2017年2月19日日曜日

兄妹の苦難 第三話




                                       3


「ここだよ」

 そう言って京は目の前にある三階建ての建物を指さした。

 美夏が京に、今度働くことになった職場を案内すると言われてから翌々日、約束どおり

に美夏は京と一緒にこうして家から三十分ほど歩いたところにある、カフェ・ホーソーン

へとやってきた。

「喫茶店と一緒なの?」

 べつにこういう店を見たことがなかったわけではなかったが、花屋がカフェの二階にあ

るなどとは考えてもみなかったため、美夏は驚愕とともにこれからの期待を胸に秘めた。

「ああ。いいとこだろ?」

「うん。すっごくっ」

 太陽が真上に昇る時刻。この時期にしてはなかなか暖かい日差しを受けて、美夏は感嘆

した。

 とりあえずカフェにも後で寄ろうといことで、先に花屋へと向かうことにした。

 昨日、茂也と一緒に昇った階段も、今日、美夏と昇るのとでは大分気分的に異なるもの

を感じて、京は美夏の、いつもの笑顔以上の笑顔を嬉しく見ていた。

 二階へと昇ってから、両脇に花を携えた、質素だが綺麗な入り口から中へと入る。

 窓が幾つか壁にはあって、外から射し込む太陽の光を、店内の花にほどよく降り注ぐよ

う気にかけてある。

「うわぁ。いいなぁ」

「だろ?」

 二階ということで一階のカフェと同じだけの広さだけあって、それなりに、花屋として

はなかなか大きめの店だと、美夏には思えた。

 随所に置かれている売り花、だが人の歩く道はしっかりとあるところから、美夏はこん

なところでこれから自分も働けるのかと思うと、わくわくしてたまらなかった。

「とりあえず、美夏のことを店長に話さないとな」

 そう言って、京は何人かいる店員に軽い挨拶をしながら、客にも軽く会釈して、店の奥

へと美夏を案内した。

 レジを越して、突き当たりにある扉に入ると、十畳の広さはあるだろうクルールームが

ある。

「働く時は、ここで制服に着替えるんだってさ。休み時間、くつろぐのもここだって、…

…でも、一階のカフェでも休めるから、まぁどっちでもいいけど」

「ふーん」

 京の話に納得しながら、さらにその奥へと進む。

 今は閉まってはいないが扉があって、そこが店長室となっているのだ。

 四畳半程度の部屋に、ひとつの机とひとつの椅子。他にはいろいろな書類なんかが落ち

ていたり、机の上にパソコンだろう何かの機械とともにいろんなものが置いてあったりし

ている。

 その机越しにこちらを向いて座っている老人が、京と美夏の姿を見るなり立ち上がって、
「ふぉっふぉっふぉ」

 と笑った。

 それを見てから京も微笑した。
              かじの

「こんにちは、梶野さん。美夏、連れてきました」

 京の言葉を聞いて、老人  梶野は鼻の上に掛かっているだけの、おそらく使い勝手の

ないものだろう眼鏡を右手の指で軽く上げて笑うのを見ながら、美夏は少しの間、沈黙し

た。

「……かじ……の?」

 老人の顔を見て、そしてその名を繰り返して、何かが頭の中に突っ掛かっていることに

気づいた。

 だが、それがなんなのかは分からない。

 美夏は、しばらく京の言った老人の名前と、それからその老人を眺めて、かつてあった、
なんらかの記憶を探ってみた。

 吊り上がった眉で考えに没頭している美夏を見て、京は笑顔で美夏の肩を軽く叩く。

 梶野がそんなふたりの兄妹を見ながら、さらなる笑いで歪んだ口を開いた。

「久しぶりだのぉ、懐かしいのぉ、大きくなった美夏ちゃん。……まぁ、その様子からす

ると、忘れてしまったようだがなぁ。でもわしは忘れてはおらんぞぉ」

「  え?」

 梶野の言ったことが、美夏の頭の奥底にあった記憶を蘇らした。

 さらにその記憶に追い打ちをかけるように京が、見開いた目のままの美夏に言う。

「美夏、思い出した? 昔、ふたりで一緒に手伝った花屋の梶野さんだよ」

「あ   」

 完全に思い出した美夏はそのまま口を丸く開いて、笑いかける梶野を見つめた。

 小柄な自分よりもさらに小さなその老人の体格。この年ならば頭髪が薄くなっていても

おかしくはないのだが、完全に生え切っている老人の髪。白髪にこそなってはいるが、し

っかりとした丈夫そうな頭髪だ。それが美夏の視界にもろに入っていた。

 この花屋の制服なのだろうか、『花屋・ホーソーン』と書かれた斜体文字を中心に、周

りには幾つか綺麗な花の絵が刺繍されているエプロンを身につけている。

 店長も制服を着るんだなぁ  などとどうでもいいことを考えながら、美夏は自分がま

だ幼少だった頃のことを思い出した。

 兄の京とふたりで気晴らしに通りがかった花屋で、この老人  梶野を手伝った時のこ

と。

 だがその時と比べて、今の様子が明らかな変貌を見せていたので、最初は美夏にも分か

らなかった。


 自分が大きくなったからなのか  自分より遥かに大きかったはずの老人も、今では小

さく見えてしまう。

「え、じゃあ、おにいちゃん」

 美夏は京を見上げて、それからにこやかな梶野をちらちらと見ながら言った。

「わたしたちは、おじいちゃんの花屋さんで働くことになったってコトなの?」

「ああ、すごいだろ」

「そ、そんな。……信じられない」

 本当に信じられなかった。

 京と美夏が、そもそも花屋になるという夢を持ったきっかけというのも、この梶野とい

う老人のもとで花屋の手伝いをしたことに始まる。

 その老人のもとでこれから働けるなど、美夏にはこれ以上求めるものは何もない、いや、
それだけではなく本当に夢の中の夢のものであって、実際にこんなことになるなどとは思

ってもみなかったのだ。

「……はは」

 無意識に笑ってしまった。

 美夏が想像以上に喜んでくれていることに京は嬉しく、それから梶野が、こうして美夏

も一緒に雇ってくれたことに感謝をした。

 そんな兄妹を見ながら、梶野はゆっくりと杖を使いながら歩いてきて、自分よりは幾ら

か高い美夏の頭を軽く撫でると、再び笑った。

「美夏ちゃん。昔みたいにこれからも頑張ってくれなぁ。よろしく頼むぞぉ」

「……はいっ!」

 梶野の言葉に、美夏は感無量で返事した。



「けどね、まさかおじいちゃんのお花屋さんだとは、思ってもみなかったんだっ」

 さっきからずっとハイテンションの美夏を見ながら、京はコーヒーを飲んでいた。

 とりあえず、これから自分たちが働くことになった花屋、『花屋・ホーソーン』の店長

である梶野と、今日はまず簡単な話をして、美夏も晴れて従業員となった。

 それから、花屋で働いている先輩方にもう一度挨拶をして、一階へと降りてきた。

 初めてのカフェということで、美夏はなんらかの興奮を感じながらもしっかりと自分は

コーラを頼んで、喋る度にひと飲みひと飲みしていった。

 美夏には、本当に信じられなかった。

 さっきから胸の奥が熱い。これからの毎日に期待で胸がいっぱいだった。

 いつもは家で主婦業をこなしていた美夏。それはそれで楽で  まぁ楽というほど楽で

もないが  、十分に一日一日が幸せにも感じられた。

 だが、そんな美夏には昔からの夢があったのだ。こうして夢が現実のものへと近づいて

いくにつれて、しかもその第一歩が、昔、花屋になりたいという夢を授けてくれた老人の

ところで働くということなのだから、美夏はもう何もいらない、そしてこれ以上望むもの

はない最高の幸せ状態であった。

 美夏の笑顔はいつものこと。それは、いつもが幸せであろうからだと、京には思える。

 たとえ何もなくても、そして平凡だろう毎日を送る美夏。だがそれはそれでひとつの幸

せであるからこそ、美夏は毎日笑顔で自分と接してくれるのだろうと、京はそう思ってい

る。

 だが、そんな美夏に今まで以上の笑顔を上乗せできるなどとは、京自身も、思っていな

かった。だからそれだけで幸せだった。

 グラスに入ったコーラを、残り三分の一にして美夏は言った。

「だってね、おにいちゃん。おじいちゃんのお花屋さんって、もっと小さかったような気

がしてたから、こんなに綺麗でおっきくなってるなんて思わないでしょ? それにおじい

ちゃんも、少し雰囲気変わってたみたいだったから」

「ああ。兄ちゃんもさ、最初は分からなかったんだ。けど、なんか、昔から新しく花屋を

建て替えたかったらしいんだ、梶野さん」

「そうなんだぁ。でも嬉しいな」

「うん」
                                            ・・
 コーヒーのお代わりは、二回目だった。いや、まだ二回目だった。

 これでも遅く飲んでいるつもりなのだが、それ以上に美夏は何杯もコーラをお代わりし

ている。嬉しさのあまり話に夢中になっている美夏は、自分の体の中に入る水分の限界と

いうものを知らないようであった。それほどすごい勢いで飲んでいく。

 そんな美夏を見ながら、京はつい最近のことを思い出した。

 花屋にはなりたかった。そしてまずはその花屋で働こうと思っていた京も、正直言って

そのきっかけである梶野のことは忘れていた。

 バイト先を探して、何件も花屋を回っている時、毎回人手は十分だと断られた時、よう

やく梶野老人のことを思い出した。

 そのまま梶野が快く雇ってくれたことは嬉しかったし、今思えば、その時、梶野のこと

を思い出していてよかったと思った。

 仮に梶野の花屋を忘れて、他の花屋で先に働き口が見つかったとしたら、梶野のことを

忘れたままで花屋を目指そうとしていたかもしれない。

 そう思うと、京はこうして美夏とともに夢のきっかけである梶野のところで働けること

に、本当の幸せを感じた。

(……本当に、本当に、よかった)

 そんな京の思いも、美夏は直接的に話されてはいないが十分に分かっていた。

 自分としても嬉しいし、兄も喜んで自分とともに働くことを期待していることが何より

嬉しい。

「おにいちゃん、ほんと、幸せだね」

「ああ、ほんとだよな。……まぁ、そうは言っても働き始めたら『辛いぃ』とかいってや

めたくなっちゃうかもしれないけどね」

「うん、それはそうだけど。でも、それはそれで幸せだよ、お花屋さんで働けるのなら」

「ああ、そうだよな」

 京と美夏は、ふたりしてコーヒーとコーラを飲み合い、それから競争でもするかのよう

にグイグイとお代わりを続けた。

(ほんと、幸せっ)

 美夏はしばらくの間、その思いが抜けずに綻んだ顔をもとに戻すことができなかった。

 それほどにその思いが自分にとって、これからの自分の生活にとって、そのままのもの

なのだ。

 笑顔が耐えない美夏。京もそんな美夏を見て、自分も無意識に笑っていた。

 それからその日は、夜の十時頃まで、ふたりはずっと笑顔で、ずっとコーヒーとコーラ

を飽きることなく飲み続けた。

 ……ちなみに、最初の二杯の料金を払えば、残りはお代わり自由である。

 そんなカフェ・ホーソーンのコーヒーとコーラをお代わりしまくっていた兄妹が、今日、
店員の皆さん  いや、店長を脅かしたのは、言うまでもない。

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