2017年2月19日日曜日

明日に向かって 第5話



 ……先輩が死んでしまった。

 明るくて、その明るさが逆に過剰すぎて困ることもしばしばあったが、……それでも俺の一
                                    ひと
番信頼のおける、そして心の支えだった女。

 ……その先輩が、さっきのくだらないとしか言いようのない騒動のおかげで、……死んでし

まった。

「うぅ……」

 無性に、誰に対するものではなく、何に対するものでもなく、とにかく悔しさと悲しさでい

っぱいだった。

 無意識に俺は泣いていた。

 …先輩が死んだのは、俺のせいだ。あの時、俺が止めてさえいれば!
                                       うごめ
 そのことだけが、真っ暗な闇の中で複雑に蠢いていた。

 …なんだか、疲れたよ。

 先輩のこと、それを考えると疲労を感じる。

 ともかく、俺は自分のことを考えた。

 そういえば、世界は真っ暗だ。何も見えやしない。何も聞こえやしない。

 ただ顔の上に何かが乗り掛かっているような、重みのある感触を感じるだけだった。

「んん……」

 声は出る。だが、真っ暗だ。

「俺も、死んだのか?」

 自問したが、そうではないことがすぐに分かった。

 それは、ゆっくりと瞼に力を入れることによって明らかとなったからだ。

 真っ暗な世界。……それはただ単に、目を瞑っていただけのこと。

 ようするに俺は眠っていただけのようだ。

「……なんだ?」

 俺は、目を開けた。

 しばらく眠っていたせいもあってか……いや、実際にどれくらいの時間、眠っていたのかは

分からないが、とにかく最初に視界の中に映ったものは、肌色っぽい、酷くブレたものであっ

た。

 その肌色のものが俺の顔の上に乗っていることは、顔にのしかかる重みからすぐに分かった

んだが、その不可解なものが何であるかまでは俺には理解できなかった。

 それが何にしろ、俺は起き上がろうとしたが、体中が重く、そして響くような痛みを感じて

動かない。

「いつつ……」

 痛みをこらえながら俺は顔を上げた。

 ゴンッ

「いて!」

「きゃっ」

 顔を上げた拍子に、何か、……さっきから気になっていた肌色のものにぶつかり、俺は痛打

して再び地に頭を落とした。

 いや、それはそれとして、『きゃっ』という声に俺は気を引かれた。

 もう一度、今度はしっかりと目を見開いて、俺は腰を起こした。

 この時やっと気付いたんだが、俺はどうやらベッドに寝かされていたようだ。新鮮な感じの

ベッドで、眠っていて気になってしまうほどふかふかしていた。

 加えて部屋には見覚えがあった。

 上を見上げると、ところどころに亀裂の入った天井。

 周囲を見ると、一台のテーブルと、それを挟んで三つの木製の椅子がある。

「ここは、……彼女の部屋?」

 誰に問うでもなく、俺はそう呟いていた。

 …なんで俺は『彼女』の家のベッドで眠ってるんだ?

 不可解な状況にそんなことを考え、自然に俺は視線をゆっくりと下げていった。

 部屋の床に比べて五十センチ高くなっているベッドから、俺の視線は、人をとらえた。

「!?」

 ベッドのすぐ横に、倒れて頭を両手で押さえながら下を向いている女性。おそらくさっき、

俺の頭とぶつかった時に声を出した人物。

「先輩っ!」

 『唐突な出会い』とも言える出来事に、俺はベッドの上から大声を発した。

 そう、先輩がいた!

 俺はその時、何も口にはすることができなくなり、ただ絶句した。

 服装、顔、髪、容姿、どれにおいても、頭を痛そうにしているのを除けばまぎれもなく先輩

であった。

 …夢、……なのか?

 そう思いながらも、俺は驚愕に目を大きく自分でも分かるほど見開いて、ベッドから勢いよ

く降りた。

「いで!」

 床に落ちた軽い衝撃が、全身を響かせる。痛みは骨の髄まで伝わってきたが、今の俺にはそ

んな痛みは気にならなかった。

 いまだに頭を、……正確に言えば額に近い部分を摩っている先輩のそばに、俺は近寄った。

「先輩っ、先輩なんですね!」

 自分でも情けないほど裏返った声を出していた。

 そんなどうでもいいことが心地よく感じられ、俺は先輩が顔を上げるのを待った。

「……よかった。本当によかった」

「さっきから何言ってんのよ」

 俺の心底安堵した声を聞くと、先輩はゆっくりと顔を上げた。

 そばにいる俺の顔を見つめてくる。

 …やっぱり先輩だ!

 その表情には困惑と疲労と、そして微かな微笑みが含まれていた。

 その表情で、俺はつい涙が出てしまった。

「せ、せんぱい。死んだかと思ってた……」

「勝手に人を殺さないでよね」

 先輩は苦笑して、摩っていた手を放すと、静かに立ち上がった。

「まったく、泣かないでよ」

 俺は床に腰を下ろしたまま、先輩の方をずっと見つめていた。

「さ、ぼけろん」

「あ、はい!」

 差しのべられた手を取って、俺はゆっくりと立ち上がった。

「ゆ、夢じゃないんですね!」

「当たり前でしょうーが」

 …先輩、生きてたんだな! 夢じゃないんだ、よかった!

 俺は胸中で何度もその言葉を繰り返して、先輩の顔を見ていた。

 奴に撃たれたはずの先輩。それなのに元気そうにしている先輩。

 そんな先輩には疑問を感じたが、今はそんなことどうでもよかった。

 俺の視線に、どうしてか先輩は赤面して顔をそらしてしまった。

「と、とにかくさ。ぼけろん、体、痛くない?」

 その問いは、先輩の『らしさ』があって、答えるのに不思議と喜びを感じた。

「ええ、全然!」

 軽い気持ちでそう答えた。

 正直なところ、さっきからどこか痛むのだが、たいして気になるものでもないだろう。

「俺は大丈夫ですけど、先輩は?」

 俺は、とりあえず落ち着きを取り戻し、そう聞いた。

 少なくとも俺には、自分のことよりも撃たれしまった先輩の方が気になっていた。

 奴に撃たれた先輩。

 銃で撃たれたからといって必ずしも死ぬとは限らない。当たり所が良ければ、さほど心配し

なくてもいいことくらい、俺にだって分かっている。

 だが、先輩の場合は心配だった。撃たれた直後、死んだように動かなかったのだから。

 とにかくそんなわけで、今こうして元気な笑顔でいられる先輩のことが、気になってもおか

しくはないだろう。

 先輩は俺の問いに、しばらく黙り込んで俯いた。

「う~ん」

「え?」

 とりあえず落ち着くのを待ってから、……そんな仕草で先輩は微笑した。

 続いて俺の顔を見る。

「まぁ、大丈夫、……なのかな、これって」

「?」

 そう言って、先輩は白いシャツの襟首のボタンをふたつほどはずした。

 シャツの透き間からは、胸元を隠すように巻かれている包帯の姿が、痛々しく覗かれた。

 …胸を撃たれていたのか。

 心臓に命中しなくてよかった、などと思いながら、俺は先輩の顔を覗いた。

「けど、今はもう激しく動かなきゃ、痛みも感じないからね。あたしは大丈夫だよ」

「そうですか。けど手当ての方は、先輩、自分でやったんですか?」

「まさか。『彼女』が助けてくれたんだよ。手当てとか、全部ね。ぼけろんも彼女が応急処置

してくれたから、助かったの」

「彼女が?」

「そ」

 先輩の話を聞いて、俺はしばらく考え込んだ。

 …彼女、そんなことできるのか?

 俺は部屋を見渡して彼女を探しながら聞いた。

「彼女、そんなことできるんですか?」

「できるみたいだよ。小さい頃から医療関係のこと、勉強してたって言ってた」

「そうなんですか。で、彼女は今どこに?」

「気分転換に、お花見てくるって」

「後でお礼言いにいかないと」

「だね」

 そこまで言って、俺はふいに『奴』のことを思い出した。

 テーブルのそばにある椅子に座った先輩を見て、俺は問うた。

「そうだ、奴は、奴はどうしたんですか!?」

 先輩は多少困惑したような表情で、頬を掻いた。

「……ぼけろんのおかげで、そこに寝てるよ」

「え?」

 『そこ』と言われ、俺は先輩が視線で示した方向を見た。

 俺の座っているベッドから少し離れたところに、もうひとつベッドがある。

 …さっき、あんなところにベッド、あったっけ?

 部屋を数回見渡していたのにも関わらず、ベッドがあることに気付かなかった。

 とにかくそのベッドには人が眠っていた。

 顔中包帯だらけである。どういった怪我をしたらそんなふうになるのか。

 『火傷か?』疑問に思いながら、俺はそのベッドに眠っている人間を見ていた。

「………」

 顔こそ見えないものの、『それ』は奴だと、俺には直感的に判断できた。先輩もそう言って

いことだし。

 だが、俺はそんなことよりも気になることがあった。

 銃口をすでに俺の方を向けていた奴に跳びかかった俺。

 あんな至近距離だったんだ。はずれるわけがない。

 ましてや、奴は、おそらく『その世界』のプロだ。

 それなのに、俺はこうして無事な姿でしっかりと生きている。それどころか、奴はベッドで

重傷を負っている。

 ……記憶がない。意識を失う前のことが思い出せない。俺は結局何をしたのか、まるっきり

憶えていなかった。

「先輩。俺、奴に何を……? いや、その前にどうして俺、生きてるのか……、憶えてないん

です」

 嘆息して、俺は問うような口調で呟いた。

「……ぼけろんねぇ、弾、三発も受けたんだって。そう彼女が言ってた」

「さ、三発!?」

「うん。それでも奴を、倒したんだって」

「………」

 俺は、自分でもそのことが信じられなかった。

 弾を三発も受けて、……どこをどう撃たれたかは俺自身、分からないが、それでも奴を倒し

たという事実に驚いた。

 だが同時に、なんとなく満足感のようなものを感じた。

 それはそれとして、とにかく俺にはその時の記憶はないが、奴を俺の手で倒したというのは、
事実らしい。

「まあ、とにかく」

 奴の方をじっと見ていた俺に、先輩は切り替えるように言い出した。

「ぼけろんも無事だったんだし、よかったよね。あたしもスッキリしたし」

「え、スッキリ?」

 俺も先輩も、なんにしろ無事だったからよかったとは言えるが、『スッキリ』とはなんなん

だろうと思い、俺は先輩に問い返した。

「なんでですか?」

「い、いや。まぁとにかくそういうコトっ」

「……そうですか?」

 焦ったように舌を出す先輩に、俺はとりあえず同意しておいた。

 っと、それを隠すように先輩は両手をポンッと合わせて、

「彼女、ちょっと心配だから見にいってくるね。さっきの出来事がショックで、心の中、不安

定だと思うから」

「あ、はい」

 そこまで言うと、先輩は椅子から降りて大きく伸びをした。

「あとそれからね、トラック、道に停めたままだったでしょ? そこまで送ってくれる当てが

できたから、そのことは心配しないで」

「あ、そうですか。助かりましたね」

 トラックのことを聞いて、俺はほっと安心した。

 ラヌウェットからあそこまで歩いていくのかと思っていたので、先輩の言葉はかなりの支え

となってくれる。

 安堵した俺の顔を見て、先輩は小走りで玄関まで行った。振り返って俺の顔を再び見る。

「それからね、ぼけろん」

「はい?」

 先輩はそう言うと、微笑して小さく俯いた。

 何かと思いそのまま待っていると、先輩は気まずそうに顔を少しだけ上げた。

「彼女から聞いたんだけど……」

「はい」

「ありがとっ」

「は?」

 『は?』と俺が声にした時にはもうすでに先輩の姿はなかった。

 玄関の扉は開いたままになっており、先輩は気が動転していたのか、とにかく焦っていたよ

うな感じは見受けられた。

 …どうしたんだ、先輩?

 俺は静かにベッドの上で、大窓から、外の景色を眺めていた。



 静まり返った部屋には、俺と、奴の二人だけ。

 他は、動かないテーブルや、木製の古びた椅子。テーブルの上に置いてある、昨日は火のつ

いていた蝋燭。

 …結局、さっきの『騒動』とも言える出来事は、何も生み出さなかったんだな。

 意味もなく、だが何かを考えていたかった。

 人を傷つけること。

 そんなことをしたところでどうにもならないというのが、今の俺の中で、初めてやって、初

めて分かった。

 いや、むろんそうとは限らないであろう。人それぞれの想いがあって、他人を傷つける。

 復讐や、民を救うためにそうせざるをえないことだって、たくさんあるはずだ。

 けれど、少なくとも今の俺たちがやったことは、そうとしか言いようがなかった。

 そういった複雑なことを思い浮かべて、俺はとりあえず枕元に腰をおろしていた。

 「オレは……」

 窓の外の景色を見ている俺に、語りかけるような声音でその声は聞こえてきた。

 酷く沈んでいる、絶望をそのままの形で表現したような感情が表れている。

 体は動かさないで、俺は声の主へと顔を向けた。

「……何が言いたいんだ?」

 俺は小声でそう、問うではなく声にしていた。

 さきほどの声は、言うまでもないが奴のものである。

 こちらはむかずに、天井を見上げている。目を瞑ったままの状態で口を開いた。

「オレはさっき、……お前とやりあって、……一年前を思い出した……」

「俺はあんたの話など聞きたくない」

 ひとり呟く奴の方から視線をそらして、俺は吐き捨てた。

 たとえ今、俺や彼女、先輩が無事だとしても、俺は奴のやった行為を許すつもりはなかった。
 もうこれ以上、奴の話など聞きたくない。

 が、俺の方は向かずに、奴はただ天井を見つめながら、続けた。

「ただ、言わせてほしい。いいわけにすぎんとは思うが、オレも、あの時、……一年前、あん

な仕事はしたくなかったんだ」

「何をいまさら……」

 包帯のおかげで奴の表情こそ見えないものの、奴の真意には、何かこう、複雑なものが含ん

だような、いい表せない何かがあった。

 俺は奴が憎い。その気持ちは今でも変わらない。

 だが、今の奴は何かが違う。

 何もないこの部屋、静寂のみの世界に響き渡る奴の言葉が、哀しみのようなものを俺に伝え

てくる。

「………」

 奴の話など聞きたくはない。だが、今の俺は体中が痛み、先輩が戻ってくるまではとりあえ

ずこの場にいなくてはならない。

 奴の話を聞きたいにしろ聞きたくないにしろ、俺には奴の話し声が勝手聞こえてしまうだろ

う。

 奴の言い分、俺は聞いてみることにした。





 「ハァハァ、ドキドキしやがる!」

 オレの動悸はますます激しくなっていった。

 お前は、知っているのだろうか。いや、あの時のことを憶えているのだろうか。

 一年前、オレは、『あのビル』の一階-管理室で、お前とあの娘を捉えた。

 クウォーラル社長からの『この任務に成功すれば、昇進できる』という、うまい話につい乗

せられて、オレはあの娘を追い詰めるという仕事を引き受けた。

 だが、人殺しだけはしたくなかった。むろん銃を使って人に傷を負わせることも、だ。

 仮に追い詰めたとして、適当に形だけをつくってそれを報告しようと、そう思っていた。

 だが、社長が直々に見ているとなると、そうはいかない。

 オレが任務を決行しようとした前日、社長は不敵な笑みを浮かべながら、オレの前に姿を現

した。

「今度の仕事、私はヘリでじっくりと見物させてもらう」

 その言葉を聞いた時はまさかと思い、気にも止めていなかった。

 そして、オレは実際にお前とあの娘を管理室へと追い詰めた。

 その時、

 ブロロロロ

 ヘリの音が、ビルの外から聞こえてきたんだ。

 まさかと思い、オレは何気なく管理室の窓から覗いてみると、……やはりクウォーラル社の

ヘリが飛んでいた。

 実際に社長がそのヘリに乗っていたかまでは分からない。

 だが、仮に乗っていたとするのならば、このまま形だけで終わらせるのはまずい。

 もし、オレがこの時仕事を全とうしなかったとするのなら、社長に首にされるどころか、死

に追いやられていた。それほど重大な仕事だと、オレは警告された。

 オレは、考えに考えた。その場にいる周りの空気をすべて飲み込むように、オレは大気と混

じりあうような感覚を覚えるほど、オレは『考え』を求めた。

「………」

 時間がなかった。このままいると、お前たちにも逃げられてしまう。そうなったらオレの夢

は塵と化し、そして命さえも奪われる。

 だが、『実行』するのはオレとしては、絶対に嫌だった。

 どうしようもない憤りを感じながら、オレはあの場で、短いあの時間、悩みに悩んだ。

「……くそっ!」

 結局、……オレはあの場で、お前が先に逃げるよう促し、逃げようとしたあの娘を撃ってし

まった。

 銃を使ったのは、あの時が初めてだった。常時、持ってはいたものの、人を撃つことに使っ

たのは。

 そしてオレは逃げたお前を追い、湖で行き詰まったお前を、撃ち殺した。





 『撃ち殺した』。奴は最後に小さくそう言うと、しばらく黙り込んだ。

 ……撃ち殺した……撃ち殺した……撃ち殺した。

 その言葉が俺の脳裏に焼き付いて離れない。殺した。……殺された。

 …そう、俺は殺されたんだ。

 十分に理解していたことだったが、いまだに何か嫌なものを感じさせられた。

 ビルの管理室から逃げる時、彼女は撃たれたのを夢でもみた覚えがある。

 奴が言っていること、嘘ではないだろう。

 だがそうなると、ビルから逃げた後、彼女と一緒に洞窟の中に隠れていた夢は、あれはなん

だったんだろうか。

 昨夜の彼女との語らいを、俺は思い出した。

 洞窟での出来事は、まさに昨夜の状況と一致していたとも思える。

 やはり、夢の中でみた洞窟での出来事は、未来を予期していたのだろう。

 なんにしろ奴の話を聞いて、俺は『知りえなかった過去』を知ることができた。

 奴の方を見ていると、再び口を開けようとした。

「オレが殺したお前の死体。《クウォーラル》に帰ってから社長に聞いた話によると、死体は

どこかの小さな村に送られたらしいな。その後のことは知らなかったが、まさか生き返ってオ

レの前にやってくるとは思わなかった」

 そこまで聞いて、俺はふと一年前のことを思い出した。

 記憶にはっきりと残っていること。それは今ではほとんどないが、先輩が村のことや、仕事

の説明をしてくれたのを、憶えている。

 そして、『俺は村に働きに来ている』と、記憶のなくなっていた俺に、村長と先輩がそう教

えてくれたような気がする。俺はそれを、素直に聞き入れていたのだ。

 …なんだか懐かしいな。

 特別に何か面白いことがあるわけでもない。何しろ初めて食料の調達をした時は、死ぬほど

辛かった。

 それでも和やかな空気が漂っていた。いや、今もあの村はそうだ。

「お前たちを撃ってから……」

 奴が再び語り始めた。

「それからだった。……人を撃つのが楽しく思えてきちまったのは。今思うと、……悲しいこ

とかもな」

 そこまで言うと、奴は今まで瞑っていた目を開け、顔は上を向いたまま目線だけを俺の方に

向けた。

「さっきのお前とのやり合いで、俺はなんだか目が覚めたような……、そんな気がする。俺も

あの時、仕事のためとはいえ、銃を使ったことを後悔している。……今頃言ってももう遅いが、
……本当にすまない」

「………」

 俺は何も言えなかった。言いたいことはたくさんある。奴に対しての怒りは、こんなもので

済むものじゃない、ってくらいにだ。

 ……何より先輩を撃ったのだけは、……絶対に許せなかった。

「………」

 だが、それでも俺は何も言えなかった。

 なぜだろう。奴のことが、妙に淋しく思えてしまった。

 今の奴は、単に嘘を述べていただけかもしれない。けど、俺にはそうは思えなかった。

 奴の声。伝わってくるその感情。俺には他人事のようには思えなかった。

「……そうか」

 それだけを言った。他に見当たるいい応えがなかった。

 俺の声を聞いて、いっそうの哀しい感情を露にして、奴は警告するような目でこちらを見つ

めた。

「それから、もうひとつある」

「なんだ?」

 そして、深刻な声音で、

「クウォーラル社長には気を付けろ」

 言った。

「どういうことだ?」

「………」

 それきり奴は黙ってしまった。

 …どういうことだ?

 奴に聞いたのと同じ言葉で、俺は考えた。

 クウォーラル社長。つまり彼女の父であり、奴に命令を下した張本人。加えて村に唐突に現

れた中年の太った男。

 そこまで思い出すと、俺はクウォーラル社長の言っていた言葉について考えた。

 …そういえば、あの男が言っていた『三日後には、君には村を出ていってもらう』という日、
それは今日じゃないのか?

 そのことを考えると、奴の言っていることが、やはり嘘とは言えないような気がする。

 …村を出る? ……俺がか。

 そういえば、なんで俺は、村を出ろなどと言われなくてはならないのか。

 まあいい。そこのところは村に帰って、クウォーラル社長とやらに聞いてみれば分かること

だ。

 だがその真相がなんにしても、先輩にそのことを告げておいた方がいいだろう。

 先輩にはこの間、話しておいたが、おそらく忘れているだろうから。

 とりあえず俺は先輩が戻ってくるのを待ちきれず、呼びに行くことにした。

 ベッドから降りる。

「うっ」

 さっき先輩と頭をぶつけて降りた時は耐えられたのに、床に足がついた瞬間、全身に雷が落

ちたような、ついこの間、起こっていた『痛み』に似た痛みがした。

 呻いて、俺は我慢しながら痛みが消えるのを待った。

 その様子を見てか、奴が苦笑していた。

「あまり無理はするなよ。銃弾を受けたんだからな」

「あ、ああ」

 そういえば、俺は奴の銃で撃たれていたのだ。

 座っている時には何も感じていなかったため忘れていた。

 彼女の手当てがどれほどの効果を俺にもたらしたのかは分からないが、俺は思った。いや、

思わざるを得なかった。

 …よく無事だな、俺って。

 俺は立ったまま窓の外を眺めた。開いたその窓からは心地よい風が吹き込んでくる。

 その風を顔に受けて、俺は普段からやる大きな伸びをした。

「あぁ」

 同時に大きく溜め息をついて、俺は首を左右に曲げて、玄関の方を向いた。

「お前が『先輩』とか呼んでいた女……」

「え?」

 肩越しに見ると、奴が無理して腰を起こしていた。

「感謝した方がいい。自分も撃たれて決して楽ではない状態なのに、お前のことをずっと看て

いた。羨ましい限りだ」

「先輩が?」

「そうだ」

 それを聞いて、なぜ俺の目が覚めた時に目の前に肌色のもの-つまり先輩の顔があったのか

が分かった。

 疲労とともに俺の世話をしていたから、ベッドのそばの椅子に座ったまま、顔を俺の上に倒

して眠ってしまっていたのだろう。

 …先輩、なんでこんなにも俺の面倒ばかりを?

 その素朴とも言える疑問が、俺の頭の中をよぎった。

 でも、とにかく先輩にはいつもお世話になっている。

 そのことを考え、俺は先輩には、これから手助けをしようと、心に決めた。

 無意識に俺は笑みを浮かべていた。それを見て、奴は今度は不機嫌そうな顔で続けた。

「まあな、お前にとってはいいことだろうな。だが、お前の看病の前に……」

「え?」

 思い出すのも嫌そうに、奴は息を呑んで呟いた。

「オレはベッドに入ってから、ぶちのめされてな。まあ、それだけするほど、オレが悪かった

のは分かってはいたが……、この顔…、実は半分以上、あの女のせいでできたものなんだ。今

も痛んで仕方がない……」

「は、……はは」

 俺は苦笑しながら、奴の言ったことに恐怖を感じていた。

 奴の顔、包帯が巻かれて表面がどうなっているのかまでは、分からない。
        おうとつ
 だが、凹凸の激しさから、奴の言っている『先輩にやられたという怪我』の生々しい恐ろし

さが理解できてしまう。

「ゴクッ」

 強烈な音を立てて、俺は出てきた唾を飲み込んだ。

 …先輩、『スッキリした』って、こういうことか?

 内心、今までのどんな話よりも、このことが一番驚かされた。


                                         3


 「奴、もう彼女には手を出さないって、言ってた。一年前、彼女と俺を撃ってからの奴は、

狂ってた。……けど、今の奴は、もう大丈夫だと思います」

「そっか。じゃあ、これからは彼女も静かに暮らせるね」

「ええ」



 先輩と俺は、トラックに乗っている。

 もちろんシモンさんのトラックだ。道端に置いたままのシモンさんのトラックのところまで、
ラヌウェットに住んでいる彼女の知り合いの人に車に乗せてもらい、かつトラックの修理をし

てもらった。

 結局、本日の食料の調達はできなかったが、とにかく予想以上に早く村へ帰れそうだ。

 いつも通っている果てしない一本道。そこで、俺と先輩は高速の風を楽しんでいた。

 日が高い。ちょうど真昼であろう。冬だというのに日が強烈に当たっていた。

「しかし、散々な日々だね。いろいろとさ」

 運転している俺の方を向いてか、先輩はそう俺に同意を求めてきた。

 前方を見ているためあまり先輩の表情を悟れないが、何かをやっとやり終えた、そんな充実

感のあるような眼差しを俺に向けてきたような気がする。

「そうですね」

 先輩の言っていることは、俺も同じように思っていた。

 ここのところ、本当に忙しく感じられた。

 特に現実に残るようなことは何もしていないというのに、俺はほっとしていた。

「ぼけろんさぁ。この五日間くらい、大変だったよね」

「ええ。精神的に」

「けど、よく頑張ったって、あたしは思ってる。記憶のこととか、ぼけろんの過去のこととか、
そういったことを突然聞かされても、ぼけろんはちゃんと呑み込んでくれた。落ち込んだりし

てもおかしくないに……。あたし、見直したよ」

「そ、そうですかっ?」

 先輩の正直に言ってくれた言葉に、俺は気まずくなってしまい、まともな応えができなかっ

た。

 だが、これだけは言える。

 …先輩には、感謝しなくちゃな。

 本当にいろいろと迷惑をかけたり、お世話になった。

 それは、べつにここ最近に始まることではないが、ここ数日は特に、感謝、だ。

 今はもうあまり憶えていないが、村にやってきた時のこと。……いや、記憶がなく生き返っ

た俺に、何気なく、違和感のない振る舞いをしてくれた時のこと。

 痛みを生じて、それと夢についての関係のことを相談した時に、しっかりと聞いてくれたこ

と。

 それから今まで、俺の過去に関係した人たちと出会ったことに、付き合ってくれたこと。

 そして、何よりも心の中が不安定だった俺のことを考えてくれた、先輩の思いやり。

 先輩のそういったいいところを、俺はよく知ることができた。

 ここ数日間の、俺にとってはとても荒々しい日々。

 それを、開いた窓から吹き込んでくる気持ちいいが強い風を受けて、……俺は頭の中で思い

出し、そして振り返っていた。

「先輩」

「なに?」

 感慨にふけり、俺は先輩に言いたいことを思いついた。

 俺の小さな呼び声に、先輩は素早く反応する。

「ここんところいろいろあって、……特に夢をみてからの俺は、自分で言うのもなんだけど、

おかしかった。……そんな俺を、先輩は助けてくれた」

「何言ってんのよ、ぼけろん  ……照れるよ」

「だから、とにかく、俺、先輩にはお礼がしたいんです」

 俺は区切り区切りにそう言った。

 それを聞くと、先輩はきょとんとして目を瞬かせた。

「あぁ、そういうコト? べつにいいよ。そんなことしなくてもさ。ただ……」

 そこまで言うと、先輩は大きく息を吸ってこちらを見た。

「たださ、ぼけろんがまたいつもみたいに、笑顔で生活できれば、あたしはそれでいいの」

「先輩……」

 俺は、先輩のその言葉が何よりも嬉しかった。

「先輩、ありがとう」

「……はは、構わないよ」

 何気ない会話をしながら、俺と先輩は、一日ぶりに村への道を味わっていた。

「でもさ、もう少し、ラヌウェット、見てまわりたかったよね」

「そうですね。今回はなんだか急いでて……」

「今度はさ、ゆっくり休暇でもとって行こうよ。彼女も喜んでくれるかもしれないし」

「そうしましょうか?」

 そして俺たちは村へと戻った。何も知らずに……



 村の門が見えた頃に、様々な声が聞こえてきた。

「帰ってくんなよ! でてけー!」

「殺し屋ー!」

「オメーのこといいやつだと思っていたオレがバカだったぜ!」

「あんたなんか死んじゃえー!」

 ある種の、『異変』とも言える出来事だった。

 門の前まで来ると、その非難の叫びは大きさを増していた。

 俺と先輩はとりあえずトラックから降りて、村全体を見渡した。

 俺の知っている限り、おそらく村人全員が俺たちを村の広場で待ち伏せていたかのように、

取り囲んだ。

 その全員が俺たちに向かって『人殺しー』と叫んでいる。

「これは一体……!?」

「どういうことなの?」

 俺と先輩は、ただその場に立ち尽くしていた。

 彼らにどういうことかと聞いても、誰も耳を貸してくれる者はいない。

 彼らの酷い言葉に、先輩は耳を押さえていた。

「みんな……」

 今にも襲いかかってくるような勢いだった。とにかく俺は、考えた。

 理解できない状況下、ただひとつ分かり得ることは……、

 …俺たちは……いや、先輩は分からないが少なくとも俺は、村全体から非難されている。

 …だが、なぜだ?

「ぼけろん、あたしたち、何か悪いことした?」

「……いえ、分かりません」

 先輩の問いには、そう応えることしかできなかった。

 …本当に分からない。

 が、俺は奴の言ったことを思い出した。

 『社長には気を付けろ』。

 村に今いるはずのクウォーラル社長が何かを起こした可能性が、この場合高かった。

「お前ら、ちょっと来い」

 案の定、ちょうどその時だった。

 俺たちの後ろから、以前会ったことのある黒服の長身ふたりが現れた。

 その男ふたりに、俺と先輩は、村長の住んでいた赤い屋根の家まで強引に連れていかれた。



 「来たか」

 クウォーラル社長に会って、彼が初めて言った言葉はそれだった。

 酷く冷淡な、そして何かを追い求めて堕落していく、そんな未来が浮かんでしまうような声

音だった。

 先日、俺を呼び出した太った男。《クウォーラル》の社長であり、彼女の父親でもある男。

 ……そして、彼女を殺すよう『奴』に命令し、そのボディガードとなった俺は死んだ。

 すなわち全ての元凶となる男。
  ・・
 それは、小屋の中央にある、ここには似合わない『豪華』と言っても過言ではない椅子に座

って、小屋の出口までやってきた俺と先輩の方を向いて、葉巻を吸った。

 小屋の中の状況は、前に来た時とたいして変わっておらず、汚れている空間にクウォーラル

社長が椅子に座り、その両側にしっかりと、男ふたりがついている。……そんな感じであった。
「……もしかして、あのデブがぼけろんの言ってた男?」

「……そうです」

 小声で問うてくる先輩に、俺も、クウォーラル社長には聞こえないように小声で返した。

 その様子を見て不機嫌になったのか、クウォーラル社長は顔全体に皺を寄せた。

「ちょっとした噂を立てさせてもらった」

「……どういうことですか?」

 クウォーラル社長に、俺は静かに問い返した。

「面倒だから率直に言う。君たちの村長のことだ。彼はついこの間、死んだ。いや、殺された。
実は我が社のある人物がそれを実行したんだが、その犯人ともいえる人物を……」

「え?」

 クウォーラル社長はそう言うと、俺の方を指差して続けた。

「君に仕立てあげた」

「なんですって!?」

 ……という驚愕の声は、先輩のものだ。

 俺も内心、驚いてはいたが、奴の話を聞いた限りでは、……まあそんなところだとは思って

いた。

 …だが一体、なにが目的で?

 その理由が、俺には理解できなかった。今頃そんなことをして、一体どうなるというんだろ

うか。

 その疑問は、先輩が聞いてくれた。

「どうしてそんなことするの!? ぼけろんは何もして……」

「邪魔なんでね」

 自分の問いを遮るように言うクウォーラル社長に、先輩は頭にきたようで、眉間に皺を寄せ

た。

「邪魔って……。どういうわけか知らないけど、ただそれだけの理由で-」

「理由は簡単だ。私は、この村を求めている。だからそれには、その青年が邪魔なんだ」

「何よそれ! 理由になってない-」

「ちょっと待ちたまえ」

 息を乱す先輩を、クウォーラル社長は再び遮った。不敵な笑みを浮かべながら。

 先輩の様子を見て、今度は俺の方に視線を変えると、クウォーラル社長は続けた。

「そんなことをぐだぐだと言っている暇は、ないのではないのかな? 私の目的は、あくまで

君を村から追放するだけのことだ。できないことではないだろう。村人が本当に騒ぎ出して、

君を殺しにくることも、おおいに有り得る」

「俺が、村を……?」

「……そう。早く村を出ていった方が身のためだと、私は思うぞ」

「……このぉ!」

「………」

 先輩は怒りを押さえて拳をきつく握っていた。

 そんな先輩を見ながら、俺はしばらく考えた。

 クウォーラル社長は、何を考えて俺を村から追放しようとしているのか。

 過去のことがあるからであろうか。

 クウォーラル社長は、村を自分のものにしようとしているのだろうか。

 かつて俺を殺したことのあるクウォーラル社。そのことが知られたくないから、俺を追放し

ようとしているのだろうか。

 その真相は分からない。だが、どちらにせよ俺は村長のことの方が頭にあった。

 村人たちが束になって俺をあんなふうにみるのも、分からなくはない。

 今は死んでしまったあの村長は、家族のように村人たちと接していた。小さな子供たちから、
お年よりまで。

 俺にもすごく優しくしてくれた。今思うと、俺が初めて村長に会った時、村長は何も言わず

に俺という人間に接してくれた。

 あの頃は、俺は自分が何者であるかを知らなかったため何も考えていなかったが、死んで、

そして唐突に村にやってきて生き返った俺に、あんなにも普通に接してくれる人は、まずいな

いと、今ではそう思える。

 そんな心暖かい村長の突然死。

 村人たちはその死に対して、怒りや、悲しみ、様々な感情が込み上げてきたはずだ。

 その感情をどこにもぶつけることができなかった彼らに、『俺』という、村長を殺した人間

がいることを知った今、彼らの思いが一気に爆発してきても、おかしくはない。

 村人たちの村長を想う心。俺は知っている。

 それゆえ、俺は……、決めた。

 …仕方、ないよな。

 そう思いながら、何か言うことを期待しているクウォーラル社長の顔を見た。

「ぼけろん!!」

「え?」

 いきなり、すぐ右隣でとてつもなく大声で叫んだ先輩に、俺は顔をしかめた。

「な、なんですかいきなり?」

「村の人達に言おうよ! 『ぼけろんが村長を殺した』なんて、単なる噂話だ、って。本当に

やった人は、『奴』だ、って」

 先輩の必死の提案……、俺も初めに考えたことではあった。

 俺は、先輩の心遣いが嬉しかった。

 だが、一度火のついてしまった人間を、……それも同じ心を持っている大勢の集団にそんな

ことを言ったら、逆に反感をかうだけである。

 昔、よくそういった経験をしたのを、なぜか記憶がないのに、憶えている。

 俺はそれをふまえながら、先輩に言った。

「いえ、もう無理です。余計に危険なことになることは、目に見えています。証拠がありませ

んしね」

「よく分かっておるな」

 俺の話に、クウォーラル社長は感嘆した。

 それは気にせず、俺は続けた。

「べつにいいよ。それにもう決めました。俺が村を出ればいいだけのことです」

「そんなっ!」

 俺は決意した。先輩が俺のためにそう言ってくれるのは嬉しかったが、もう決めたことだ。

 社長には、彼女のこととか、奴のこととか、いろいろと言いたいことがあったが、何より、

もうこれ以上荒れたことをしたくない。

 平凡な生活。それが俺の一番望む生活。

 それゆえ、もう過去に関わった人達とは、争いを起こしたくはなかった。

 俺はそう思って、クウォーラル社長に言った。

「じゃあ、クウォーラルの社長。あなたにいまさらどうこう言ったところで仕方のないことだ。
全ては過ぎたことだから。俺、あなたの言うとおりに、村を出ます」

「妥当な判断だな」

 村を出る。今までの中で、一番大きなイベントかもしれない。

 そんな余計なことを考えていると、先輩が口元を震わせながら言ってきた。

「ぼけろん、待って。あたしも行くから!」

 そう言う先輩を見て、クウォーラル社長が引き止めるように言う。

「待て。お前さんは必要ない。村を出るのは、その青年だけでいいんだ」

 が、先輩はクウォーラル社長の言うことなど無視して、小屋を出ようとした俺の右腕を掴ん

だ。

「ぼけろん、一緒に村、出ようね」

 俺は肩越しに先輩を見て、大きく息を吸った。

「先輩はいいですよ。村に残ってください」

「え……? 何言ってんの!? あたしも行く!」

「………」

 俺にとっては、先輩のその心強い言葉、何よりも嬉しい。

 だが俺は、先輩が俺のことを気遣ってそう言ってくれることを、知っている。

 おそらく、村を出たその後の俺のことが心配なんだろう。

 ……だが俺はもう、先輩には迷惑をかけたくない。

 その想いが強く伝わるよう、俺は先輩の方を振り返って、言い聞かせた。

「先輩、ありがとう。俺、先輩がそう言ってくれることが、一番うれしいです。……うれしい

けど、俺、もう先輩には迷惑をかけたくないんだ。先輩が俺のことを心配して言ってくれてい

ること、十分に分かっています。その想いだけで、十分だよ」

「ううん! 心配……、それもある。……それもあるけど、そんなんじゃないっ! 今は……」
「いえ、分かってますよ。先輩のことだから。……けど俺、ひとりで大丈夫だから。だから…

…」

 そこまで言って、俺は言葉を切った。

 そして、クウォーラル社長が、静かに、何も言わずにこちらを見ているのを見て、俺は口を

開けた。

「だから、むしろ俺と一緒に来るなんて……いや、俺と一緒に村を出るなんて、やめてくださ

いっ!」

「ぼけろん、本気で言ってるの? 嘘……でしょ?」

「じゃあ、先輩!」

 俺の腕を握ったままの先輩の手を振りほどき、俺は走って小屋を出た。

 背中越しに先輩の声が聞こえたが、俺は無視した。

 …俺は、馬鹿なんだろうな。

 走りながら、俺は先輩の言ってくれた言葉を思い出していた。

 本当は、俺だって先輩と一緒にいたい。たとえ、どんなことになっても、だ。

 『一緒に村を出よう』……そう言ってくれた先輩の言葉に、本当はあまえたい。

 だが、……だがそれでは俺は、駄目なような気がした。いつまでも先輩の優しい人柄に、ず

っとすがりついているようなことでは。

 それに、俺のために先輩の人生を変えるようなことは、したくなかった。

 俺自信、しっかりしなくてはならないんだと思う。

 とにかく俺は、悲しい感情を必死に外に出さないようこらえながら、男子寮の俺の部屋へと

向かった。

 村人たちの、嘆き悲しむ声や怒りを露にした激しい感情、それらが村の空気を覆っている。

 村長への想い、それが薄れていくのはいつだろうか。

 俺への怒りが残ってほしいとは、さすがに思ってはいない。しかし、村長のことは、……死

んだ人のことは忘れないでほしい。

 自分が村を出ていくことに対して、俺は不満を抱えているのかもしれない。

 自分でもそこのところは分からないが、なぜか俺はそんなことを考えていた。

 村人たち全員に語りかけるように。






                               エピローグ





 「さてと」

 何かから逃れたくて呟いた言葉だったのか、もしくは一段落ついての言葉だったのか、それ

は俺にも分からなかった。分からずに、すなわち無意識のうちにそう呟いていた。

 心残りがない、……そう言えば嘘になることくらい、自分でも分かっている。

 それでも俺は、こうせざるを得ない。

 村を出る。言葉だけでは、何も語ることはできない。そして、誰にも分からないような、強

く、そして深い想いが、この村にはあった。

 今の俺には、村のことなどたった一年間の記憶しかない。

 それでも名残惜しいのは、なぜなのか。そのことが不思議と疑問じみていて、俺には他人事

のようには思えなかった。

 考えたところで、答えが出るわけでもない。

 俺は複雑な気持ちで、鞄のジッパーを閉じた。

「ふぅ」

 部屋の整理を全て終えた。

 元々、俺はきれい好きであったため、さほど汚れていたわけでもないのだが、今、こうして

片付いた部屋を一瞥してみると、整理した充実感のようなものが感じられた。

 村で着る作業服は返しておいた。私服や、日常で必要な物は全て鞄に入れた。

 俺の使っている大型の黒い鞄。正確に言うのならば、リュックサックなのかもしれないが、

とにかくそれは、俺が村に死体となってやって来た時、一緒に持っていた物だったらしい。む

ろんその時の俺は、『死体となって』とは聞かされていなかったが。

 とにかく俺は、その鞄に必要な物を全て詰めて、背中に背負った。

 213号室、俺の部屋。思えば、しっかりとした記憶の出発点はここだった。

 その記憶の中に不審な点があることに薄々、本能的に気付いたのは、つい最近。

 そう、あの夢をみた時から始まった、俺と先輩の旅ともいえる事件からだ。

 俺は、部屋の壁を見やった。

 木造部屋の窓。二階の俺のこの部屋から見える外の景色は、格別にいい。

 僚友の部屋に幾つか入ってみたが、その中でも俺の『窓』は最高だった。

 気分が悪い時、心の寄り所が欲しかった時、いつも俺の心を和ませてくれる……、そんな窓。
 その窓から、今度は視線を下の方へと移した。

 床の隅にへばりついている、黒い怪しげな小さな模様。

 正直言って、これは正体不明だ。

 初めてこの存在に気付いたのは、確かこの部屋に初めてやって来た二日後のこと。

 その時は、虫が潰れてこんなふうになってんのかな、そう思っていたが、結局なんなのか、

今でも分からない。

 ここ一年、記憶に残るような想い出なんかはなかった。だが、一日一日が貴重なもののよう

に思える。

 『村を出る』という、そんな唐突な状況になったためか、なんとなくそんなふうに思ってし

まった。

「213号室……」

 独りごちて、外への扉を開けた。

 扉は開けたまま、俺は部屋の中を見やる。大きく息を吸って、目を閉じた。

「お別れだな」

 そして扉を閉めた。

 鍵を閉めて、古びた階段を降りた。

 寮管理室-男子寮の一階にあるんだが-そこまで行って、鍵を渡し、寮を出る。

 男子寮の入り口から正面には、ちょうど村の広場がある。まだそこに残っている村人たちで、
俺の姿を見つけた人は、遠くから村長のことを俺にぶつけてきた。

「………」

 俺は、ただそういった人たちを黙って見ていた。

 村長のことだから、俺は我慢するしかない。村人が怒る理由も分かるから。

 村としては、悪い所ではなかったのは……確かだ。みんな、本当はいい人ばかりだったし、

村全体の雰囲気も好きだったから。

「しかしなぁ……」

 小声で呟いて、俺は村の門へと、つまり村の出口へと向かった。

「……なんだか本当に突然起きて、突然過ぎてくな」

 本当に信じられないくらいだった。一週間も前は、ただ平然と何も知らずに生活していて、

こんなことになるなんて、思ってもみなかった。

 それが今は、俺個人のことだが、自分のことを見つめ直したような、何か新しいものを得て、
旅立っていくような、そんな想いでいっぱいで、……成長したような気がする。

「まぁ、いいか」

 とにかく今の俺は村を追放されて、どこかへ行く単なるひとりの流浪人にすぎない。

 なんにしろ、ここ最近の精神的にも体力的にも大変だった日々は、終わった。

 これからは、ただどこかでひとり、ひっそりと暮らす。

 そんな生活が一番いいのかもしれない。

 ある意味、クウォーラル社長は俺の人生を切り開いてくれた、……そんな人物なのかもしれ

ない。

 俺は村の外へと向かった。

「せーんぱーい!」

「ん?」

 村の中央広場、そこをもう少しで抜けそうなところで、後ろから声が聞こえた。

 何かと思い、振り向いてみると、

「な、なんで、お前……」

 俺の職場の後輩。

 いつもトラックで食料を運んできた時に、それを食堂の方へと運んでくれる、俺の仕事仲間

だ。

 後輩は息を乱しながら、俺のすぐそばまで走ってきた。

「はぁ……はぁ……」

 その後輩の顔、なんだか久しぶりに見たような気がする。

 後輩は目を大きくして大声で聞いてきた。

「先輩っ、本当に行っちゃうんですか!?」

「あ、ああ。べつにたいしたことじゃないよ」

「また戻ってきてください。僕、信じてますから。先輩が人殺しなんかする人じゃないって」

 俺は、その後輩の言ってくれた言葉がとても嬉しかった。

「ありがとな」

 それだけ言って、俺との別れに大声で泣き叫ぶ後輩を肩越しに見やり、俺は再び歩を進めた。
「………」

 門まで来た。

 『門』とは言っても、実際に門構えのようなものが建てられているわけではなく、ただ単に

境目に緑があるだけだ。

 その何気ない植林、美しいのは前々から感じてはいたが、今の俺にはなぜか余計に美しく見

えた。俺のこれからの『旅』とも言える出発を、見守ってくれているかのように。

 とにかく俺はそこまで来ると、村の方を振り返り、村全体を一瞥した。

 冬の空気が、涼しくも寒くも感じられる。

「………」

 俺はその新鮮な空気を感じて、しばらく晴天の空を見上げていた。

「……行くか!」

 村を出て行く。

 ……そう思うと悲しいが、他の地、すなわちまだ行ったことのない地へ行ってみる、……そ

んな気持ちでいれば、不思議と楽観して出ていくことができそうな気がした。

 俺は、村から後ろを振り返った。

 村からは、まずはずっと一本道。

 そしてその向こうには、彼女の住む、ラヌウェットがある。

 広大な空が、それを覆っている。

 それら全てを感じながら、俺は歩き始めた。

「いつもは……」

 その中でも、俺は何か物足りなさを感じて、そう呟いていた。

 そう、いつもはトラックに乗って食料調達をこなしていた毎日。

 ちょうど村を出たすぐのこの辺り。普段はあの声が聞こえてくるんだ。



 「ぼっけろーん!」

 という甲高い声が。

 …え? 今なんて!?

 俺は突然背後から聞こえた声に、驚愕した。

 その驚きを顔には出さなかったものの、喜びと悲しみが重なったような感情は隠せずに、勢

いよく後ろを振り返った。

 村の方に人影が、あった。それは俺の方に走ってくる。

 俺は立ち止まってそれが追いついてくるのを、待った。無意識に、待っていた。

「なんで……?」

 自問していると、それは俺の目の前まで来て、止まった。

「はぁ……はぁ……」

 息切れしているそれを、俺はじっと見つめていた。

 複雑な気持ちで何を言ってくるのか待っていると、ひととおり息が回復したのか、それは元

気よく俺の顔を見て、言った。

「さて、行こっか!」

「先輩」

 それ-先輩は、笑顔で大きく伸びをした。

 背中には大きなリュックサック。両手にも大きめのバッグ。

 重たそうなその様子は、先輩には似合っていた。

 よくドラマなんかであるシーン。旅立つ主人公を、もしくはその仲間にギリギリのところで

追いつく。

 ……そんな空間を、俺は先輩との間で感じた。

 そういったものに憧れてはいたものの、そして実際に先輩が俺を追いかけてきてくれたこと

が嬉しかったものの、……もう決めていたことを変えるつもりはなかった。

 俺はそのことを、微笑んでいる先輩に告げた。

「先輩、帰ってください。村を出るのは、俺だけでいいって、クウォーラル社長も言ってたで

しょう? お願いだよ、先輩。俺のことなど構わな-」

「ねぇぼけろん!」

 俺の話を遮り、先輩は大きく息を吸った。そしてしばらく俯いて、今度は奇妙な笑みを浮か

べると、俺の右肩に手を掛けた。

「あたしとの約束、忘れたんじゃないでしょうね?」

「へ?」

 目線は俺の高さよりは低いものの、先輩の人間的な大きさを感じながら、俺はその『約束』

というものを頭の中に思い浮かべた。

 …約束?

 思い出せずにいると、先輩は怒ったような表情をして、俺につかみ掛かった。

「もう! 『なんでもいうこと聞く』ってヤツよ!」

「あ……」

 それを聞いて、俺は、ふと脳裏を駆け巡る記憶を感じた。

 ラヌウェットへ向かっている途中、元総長の家から彼女の家へ向かう地底で、俺と先輩はそ

んな約束をしたことを思い出した。

 …しかし、先輩、よくそんなこと憶えてるな。

 俺はとっくに忘れていたせいか、そんなふうに思ってしまった。

「そういえばその約束、まだでしたね」

 何にその約束を使うのか、俺はそれを考えながらそう応えた。

「でしょ? だったら、ぼけろんと一緒に村を出るのも、あたしの勝手。あんたはあたしのい

うこと聞かなきゃなんないの!」

「!」

 …なるほど、そういうことか。

 そう思いながら、俺はとりあえず頷いた。

「ま、もちろんこれで『約束』、使い切ったわけじゃないけどね」

「え? ってことは、この他にも?」

「当ったり前でしょ」

「うっ」

 先輩のその言葉に、俺は絶句した。

 とにかくそんなわけで結局、なんだかんだ言っても、先輩は俺と一緒に村を出ることになっ

た。

 それに、何より先輩が自分から村を出ると言っているんだ。俺が引き止める理由なんて、な

いのかもしれない。

 そして、本当はそれが俺の望みであるから。

「じゃあ、先輩。行きましょう!」

「そうだね。あ、その前に、これ渡しておくね」

 そう言うと、先輩は胸元からふたつのペンダントを取り出した。

「これは……?」

「彼女のいる家で、作ったんだ。あたしとお揃いのペンダント。ぼけろんも付けてよ」

「ああ、はい」

 俺は、ふたつのうちひとつを先輩から手渡しで受け取ると、それを頭から掛けた。

 それを見てから、先輩も残りのひとつを自分の首に掛ける。

「へへ、似合ってる?」

「ええ、かなりね」

「ぼけろんも似合ってるよ 」

「ありがとう、先輩」

 笑顔の先輩に、笑顔で俺はそう言った。



 先輩との、新しい生活が始まる。

 俺はすぐそばにいる先輩を見て、そう思った。同時に新しい生活というものに、期待を膨ら

ませた。

 先輩にはいろいろと世話になって、……だからこそ、村を出ると言ってくれた先輩には、こ

れから俺は尽くさなければならない。

 そんな固い決意をし始めたのは、つい最近のこと。

 歩きながら、俺は光輝く広大な空を見上げた。眩しく俺たちを照らし続ける。

 彼女と俺が、逃げる夢。あの夢から始まり、唐突に村を出ることにはなった。

 だが、あの夢のおかげで、俺は様々なものを得ることができた。

 自分の過去。その過去に関連していた人達に出会った。

 元総長、彼女、奴やクウォーラル社長。

 そういった人達に会って、俺は自分という人間を見つめ直した。

 そして、いつもそばにいてくれた先輩。

 俺が相談を持ちかけた時からの先輩……いや、痛みで倒れた時からの先輩は、いつも俺のこ

とを気遣ってくれた。

 そして、村を出ることになった俺を心配して……いや、それだけではなくついて来てくれた。
 そんな先輩との絆が、昔に比べて深くなった気がする、……そう思えることが、何より俺に

は嬉しく、そしてそれは、俺が存在しているという実感のようなものにつながる。

 こうして今の俺がいるのは、あの夢のおかげなのかもしれない。

 ……もしあの夢がなかったら、俺はどう生きていたんだろうか。

 過去のことなどは言うまでもなく、先輩に相談などすることもなく、何も知らずに人生を歩

んでいたかもしれない。

 ここ一週間、短いが、俺にとってはものすごく長く感じられた日々。

 夢のおかげで人生が変わったと実感する、そんなおおげさな感覚を覚えたのは、それほど毎

日のありふれた生活からの凄まじい変貌を、俺は味わったからだと思う。

 自分の過去を知った時からの俺。

 自分で言うのもなんだが、本当に今までとはものの見方が変わったような、他人には分から

ないものを感じていたんだ。

 俺は一本の果てしない道の中でひとり、そんな想いにふけっていた。

「……けど」

 過去は過去。いずれも過ぎ去っことなのだ。今の俺には関係のないこと。

 もちろん、こういった『俺』という人間に結びついたのは事実だが。

 が、そんなことは、今はどうでもいい。

 これから、……つまり村を出た俺がどうするか、それが大切なんだ。

 ひとりじゃない。先輩がいる。何も心配することはない。

 寒いが、日照りによって暖められた空気。

 ちょうど涼しくなった風。

 それらが、俺と先輩を吹き抜けて、頬を撫でていく。

 『明日』という日に向かって……。





 「ところでぼけろん」

「はい?」

 先輩は遠くを見つめて胸を膨らませている俺に、爽やかな、そして苦笑を含んだ声で、そう

言った。

 何気なく、俺は先輩の方を見る。

「ぼけろんのコトだからこそ聞こうと思うんだけど。格好つけて『村を出る!』とか言ってお

いて、どこか行く当てあんの?」

「……ないです」

「やっぱりね 」

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