの……」

「…………」

 そんな美夏の、不安そうな顔で自分に言ってくることに京は曖昧な表情で応えて、代わ

りに違うことを口にした。

「なぁ、美夏。今日は、いつなんだ?」

 おそらく、意識を失っていた時間というものが気になるのであろう京は、さっきからそ

れを聞こうとは思っていたようである。

 美夏は、京が自分の頼みにあまりはっきりとした応えを見せてくれないことに複雑な心

境だったが、とりあえず答えた。

 さきほど、感じ始めた怒りをそのままにして。

「……九日だよ。おにいちゃんが玲さんに殺されそうになった日の、翌日」

 九日。六月九日。

 とりあえず日にちが分かったことで、京は日に対する不安がなくなったが、代わりに美

夏の、今の声に含まれていた、玲という女性に対する憎悪を感じ取って、腰を起こした。

「あ、おにいちゃん、起きちゃ駄目だってば」

 美夏が、自分の行動に対して焦ったような顔で立ち上がり、そして腕を出してくるのが

分かったが、京はそれを無視した。

 そして、美夏の目をじっと見つめて、口を開く。

「……美夏、そういうことは言うもんじゃないだろ。玲は、そんなことをするような女じ

ゃない……」

「……おにいちゃん?」

 兄が、さっきまで自分が感じていたような怒りを、今度は玲に対してではなく自分に矛

先を向けているのを心痛く感じて、美夏は不安だった顔にさらに陰りを漂わせて、兄の肩

に置こうとしていた手を引っ込めた。

 そして、ずっと、ずっと逸らさずにこちらを見つめる兄の瞳から滲み出てくる怒りとい

う感情を感じ取り、自分もひとときも視線を動かさず、もう一度繰り返して問うた。

「……おにいちゃん? ど、どうしたの? わたしは、そのままのことを言っただけだよ

?」

 その美夏の問いに眉間に皺を寄せて、京は呟きにも似たような声で口にした。

「……美夏、訂正するんだ」

「え?」

 美夏の疑問調の声と、そして疑問を感じている表情を見て、京は息を大きく吸うや否や

叫んだ。

「訂正しろ、美夏!」

 ビクッ

 京の、かつてない怒声に、美夏は一瞬  どころかしばらくからだが竦んでしまい、目
を見開いたままだった。

(お、おにいちゃん……?)

 そう、いまだかつて見たことのない顔、そして聞いたことのない声だった。

 いつもは……、普段はいつでも自分に対して優しく振る舞う兄が、怒りというものをま

ったく見せたことがなかったわけではないが、今、こうして自分に本当の怒りとも言える

怒りを見せていることが、美夏には信じられないという思いが生じるのと同時に、相当の

衝撃が走った。

 美夏はしばらくの間、何も言えなかった……。

 異常を越えているほど皺の増えた兄の眉間を見つめて、それから口元を震わせてなんと

か声にした。

「ご、ごめんなさい……」

 それを聞くと、京はやや安心したように眉間の皺こそ少なくしたが、まだ怒りを抑えら

れないようで、嘆息した。そして横になる。

 布団を深く被って、そして顔は美夏とは逆の方に向けたまま、声にした。

「……もう、言うなよ」

「……う、うん」

 表情の悟れない京をしばらく見つめて、美夏は次第に高ぶってくる感情を制御できずに、
病室の外へと向かうべく扉の前まで歩いた。

「……じゃあおにいちゃん、あの、わたし、また後で来るから……」

 無言で、こちらを向こうともせずにまったく動かなくなった京を見つめて  いや、見
つめるのが辛くなって、美夏はかぶりを振ると直ぐさま扉を開けて病室を出た。

 ガチャ

 ドアノブが閉まった時そんな音が鳴ったが、相当に低く、そして小さく抑えたつもりで

あった。

「…………」

 美夏はしばらく、京のいる病室の扉にもたれ掛かっていた。

 俯いたまま、じっと立ち尽くす……。

 美夏のいる通路を看護婦やら病人やらが通るが、そんなことは気にかからなかったし、

その前に視界に映らなかった。

 瞼は開いていた。

 それなのになぜ周りの様子が脳に伝達されなかったのかというと  

 俯いていたためと、そして瞳から流れ出てくる多量の大粒の涙のせいで視界が著しく途

絶えさせられていたからだ。

「……えっく」

 その中で美夏は、じっと歯を食いしばり、そしてその原因ともなる数十秒前の出来事を

深く考えていた。

(……おにいちゃん、どうしちゃったの?)

 兄の、自分に対する態度を深く考えた。

(なんで……、なんでそんなに怒るの…… )

 美夏は、兄の怒りというものはそれはそれであり得ないことではないと、分かってはい

る。

 そして、確かに自分の口にした言葉が正しいことではなかったにしても、あそこまでき

つく言わなくてもいいのではないかと、心の中で助けを求める声がしていた。

(わたしはただ……、ただ、おにいちゃんのことを心配してただけなのに……)

 実際にそうとしか思っていなかったわけではないのかもしれない。心のどこかで、玲と

いう、兄を殺そうと  いや、兄の首を締めていた女性に怒りが生じていたのかもしれな
い。

 玲は、兄を殺そうとした。それは、確かなことだと美夏は思っている。

 理由こそ分からないが、だが、そうした過去があるかぎり、美夏は玲を  

(……わたしは、許すことはできないよ……)

 許せない。

 その思いを昨日からずっと持っていた美夏。

 だが、そんな思いの対象である玲を、京は否定する。

 なぜ兄は、玲が自分を殺そうとしたと認めないのであろうか。

 その疑問でいっぱいになる。同時に  

(おにいちゃんにあんなふうに言われるなんて……、初めてだよ……)

 さきほどの、自分への兄の口調を思い出すと、美夏は衝撃を大きく感じるのと同時に、

悲しいという単調ではあるが重要な感情が心の中を走った。

 そして、さらにその悲しみから激情と化すものが、あった。

(……それもこれもみんな、玲さんのせいだ)

 兄があんなふうに自分にきつく言うことなど一度となかったこと、それを考えると、美

夏の頭の中を蜘蛛の巣のように張り巡らされる思いは、玲に対する怒りだけだった。

 兄の言葉に悲しみを感じたせいで流した涙。今でも流れ続けてはいる。

 だがその原因も今では、兄を変えた玲が昨日からいなくなったことに対する、怒りを共

用した悔し涙に近いものになっていた。

(玲さんなんて……玲さんなんて……!)

 胸の中で高鳴る鼓動と、そして頭を駆け巡る強い怒り、それから初めて見せた兄の強大

な怒りを、それぞれ複雑に絡み合わせて、美夏は顔を上げた。

「…………」

 しばらくの時間、静止したまま、美夏は……

(……そうだよ……、そうなんだよっ!)

 心の中で自分に言い聞かせて、堅い決意をした……。

 そしてすぐ、右手の甲で頬と瞳をきつく拭って溢れていた涙を完全にふき取ると、まだ

それでも赤い瞳は気にせずに、今し方感じていた様々な感情を完全に表面からシャットア

ウトすると、美夏は悲しみで一杯だった表情を笑顔へと変えて後ろを振り返り、もう一度、
兄の病室の扉を開けた。

 ガチャ

 ゆっくりと開いて、中の様子を窺いつつ足を踏み入れる。

 そこで美夏は、顔こそ見えないが兄が寝ているのを確認して、口にした。

「おにいちゃん、さっきはごめんね。わたし、おかしかったんだよね。玲さんはそんな人

じゃないもんね。わたし、よく考えてみたんだっ」

「美夏……?」

 何やら楽しそうに口にする美夏の言葉に奇妙なものを感じて、京が振り向いた。

 そして、ベッドに寝たまま顔を見せた京のそばへと歩み寄り、ベッドの脇に置いてある

椅子に座り、それからベッドと布団の間に両手を入れた。

「……み……か?」

 京の問いかけには笑顔だけで応えて、美夏は布団の中から目的のものを探り当てると、

満足して、大きく頷いた。

「だってね、おにいちゃんはわたしのおにいちゃんなんだもん。わたし、どうして分から

なかったんだろう。不思議だね……」

「……え?」

 兄が不可解なものを目の当たりにした表情でこちらを見てくる。

 実際、美夏は自分でも何を言っているのか分からなかったが、とりあえずそう口にする

ことで心の中は自己満足していた。

 美夏は、自分の小さな両手の中にきつく握られている兄の右手を、さらなる力で握り締

めると、それから疑問でいっぱいになっている兄の目を見て、「もう、わたしに怒ってな

いよね」と、そう思って笑った。

「おにいちゃん、玲さんは……どこに行ったんだろうね」

「……ああ、そうだね」

 さきほど妹に言った言葉を思い出しながらも、京はとりあえず相槌していた。

 美夏の表情に、何やら違和感を感じることを否定できずに。


                                       2


 朝が訪れたのだろう。

 そう思ったのは当然で、窓の外から明るく部屋の中を照らし出す光が見えたのだ。

「…………」

 彼女は眠っていたようだ。そんなあやふやな表現でしか言えないのは、それは彼女の今

が、多少、常人とは異なった寝方をしていたからだ。

「……朝?」

 朝が訪れたのが分かった。

 だが、それでもそんなふうに朝を迎えさせる太陽というものになんの喜びも感じない。

 セミダブルの大きさはあるベッド  だが実際にそのベッドを一度に全てを覆ったこと

はない  のそばで、彼女は死んだように屈んだまま動かなかった。いや、屈んだという
より、うずくまったといった感じだ。

 いつの間に眠っていたのか  。

 いや、ずっと眠っていたのだから、そしてそのことを分かってはいたのだから、その疑

問はおかしい。

 彼女は射し込んでくる太陽の眩しい光を頬に受けて、それからそのことからカーテンが

開いていたことに気づいて、立ち上がった。

 今の自分には似合わない、光という存在。

 彼女は、その光を異様な程に嫌悪し、窓際まで行くと、おもむろにカーテンを閉めた。

 夜と何も変わらない、闇を持った部屋へと還る……。

「……うぅ」

 涙が出てきた。

 悲しいという感情のみが自分には残っているような感覚を覚え、それから彼女は倒れる

ように床に膝をついて、それから流れるままに涙を流し、濡れるままに頬を濡らした。

 どうすれば……どうすれば  

 もう、ずっとこうしているような気がする。

 何もすることなく、そしてそうしようとする気力も全くなくなってしまった。

「もう……、もう戻れない……よね」

 そう言葉が出たこと自体、自分でも信じられない。それほど彼女は肉体的にも、精神的

にもボロボロになっていたのだ。

 戻れない……。

 そう、もう戻れないのだ。何があっても、誰がどうしようとも、もう戻れない。

「……でも、戻りたい……」

 だが意思は、そんな現実とは裏腹に戻ることを望んでいる。そして、心のどこかで戻れ

ることを期待しても、いる。

 そうなのだ。絶対的に戻れないわけではないのだ。

 その、戻りたいという衝動にからせてくる人物さえ、彼女を受け入れてくれれば。

 だが、彼女は自分のやったことに対するどうしようもない罪悪感、責任を考えると、そ

んな期待は持たない方がいいと、自分に言い聞かせるしかなかった。

 それに  

「……許してくれるはずが、ないよ……」

 そう口にすると、……心が痛くてどうしようもなかった。

(……なんで、なんであんなこと、したんだろう…… )

 胸を締め付ける思いが、さらにその焦燥を激情させる……。

 日の光の入らない今日もまた、太陽の出た朝など関係なく、いつものように何もしない

でただ時が過ぎるのを待っているのだろう。



「とうとうできなかったわけだ、な」

 いつもの、大抵の場合制裁を受ける場所としてやってくる、四畳程のアパートの一室。

 今日も彼らはここで、リーダーから制裁を受ける覚悟をしてやってきた。

 リーダー・ジンは、やはりいつものように、彼らの報告を聞くや否や、一言呟いて、そ

して嘆息した。

 ここまでは、いつもどおりだ。

「ジン……、すまない」

 レイバはいつものように、ジンに、通用はしないだろうがそう口にした。もちろん、そ

うしたところでこれからどうなるのかということなど、変わりはしない。

 だが、反射的にそう口にするよう、彼はできていた。

 と、ここまでも同じだ。

「……お前のその言葉は、聞き飽きた」

「  え?」

 レイバは、ジンの今し方、言った言葉に怪訝な面持ちで問い返した。脇にいるふたりの

男も、自分と同じような表情でジンを見つめているのであろう。

 べつに、たいした言葉ではない  仮にこの場に第三者がいたとするのなら、そう思う
であろう。

 だがしかし、ここにいるジンの手足となる三人の男にとっては、それが、とてつもなく

意外なものとして聞こえた。

 今まで、何も言わずにすぐに攻撃を加えられていた三人。

 ジンの、そのたったひとことが恐ろしく聞こえた。

 そんな彼ら三人の想像に応えるのか、ジンは、これはいつものように右手に持った一本

の棒を口元へと近づけて、そして大きく吸った。

「…………」

 レイバは、そのジンの仕草をじっと見つめた。

 見つめるしかなかった、見つめるのが最大の任務だった。

 さきほどの言葉が、妙に気になる。本当にたいした言葉ではないのだが、彼の頭の中を

妙に恐怖が覆っていた。

 ジンは、満足するまで棒を吸い尽くし、それから三人の男を順番に眺めると、今度は怒

りの感情を顔に現した。

「……お前ら……」

 その口調、言葉、声に、レイバを含む三人の男は歯を食いしばり、そして全身に力を入

れた。

 だがそれと同時に、レイバは今のジンの表情に見入っていた。

(……おかしい)

 おかしかったのだ、ジンが。

 ジンの頭の中は、いつも何を思っているのか定かではない。

 だがしかし、いつもは笑みを携えている彼の今の表情、怒りを露にした普段と異なった

顔が、レイバに違和感を与えた。

 だが  

(……どのみち、今日で俺たちの命も、終わりだ)

 付け加えて、レイバはそう心の中で独白した。

 というのも当然で、自分たちに与えられた仕事を、一カ月以内にまっとうするという面
                    ・・
目でいくらか、望みのものをもらった。

 そして、この世界でそれがどういう意味を表しているのか、レイバを含む三人は完全に

理解していた。その上で、引き受けた。

 仕事の依頼の期限、一カ月という期間が過ぎた今日、こうして報告にくる前からずっと

覚悟はできていたつもりだ。

 レイバは傍らに立っているふたりの男を見つめた。

 筋肉だけは、正面にいる自分たちのリーダー・ジンよりも勝っている大男  だが筋肉
だけが勝っているというだけで、実質的な『絶対力』はまるっきり及ばない。

 そしてもうひとりは、身長、体格ともに自分と同じくらいの、年齢もあまり変わらない

男。

(……悪かったな)

 レイバは彼らに心から詫びた。

 この場合、責任重大なのが自分だと分かっている。

 三人で組んでから、ジンのもとへやっていこうと決意したのは、レイバの独断であった。
 そのため  こうしておどおどして死を待たなくてはならなくなった。

 っと、ベッドの上に座っていたジンが、今度は横たわると、三人の男を交互に見つめて、
それから最後にレイバで視線を止めると、吐息を楽しんだ。

 楽しんだ  とはいえ、表情は強ばったままだ。

 それからジンは、しばらく間を開けた。

 三人は、そんなジンをただ見入った。

「……くれてやる」

 しばらくの間の後、ジンが沈黙を破った。

「  なに?」

 レイバの右隣にいる中背の男が、わけの分からないといった表情でそう問い返した。

 その声には、早くはっきりとさせたいという、恐らくは死を目の前にして気分的にも興

奮しているのだろう、焦ったものが感じられた。

 男の普通ではない声に口元を歪ませると、ジンは口を開いた。

「チャンスをくれてやる。三日間……、あと三日やる。それ以内に、やれ」

「……  わ、わかった」

 レイバは、唐突に言い出したその言葉に、なんとか応えた。

 彼が何を考えているのか余計に分からなくなった。

 仕事のことでは並でない厳しさを持った彼が、なぜこんなことを言い出したのか、まっ

たく分からない。

 だがしかし、今言ったジンのチャンスという言葉を否定する理由というものはない。

(……へへ)

 レイバは胸中で笑うと、大男ともうひとりの男と目を合わせた。

 そしてジンの方を見つめてから、口にした。

「任せろ。三日以内、だな。何を考えてるのかは知らないが、こっちとしては助かること

以外の何モンでもないからな。そのままの意味で、引き受けさせてもらうぜ」

「……ふっ、だがこれが最後だ」

「分かってるぜ」

 ジンの嘲りと警告を含んだ声に、レイバは笑って応えた。

 その後、ジンの部屋からレイバたち三人は出ると、道端にある、いつも常連として通っ

ているラーメン屋へと行った。

 ラーメン屋とはいっても、路上にある小さな屋台である。

 そこの親父とは面識があり  というより、よく食べにいくので自然と知り合いといえ
るほどの仲になっていた。

 三人は四人くらいしか座れない、これもまた小さな屋台にあう小さな椅子に座って、そ

れぞれに注文をした。

 親父がラーメンを作り始めるのを見ながら、レイバは独白した。

「……はは、しかし三日間命が伸びたとはいえ……な」

 レイバは、ジンに言われた言葉をそのまま思い出していた……。

 今朝、まさかこれ以上このラーメン屋に来ることはないと思っていたのに。

 こうしてまたここに来れたことが嬉しいことであるはずなのだが、レイバは、なんとも

複雑であった。

「……どうした? 助かったんじゃねぇか。何も言うことはねぇだろ」

 大男の声がして、レイバは彼の方を振り向くと、軽く苦笑した。

「まぁな。でも……」

 言葉に濁りを残して、レイバは俯きに思い悩んだ。

 三日間……。初めは喜んだが、よくよく考えると、それがなんなんだろうか。

 一カ月かかってもできなかった仕事。当初は、もっと早くに終えられるだろうと思って

いたこの仕事。

 だが実際にやってみて、その考えは甘かった。

 そんな仕事の期限を、あと三日延ばしたところでできるというのであろうか。

 レイバにとってはすぐに死に至らないというだけのことであって、それ以上、気休めに

もならなかった。

「『でも』、なんでやんすか?」

 左隣にいる男が、苦い顔をしたレイバに問いかけてくる。

 レイバは、言った。

「確かにな、三日生きられるだけ、それはそれで助かる。でもな、ただそれだけのことだ

ろ。俺らは、あと三日しか生きられない」

「おいおい、なに言ってんだ、お前」

 レイバの言葉に、多少、顔を引きつらせて大男がそう言った。

 っと、

「おらおら、おめぇら沈んだ顔してんじゃねぇよ。へいよ」

 親父が三人に元気付けるためなのか笑顔でそう言って、もうできたラーメンをそれぞれ

に出した。

「サンキュ」

 同時に三人がそう礼を言って、目の前に置かれた食い物に手を付け始めた。

 じゅるじゅるという音を立てながら、無言のまま口に入れていく三人。

 大男が、いまだ苦い表情を変えないレイバに言った。

「あと三日ったってな、レイバ。それだけ余分に生きられたと思えば、十分だ。いや、そ

れ以前に成功させりゃいいんだよ。違うか?」

「違くはない。だが、そんな簡単な問題じゃない」

「うるせぇな、お前は。ごちゃごちゃ言うな。心気くせぇぞ。やるしかねぇんだよ、俺ら

は」

「そうでやんすぜ、親分」

 ふたりの男に両脇からそう言われて、レイバはしばらく口を閉ざした。

(……まぁ、お前らの言うことが正しいんだけどな)

 胸の中で、自分がうじうじしているような気がしてならない。それからの解放を求めて

もいるような気も、する。

「あと三日だ。やるぜ、レイバ」

 大男が、そんなレイバの感傷を崩壊させるがごとくそう口にしたのをきっかけに、レイ

バは軽く頷いて、心の中で諦めのある思いを、逃がした。

 どこかへ、逃がした。

 そして、それを確かめるように、レイバは大きく笑みを浮かべた。

「そうだな。やるしかねぇよな、お前ら。明日から思いっきり張り込むぜ」

「ああ、もちろんだぜ」

「でやんすっ!」

 三人は、あと三日という限られた時間の中で、だが最後まで諦めることなくやっていこ

うと決意した。


                                       3


 午後の花屋・ホーソーン。

 そろそろ今日のアルバイトの時間も終わりを告げる。

(……あぁ、疲れたぁ)

 何げなく、いつものように胸中で美夏は一日の終了の合図を言葉で自分に言い聞かせ、

それから溜め息にも似た吐息に和やかな気分を味わい、それから店内を見渡した。

(今日のお客さんは、ちょっと少なかったな……)

 美夏はそう思った。

 べつに、店内の客入りが多かろうと少なかろうと、バイトとして雇われている美夏には

あまり影響はないのだが、そして気を咎めるほどのことでもないのだが、なんとなくそう

思ってしまった。

 三時五十分。

 仕事に入る時刻が、大抵十二時。仕事から上がる時刻が、大抵四時。

 今日も、四時に契約終了である。

 店の天井に取り付けてある丸い時計をふいに見上げて、美夏はなんとなくここに来た当

初、疑問に思ったことをもう一度思い返してみた。

(なんで天井に時計を付けたんだろ)

 美夏の疑問ももっともで、真上に時計があるのである。

 時刻が気になったら、真上を見上げる。店内のちょうど中央の天井辺りにそれはあり、

初めてやってくる客の中でそれに気づいた者は少なかったが、やはりその反応というもの

はおかしなものがあった。

 と、まあそんなどうでもよく何げない疑問を胸に、美夏はレジにいる店員のところへと、
これもまたふいに近寄って、そして口にした。

「あの天井の時計って、やっぱり梶野さんがあそこに付けようって考えたんでしょうかね

……」

 レジの女性店員は「さぁ……」と答えてから、それから美夏と同じように天井に取り付

けてある丸い時計をしばらく呆然と眺めて、そして言った。

「梶野さんならありえるかも……しれませんね」

「そうですよね」

 しばらく呆然と時計を眺める。

 ふたりは、店内に入ってきて、レジにいる女性店員と雑用係の美夏がいることになんと

も気まずく、花を買おうと思ってもなかなか買いにくそうな表情をしている客のことには

気づかないでいた。

 数瞬後、それに気づいたレジの女性店員が「あ、いらっしゃいませ」と言ったのをきっ

かけに、美夏も我に返って自分の持ち場へと戻った。

 ちょうどその時、

「あ、柏田さん、上がって下さい。今日も四時でしたよね」

 店の奥、クルールームの方からそう声がした。

 振り返ってみると、いつも終わりの時刻を告げてくれる男性が、クルールームの扉を開

けて、ちょうど店内とそれの境目にいた。

 美夏はその言葉を聞いて、いつものことだがほっとして口にした。

「はい。お疲れさまでした」

 次いで「やっと終わったっ」と呟いて、美夏はクルールームの中へ戻った男性のところ

へ向かうがごとくそちらへ歩く。

「柏田さん、もうアップなの?」

「はい」

 レジにいる女性店員がふざけながらも恨めしそうにこちらを見て言ってくるのに、美夏

は苦笑で応えた。

 十畳ほどのクルールームへと入ってから、中でさきほど美夏に終了の合図を告げた男性

と、そしてその男性と何やら話をしているふたりの男女がいるのに気づく。

 その三人が、エプロンを外しながら部屋に入ってくる美夏の姿に気づいて、それぞれが

笑顔で口にしてくるのに、美夏は笑顔で応えた。

「ふぅ」

 疲れのせいか溜め息をついた。

 それからロッカーまで行って、エプロンのポケットに入れておいたキーを取り出して鍵

を開ける。

 ばちん

 中に入れておいた、唯一の荷物  小さな、あまり物が入りそうもないバッグを取り出
して、外し終えたエプロンをそれの代わりに中に入れる。

 そして再び、今度はべつに鍵を閉める必要もないにはないが、一応、閉めておく。

 かちん

「  ん?」

 変な音がした  ような気がした。

 いつもの迫力あるがっちりとした音ではなく、奇妙にほどけたような、そんな音。

 なんとなく、何かがかみ合っていないような気がした。

(……気のせいかな)

 とりあえず、鍵はしっかりと掛けたことだし、それに、とりあえず今日のところは中に

はエプロンしか入っていないわけだし、「まぁ、いいか」そう独白して、美夏はロッカー

のことは忘れることにした。

 そしてロッカーから取り出したショルダーバッグを右肩に掛けて、さっきから楽しそう

に話している三人の、自分よりは幾らか年上の先輩方に挨拶をする。

「お先に失礼します」

「あぁ、はい。お疲れ様でしたぁ」

「お疲れさま」

「お疲れさまです」

 これまた笑顔で返してきてくれる先輩方に、美夏はやはりこれがあるからこそ、自分は

家へ帰る時は笑顔で帰ることができる、そう思いながら笑顔で店内へと出た。

 レジにいる女性店員にも挨拶をして、返ってくる挨拶に加えて嘆きらしき言葉に、美夏

はやはり苦笑で返した。

 店内から出て、一階への階段を下りる。

 階段の途中辺りから、なんとなく伸びをして、美夏は目を強く瞑った。

「あ~、今日も疲れたっ」

 とりあえずそう口にすることが、気休めとなってくれる。

 美夏はそんな疲れから解放されるように、一階へと下り終えようとして  

 そこで二階の方から足音が聞こえた。

「ん?」

 やけに急いでいるようなので、何かと思い、ふいに見上げてみると  

「柏田さん、ちょっと、ちょっと待って下さい」

「あ……はい?」

 さきほどの男性  終了の合図をいつも告げてくれる、Aクルーの男性がいた。

 二階の階段を早足で駆け降りてきている。

「あの、なんでしょうか」

 美夏は、一階へ完全に下り終える前で、彼が下りてくるのを待ちながら、なんの用かと

疑問に思いながら上を見上げた。

 クルールームにいた、今、階段を駆け降りてくる男性を含めて三人のアルバイトの人達

とは、美夏は、どこかへ一緒に出掛けたり、遊んだりするほどの仲ではないがそれなりに

いろいろ話したりして、仲の良い関係ではある。

 特に、基本的にいつもいるレジの女性店員とは、いつも店内で仕事をしている美夏は話

をよくしている。

(……なんだろ)

 だがこうして呼び止められることは皆無に等しく、まぁ仕事上、呼ばれることがあるに

はあるが、こうして帰宅途中に呼び止められることは初めてだったので新鮮な感じさえし

た。

 まあそれでも、やはり仕事上のことでの話かもしれないが。

 ともかく美夏は、自分を呼び止めて下りてくる男性を見入った。

「……すみません、柏田さん」

「あ、いえ」

 Aクルーであり、そして二十代半ばである、自分よりもあらゆる意味で上回っていると
          かねこ  たかし 

思えるその男性  金子 隆史は、自分だけではなく、花屋・ホーソーンのアルバイト

の人達全てに優しく、そして身分関係なく言葉遣いがよいことと、そして誠実そうな人柄

  実際に誠実だと感じる人は多いことで、女性だけではなく男性からもそれなりに人気
があった。

 信頼もあり、親しみもあるということで、美夏も彼を嫌いではないが、言葉遣いが妙に

年下の自分にはしっくりこないことが、しばしば違和感が感じられる。

 と、まぁそんな彼がこうして自分に用があることに半ば不可解でもあるのだが、とりあ

えず聞いた。

「なんでしょうか」

 美夏の問いに、隆史はしばらく美夏を見つめて、そしてそんな自分の視線に気づかない

でいる美夏のきょとんとした表情に一瞬だが唇の端を曲げて、頭をかさかさと掻いた。

「柏田さん。ちょっと突然なんですが……」

「はい?」

「マネージャーから、何か言われませんでしたか?」

「……え?」

 隆史の唐突な質問に、美夏はわけが分からずそう言葉にしていた。

 いや、正確には言葉になっていなかったが、とにかく彼の言っていることが分からずに、
だが一応は記憶にある、花屋のマネージャー・佐々木と会った時のことを思い浮かべてみ

た。

 佐々木と会ったことがあるのは、一回だけ。花屋での仕事を始める際に、簡単に挨拶を

して仕事を軽く教わっただけだ。

 その時、べつに何も言われなかったことと、それ以来、よくよく考えてみると、彼とは

顔を合わせていないことを確認する。

 隆史の不安そうな表情にいささか疑問を覚えたが、とりあえず彼の問いに答えた。

「……あの、わたしマネージャーさんとは全然会ってないから、何も言われてはいないん

ですけど……」

「そ、そうですか」

 美夏の返事にそれだけ言って、隆史は額から、いつの間に出てきたのか大量の汗をふき

取って、大きく息を吐いた。

 美夏は、そんな隆史のなぜか安堵する様子に、だんだんとふくれあがる疑問に疑問を重

ねて、つい問うた。

「あの、なんなんですか、それ」

「いや、なんでもないんです」

 そんな美夏の疑問を簡単に返して、隆史は胸を撫で下ろすと、今度ははっきりとした表

情で、だが笑顔を含めた奇麗な表情で口を開いた。

「柏田さん、もしかしすると、今後、マネージャーが何か言ってくるかもしれませんが、

それは気にしないでください」

「え?」

 隆史の、まるで本当に佐々木がこれから何か言ってくることを予期したような口調に、

美夏は何やら嫌な予感を覚えながら、とりあえず続けようとする隆史に聞き入った。

「もし何か言ってきたら、僕に話して下さい。いいですか?」

「……あ、はい」

 隆史の説得力のある、そして言い聞かせる何かがあることから、美夏はそのまま流れに

沿うように頷いた。

「うん、それならいいんです。お疲れさまでした」

 隆史の明るくなった声が耳に響く中、美夏は彼が階段を昇っていくのを呆然と眺めてい

た。

(……隆ちゃん、……何が言いたかったんだろう……)

 隆史  隆史はアルバイトや社員の人達のほとんどに、隆ちゃんという愛称で呼ばれて
いる  が、ここまで何かを確信したような感じで言うことに、美夏は不安が込み上げて
くるのを防げなかったが、とりあえず彼は信頼できる人だということと同時に、確かなこ

とを言う人だと思い、ひとり頷いた。

 とりあえず隆史の言っていた佐々木のことを考える。

(……一応、隆ちゃんの言ってたことは覚えておいた方がよさそうだね)

 そう思って、完全に階段を下りた。


                                       4


 朝の日差しが、最近やたらと眩しいような気がする。

 同時に、そのせいで体中からわき出てくる異臭のする汗に、気分的に不快を感じずには

いられない。

 腋の下に滲み出ている汗を強引にふき取って、大男は道行く人々を眺めた。

「……レイバ、どうする?」

 彼の問いに、何を聞きたいのか理解できずに、傍らにいるレイバは、眉を傾けた。

「何がだ?」

 そしてもうひとりの男も、大男に向かって疑問の視線をぶつけた。

 そのふたりの態度に、大男は渋面になって道から彼らの方を振り返った。

「何がって……、今日が期限だぞ。このままここにいたって、マジで見つかんのかよ」

 何やら焦った表情で言う大男に、レイバは深く頷いて、そして大男の言うことに、確か

にそのとおりだと思い、だが冷静になって口を開いた。

「……分かってる。でもな、この辺で一番人どおりの多いところっていったら、この通り

だろ。可能性を考えて、最後まで諦めるな。見極めるんだ」

「……ちっ、分かってるぜ。でもな、俺は、怖ぇんだよ」

 レイバの言葉に、やはり焦った様子を隠しきれず、そして不安そうな表情で呟く大男。

 そんな大男に言い聞かせるように、レイバは口にした。

「でも、やるしかないんだよ」

「……ああ」

 大男とレイバの、なんともピリピリとした会話になるべく加わらないようにしながら、

もうひとりの男は胸中で呟いた。

(……親分に兄貴、……あっしたちの命も、今日が最後なんでやんすね……)

 自分たちの命が今日終わろうとしていることに、多少の恐怖を感じることは否定できな

いが、それでもなぜか不安らしき感情が浮かんでこない。

 三人はそんな中、目の前の大通り  スコール通りをしばらく、そしてずっと見つめて
いた。

 っと、そんな見つめ合う時が数時間と続いた時、

「……ん?」
                                                          ・・
 レイバは、今までずっと求めていた、そして仕事の対象であるものが、スコール通りの

脇道にいる自分たちの目の前を通り過ぎていくのを発見した。

「お、おい。……あ、あれは、どうだ? イケそうじゃねぇか 」

 ターゲットに向かって、今までずっとらしきものを発見できなかったことから相当の期

待を含んだ声で、大男が叫んだ。

「……よ、よし、いくぞ!」

 大男の声に、胸の奥底から吐き捨てるように出てくる興奮をレイバは感じとり、そして

今日、自分たちの仕事を達成できるかもしれないという、命のかかった期待を胸にして、

ゆっくりと脇道から歩み出た。



「……どうしちまったんだろうな」

 京と茂也は、カフェにいた。

 カフェ、とはいっても、よく顔を出す、カフェ・ホーソーンではない。

 なんとなく、たまには気分を変えてみるのはどうかということで、行ったことのない店

へと行こうということになり、ドリームストリート沿いにある、小さな店に入った。

 本当に小さな店で、客も数人しかいない  というより、数人しか一度に入れない。

 ちょうど昼に差しかかろうとするこの時間、店内にいるのは、京と茂也と、そしてレジ

にいる店員だけだ。

 注文を承る店員がおらず、とりあえずどうしたものかと思いながらも、今日はべつに何

か注文しに来たわけでもないので、あまり気にはしないでおいた。

 そんな中、茂也がずっと呆然としてどこか遠くの方を見つめているのが、京には気掛か

りだった。

「……もう、マンションの部屋の方は違う人が入ってたからな……」

 さきほどの茂也の呟きに、べつにこんなことを言う必要もなかったのだが、とりあえず

京はそう口にしていた。

 京は、自分の家で同居していたはずの玲がいなくなってから何日から経って、まだ戻っ

てこないことに疑問と心配の両方を感じて、茂也にそれを告げた。

 遊園地に行った日から玲がいなくなったことは知っていた茂也だったが、まだ戻ってこ

ないことに彼は顔をしかめている。

 ずっと、ずっと顔が歪んだままの茂也を見て、京はなんとも言えなかった。

 玲の、連絡先が分からない。連絡先が、ない。

 昔……、ひと昔前住んでいたマンションの方も、今は他の人が住んでいることを確認で

きた。

 玲と仲のよかった佳子の連絡先は、分からない。

 玲の実家の連絡先も、分からない。

(……どこかで暮らし始めたのなら、言うことはないんだけど)

 心の中でそう付け加えて、そして親戚や知人の家に泊めさせてもらっていたりするのな

ら、それはそれで心配することはない。

   だが、

「……なんかさ、嫌な予感がするんだ、僕」

 今までずっと呆然としていた茂也が今の京の言葉を聞いて、少し正気を取り戻した。

「おいおい、やめてくれよ、京。そういうこたぁ、言っちゃいけないもんだぜ……」

「……うん、分かってるよ。実際に無事でいてくれるのなら、それが一番だ」

 京の嘆息を見つめて、そして今の京の言葉に幾らか満足すると、茂也は再び、魂を吸い

取られるように視線をどこかへやってしまった。

(……本当に、無事でいてくれればいいんだけど)

 心の中でもう一度、そう思った。

 だがしかし  

 京の玲への心配。茂也の玲への想い。

 それがそのまま彼女へ伝わることは、なかった。



 眩しい太陽とは裏腹に、彼女の心は闇に包まれていた。

「…………」

 それから、今にも潰されそうになりそうな、まだ理性のある心が、彼女を優しく包みこ

もうとする。

 だがそれを、彼女の胸の奥に潜んだ本当の、潜在的な感情が拒む。

 彼女は、ただ意味もなく、当てもなく、放浪と街路を歩いた。

「……あぁ」

 なんとなく声に出てしまった。

 久しぶりに口から出たその言葉が、どうしようもなく彼女を怒りに追いやった。

(……汚い声!)

 心の中で、今し方、無意識に出てしまった自分の声に苛立ちを感じて、彼女は喉元を思

い切り掴んだ。

「……うぐぐっ」

 数秒、絞め続けた。

 彼女のそばを通りかかる人々が、身体障害者を見るような目付きで彼女を見てくるが、

彼女はそれに悪魔の睨みで追い返すと、喉を絞めるのを再開した。

 大きめの建物でも、せいぜい六階程度の、多種多様のビルが立ち並ぶ通り。

 そこまで突発して進んだ経済力でもないが、それなりに環境面でも経済面でも伸びてき

ている、スコール通り周辺の町並み。

 彼女は、そのスコール通りを歩いていた。

 いや、今は立ち止まって喉元を締め付けている。

(……このまま……)

 だんだんと苦痛に苛まれていくことに意識が集中していくが、心の中は言葉を発した。

(……いっそ、このまま)

 このまま、死んでしまいたい……。

 そう思った。

 本当に、彼女は自分自身の意思で、死んでもいいと思った。

 だが  

「……ぐっ」

 本当に命の危うくなる寸前で、手を放してしまった。

 そのまま喉を締め付けることが、死に対する恐怖を間近に感じた時は、やはりできなか

った。

「……くそっ!」

 そんな自分に怒りを感じて、彼女は自分の細い腹部を思い切り  

「  うっ」

 殴りつけた。

 そして路上で蹲ると、しばらく苦痛に耐えるために屈みこむ。

(……はは……、なんなんだろう。ほんとに、なんなんだろうね……)

 自分が、情けなかった。涙が出てきた。

 今、腹を殴ったせいと、そしてそんな自分の情けない行動に怒りを感じたため、涙が止

められない。

(馬鹿……、あたしの馬鹿! あんたなんて,あんたなんて……!)

 顔をしかめて、歪めて、崩して、彼女は心の中でそう叫び続けた。

 それからしばらくして、彼女はなんとか立ち上がると、再び歩みを進めた。

 意味もなく、進めていた。

「……あたし、どうすればいいんだろう」

 独り言にして、そう自問した。

 朦朧として、そして目を虚ろにしながら、彼女はゆっくりと、ゆっくりと、目的なく、

これからの人生に希望を持つことなど全くなく、歩いた。

 ただ、歩いた。

 なんで歩いているのかは分からないが、とにかく数日借りていたホテルに泊まるお金が

尽きたため住まう場所がなく、今、自分はどこか当てを探しているのかとも思えるが、彼

女は自分自身、分からなかった。

 家がない、それだけなら、自分でもなんとか立ち直っていくことはできる。

 だが  

(……京ちゃん)

 心の中で呟いた人物が、彼女をどうしようもなく地獄へ落としたような心境にさせる。

 一週間も前は、生き生きとした表情でいられた。そんな自分が懐かしい。

 だが、今の彼女は、げっそりと暗い顔をした、浮浪者そのものであった。

 彼女は、ふと胸の中で揺れ動く思いと、そしてその記憶を辿った。

 好きな人に、自分と付き合うよう告白をして、そしてOKをもらえなかったことからふ

いに彼の首を絞めてしまったこと。

(……京ちゃん、本当にごめんね……)

 本当はそんなことをするつもりはなかったのだが、激しく燃えていく感情が押さえられ

なかった。

 だがそんなことは関係ない。彼女が彼の首を絞めたことには、変わりはないのだ。

 そしてその彼が、死に至らなかったことは、正気を取り戻した今の彼女は知っている。

 しかし、その彼が自分に対して今、どんな想いを持っているかを考えると、彼女は胸を

締め付けられた……。

 まだ彼のことを愛しているが故に、彼女は今、心がどうしようもなく不安定だった。

 仕事をしようという意欲も沸かない。希望という言葉を知らない人間になってしまった

ような気もする。

 できれば彼にしっかりと謝って、そして話をしたい。恋人としてでなくていいから、も

う一度、じっくりと話をしたい。

 そして、もう一度同居でもなんでもいいから、そばにいたい。

 そんな思いがあるには、ある。

(……でも、そんなことはできない)

 しかし、できない。

 首を絞めた自分に、彼がどういう態度を示してくるのか、彼女は怖かった。

 だがやはり、話をしたい……。

(……どうしたらいいんだろう)

 彼女は、胸の中で揺れ動く葛藤に悩まされた。

 道行く人々の、中には幸せそうな顔をしている人に妬みを覚えながら、ずっと歩き続け

た。

 明日が、見えない。

 こうしてただ、毎日のようにふらふらと路上で足を動かしていくこと、それが彼女を改

善してくれるものとなるわけがない。

(もう、どうでもいい……)

 そう、ここ数日間、何もなく、そしてこれから自分がどうすればいいのかという答えが

見つからずに、彼女はふらふらと歩き続けていた。

 結局、何も自分に教えてくれるものなく、影響を与えてくれるものなどない。

 そう思っていた。

 しかし  

「……ちょっとすみません」

「  え?」

 ふいに、ふらふらとしていた彼女の後方から、何やら男の声がした。

   なんだろう。

 そう思いながらも、意識がはっきりしていないと言っても過言ではない彼女は、なんと

なく振り返った。

 スコール通り。そう、ここはいろいろな人々の集まる、それなりに活気の溢れた大通り

である。

「ちょっとよろしいですかね」

 彼女はそこで、見知らぬ男がひとり、何やら脇道の方をちらちらと見ながら自分の目を

見て、不気味な笑みを携えながら腕に触れてくるのに気づいた。

「……なに?」

 そう声にする。

 いつもならばここで無視していく彼女も、だが今は心の底が不安定で、何かきっかけと

いうものが欲しかったためか、ゆっくりと脇道へ案内しようとする男に腕を取られ、つい

ていった。

 何か答えとなるものが欲しかった彼女。その答えの問題ともなる彼に、彼女は答えが欲

しかった。

 その答えとなるものがこうしてやってきたと思えば、それはそれで彼女にとっては確か

に答えでもある。

 だがしかし、

(……もう、どうでもいいや……)

 男に腕を引かれて、スコール通りからそれてた脇道へと入る、彼女。

 その答えが、彼を強く想うが故に不安定な心を持ってしまった彼女を変えてしまった。

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