2017年2月19日日曜日

明日に向かって 第4話

「それって、誰のことですか?」

 元総長は複雑な表情だった。

「やっぱりな……。そのことも忘れてしまったのか」

「え?」

 俺の記憶は、何もないのだ。ここ一年の村での生活以外のことなど、何も憶えていない。

 元総長のその言い草は、俺にはなにかこたえてしまった。

「一年前、お前が死んだ理由とも言える仕事があった。ある女性を、ラヌウェットまで護衛す

るという仕事だ」

「え?」

 俺は自然と夢のことを思い出していた。

 そう、俺は初日の夢で言っていた。『もう少しでラヌウェットだ』と。『彼女』をラヌウェ

ットまで送ることが、俺の仕事だったのだ。今の元総長の言葉が、それを確信のものへと導い

た。

 そして俺はそれで死んだのだ。先輩もそんなことを言っていたような気がしていたし、それ

に、俺自信もそうだと思った。

「あの仕事は、私がお前に依頼したものだった。今思うと、私のせいでお前が、死んでしまっ

たのかもしれない。すまないと思っている」

 元総長は悲しげにそう言った。

 だが、俺は、元総長にとってそれが今言いたいことではないことに気付いた。それに、俺は

過去に死んだことに対して、誰にも恨みのようなものを抱いてはいないため、元総長にそのこ

とを問い詰めるつもりはなかった。

 元総長は、俺の予想どおりに口を開いた。

「だが、今言いたいのは、だ。一年前、その護衛でお前は死んだ。それで、お前が護衛した女

性がどうなったのか、ってことを言いたいんだ」

「え、今、ですかっ!?」

 元総長の言葉に、俺は絶句した。絶句する意味はなかったのかもしれない。が、俺は衝撃の

ようなものを感じずにはいられなかった。

 今、元総長が言ったのは、『彼女』のことであろう。そのことが、俺にいろいろなものを思

い浮かばせた。

 夢の中にいた彼女。初日の夢で消えていってしまった彼女。

 昨日の夢では出てこなかった彼女、……ようするに、殺されたんだと俺は確信していた。

 そのことと、今までの自分のことでいっぱいだったため、俺は彼女のことは忘れていた。こ

うして元総長の話に出てくるなどとは、まるっきり考えていなかった。

 だが、元総長の言葉を聞いた今、俺の中で熱く燃えていくものがあった。それは、複雑な感

情だ。

 元総長の言った言葉。俺は繰り返してみた。

 彼の言い方を普通に読み取るのならば、彼女は今……

 俺は先輩を起こしに行きかけたところでテーブルの前まで戻った。

「ってことは総長さん、彼女は今、生きているってことですか!?」

「ああ。そういうことだ。なんだ、知ってるんじゃないか」

 元総長の言葉が、俺にはなんともいえなく嬉しかった。

 夢に出てきた彼女。それは、単なる夢の中のひとりの女性に過ぎない。

 だが夢をみた俺には、こう、グッとくるものがあったのだ。

 それに、過去の俺を知っている人たち-とは言っても、俺の知っている中では今のところ元

総長だけだが-のひとりだ。余計に会いたい。そして、話がしたい。

 そういった新鮮な思いを抱いた俺に、元総長は今度は笑顔になって言った。

「今、彼女はラヌウェットにいるはずだ。しばらくは会っていないが、静かに暮らしていると

思う」

「そうですかっ」

 俺は、元総長の言葉に至福を感じた。

 それとともに、今まで毎日ラヌウェットへ行っていたというのに、そんなことを全然知らな

かったことが、信じられない気がした。

 …彼女は、生きていたんだっ。

 俺は、心の中でそう思った。だがそれとともに、新たに気になることがあった。

 夢の中の彼女。少なくとも俺には、彼女は死んだ……いや、撃たれた気がしていた。そして、
消えていったのだ。

 俺は、笑顔の元総長に問うた。

「でも総長さん。彼女は俺が死んだ時に、どうしてたんでしょうか。彼女も、俺と同じ目に合

ったんじゃないですか?」

 元総長は苦い顔をして、先輩が眠っている部屋とは別の扉へと向かった。

 中へ入って、しばらくしてコーヒーを汲んだカップを片手に戻ってくる。

 一口の飲むと、テーブルにカップを置く。

「ああ、確かにな。護衛のお前が死んで、何もできないあの娘が無事に逃げられるわけがない。
実際に危なかったんだ。彼女、何発も弾丸を受けて、意識不明の状態だった」

「……やはり」

 彼女が意識不明だったという状態を、俺は夢の中ではみていないが、ともかく元総長がそう

いったことを言うのは予測できた。

 だが、それでいて今は元気にしているという彼女。俺は余計に会いたくなる。

 元総長はコーヒーカップを手にとった。

「その意識不明だった彼女と、死んだお前。そこに私たち《キルド》はやってきた。その辺り

から《クウォーラル》との全面的な争いが始まった。私が意識不明の彼女を発見した時、死ん

だお前の姿はなかった。彼女と一緒に撃たれたんだとは思ったんだが、よくは分からない。そ

れから、私は彼女をラヌウェットの病院へと送り、なんとか彼女は命は取り留めたってことだ。
そのおかげなんだよ。この足は」

「え?」

 元総長が話してくれたことで、なんとなく過去、死んだ時の様子が分かったような気がする。
そして、元総長が最後に言った言葉と同時に、俺は彼の示す足へと視線を移動させた。

 包帯だらけの両足。見るからに痛々しい。そして、この様子からしてもう使えない足なんだ

と、俺は悟った。

「これは……?」

 俺の問いに、元総長は苦笑いを含んだ声音で、呟いた。

「その時に、あの娘を助けるために《クウォーラル》のやつらから受けたものだ。でも……」

 昔のことを忘れたいのか、元総長はコーヒーを、熱いのだろう一気に飲んで、口を唸らせて

いた。

「私も、なんであの時、傷を受けるのを覚悟であの娘を助けようなんて思ったのか、分からな

いんだ。……まあ、今となってはそれもいい想い出に……、ならないよな」

「そうだったんですか」

 俺は、なんて言ったらいいのか分からなかった。元総長の、足を失った悔やみが、その時の

俺には、足を失ったことがないのに分かるような気がした。

 だが、彼女を助けたことを後悔したように言う元総長だが、内心ではそれはそれでよかった

んだと、そう思っているように思えた。

 俺は、元総長の顔を窺いながら言った。

「けど、それなら彼女は喜んだでしょう。もし、俺がそんな境遇に置かれていたら、嬉しいし」
「……まあ、な。とりあえず、私が話せることは、ここまでだ」

 元総長は切り替えて言った。

「ラヌウェットへ行くのなら、寄ってやるといい。たぶん喜ぶと思うぞ」

「はい。先輩にも話して、今日寄ろうと思います」

「ああ、そうするといい。……しかし、その言葉遣いは昔のお前では考えられないな」

「え? じゃあ、俺、どんなヤツだったんですか?」

「まぁ、彼女に聞いてみるといい」

「……そうすることにします」

 元総長は、苦笑していた。

 俺の過去がどういったものだったのか、元総長にはいろいろと教えてもらった。

 だが、俺の内面的なことは全くと言っていいほど教えてもらっていない。というより、元総

長は触れようとしていない感じだった。

 それならばあえて聞くことはない。

「じゃあ、先輩起こして行きますんで」

「ああ。なんだか久しぶりに話せてよかったよ」

 元総長の笑顔が、俺には嬉しかった。

 今の俺にとって、元総長は知り合いではない。過去に、俺が彼の仕事の依頼を受けたという

関係だということでしか、今のところつながりはない。

 それなのに、今の俺は心が和んでいた。

「まあ、いっか」

 いろいろと知れた。

 何よりも『彼女』のことを知れたのが、……しかも生きてラヌウェットにいる、そして実際

に会えるということが、俺の感情を高ぶらせる。

 必要以上に晴れやかな胸にそういったことを刻んで、俺は隣の部屋へと戻った。大きくいつ

もの伸びをして、歩いていく。

「?」

 隣の部屋の扉を開けて、一番初めに気付いたことは、先輩がベッドの上で壁に耳を当ててい

たことだった。

 壁……というのは、元総長と俺が話をしていた部屋の側の壁だ。ようするに、聞き耳を立て

ていた、ということだろう。

 先輩がにやけて俺の方に顔を向けて、『ははっ……』と笑うのを聞きながら、俺はとりあえ

ず聞いた。

「先輩、何やってんですか」

「へへっ……」

 苦笑して、そして焦ったような表情も加えて、先輩はセミロングの髪を無作為にいじった。

「ごめん! えと、話、聞いてた」

 そこまで言うと、両手を合わせて俺に謝る格好をした。

 さっきまで眠っていたベッドに戻って、俺は腰をかけて先輩の方を向いた。

「いや、何言ってんですか。全然構いませんよ。って言うか、先輩にも話さないとな、って思

ってところだから。先輩とは今回のこと、一緒に考えていくんでしょ?」

「そ、そうだね。なんだ、ぼけろん怒っちゃうかと思った。けど、……ほんと、勝手に聞いち

ゃって、ごめんね」

「いえいえ、いいって」

 先輩がこんなふうに謝るのは、めったにないことだった。

 そのせいか、俺は何か優越感のようなものを感じていた。

「けどさ、その……」

 さっきまでの笑顔を、気のせいくらいに歪ませて、先輩は言った。

「彼女って人、本当は生きていたみたいだね。話によると」

「ええ。そうなんですよ。ほんとよかった。いろいろ話が聞けそうですよ。余計にラヌウェッ

トへ行くのが、価値あり、っていうか、楽しみですね」

「……う~ん。まぁ、ねぇ……」

「?」

 小声で俺の言葉に頷いて、先輩はベッドから立ち上がった。元総長のいる隣の部屋へと歩い

ていく。

「あ~、とにかくよかったよな」

 何度も何度もしつこく伸びをして、俺は先輩の後を追った。



「行くのか……」

 その声音には、俺たちに対する問いと、単なる呟きのようなものと、両方含まれていた。

 小声のそれは、何か深い悲しみが含まれたような、そして様々な意味が込められているよう

な気がした。

 元総長のその言葉を、俺と先輩は彼の方を向いて聞いた。

 テーブルのすぐそばで車椅子に乗っている元総長に、俺と先輩は並んで礼を言った。

「ええ、俺たち、もう行きます。いろいろお世話になりました。けど、ここからラヌウェット

までは、どのように行けばいいんでしょうか?」

「ああ、地上と同じだよ。この地底は、地上の一本道に沿って掘られてるからな。まっすぐ行

けば、いつの間にか着いてるよ」

「あ、やっぱりそうですか。なんとなく俺もそう思いました」

「とは言っても、やっぱり距離はあるけどな。掘るのに苦労したぜ。全部、私ひとりで掘った

んだからな」

「よくやりますよ」

「まぁな。とにかくラヌウェットへ行ったら、あの娘によろしく言っておいてくれ。彼女は、

……着いたらどこにいるか、すぐに分かるはず。真っすぐに突き進め。彼女の顔は、分かるん

だろ?」

「ええ。まあ、あやふやですが一応は」

「十分だ。けど、彼女の方はお前が生き返ったことを知らんだろうから、驚くだろうがな」

「……やっぱり、知らないんですか?」

「ああ。まあ、お前が生き返ったことは私も最近知ったばかりだしな。一般の民に知れ渡る可

能性は、低いと思うんだ」

「そうですか」

 元総長のその話が、少し痛かった。

 彼女に会えたとしても、彼女が俺のことを忘れていたとしたら、どうにもならない。……い

や、その前に俺自信も、彼女のことは知らないのだ。

 そこの部分で、会えた時に戸惑いが生じるだろうが、とにかく会えばなんとかなるだろう、

俺はそう思っていた。

「それから彼女に会ったら、お前の父のことを聞いてみろ。私よりも、ある意味では詳しいは

ずだ」

「え? なんで……だ?」

「まあ、そこのところも彼女が教えてくれるだろう」

 俺の父のこと。俺は全く知らない。

 だが、彼女が父のことを知っているのなら、その時に教えてもらえばいい。

 そして、そういった話が聞けることが、俺にさらなる期待を膨らませた。

「まあ、くれぐれも《クウォーラル》のやつらには気を付けろ」

「はい。いろいろとありがとう、総長さん」

「フフ。もう私は総長ではないのだぞ」

「いえ、そう呼ばせてください」

「まあ、いいけどな。またいつか、来てくれ。田圃に落ちてな」

「はは」

 元総長の笑いながらの言葉に、俺は笑顔で返した。

 初めて照れた元総長の新鮮な表情が、何より暖かかった。

「じゃあっ!」

「ああ」

 手を振って、俺と先輩は部屋を出た。


                                         3


 「しかし総長さんも、よくこんなところで生活してますよね」

「そーだね」

 ……この、俺と先輩のいつもの日常極まりない、そして和やかな極自然な会話がようやくに

して出たのは、今から三十分ほど前のことだった。



 -さっきから、先輩はずっと黙りっぱなしだ。

 …どうしたんだろうか。

 俺には先輩の心境が気になって仕方がなかった。

 いつからだったか。確か、先輩の笑顔の言葉、ベッドで『話を聞いてた』、とかいう辺りだ

った気がする。その辺から、先輩は何も話してくれない。

 ところで、元総長が言っていたように、ここは地底だった。

 俺と先輩の寝ていたベッドのある家。それは、元総長の言うとおり、本当に一軒家のような

建物だった。

 王都ラヌウェットの近郊にあるレヴィンと呼ばれる古代遺跡を奥に残した、カーム洞窟と呼

ばれる古代の洞窟がある。

 その内部は至って古く、そして、いつ崩壊してもおかしくないほど破損が激しい。

 まさにここはそれだった。

「……こんなところが、今まで仕事をしていた一本道沿いの田圃の下にあったなんて」

「………」

 俺は何度も感嘆の声を発していた。

 それほどすごかったんだ。神秘的なものを醸し出している地面と頭上。何より人工的に掘っ

た、というのが信じられない。加えて、元総長がひとりで掘ったなどとは……。

 初めてみる人間の域を超越した光景に、俺は唖然としていた。

 頭上は、二十メートルはある。相当な高さだ。

 しかもそこから俺たちは落ちてきたというんだ。よく怪我ひとつなしで済んだものだ。

 今、歩いている周囲の状況を簡単に表現するとすると……、ここから頭上までの高さが相当

なものなのでそれは除くとして、光があまり通らないところから考ると、『トンネル』といっ

たところであろう。ちょっと言い換えてみると、洞窟。鍾乳石とも言える。

 一番の魅力は、壁の美しい色と、声が甲高く響くことだ。

 そんなトンネルのようなところを、俺と先輩は、ラヌウェットに向かって歩いていた。

 だが、気になることがふたつ。

 ひとつは、足元でうろちょろしているウジムシのような生物。

 とにかく気持ちが悪い。虫の嫌いな俺にとっては、天敵ともいえる形であった。

 そしてもうひとつが、先輩だ。

 俺が話しかけても、何も応えてくれない。まだそれはいいとしても、五分おきくらいに蹴っ

てくるんだ。

 それについて何か言っても、無視したまま蹴るだけだ。抵抗したいが、そうすると後にどう

なって返ってくるか知れたもんじゃないため、俺はやられるがままになっていた。

 とにかく見るからに機嫌の悪そうな先輩が、俺には気になって仕方がなかったし、そして普

段の先輩に戻ってほしかった。

「先輩、いいかげん機嫌直してくださいよ」

「……うるさい」

 ずっとこんな調子だ。

 そこで俺は考えた。……というかくだらない提案をした。

「そうだ、先輩。俺さ、何かひとつ、先輩のいうことを聞いてあげますから、機嫌、直してく

ださいよ」

 そこまでして機嫌をとろうとするようなヤツにろくなヤツはいないと、俺は思っている。

 だが、先輩といつも一緒にいる俺にとっては、そうでもして先輩が元に戻ってほしかったん

だ。

 笑顔で新鮮じゃなきゃ、先輩じゃない。俺は勝手にそういった先輩のイメージをつくりあげ

ていた。

 っと、今まで常に眉間に皺を寄せていた先輩の表情が柔らかくなった。

「……なんでも、いいの?」

「はい。なんでも聞きますよ。どんなことでもね。ひとつだけ」

 俺の言葉に、先輩はとうとう崩れた顔になった。

「ほ~。本当に? 知らないよ? もう言ったんだからね。嘘とは言わせないからっ」

「え? いや、『死ね』とか、そうゆうのはナシですよ。できる範囲内の中での話ですから」

「ああ、それは分かってる♪ ふふふ」

「……なんかその笑い方、怖いです」

 先輩のその微笑みは、俺を恐怖させるには十分なものであった。



 -で、結局、そのなんでも聞くという約束は、村に帰ってから果たすことになった。

 その話からの先輩。笑い続けていることが俺には恐怖以外のなんでもなく、……やはり機嫌

のためにそこまではしなかった方がよかったかなと、今頃になって俺は後悔していた。


                                         4


 「なんだ、ここは? 初めて来たよ」

 俺は口を開いたままに、そう大声にも近い声で口にした。

 ようやくラヌウェットに着いた。ちょうど真っ昼間……いや、正確に言えば、夕方に近い昼

間、といったところだろうか。

 地底を歩きに歩いて、何時間歩いていただろうか。十時間ではきかなかったような気がする

が、あまり正確な時間は分からない。

 地底は、ラヌウェットに近づくに連れて、だんだんと地面が高くなっていた。出口の辺りで

は、地上と同じ高さにまでなっており、元総長が掘っていったという話の信頼性が増したよう

に俺には思えた。

 地底の出口は、初々しい茂みに隠れていた。そこを抜ければ、もうラヌウェットに入ってい

る。元総長がひっそりと暮らせている理由が、なんとなく出口で分かったような気がする。

 茂みは、地上のラヌウェットからは見つけにくくなっていた。探索でもしない限り、地底の

出入り口を見つけるのは困難のような気がする。言い換えれば、地底からラヌウェットへの出

口を通る時は、茂みだらけでかなり苦労するということだ。実際に大変だったし。

 そして、その森と言っても過言ではない茂みを抜けると、正面は一面が広場になっていた。

 全体が整備されており、本当に広い。子供から大人まで、何も目立った設備はないのだが、

美しい環境と、休むという意味では、ゆっくりと過ごせるようになっていた。

 そして、目の前に広がる大きな広場の中央には、これもまた美しい巨大な噴水があった。周

りもまた整備されており、たまった水の周りには、花が咲いている。

「きれいだ……」

 ラヌウェットに毎日来ている俺。

 だが、いつもはあまり滞在しない俺。初めてみるこの光景にそういった自然な感想をもたら

しても、おかしくはないだろう。

 俺は、森のような茂みを背中越しに、ずっと先に見える巨大な噴水と、それを取り巻く大き

な広場を一瞥して、心から感動していた。

「……ってゆーか、これって、すっごくきれいすぎない? うわぁ……、こうゆーきれいなト

コって、あたし大好きなんだっ」

 隣で俺と同じように広場を眺めている先輩は、感動していた。瞳が輝いている。

 先輩の言うように、実際に口にできないほど、この環境は素晴らしく思えた。

 と、心を和ませているのもいいのだが、とりあえずこのままじっと茂みのそばにいても仕方

がない。

 俺の目的は、彼女に会うことなんだ。

「ええーと」

 意味のない言葉を口にして、俺は元総長の言っていたことを思い出そうとした。

 元総長の言った言葉。それは確か、『地底を出たら、まっすぐ』だった気がする。

 …おおざっぱだよな。

 今になってそう思いながら、俺はとりあえず元総長の言っていたように、真っすぐの方向を

見た。

 巨大な噴水だ。

 周囲には花の咲いている巨大な噴水が、ここから真っすぐの方向には、ある。

「……ってことは、とにかくあの噴水を越えて、だな」

「……は?」

 考えをまとめて、その結論のみを口にしたので先輩がきょとんとしてそう言った。

「いや、元総長の言ってたことですよ。彼女にはまっすぐに行けば、会えるって」

「ああ、そのコトね」

 納得した先輩は、俺から噴水へと顔を向けた。

「そうだね、とりあえず真っすぐ行ってみよっか」

「ええ」

 地底の長時間の徒歩も、今となってはあまり気にならなくなった。

 この広場を歩くことが、喜びになってくれる。

「あ、そうだぼけろん」

「はい?」

「どうせだからさ、今日はラヌウェットに泊まってかない?」

「ええっ?」

 先輩の突然の提案に、俺は絶句した。

 いや、絶句するようなことを言われたわけではないのだが、考えてもみなかったことなのだ。
「だってさ。トラック故障しちゃって、時間なくなっちゃったから何もしてないじゃん。あ、

じゃあ明日はすぐに帰るってコトでどうかな」

「いや、俺はいいんですけど、仕事の方が気になって……」

 今日は初めての休暇だ。だから、俺は仕事を休んでまでこうしてラヌウェットに来てもよか

ったとは思っている。

 だが、二日連続となると、何かと気が引けるのだ。それに、休暇は一日だけだと言ってしま

っし。明日、俺はすでに村にいることになっているのだ。

「明日、俺は仕事やることになってるんですよ。俺がいなかったら、まずいじゃないですか」

「いいよいいよ。大丈夫でしょ。ぼけろんが今日、村に帰らなかったことを知れば、他の村の

人がなんとかやってくれるだろうし」

「まあ、そうですけど……」

「じゃ、決まりだね」

 …ふう。

 心の中だけで、俺は大きく溜め息をついた。

 納得のいかないところもあったが、俺自信、本当のことを言えば、日帰りは避けたかった。

 ……というのは、初めはそんなつもりはなかったのだが、トラックの故障が計算外だったか

ら、予定が狂ってしまったのだ。

 それゆえ、俺も先輩にはあまり乗り気ではない様子を見せてはいたが、少し嬉しかった。

「まあ、それでも気になるとは思うから、明日はあたしも一緒に謝ってあげるからさ」

「あ、そうですか? すみません」

 先輩の細かい気遣いで、俺は多少安堵した。

 とにかくそんなわけで、俺と先輩は今日はラヌウェットに泊まることにした。

 茂みから出て、しばらく歩きながら、俺たちは周囲を見渡していた。

 広場は、本当に美しい。だが、なんにもない。いや、なんにもないからこそ自然な美しさが

醸し出されているのかもしれない。

 一番近くに視界に入る建物でも、相当に小さかった。

 ようするに、それだけ周りには建造物がないのだ。

 だが、俺は何もない方が好きだ。

 だんだんと巨大な噴水へ近づいていく。

「ぼけろん。今、『彼女』に会いたい?」

 隣で歩いている先輩が、そう聞いてきた。

 俺には地底の徒歩の疲労が忘れられていたが、先輩はそうではなかったらしい。疲れている

のが分かる。

 そんな先輩を勇気付けるようなつもりで、俺は明るく言った。

「ええ。そりゃもちろんですよ。いろいろ話したいですしね」

「そっか。まあ、それはそれでいいんだけど。本当にこっちでいいのかなぁ……」

「……確かに」

 茂みから数分ほど歩いて、ようやく噴水までたどり着いた。

 目の前に大きく広がる噴水を見上げて、俺は新鮮な水しぶきを久しぶりに見た感じがした。

 直径十メートル程の円の石垣に囲まれたその噴水と、たまっている水。それらを見ている人

達は、小さな子供たちと、その親だった。

 俺はそんな自然な風景に見取られながら、先輩の疑問に真剣になっていった。

「そうですよね。茂みからは真っすぐに来たんだし。けど、真っすぐって言われてもこの噴水

から見える景色は、何もないんだけどな。もっと歩くのかな」

「そうだと思うけどね」

 先輩と同時に溜め息をついて、俺は噴水の周りの石垣の上に座った。

 水が満杯に入っているため、服に水がつくかつかないかという瀬戸際だったが、今の俺には

そんなことはどうでもよかった。

 隣に先輩が座るのを何気なく見て、俺はもと来た道を眺めた。

 遠くの方に茂みがある。

 そして、逆の方向を向いてみる。……ようするに茂みから真っすぐに行った方向なんだが、

何も見えない。それだけ広場が広いのだ。

「あ~あ。本当に彼女、あっちの方にいるのかな」

「さあ……ね。とにかく行かないと始まらないでしょ。行こ?」

「はい」

 とにかく歩かなければ始まらない。俺たちは石垣から立ち上がって、茂みから真っすぐの方

向を向いた。

「あとどれくらい歩けば着くんでしょうかね」

 その時だっ。

 俺のその一言と同時に、俺はふいに後ろを振り向いた。

 噴水の石垣の周囲には、黄色い花-何の花かは分からないが-が、周囲一メートルの範囲で

咲いている。その花は、種類はその黄色いものだけだったが、全てが様々な光を帯びていて、

俺にはとても新鮮に感じられ、目を釘付けにされるくらい美しかった。

「いや……」

 俺は無意識にそう呟いていた。

 そう、『いや』だった。

 花。それは美しい。

 だが、俺が言いたいのは、そんなことじゃない。

「………」

 俺は、時間が止まったかのように思えた。

 黄色い花がある。

 問題はその花の、そば、だ

 黄色い花を、中腰になって優しく手入れをしている女性がいる。

 村に住んでいる女性たち-今の先輩は除く-の普段着と、あまり変わらない服装。

 そんな女性が、振り向いた俺の目を、強烈なまでに捕らえた。

 引き付けられていく俺。その自然な心の動きに身を任せ、俺はじっとその女性を見つめてい

た。

「ぼけろん?」

 俺が立ち止まったことに気付かなく少し先まで歩いていた先輩が、一旦俺のところまで戻っ

てそう聞いてきた。

「………」

 俺は何も言えないほど、体全身が熱くなり、そして唇を震わせていた。

 そんな俺の視線を追って、先輩が、今度は多少複雑な表情を携えて聞いた。

「夢の中の『彼女』って、もしかしてあの人?」

 先輩の声が、遠かった。

 俺は、黙っていた。

 はっきりとは分からない。顔がこちらを向いていないため確認ができないし、夢の中でみた

彼女とは、外見が多少変わっていたから。髪は、夢で見た時よりも、かなり長い。

 だが、感じるものがあった。

 とにかく俺は直感に頼り、その女性のそばへと近寄った。

「ぼけろん……」

 立ち止まって俺のことを見守っているのか、先輩の声が聞こえた。

 その女性は、花の手入れを続けていた。

 俺は、ふとその女性を見つめながら、考えてみた。

 目の前にいる女性が仮に『彼女』だとして-というか、彼女じゃなかったらどうしようもな

いのだが-、俺は彼女に会って、どうしようというのか。

 元総長は俺に、会っていけと言っていた。そう言った理由は、俺が彼女と一年前の知り合い

だったからであろうせっかく生き返ったのだから会った方がいい、そういう意味だと思う。

 だから俺は会いにきたんだろうか。元総長に言われたからなのだろうか。

「……いや」

 俺はそう呟いた。

 元総長に言われたから、……それもあるだろうが、それだけではないと思う。

 夢で彼女をみてから、ずっと気になっていたんだ。俺は彼女に会ってみたい、と。

 正直に今、俺は自分の心の中で、彼女に会って、そして話がしてみたいと、そう思っている

んだ。

 俺は、屈んでいるその女性の後ろまで来て、とりあえず立ち止まった。

 そこで、また考えた。

 …こういう時って、どう話しかけたらいいんだ?

 全然分からなかった。

 俺は、彼女とは一年前の顔見知りだったはずだ。だが、それがなんだと言うのであろうか。

 俺は、よくよく考えると彼女の名前すら知らないし-元総長に聞けば良かったと思っている

-、突然話しかけても、彼女は分からないかもしれない。

 何より、俺はこういうのが苦手だったし、上がってしまう。

「えーと」

 とにかく焦ったが、立ち止まっていても始まらない。

 俺は彼女の顔の高さと同じくらいまで屈んで、横から声をかけた。

「あの、すみません」

 何から話せばいいのかを考えながら、俺はその女性がこちらを向くのを待った。

 手に持った花を見つめていた顔を上げて、ゆっくりと俺の方を向いた。

「はい、なんですか?」

 俺の目を見た。

 俺はそこで確信した。

 その女性の表情。無表情ではあったものの、雰囲気からとれる胸から熱くなっていくような

想い。
                ひと
 …そうだ、この女だ!

 振り向いたその女性に、俺の体は次第に音を立てて高鳴るのが分かる。

 理屈じゃなかった。そういう問題ではないんだ。

 俺の体が、脳に伝えるんだ。

 『彼女』だ、と。

 俺は振り向きざまに笑顔になった彼女を見て、喜びのようなものを感じとり、同時に体が硬

直していくのを感じた。

 緊張にも近いものも感じる。そのせいか、俺は何も言えなかった。

 まるで、恋愛物語の主人公になっているような気分だ。

 夢の中でみた彼女が、こうして目の前にいるのが嬉しいのか、それとも一年前の俺が彼女を

見て、無意識に反応しているのか、ともかく俺の全ての神経は鋭く彼女を見つめていた。

 目と目が合わさったまま、俺はただ『彼女』を感じとっていた。

 彼女がようやく口元を柔らかくして、言った。

「あの、わたし……ですか?」

「え?」

 俺は問い返していた。

 そうだ。俺は自分から話しかけていたのだ。そのことをまるっきり忘れていた。

 だが、優しく微笑みかけてくる彼女に、俺は何も答えられなく、ただただ考えていた。

 説明のしようがなかった。

「ああ、あの、そうです」

 …どうやって話せばいいんだ?

 一年前のことから、話していけばいいのだろうか。

 とにかく俺は怪訝な表情に近くなっていった彼女の顔を見やり、とりあえず今考えたことを

言うことにした。

「あの、俺……、いや、その前に、突然話しかけて驚いたのかもしれないんですけど……」

「ええ」

「ちょっと聞いてほしいんです。ちょうど一年前のことです」

「……え?」

 俺はその時、彼女の表情が一瞬だけ変貌したことに気付いた。

 いや、一瞬だけではない。そのままの驚愕を保ち、俺の目を見ているのが分かる。

 そのまま一年前の出来事を、夢でみた限りのことを話そうとした俺。だが、その前に彼女が

それを遮った。

「あ……」

 彼女は小声で叫んだ。だんだんと目が大きく開き、そして今までの笑顔が消えていく。

 俺は彼女の表情に期待を膨らませた。

「あの、もしかして……!」

「俺のこと、憶えてるんですね?」

 彼女の言葉に問い返す俺の言葉。それを聞いた次の瞬間っ、

 ドサッ

 彼女の手の中にあった幾つかの黄色い花が、地面へと落ちていった。

 彼女はそれに気付かず、突然立ち上がって口をポカンと開けた。

 彼女が俺のことに気付いてくれたのが嬉しかったが、そこまで驚愕するとは思わなかったの

で俺は多少戸惑ったが、立ち上がって俺を見ている彼女に合わせて立った。

 幾らか低い彼女の目を見る。さっきまでの平然とした顔が、驚きと焦りのようなもので一杯

になっているような気がした。

 彼女は開いたままの口を、少しずつ動かした。

「あ……あの、もしかして、わたしの護衛さん!?」

「え?」

 彼女の言った言葉の意味が、一瞬分からなかった。

 …護衛?

 俺はそこで少しの間考えた。

 先輩も教えてくれたが、夢のことを考えると、一年前、俺は彼女とラヌウェットへ向かって

いた。そんな俺たちを狙ってきたのが、『奴』だ。

 そして、元総長が教えてくれた言葉を思い出して、俺は彼女の護衛だったことを認識した。

 俺は、頷いた。

「ええ、そうです」

 正直なところは、俺は記憶がないから分からない。だが、おそらく間違ってはいない。

 俺の返事を聞いた彼女。

 …え?

 俺は、ただ驚いていた。

 彼女が苦し紛れに言葉にしていく。

「……だ、だって……だって………死んだって聞いてたから……」

 涙ぐんでいた。いや、もうすでに涙していた。

 …どうして泣くんだ。

 その疑問ばかりが俺を襲う。

 左手で涙を拭いながら、彼女は俯いた。

「……いや、俺は……」

 泣いている彼女に、何も言えなかった。

 彼女はやはり、俺は死んだと思っていたようだ。元総長の言うとおりだった。

 泣いている彼女。それは、俺の一年前の死に対してのものなのだと、確信はないがそう思う。
 とにかく、俺は彼女の涙を止めたいがべく、口にした。

「俺、死んではいなかったんだ。なんとか、生きてたんだよ」

 俺は、本当のことが言えなかった。死んで、そして記憶を失ったかわりに生き返ることがで

きたことという事実は、俺が生きていたことに安堵している彼女には、余計に混乱のものとし

て感じさせてしまう。

 俺の言葉の後、しばらくの沈黙があったかと思うと、彼女は俺のそばに寄った。

 そして、小声で囁いた。

「よかっ……よかった。本当によかった。……だって、あれっきり、ずっとずっと姿、見せて

くれなくて……」

「!」

 俺は声にならない声を出していた。

 泣きながら抱き着いてきた彼女。そんな彼女の表情は、安らぎを感じているそのものであっ

た。

 体全身を俺にすり寄せてくる彼女に、俺はただ立ち尽くしていた。彼女の体からは、今まで

の切ない想いが感じられ、そしてそれと同時に、俺は熱くなっていた。

 噴水のそばで、周りの子供たちは俺たちに気付かずに遊んでいる。その大人たちもまた、子

供のことで目が離せない状態だった。

 そばで噴水の新しい水の音を聞きながら、俺は、彼女をそばに感じて、空を見上げていた。

「ぼけろん……」

 顔だけ振り向いて、今まで何も喋らずに俺と彼女を見つめていた先輩の声を聞き取る。そん

な先輩の表情には、俺は暖かみを感じた。

 今の俺は、夢の中での彼女しか知らない。過去の俺は、どういうふうに彼女と接していたの

か分からない。

 だが、俺は彼女に合えた喜びを深く感じ、そして泣いている彼女が落ち着くのを、静かに待

っていた。


                                         5


 「ここに住んでるの」

 そう言うと、彼女は笑顔で扉を開けた。

「……とは言っても、一日のほとんどはあそこにいるんですけどね。どうぞ入ってください」

「ありがとう」

「失礼します」

 俺と先輩は、彼女の言うとおりに中へと入った。

 噴水のある広場から、それほど歩かなかった。大体、三十分くらい。

 俺は彼女と歩いている時、元総長の言っていた意味が分かったような気がした。

 『地底から真っすぐ』というのは、彼女の住む家ではなくそのままの意味だったのだ。つま

り元総長は、いつも彼女がどこにいるのか知っていたのだ。

 とにかく広場からしばらく歩いていき、木々のある、人の手が加えられていないところに出

た。それから、林が周りにそびえたつ道を歩いてきたら、ここに出た。

 周囲に木々。空からは日の光が直接当たってくる。寒い冬の今、それがちょうどよく温度を

調節してくれた。

 だがそれと同時に、ラヌウェットの家らしくもないと、俺には思えた。

 場所も、村とたいして変わらないような自然なところだし。

 まあそんなところにある古びた家に、彼女は俺たちを案内した。

 一階建ての、小さな家だ。木造のその家のつくりは、最近建てられたものではないのが一見

して分かる。

 彼女のその家以外は、木々と整備されていない道のみ。人気のないこの場所には、とてつも

ない静けさが感じられた。

「……けど、いいところだ」

 俺はそう思った。心からそう思った。

 賑やかなのが嫌いなわけではない。だが、こうやって静かな自然に囲まれて生きるのも、悪

くはないと、俺は思う。

 そんな無意識に感じたことを、無意識に言葉にして、俺と先輩は彼女の後に続いた。

 俺のことは知っている彼女、一応、ここまで来るときに、先輩とは自己紹介をしあっていた。
「ちょっと汚いところなんですけど……」

「いや、全然構わないですよ」

 彼女は家の中に入るなり、部屋を掃除し始めた。

 入ってすぐの部屋には、扉が他にふたつあった。どちらも開いている。

 俺は彼女の言われたとおりに遠慮はせずに、奥へと進んだ。扉の中の様子を窺って、……彼

女の家は三部屋で構成されていることが分かった。

 とりあえず、玄関に隣接している部屋の、彼女の用意してくれた椅子に、俺は礼を言いなが

ら座った。

 それほど大きくもないこの部屋の壁には大窓がついており、俺は椅子に座ったままその窓の

外を眺めていた。

 隣の部屋を片付けているのだろう彼女に、俺は聞こえるように言った。

「本当にすみません。会ったばかりなのに……」

 すると、彼女の大声が返ってきた。

「いえ、いいんです! それどころか、……うれしいの。寂しかったし」

「………」

 俺はしばらく黙った。扉からうっすらと見える彼女の笑顔を見て、俺は複雑な想いに駆られ

た。

 掃除をしている彼女の方を見ていると、ひととおり納得のいく片付けができたのか、彼女は

立ち上がって戻ってきた。

「今、お茶入れますね」

「ありがとう」

 俺の返事を聞いてから、彼女は今度はもうひとつの部屋へと歩いていった。

 そんな彼女を見ながらの俺の心は、なんだかとても和んでいた。
                ひと
「彼女……、いい女だ」

「………」

「先輩?」

 俺の座っている椅子のそばにある、同様のもうひとつの椅子。そこに座っている先輩の方を

俺は向いた。

 大窓を見つめている先輩。何か想いにふけっているのか、先輩は外の景色を見ているのでは

なく、どこか遠くの方を見ているような、そんな感じがした。

 そこまで先輩の今の心境を考えていると、先輩が今まで閉じていた口を唐突に開いた。

「ぼけろんって……」

「え?」

 問い返した俺の方を見ると、先輩は溜め息をついた。

「冷たいね」

「え?」

 二度、俺は問い返していた。

 先輩の言った言葉の意味が、俺には分からなかった。

 …冷たい? 俺が?

 その疑問の答えがまるっきり出てこなく、俺は再び大窓の方を見つめている先輩に問うた。

「あの、何がですか?」

「………」

 無表情しか返ってこなかった。

「……?」

 …俺、何かしたのか?

 先輩の、俺に言ったその言葉と、黙り込む仕草。

 ただ何気なく言った言葉なのかもしれいが、俺の心には深く突き刺さった。

 少なくとも、ラヌウェットに向かっていた途中までは、先輩は至っていつもの先輩だった。

 地底で機嫌が悪くなったが、それはもう解決したはずだ。

「………」

 今日だけのことじゃないのかもしれない。

 今までの先輩に対する態度を思い出しながら、俺は先輩をずっと見つめた。

 っとその時!

「帰ってください!」

 彼女の声が、隣の部屋から響いてきた。

 いや、彼女の声はその時だけではなかった。先輩と話そうとしていた時から、何か聞こえて

はいた。

 …俺たちに言ったのか?

 そんな不安のようなものを感じながら、俺は彼女のいる部屋へと向かった。

「どうしたのかな」

 何も話さなかった先輩も、それが今は嘘のように興味を露にして、俺の後を追ってきた。

 声が、聞こえた。

「まあ、いいじゃないか」

「!!」

 …な、なんだ!?

 低い男の声。それは彼女のすぐそばから聞こえてきた。

 部屋には裏口があって、そこから声が聞こえてきたようだ。

 そして、俺は驚愕して後ずさった。

「あ……あ……」

「ぼけろん?」

 裏口には、さきほどの声の主と思しき男がいる。

 俺はそれを見ていると、何も言えなかった。

 体が、熱かった。その男を見たその瞬間が、俺を次元の狭間へと陥れるような感覚さえ覚え

させる。

 …なんだ、この熱く燃えてくるものは?

 俺は、明らかに男に何かを感じとりながら、現状を見ていた。

 怪訝な面持ちで絶句した俺の顔を見て、先輩は何度か『どうしたの?』と聞いてきたが、俺

が何も言えないでいると、とりあえず彼女のそばに寄っていった。

「あの、どうしたの? 知ってる人?」

 先輩の問いかけに、彼女は静かに頷いた。そして、先輩に男のことを話そうとする。

「何!?」

 だが、最初に声に出したのは、男だった。

 目を見開き、そして俺と同じような表情で驚愕を制御できない、そしてうろたえている男。

 サングラスを掛けてはいるが、俺はその男の目の動きは見ることができた。

 男は正装をしていて、そしてその似合わぬ格好に合わせるようにして片手に持っている花束

を、バサッと落とした。

 若干眉を動かし、男は叫んだ。

「お、お前は!」

 恐れていたものを見てしまった、そんな声音と表情。

 男は、そう叫んだと同時に、指を突き上げた。

 その矢先にあるものは……

「俺……?」

 俺だった。俺は男に問い返したつもりでそう呟いたわけではないのだが、ともかく男は俺の

言葉に、無意識だろう焦って何度も頷いた。

 男は恐怖に煽られた表情を極限まで悪化させ、そしてゆっくりと後ずさっていった。

 何か言おうとする男。だが、彼女がそれを防ぐようにして叫んだ。

「あなたにはもう関係ないでしょ! 帰って!」

 彼女の声は鋭く、さっきまでの笑顔は、……もう失せていた。

 …本気だ。

 俺は、彼女の表情に後押されて、ただ黙って見ているしかなかった。

 しかし、彼女がそこまで毛嫌うこの男は、一体何者なんだろうか。俺は彼女と男を見ながら、
考えていた。

 男が俺を指さしながら『お前は!』と言ったことから考えると、男は俺のことを知っている

ことになる。おそらく一年前の、俺の過去に関係する人間なんだろうと思う。

 だが、俺には分からなかった。

「………いや」

 俺は、独り言を言うような感じで、考えを否定した。

 俺は、男を知らない。だが、さっき何かを感じたのは間違いない。俺の記憶は知らないでい

ても、俺の体がそれを身に染みて知っているような感じがする。

 そう考えているうちに、男の表情が変わっていることに気付いた。

 さっきまでの恐怖に満ちた死人のような顔はどこへ行ったのか、何か自信を身に付けたよう

な表情で、微笑みさえ浮かべている。

 呆然と見ている俺の方を向いて、男は口は開いた。

「そうか。ククク。まあいいだろう。明日も来る。決めるとするか、オレとお前の……」

 そう言って、男は後ろを振り返った。

 男の最後の言葉、俺に言っているのだろうが、後半は何を言っているのか聞き取れなかった。
いや、それ以前に何を言っているのか分からない。

 俺に奇妙な印象を残して、男は裏口から-

 バタンッ

 -出ていった。

 先輩が、キョロキョロと俺と男のいなくなった跡を交互に見ているのが分かる。

「……なんだったんだ?」

 男のことが気になりながら、その場に俺たちは沈黙を漂わせていた。

 立ち尽くしていた彼女、最初に口を開いたのは彼女だった。

「あの、気にしないで。いつものことだから」

 精神的な疲れを感じているのだろう、彼女は苦い顔でそう言った。

「いつものコトなの?」

「はい」

 先輩の問いにも、彼女は嫌々のように答えていた。

 …いつもあの男が?

 俺は、ふいにそんな疑問を感じていた。

「……なんだか、疲れたよね」

 俺は溜め息をついて、そう口にしていた。

 男と口論していた時の彼女、それは俺たちに見せる彼女の顔、声、雰囲気、いずれにおいて

もまるっきり違っていた。別人のようにも思えたくらいだ。

 俺は、彼女と男の関係を考えながら、ともかく彼女には余計な質問は避けるよう努力した。

 先輩と俺の、男と自分に対する目を感じてか、彼女は急に表情を変えた。

「あ、そんなことよりも、お茶をどうぞ。わたしのはオリジナルで、すっごくおいしいんです

よ」

「そうだね、もらうよ」

「ありがとね」

 裏口のあるこの部屋。奴が入ってくるこの部屋。

 彼女が避けるようにして隣の部屋へ向かうのを見て、俺たちも後に続いた。



 丸いテーブルの周りに、俺と先輩と彼女は等間隔開けて椅子に座った。

 彼女のお茶は、村でいつも飲んでいたお茶に比べると、格段に味が薄かった。

「けっこういけますよ」

 俺の感想に、彼女が微笑む。

 薄い味。だが、その味の薄さと比例するように香ばしい匂いが充満して、そして舌に残る微

妙なざらざらとした感覚が、俺に感動にも近い感情を与えた。

「そーだ!」

「え?」

 お茶を飲み終わった先輩が、突然何かを思い出したように俺の方を向いた。

 先輩の思いつきには怖いものがあるので、俺は警戒しながらも先輩の口元を見ていた。

「ねえ、今日はここに泊めさせてもらおうよ」

「え?」

 急な提案に、俺は戸惑った。

 ラヌウェットに着いた時、先輩の提案で、今日は一日、泊まることにはなった。だが、それ

は一般の宿の予定だったため、彼女の家に泊まることなど考えてもいなかったんだ。

 だからといって、それが嫌だというわけではない。

「いや、それは勝手じゃないですか?」

 だが、彼女のことを何も考えずに言い出した先輩には、俺は否定したかった……

 のだが……、

「え、泊まっていってくれるんですか!?」

「は?」

 俺の言葉を遮るように、彼女が甲高い声でそう言った。

 俺の考えとは裏腹に、彼女はむしろ喜んでくれている。それは上辺だけではなく、本心から

のようだ。

「うん。できたら、あたしたちそうしたいからさ。じゃあ、いいってコト?」

「ええ。わぁぁ、うれしいなぁ。もちろん大歓迎です! わたし、いつもひとりだったから、

なおさらうれしいっ♪」

「………」

 俺はひとり、ふたりして盛り上がっている先輩と彼女を見ながら、お茶を飲んでいた。

「じゃあ決まりだね。ぼけろん、今日はここに泊まろう」

「はい」

 とりあえず返事した。

 先輩が、泊まりたいと言う。彼女は、それを拒まずにむしろ喜んでくれている。

 それならば、俺が拒否する理由はない。俺自信、彼女の家に泊まれるのは、内心では嬉しか

った。

 だが、何か引っ掛かるものがあった。

「ねえ。あなた、いつもあの噴水のお花のところに行ってるの?」

「ええ」

 とにかく、俺の心のどこかに引っ掛かるものがあったとしても、今日一日、彼女の家に泊め

させてもらえることになったんだ。それでいいではないか。

 楽しそうに話す先輩と彼女を見て、俺は続けてお茶を飲んだ。

「あそこの花は特種なの。季節に関係なくいつも咲いてるから。けど、春になるとすごいんで

すよ」

「え? どうすごいの?」

「ふふ、それは内緒。実際に見た方がいいと思うから。あ、じゃあ、春になったら一緒に見ま

せん?

「あ~、いいね、それ」

 …やっぱり女同士の方が、気が合うんだろうな。

 皮肉じみた考えをしてはいたが、それはそれで、俺にとっては先輩と彼女の話を聞いている

だけでも、そのままの意味で楽しかったから、見ていて悪い気分ではない。

 そのまましばらくふたりで話している先輩と彼女を見て、俺は、ふと夢のことを思い出した。
 いや、夢全体のことではなく、夢の中に出てきた『彼女』を、だ。

 実際にすぐ近くにいる彼女と、夢の中に出てきた彼女。その間に違いがあるというのなら、

それは表情の違いだろう。

 いや、そんなことよりも、俺は実際に夢にいた彼女と出会えて、心から、……なんていうの

だろうか、喜び、感動、……口にはできないがとにかく心が和んでくるような、そんな複雑だ

がいいものを感じていた。

 先輩と楽しそうに話している時の彼女。

 その彼女を見ていて、俺は、ずっと前から、そう、一年の間ずっと心の中で欠けていたもの

が埋まったような、そんな気持ちがしていた。






                     第五章 夢というのは


                                         1


 「……し」

 …?

「……も……し……」

 声が聞こえる。

 …なんだ?

「ねーえ」

 その声は立て続けに聞こえてきた。

 …俺を呼んでいるのか?

「起ーきーて」

「ん?」

 …俺は何をしているんだ?



 連続して呼ぶ声に、俺ははっと目を覚ました。

 目の前には金髪の少女。髪は後ろで束ねている。

 顔が、周りに光がないせいか、やけに暗く見える。

「ゴメンなさい。突然起こして。……でもちょっとお話がしたくて」

「……あ、……ああ」

 暗いが隣の部屋にはライトがついていて、光がこちらの部屋に少しだけ射し込んでくる。

 ……そうだ、俺は確かベッドで眠っていたんだ。……いや、それは違うな。ソファーで眠っ

ていたんだ。

 ……いつの間に眠ってしまったんだろうか。

 どちらにせよ、眠った時間なんてどうでもよかった。

 彼女は小声で俺を呼んだ。俺は『今』を意識しながら腰を起こす。

 部屋は薄暗かった。ベッドがひとつある。俺の眠っていたソファーは、そのベッドのすぐそ

ばにあった。ちなみにベッドの上には、先輩が穏やかに眠っている。

 そして俺は、隣で眠っていたはずの彼女に起こされたのだ。

 立ち上がって、俺は隣の部屋に戻った彼女の後を追った。

 隣の部屋の中央にあるテーブルの上には、灯火がある。それのおかげで、部屋全体が赤っぽ

く、……なんとなく見通しがきく。ちょうどトンネルのライトのような色光だ。

 彼女はテーブルの向かい側にある椅子に座って、俺に座るよう言ってきた。

 テーブルを挟むように俺は椅子に座って、彼女と向かい合った。

 多少、頬を赤く染めて彼女は話をきりだした。

「まだ真夜中なんで、……本当は起こしたくなかったんですけど、二人で話したかったんで、

……どうしても」

「……いや、べつにそのことはいいよ。それで何ですか、話って?」

 彼女の話を聞くことに俺は依存はないし、逆に興味がある。

 起こされたことについては、何も思っていないことを彼女に告げた。

 同時に俺が大きく伸びをすると、彼女は笑顔で口を開けた。

「たいしたことじゃないの。ただ、あの時みたいにお話ができればなって、思ったから……」

「……あの時?」

「わたしと旅をしていた時のことですよ」

 ……それを聞いて、俺は考えざるをえなかった。

 よくよく考えてみると、彼女は俺が一度死んだことを知らない。……となると記憶を失った

ことなどは知るはずもない。

 彼女は、俺とのラヌウェットへの旅のことを話そうとしているのだろう。

 記憶を失った俺。そのことは彼女を驚かすことになるかもしれない。

 ……が、俺は彼女に全てを話すことにした。



 全ての話、……むろん『全て』というのは俺の過去のこと全般、加えて俺が憶えていること

についてのことではあるが、話を聞くと、……やはり彼女は俯いてしまった。

 が、俺に負担をかけないつもりか、

「そういうことだったんですか。……まさかそんなことが……、ってわたしも思いますけど…

…。信じられない。……でも、そんなことはどうでもいいじゃないですか。少なくともわたし

はうれしいです。あなたは今、こうしてわたしのところに来てくれた。それだけで十分うれし

い」

 笑顔でそう言った。

 ……俺はしばらく黙って天井を見上げた。いやに真っ暗だ。

 天井は木製で、ところどころに亀裂が走っている。

「でもやっぱり、記憶がなくなっちゃったっていうのは、……少し寂しい」

「……」

「……あ、すみません。勝手なことばかり言って。けど、必ず思い出せますよ。力になれるか

分かりませんけど、わたしもお手伝いするから。一緒に旅をしていた時のこと、思い出してほ

しいし」

「ありがとう。そう言ってくれるとすごくうれしいよ」

 俺は出来る限り、俺のことを心配してくれている彼女に応えるようそう言った。

 が、同時に彼女の俺に対する暖かな言葉に、ある種の疑問も感じられた。

 その疑問を、俺は彼女に直接ぶつけてみることにした。

「けどその様子からすると、……そんなによかったんですか? 俺との旅って」

「うん、そうなの! わたしにとってはですけどね。……うーん。じゃあ、本当はこのことを

話したかったんじゃないんですけど、話しますね。あなたとわたしの出会いとか、いろいろな

コト」

 そう言うと、彼女は灯火を見つめた。その様子を見て、俺はじっくりと耳を傾けた。





 ……初めて会った時、わたしはあなたの中に何かを感じた。

 わたしは、……《クウォーラル》っていう会社があるんだけど、そこの社長の娘だったの。

 でもわたしは、パパがいつも汚いことばかりしているのを知ってたから……、ある日、嫌に

なって会社を抜け出した。

 その時は感情だけで行動してたから、その後どうしたらいいか、なんて考えてもいなかった。
 それから数日後、……パパは何もかもが自分の思いどおりにならないと気が済まない人で、

わたしが逃げたことがものすごく気に触れたみたいで、……《クウォーラル》の名に傷が付く、
って言ってわたしを『殺せ』って、幹部の人に命令したの。





 …なんだって?

 俺は心底彼女の話に驚いた。信じられずに彼女に問うた。

「実の父親なのに?」

「…うん」

 他人の目だから言えるのかもしれないが、……それは酷い、そう思った。

 何より彼女の心が傷付いたんじゃないだろうか。

 そしてよく考えてみると、《クウォーラル》の社長という彼女の父親。その人は俺の村にい

て、かつ俺に『村を出ろ』と言った、あの太った男のはずなのである。

 考えにふけっている俺の様子をちらっと見て、彼女は話を続けた。





 ……わたしをパパが狙っているという話を、家出した私がなんで知ったのかというと……

 わたしはひとりで何もできなかったから、しばらくの間、道端でただうろつくっていう生活

をしてた。そこまでするほど、わたしはパパが嫌いだった。

 そしてある日、突然一人の男の人が来て、……その人は服装からすぐに《クウォーラル》の

人だって分かった。

 わたし、その人に頭に銃を突きつけられて、その人から『わたしを殺せ』っていうパパの命

令の話を聞いた。

 怖くて思いきり叫んだの。

 そうしたら《キルド》っていう会社に所属してる人が、たまたま近くにいたみたいで、わた

しの声に気付いて駆けつけてくれたの。

 その人のおかげでわたしは助かったの。

 ……だけど、その代わりにその人は撃たれて、……死んでしまった。

 ごめんなさい。その人があなたの、……お父さんなの。





 ……彼女の話を聞いて、俺は更に驚愕した。

「それが、……俺の父さん!?」

「ええ。わたしのせいであの人、……本当にごめんなさい」

 彼女は詫びるように小さく言った。べつに俺はそのことを気にするつもりはなかったのだが、
驚きで何も言えなかった。

 …そうだったのか。

 今まで親というものを、何も知らずに生きてきたこともあってか、何か不思議な、そして熱

いものを俺は感じた。

 俺の父さんは、彼女を護るために死んだ。ただ普通に、悲しいものも感じなかったと言えば

嘘になるが、……その事実は、正直なところ俺にはうれしく感じられた。

 人を、……誰かのために命をかける。……そんな外から見れば単なる馬鹿な考え方に、俺は

密かに憧れていたのだ。

 俺は素直な気持ちで彼女に言った。

「でも、もう仕方ないよ。その代わりに、あなたはこうして生きてるんだ。父さんのこと、俺、
全くってほど知らないけど、あなたのために死んだんじゃなかったとしても、その分、護られ

たあなたが幸せに生きてるなら、父さんは、少なくとも苦は残らなかったと思う。人を助けて

嫌な思いをする人なんて、いませんよ」

「そう……かな」

「そう。これからが大切なんだよ。どう生きるか、ってことが」

「……うん。わたし、あなたのお父さんの分も生きる」

「そう言ってくれると、俺も安心するよ」

 彼女は俺の言葉で元気付いてくれたようだ。内心、俺もほっとした。





 でも、……それでもやっぱりショックだった。

 もちろんあなたのお父さんのこともそうなんだけど、……パパがそんなことに動いていたな

んて、いくら嫌いなパパでもそこまでする人だとは思ってもみなかった。

 わたしが襲われて、あなたのお父さんが助けてくれたところに、ちょうど《キルドカンパニ

ー》の総長さんが来たの。

 わたしが自分の経緯を総長さんに話したら、分かってくれたの。

 《キルド》は《クウォーラル》と対立してたみたいだから、最初はわたしも自分のことを話

すことに抵抗があったんだけど、その時は本当に心の中が不安定だったから、どうでもいいっ

て思いだった。

 でもやっぱり普通、わたしの場合、人質とかにされると思いません? なんせ《キルド》に

とっては敵となる《クウォーラル》の社長の娘なんですから。

 それでも総長さんはわたしを護る、って約束してくれた。何か裏があるかも……、そんなふ

うに思ったりもしたんだけど、本心からみたいだった。

 そこからが全ての始まり。

 《キルド》の支社まで連れられて、総長さんが提案した。

「ここよりラヌウェット本社の方が安全なんでな。今からそちらの方へ移動してもらいたいん

だが、どうだろうか」

「ええ。じゃあ、そうさせてもらいます」

 わたしは総長さんの言うことに従うことにした。その時のわたしには行く当てもなかったし、
少なくともひとりでいるよりは安全だと思ったし、それに淋しさからも解放されると思ったか

ら。

 けど、やっぱり不安だった。突然ラヌウェットに行くなんて、考えてもいなかったから。



 総長さんはその後、付け加えるように言った。

「一人、護衛をつける。……ちなみにその男はさっきお前を助けた男の息子だ」

「!」

 わたしは驚いた。……同時に、総長さんはわたしに何がしたいのか、その疑問で頭がいっぱ

いだった。

 ……まるで嫌がらせでもするように、複雑なめぐりあわせをさせようとする行為に、わたし

は信用を失いかけた。

「…まぁ、そのことはあまり気にする必要はない。本人も気にしていないしな。それで、……

まぁ、時々ドジることもあるだろうが、……一応は我が社の中でも優秀な人間だ。大丈夫だと

は思う。くれぐれも《クウォーラル》には気を付けろ」

「は、……はい」

 それでも、わたしは従った。

「今から話してくるから、少し待っててくれ」

 ……護衛。ついさっきわたしのせいで死んだ男の人の息子さん。

 …気まずいな。

 そんなふうに思ったけど、お父さんのおかげでわたしは助かったから、やっぱりそのお礼は

言わなくちゃいけないと思って、わたしは待った。

 でも、そんなあやふやな気持ちは、一度に吹き飛んだの。

 総長さんが呼んだ護衛の人が来た。もちろんその護衛というのは、あなたのこと。

 あなたはわたしに会うなり、明るい声で自己紹介を簡潔にしたの。

「や、こんにちは。俺が今から君の護衛を務めさせてもらう者です。……さっきは大変なこと

があったけど……。あ、もし俺の父のことを考えてるなら、俺には気を遣わなくていいから。

君も大変だったんだ。とにかく明るくいこう。明るくね。そうじゃないと、何も始まらないか

らさ!」

 あなたはそんなふうに明るく言って、わたしの心を見透かしているような感じで元気付けて

くれた。

 ……正直なところ、それでもわたしは何か後ろめたいものがあった。

 心の奥ではわたしのことを恨んでいるんだろうな、って。

 けど、あなたは違った。

 ……あなたは、初めて会ったわたしにいろいろな話をしてくれて、その言葉には、……何か

不思議な安心感を感じることができたの。

 わたしは、あなたとラヌウェットへ行くのが楽しみになるくらい、胸の中が熱くなっていっ

た。

 ……わたしはあなたの中に何かを感じた。



 それから旅が始まった。どれくらいの旅だったかな。

 長かったけど、……短かった。

 その間にはいろんなことがあって、……大変だったけど、わたしは楽しかったなぁ





 彼女はそう言って、しばらく遠くの方を見つめるような眼差しで灯火を見ていた。

 …旅か。あんまり覚えてないな。……とはいっても夢でみた範囲での話だけど。

 俺がそう思っていると、彼女が俺の方を向いた。

「なんとなくでいいから、……憶えていること、ありません?」

 その問いにはあまり答えたくなかった。彼女はあまりにも俺との旅に想いがあるようだから、
それを壊すようなことは言いたくなかった。

 俺は呟くように言った。

「旅を始めた時のことと、ところどころの道程なら少しだけ」

「あ、本当ですか!? じゃあ、これ、憶えてます?」

 そう言うと、彼女は深呼吸をして口を開ける。

「旅の途中、夜のことだったんだけど……、あなたとわたしは約束したの。憶えてる?」

「?」

 ……約束? ……彼女ともそんなことをしていたのか…?

 夢の中ではそんなことをしていただろうか。
 
 そういった話をしたような気も、しないではないが……。

 最大限思い出そうとするが、……結局そういう約束をした記憶は出てこなかった。

 仕方なく俺は言った。

「ごめん。……それはちょっと分からないんだ」

「……そうですか。でも仕方ないですよね。じゃあ、話しますから思い出して下さいね」

 そう言って、彼女は再び灯火を見つめた。





 ……少しだけ、……最初は少しだけ遊び気分で聞いたんだけど、

「ねぇ」

「ん?」

「ラヌウェットに着いたら、あなたはどうするの?」

「そうだな……。この任務が終わったら、どこか静かなところでひっそりと暮らそうと思って

る」

 あなたのその言い方は、まるでずっと前から休息とは無縁だったかのように、『休みたい』

と言っているようだった。

 そこで、……半分怖かったけどわたしは聞いてみた。

「ラヌウェットで、……その、……一緒に暮らさない?」

「はぁ?」

「あ、いや、……その、べつにいいんだけど……」

 わたしの話のせいで、その場に沈黙が漂った。

 ……しばらくしてあなたが口を開けた。

「いいよ」

「え?」

 その返事で、わたしは胸が高鳴るのを抑えられないほどドキドキしていた。

 そう言ってくれるとは思ってもみなかったから、……すごくビックリした。

「どうせ何もないから、……一緒に住むのも、いいかもね」

「ほ、本当に!?」

「ああ、本当さ」

 ……その時のあなたはフザけて言っていたのかもしれないけど、……わたしは本気だった。





 …そ、そんなっ!

 俺は彼女の話が信じられず、胸中でそう叫んだ。

「ちょっと待って」

「え?」

 たまらず彼女の話に割り込んだ。その声で彼女は驚いたようで、目を大きく開いた。

「そんなこと、俺、本当に言ったの!?」

「うん。大切な想い出だからはっきりと憶えてるの」

「うーん…」

 …俺って、そういうことをそんなにハッキリと言えるヤツだったのか?

 自問しながら戸惑ってしまった。自分で言うのもなんだが、俺は弱きな人間だと分かってい

る。だから余計に、その事実は信じられなかった。

 彼女はそんな俺を見ながら小さく笑った。

「だからね、昼間、あなたが来てくれた時は、会えた喜びと、その約束のことを思い出したの」
「そう……なんです……か」

 彼女は言い切ると、しばらくの沈黙をつくった。

 その間、俺はひとりで考えていた。

 俺のこと。《キルド》の元総長のこと。俺と彼女との関係。

 全てを忘れていた俺にとってはなんとも言いがたいが、自分のことが少しつかめた。

 ……そんな気がする。

 そして、先輩。

 そういえば先輩も言っていたが、俺がみた夢と俺の過去は、一致している。

 それはそれでいい。

 ……だが、違うところもある。《キルド》の総長や彼女、……つまり昔の俺をよく知ってい

る人達の話からすると、そういうふうに言える。

 というのは、一番初めにみた夢だ。消えていった彼女のことが、俺にはどうしても忘れられ

ないのだ。

 元総長に助けられて、無事に今、ちゃんとした生活をしている彼女が、俺は気になっていた。
……そこの部分はどう考えればいいんだろうか。初日の夢の中とは異なった真実。どういうこ

となんだろうか。

 考え事をまとめているうちに、俺は彼女に確認したいことを思いついた。

「さっきも言ったけど、俺は一度、死んでます。俺は死んだけど、あなたは生きている。元総

長の話によると、あなたは殺されかけたって聞いたんだ。そこのところを詳しく教えてくれま

せんか?」

「え、ええ。……これも言っておいた方がいいですね。……わたし、あなたより先に怪我をし

たんです。それも重体だったみたいで、その時のことはあまり憶えてないんだけど。だからと

にかく、あなたが何者かに殺された時には、すでに意識がなかったんです」

「………」

「それで、えーと、昨日の昼、あなた達がわたしの家に来た時、男が来ましたよね。その時も

言いましたが、あれはいつものことなんです。が、それはそれとしてあの男が、わたしを撃っ

たんです」

「え? ……それって、どういうことですか?」

「《クウォーラル》は、本当はいまだにわたしのことを狙っているはずなんです。そのわたし

がなぜ、こんなふうに平穏に暮らせているのかというと、わたしはすでに死んだと思われてい

るからなの。でも、わたしは生きている」

 そこで彼女は一旦言葉を切った。一息ついて再び話し始める。

「あの男、最低な男ですよ! 今、わたしは一人で静かに暮らしているし、これからもそうし

ていきたいのに……、『生きていることがバレたくなかったら、俺と……」

「?」

「結婚しろ!』って」

「え? でもそいつ、あなたを撃った男なんですよね。なんで……」

「そう。今になって気が変わったのか……、そこのところはわたしも分かりませんが……。も

うイヤなの。毎日毎日しつこく来て……。耐えられないくらいです」

 そう言う彼女の顔には疲労感が感じられた。俺はどう言えば分からず、ただあいづちした。

「そうだったんですか」

「あ、それとあの男、あなたにとっても敵だったんです。わたし達が旅をしている時、幾度か

《クウォーラル》の追っ手が来たんです。その指揮を取っていたのが、あの男です」

 それを聞いて俺は思い出した。初めてみた夢の中で、自分が『奴』と呼んでいた男に追われ

ているシーン。三日目の夢で、その男に撃たれるシーン。

 俺は彼女に確認した。

「それって……もしかして、こんなことありませんでした? 場所は断定できないけど、とに

かく田圃のある場所からビルの一室まで走って、俺とあなたがほっとしているところにその男

が現れた、っていう……」

「そう、そうです! その直後にわたしは撃たれてしまうんですけど……。憶えてるんですか

!?」

「ええ、そこの部分だけだけど。……とすると、やっぱり俺を殺した男っていうのは……」

「え?……あなたを撃ったのも、あの男なの!?」

「おそらく。……いや、確実にあいつだ。だから俺は昨日、あいつに会った時、何かを感じた

んだ」

「し、信じられない……」

 俺の話を聞いて、彼女の表情は一変した。

 俺を殺したのは、やっぱり『奴』だ。

「じゃあ、あの男のせいであなたは記憶を……。許せない! あの男、クズ以下よ!」

 彼女は吐き捨てるようにそう叫んだ。正直に俺はうれしかった。彼女が俺のことを考えてそ

う言ってくれたのが、とても心の支えになる。

 だがそれはさておき、『奴』、俺自身、許せない。俺を殺したことは、言うまでもない。

 それよりも彼女を狙い、危険な目に遭わせ、それでいて、……もちろんこれは俺だって分か

っているわけではないんだが、彼女の気持ちを考えずにしつこく結婚を迫る。

 しかも、それは《クウォーラル》に、『彼女が生きていること』を告げるという脅迫をして、
だ。

 俺は形だけいい格好をとってそんなふうに思っているのではない。心の底から『奴』に対す

る怒りを感じているんだ。

 …まてよ?

 俺はふと思い出した。

「そういえばあの男、明日も来る、って言ってたような……」

 そう言うと、彼女は暗い顔をした。

「ええ、たぶん来ると思う……」

「しかも『俺とお前のどっちが……』って言ってた。どういう意味なんだろう。たぶん『お前』
って、俺のことを言ってるんだと思うけど」

「それはたぶんそうだと思う。けど……」

 彼女は少しの間、俯いた。



 部屋は薄暗く、……いい雰囲気が出ていた。俺はこういった和やかな空気がすごく好きだか

ら、尚更そう思える。

 俯いていた彼女が顔を上げて、気まずそうに口を開けた。

「あの……」

「?」

 俺は黙って彼女の話を聞き入ることにした。

「今頃になって言うのもなんですけど……」

 …なんだ?

 もごもごした口調で言う彼女に、俺は軽くはにかんだ。

 …彼女は続けた。

「あの、せっかく……、やっと会えたんだし、ここで、……一緒に暮らしませんか?」

「……え?」

 唐突な話に俺は言葉が詰まった。

 …どうしようか。

 迷うように思ったりもしたが、俺は拒否することにした。

「いや、ごめん。駄目なんだ……」

 なぜ拒否したのか。……俺には分からなかった。

 彼女は俺と共に生活することを望んでいる。俺にとっても別に悪いことではない。

 今まで平穏な生活をしてきたのだから、彼女に応えるのもいいのではないか、……そう思え

る。

 ……でも、まだ俺にはやることがあるような気がした。体が自然にそう言っている。

「そう……ですよね。ゴメンなさい。いきなりそんなこと言って」

 彼女は悲しそうにそう呟いた。

 俺は、ただその様子を見ているだけだった。



 彼女は、……小さく呟いた。

「……やっぱり……」

「え?」

 静かな言葉だった。だが何か深い意味のありそうなその言葉……。

 …『やっぱり』……か。

「!?」

 俺はその時、彼女の言った言葉に、ピンッと来るものを感じた。

 『やっぱり』……という言葉は、彼女から今、初めて聞いた言葉ではないような気がしたの

だ。

 ……そう、俺は夢の中で彼女がその言葉を言ったのを憶えていたんだ。あれは確か一番最初

にみた夢である。

 ……あの時は、彼女はその言葉を言った後、……消えてしまった。

 俺にはそこで、ひとつの考えが浮かんでしまった。

 あの時の洞窟の夢は、未来を映し出していたんじゃないのか。……そう思ったら、俺は急に

焦ってしまった。

 次いで彼女に大声を出した。

「ちょっと待つんだっ」

「え?」

 その大声に彼女は相当の驚きを見せて、ビクッと体を震わせた。

 俺には、……たとえそれが夢のことでも彼女がこのまま消え去ってしまうような気がしてな

らなかった。

 そのまま彼女を説得するように俺は続けた。

「俺は、……あなたと今は住めないけど、俺、実は毎日ここの近くまで来てるんですよ。ひと

りで寂しいんだったら、俺、毎日寄りますよ」

「……え? ……じゃあ、これからも会えるの?」

「あなたがよければ、俺はいつでもここに来るから」

 彼女は俺の言葉に、少し笑顔を浮かべてくれた。

「それに……、俺はあなたのボディーガードだったんだ。記憶があった頃の俺は、それを果た

すことができなかった。……だから今は、そのくらいしないと気が済まないんですよ。特にあ

なたにつきまとっている『奴』とも、決着をつけたい……」

「……うぅ……」

 彼女の表情が崩れていった。

 瞳からこぼれ落ちる涙は、少なくとも俺には悲しんで流したものではないように思えた。

 彼女は、……もう大丈夫のようだ。

 夢の中では、ただ黙って彼女を見過ごしていた俺。だが、今の俺の言葉は、涙を流しながら

の彼女に、笑顔を与えた。

 俺の心配は、綺麗に去ってくれたようだ。

 だがそうは言ったものの、俺は正直なところ、彼女の役に立てるようなことができるとは思

っていない。それでも彼女には何かしてあげたかった。

 だがひとつだけ、彼女のためになることができるかもしれない。

 いや、それができなかったとしても、俺は自分のために……いや、今までの過去の忌ま忌ま

しいあやふやな感情を断ち切るために、……『奴』と決着をつけるつもりだ。

 むろんそれは、『奴』を殺す、……ということに限るわけではない。

 いや、これからの『奴』の行動次第では、そうせざるをえなくなるかもしれない。

 ただ俺は、『奴』に今までのことを俺達に……いや、彼女にだけでいいから詫びて欲しいん

だ。

 俺はそんなくだらないかもしれない決意を、……密かに固めていた。



 光は光を取り戻し、気分だけか明るくなった気がする。

 ちょうどそういった灯火の切ないが心は暖まる光に身を任せていた時、彼女が満足気な表情

で口を開けた。

「あの、夜遅いから、もう寝ましょう。けど、最後にちょっと聞いてもいいですか?」

「あ? いいですよ」

「あの人のことなんですけど……」

 彼女は、隣の部屋で眠っている先輩を、壁を通して指で示しながら聞いてきた。

「どういう人なんですか?」

「あぁ、さっき話した説明だけじゃ、物足りなかったかな」

 彼女の家に来る途中の説明だけじゃ、彼女にはあまり先輩のことを分かってもらえなかった

ようだ。

 その質問で、彼女が先輩に対して興味を持っていることを知った。

 俺は彼女に、先輩に対して俺が思っていることを話すことにした。

「まぁ、さっきも言ったけど、彼女は俺の先輩で、特に一定した仕事はしてない。それで性格

はというと、一言で言えば『明るい』。その『明るい』というのが、ちょっと通り越してて強

引なところがあるんだけどね。それに加えて少し問題のある人。……まぁ、そんなとこかな」

 彼女は俺の話に、不思議な笑顔を見せると『う~ん』と一言、言葉に出した。

「ふーん。……でもそんな人と一緒にお仕事を?」

 彼女は俺の話を聞いた限りでは、あまり先輩に対して好感を持っていないようだ。

 俺は続けた。

「そう。とはいっても、先輩はただ俺についてくるだけなんだけどね。……でも、先輩には、

俺、いろいろと世話になったし。ちょっとひねくれた人なんだ。……だけど、本当は違うんだ。
っていうのは、表面には出さないんだけど、それでも俺には分かるんだ。先輩、本当はすご優

しい心を持った人なんだ。それはもちろん、俺に対してだけじゃない。村での先輩を見ていれ

ば分かるんだ。いつもは凶暴なところがあっても、いざっていう時には心強い。最近、そのこ

とがよく分かったんだ。とにかくそんなこともあって、俺にとってはすごく誇り高い先輩、か

な。尊敬もしてるよ」

「はあ」

 俺はそこまで話して、ハッと我に返った。

「あ、すみません。なんか俺、勝手に喋りまくって……」

「い、いえ! そんなコトないです。いろいろ知れましたし。それよりも、あなたが彼女のこ

とを想うのは、そのくらいですか?」

「え? いや、それで十分だと思うんだけど」

「そうですか」

 俺の返事に彼女は笑顔で返した。

 しばらくの語らいにより、結構な時間が経ってしまった。べつに明日の朝が忙しいわけでは

ないが、そろそろ俺達は休むことにした。



 彼女は『ふーっ』と大きく溜め息をつくと、瞬きをした。

 俺はそんな彼女を見て、何か分からない不思議な親近感を感じていた。

 それはまるで、生まれてから今までずっと一緒にいたような、そんな感じだった。

「今日は、こんな真夜中なのに、付き合ってくれてありがとう」

「全然だよ。俺も、あなたと話せて楽しかった」

「そう言ってくれるとわたしもうれしいです」

 彼女の言葉を聞いて、俺は椅子から立ち上がった。大きく伸びをする。その心地良さは誰に

話しても分かるまい。

 俺に続いて彼女も立つ。俺は隣の部屋に戻って、さきほどまで眠っていたソファーに座った。
 彼女は、俺のその様子を部屋の境目で立って見ていた。

 俺は彼女に向かって手を上げた。

「じゃあ、今日はもう遅いから」

「そうですね。また明日」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 俺が手を振ると、彼女も笑顔で手を振って返した。そのまま彼女は部屋の電気を消して、向

こうの部屋に戻っていった。

 そして俺は横になり、静かな眠りについた。


                                         2


 …やけにいい匂いがするな。

 俺の鼻を、とてもいい匂いがくすぐる。そのせいもあってか、俺は目を覚ました。

「うぅ~」

 俺は情けない声を出すと、ゆっくりと体を起こした。

 昨日はあまり気付かなかったんだが、俺の眠っていたソファーは、今感じた限りでは相当高

級そうな雰囲気を醸し出していた。

「あ、ぼけろん起きた?」

 その様子を見て、先輩が軽やかな声で俺に言った。

 先輩は、何かベッドの上で作業をしている。……いや、作業とまではいかないが、とりあえ

ず何かしているのが俺には分かった。

「今ねぇ、彼女がおいしい料理作ってるから。名前はなんて言ったかなぁ、それは忘れちゃっ

たけど、とにかく『期待してて』だってさ」

「あ、分かりました」

 どうやらこのいい匂いはその料理のためらしい。

「う~」

 思いきり伸びをして、俺はソファーから降りた。

 気持ちの良い爽やかな朝だ。

 窓の外を見てみると、数羽の小鳥が空を飛んでいる。それに併せて美しい光が反射してこの

部屋に射し込んできた。

 …こんな心地よい朝は何年ぶりだろうか。

 俺はそんな感傷のようなものを感じた。

 ここ数日の朝は、なんだか忙しかったり、あやふやな気分で過ごしていたため、俺には今日

のような朝が妙に素晴らしく感じられたのだ。

「もうすぐできますからね」

 彼女の声が、隣の部屋にある台所の方から聞こえた。

 俺は、今は彼女の料理よりも先輩が何をしているのかという疑問の方が興味があり、先輩の

そばに近寄った。

「先輩、何してんですか?」

「ふふ、内緒♪」

「は、はあ」

 先輩は俺の方を向いて、笑顔で言った。

 ちょうどその時気付いたんだが、先輩……、昨日と比べてなぜか機嫌がいいみたいだ。さっ

きから笑顔を絶やさない。

 それはそれとして、俺は隣の部屋へと歩いた。

 昨日の夜、彼女と話している時に座っていた椅子、そのままの状態で残っている。

 多少古びたテーブルや部屋全体の様子も、当たり前だが何も変化はない。

 俺は、そんなどうでもいいようなことに気を取られながら、昨日の夜中に座った椅子に腰を

掛けた。

 テーブルのそばにある台所で、鼻歌を唄いながら料理をしている彼女を見上げた。

「朝から料理まで作ってくれて、ありがとう」

「いえ、好きでやってることだから。それより、何か嫌いな食べ物ってあります?」

 料理をしながら、彼女はこちらを見ずに聞いてきた。

「自慢じゃないけど、全くないです」

「あー良かったぁ♪ ちょっとした物が入ってるの。ダメかなぁって思ったんだけど、……そ

れなら大丈夫ですね」

「はい」

 彼女は満足気に言った。

 …ちょっとした物?

 大きく返事はしたものの、その言葉が少し気にかかってもいた。

 トントントン

 近くでこんな音がしている。扉を叩く音ではない。包丁がまな板に当たっている音だ。

 椅子に座って、俺はその音を聞きながら窓の外を見ていた。

 外の景色を見ながら、ふと感慨にふけった。

 大窓から見える景色は、美しかった。

 家のすぐそばには木々が多く立っていて、その枝には様々な小鳥たちがとまりに来ていた。

 …朝か。

 そこで俺は、ふと疑問に思うことがあった。

 『今、何時だ?』

 正直なところ、今日の食料調達を済ますことはできないつもりではいた。

 トラックの準備は全くできていないし、昼までに村に着く自信もない。

 だからべつにそのことはいいんだ。

 それよりも気になること。

 それは、俺は毎日同じ時間に起きる。たとえ目覚まし時計がなくても、だ。

 俺は今さっき起きた。時計は見てないが、今日もおなじ時間に起きたはずである。

 ……いつも俺がトラックに乗る時にやっと起きてくる先輩が、なぜ、俺より早く起きている

んだろうか。

 さっきの先輩の様子からすると、ずっと前から起きていたように思える。加えていつもは眠

そうにしているのに、今日はそれが嘘のように目が覚めており、機嫌がいいようだ。

 俺の起きる時刻というものは、早い。自信があるくらいだ。

 それゆえ先輩が起きていることが、信じられなかった。

 それは無論、『彼女』も同じこと。

 …何かあるな。

 俺の予想というものは多くの場合がはずれるんだが、今回は直感的にそう思ったため、その

可能性は高い。……と思う。

 まあ、結局はそんなこと、どうでもいいことなんだが。

「ぼけろん、どうしたの?」

「何か不満でも?」

 唐突に二人の声が聞こえた。

「え?」

 『朝』の二人のことを考えていたため、俺は自分の世界に入り込んでしまっていた。

 俯いていた顔を上げてみると、いつの間にかテーブルの上には朝食の準備がしてあって、先

輩も彼女も座っている。

 二人は俺の顔を見つめていた。

 そんな二人を交互に見返して、俺は苦笑した。

「い、いや、なんでもないよ」

 苦笑いを含んだ俺の言葉に、二人とも大きく溜め息をついた。

「ならいいんだけどね」

「今日の料理は時間がかかるんで滅多に作らないんだけど、わたしの自慢だったの。……けど

よかった。食欲なくしちゃったのかなぁ、って思っちゃって。お口に合うかどうか分かりませ

んが、どうぞ食べてください」

 彼女の声に我に返って、俺は大きく頷いた。

 そんな俺を見ると、先輩と彼女はゆっくりと食べ始める。

 二人の食べ具合を見て、俺もスプーンを持った。

 目の前に置いてあるのはスープ系統の料理である。三人分用意されていて、先輩はそのスー

プから手をつけ始めていた。

 俺もそのスープの入っているお皿を手に取り、静かにスプーンで掬って口の中に流し込んだ。
「どうですか?」

 そんな俺の様子をまじまじと見ながら、彼女は笑顔で問うてくる。

 彼女を横目で見て、俺は味を確認した。

 …ふ~ん。

 …う、うまい!

 その一言が、俺の思考を埋めて尽くしていった。そんな感想を、俺は大声で言う。

「これはうまい! こんなの飲んだの、久しぶりです」

「ほ、本当ですか!?」

 俺の正直な感想に彼女は喜んでくれているようで、両手を合わせた。

 黄色い半透明のスープ、それは口で言うだけではなく、本当に旨かった。

 その思いだけで、俺はとにかく夢中にそのスープを飲んでいった。

「実はねぇ……」

 しばらく飲んでいると、彼女がそう口を開けた。

 話の続きを待っていると、彼女は手を先輩の方に向けて、

「彼女にも手伝ってもらったんです。半分くらい。特に味付けを」

 微笑してそう言った。

「へー」

 先輩が手伝ったと聞いて、俺はつい顔をほころばせてしまった。

 内心驚いて先輩の方を見た。多少赤面してこちらを俯き加減に見ている。

 …先輩って、料理作れるのか。知らなかった。

 今までそんな一面を見たことがなかったので、先輩の以外なところを知った気がする。

 …けどすごく旨い!

「へへっ。けど、ぼけろんのその反応は信じてないな?」

 俺の驚愕の表情を見てか、先輩は疑いの目を俺に向けた。

 だが、それはそれとして先輩の料理は本当に旨かった。

「いや、そうじゃないですよ。ただ先輩がこんな旨い料理を作れるなんて、なんかちょっと以

外だったけど、うれしいなって。これだったら村の定食より先輩の料理を食べていた方がずっ

といいですね」

「ぼけろん、いいコト言うじゃん」

 先輩は俺の話に微かな喜びを見せると、余計に笑顔を浮かべた。

 俺と先輩の様子を見て、彼女は快く微笑していた。

「…いいなぁ」

 その後しばらくの間、俺たち三人は朝食を食べるのに集中していた。



 …しかし、最近疲れることばかりだな。

 ここ数日のことを考えると、普段は食料調達だけをやっていた俺にとっては、なんだかとて

も忙しく感じられる。

 朝食を食べ終わると、彼女は大きく息を吸って俺と先輩に問うてきた。

「あの、これからどうするんですか?」

 彼女の問いは、今後のことを考えていなかった俺達……いや、俺にはあまりにも唐突なもの

であった。

 …そうだよな。

 彼女の言葉は、再び俺を思考させた。

 夢のこと。村にいたおかしな太った男とその側近ふたり。

 昨日、俺と先輩に突然襲いかかってきた集団。そしてその理由。俺の過去のこと。

 『奴』。……そして『彼女』。

 元総長に会って、ラヌウェットまで、……正確に言えば彼女の家まで来て、いろいろと分か

った。

 俺自信のことや、彼女や先輩。総長や村長のような俺の周りにいる人達のことを、ここ数日

で深く知ることができた。

 ……ラヌウェットに来た当初の目的。それは、村にいた彼女の父が、俺に言った言葉の意味

を知るためだった。

 今、はっきりとそれが分かったわけではない。だが、その代わりに元気な姿の『彼女』に会

うことができた。

 …もう十分だ。

 彼女のその問いに俺は答えようとしたが、それには先輩が先に答えた。

「そろそろ戻るわ。これ以上ここにいると、ぼけろんの仕事、まずいしね 」

「そうですか。あの、また来てくださいね」

「うん。せっかく知り合えたんだしね。また一緒に料理作ろーね」

「ハイ!」

 彼女は最後に微笑んだ。先輩もそうだ。

 笑顔で話している二人に、俺は素直に気分がよかった。

「じゃあ、今日はありがとう」

 彼女にそう言って、俺と先輩は玄関口へと向かった。

 扉を開けて、心地よい気持ちで外に出る。彼女はそれを外まで見送る。

 俺は空を見上げた。爽やかな空の色と、涼しく吹き抜ける風が何とも言えない。



 ……だが、俺はその時まで『あれ』を忘れていたのだ。

「お早い出発ですな」

「!?」

 唐突に男の声がした。

 空を見上げていた顔を下げてみると、正面には正装をした男がいる。夢ではなかったものの、
今は頬に一本の傷を負っているオールバックの男。

 そして彼女を意識不明の状態まで陥れ、俺を殺した男。

 …そう、『奴』だ!

 ……不敵な笑みを浮かべながら、奴は腕を摩っている。それはおそらく『作業』の余興とし

てやるものであろう、なんとなくその仕草には見覚えがあった。

 …なんでそんなこと、憶えてるんだろうな。

 俺は奴を見据えた。

 まるで……いや、百パーセント俺達を待ち伏せていたかのように、家のすぐ前に立っている。
改めて奴の顔を見て、そう認識した。

 頬に垂れていく汗を感じて、奴が口を開けるのを見た。

「昨日も言っておいたが、来てやったぞ。というより、オレのことなんて忘れていたかな? 

……まぁどちらでもいいが」

「………」

「………」

 彼女が俺の少し後ろであたふたしているのが分かる。

 俺と先輩は、奴の言葉を黙って聞いた。

 後ろを軽く振り返って、不安気な顔をしている彼女を無意識に見て、俺は奴と対峙する。

 すぐ隣で俺と同じような格好で奴を見ている先輩……。ちょっとだけ、気のせいか怖い感じ

がした。

 俺は今までのことを、……俺や彼女がされたことを思い出して、とにかくいろいろと言いた

いことが頭の中に浮かび上がってくるのを感じた。

 いろいろ。……本当にいろいろなこと。

 たとえ記憶のない俺でも、不思議と奴に対する危機感のようなものが、胸の奥を熱く燃やす。
 それらが複雑に絡み合って、……どう言ったらいいのか頭が混乱して口にすることはできな

かった。

 …だがじわじわと、自然に俺の体は胸から熱くなっていく。

「お前は、オレのことを憶えているか?」

 奴の何気ない問いに、俺は少しの時間、間を開けて言った。

「憶えてはいない。だが、感じる」

 奴に聞こえたかどうか、分からない。それほど小さな声だった。

 だが、そんなことはどうでもいい。俺は……

 奴は続けてきた。

「面倒なことは言わない。オレはもう、お前には興味がない」

 そこまで言うと、奴は急に目を大きく開いて叫んだ!

「だがな! これ以上、オレと彼女の前には現れるな! オレたちの邪魔をされては困るんだ

よ!」

「な、何言ってるの!? わたしはあなたのことなんて、何とも想ってないわ!」

 奴の言葉に、彼女が凄まじい形相で叫んだ。

 それはあまり気にせず、奴は手を額に当てて再び俺の方を向いた。

「彼女はあんなふうに言ってはいるがな。……まぁいい。とにかく、だ! 今日のところは見

逃してやる。だが、またもしオレたちの前に現れたら、再び、消す!」

「……そうか」

 俺は奴の警告とも言える話の内容に、あいまいな返事を出した。

 奴の言ったこと。……おそらく本気であろう。

 表情と、かつて俺を殺した経験のある奴の過去を考えれば、その判断は間違ってはいない。

 まだ続けて話そうとする奴の言葉に、正直なところ興味はあった。

 俺は今、奴に何をすべきかを考えながら、奴の話を聞いた。

「まぁ、お前は昔オレに殺されたことだし、それにこの間のお前の村の村長のこともあるだろ

うから、……もうオレたちの邪魔をするとは思わないけどな。ま、念を押しておいてやったの

さ」

「……え?」

「どういうこと?」

 奴の話の一部分に、俺と先輩は驚愕した。

 『お前の村の村長のこともある』。……その言葉だけが脳裏に焼き付いた。

 …村長は寿命、もしくは病気じゃなかったのか?

 俺は村長が死んだと聞いた時から、そう思っていた。

 だが、その考えは今、奴の声を聞いた瞬間、変わっていった。

 心の中であやふやに蠢いていた奴への想いが、……むろんそれは嫌な意味での想いではある

が、それがしっかりとある決心へと固まっていくのを感じた。

 先輩は奴をさっきから立ち尽くして見つめてはいたものの、震えていく全身と感情を、必死

でこらえているように見えた。

 俺と先輩の、新たなる真実を知って驚いた顔をじっと眺めると、奴は嘲笑して大声を発した。
「ハハハハッ! その表情からすると、お前らの村長はただわけもなく死んだと思っていたよ

うだな。」

「じゃ、じゃあやっぱり!」

「フフッ、馬鹿どもがっ。そのとーりだ! 俺がクウォーラル社長の命令で、村長を殺したの

さ! ま、なぜ社長がお前らの村長を狙ったのかまでは知らんがな」

「あんたという奴は……!」

 今までに人に対する怒りを覚えた記憶など、幾度とない。

 俺は、奴に本当の怒りを感じ始めた。

「……っだ」

「え?」

 唐突に先輩が息をグッと飲み込んだような声を発した。

 俺と同様に先輩も、村長を殺したという奴に対する怒りを感じているのだとは思うが、酷く

掠れた声だった。

 呆けた声で呟いた俺は、すぐ右にいる先輩の目を見て、……思わず絶句した。

「せ、せんぱい……」

 かつて見たことのない光景。

 俯いた先輩の瞳には、溢れるほどの涙がこぼれ落ちそうだ。

 …先輩が涙を見せるなんて

 初めてのことに俺はそんなふうに思いながらも、先輩と奴を交互に見やる。

 奴を凝視したまま、先輩は俯いていた顔を勢いよく上げた。

「あんたが……、あんたが!!」

「先輩……」

 加えて今まで見せたことのない怒りを露にして、先輩はそう吐き捨てた。

 続けて今度は小声で……、

「あたしたちの大切な……」

 そう自分に言い聞かせるような感じで、呟いた。

 最後までは聞き取れなかったがとにかく、俺は先輩の怒りが自分のことのように思えて、余

計に奴が許せなくなった。

「許せんようだな。……ククク」

 なおもこちらをあざけ笑う奴の声を聞いて、先輩は深呼吸をした。

 ……いや、そうしたように見えた。

「あんただけは……」

 冷静にそう言うと、先輩は次の瞬間、

「あんただけは許さない!!」

 思いきり叫んで奴に向かって跳び出した。

「先輩!」

 その瞬間的な行動を、俺はただ呆然と見ていた。



 その後の出来事が、……すぐには理解できなかった。



 ドゥン!

「うっ!!」

 …え?

 奴に大きな踏み足で向かった先輩。

 奴はとっさに胸元から小型銃を取り出し、即座に先輩を撃ち放った!

 具体的にどこをどう撃ったかは、俺の目にははっきりと映らなかったため判断できない。

 とにかく甲高い銃声音が鳴った後、先輩は走った格好から銃弾の反動で少し後ろに飛ばされ、
仰向けに倒れた。

 俺は、……何もできなかった。いや、何もしようとしなかった。

 ただ、目の前で起こったことを否定したいという気持ちだけが先走り、数秒時間が止まった

ように感じられた。

 …先輩、待てよ。……嘘だろ?

 なんとか我に返ると、俺は足をふらつかせて、倒れて動かなくなった先輩のそばまで寄った。
 恐怖と焦りが込み上げる中、目を閉じたままの先輩を抱き起こした。

 まるで死人を扱っているような気分の悪さが、……生ぬるかった。

「先輩、先輩っ!」

「カッカッカ」

 俺の呼びかけに、ただ返ってくるのは奴の嘲笑だけ。

 しばらく先輩を揺らせて、俺は叫び続けた……。

 体が、……熱くなる。

 『奴』のこと。夢の中で、彼女が奴に撃たれた時のこと。

 その夢と今の先輩の状態を無意識に重ね合わせたこと。

 それら全てが、俺の脳裏と体全身を熱く燃やして……いや、焼き尽くしていくのを感じた。

「逃げて!」

 背中越しに彼女の声が聞こえる。不安と恐怖に覆われたその声は、人間の本能としての危機

感を感じさせるような、骨まで響く声だった。

 だが、俺には彼女の声が聞こえてはいたものの、そうするつもりはなかった。

 俺の全身が無意識に奴に引きつけられる。『強引』にも近いようなその動き、俺は自然にそ

の動作に従った。

「そうか。お前もやはり馬鹿だということか」

「………」

 奴の目と声を感じて、俺は奴に全てを向けた。

 頭の中にいろいろなものが浮かぶ。だが、実際に何を考えているのか、自分でも分からない。
 ……ただ

 ただひとつだけ、はっきりと感情というものを感じさせるのが、ある。

 怒り。

 俺は奴の目を凝視して、小声で言った。

「……あんた、先輩を撃ったな」

「見れば分かるようなことを言うな」

 俺は動かなくなった先輩をゆっくりと地に横たえると、静かに立ち上がった。

 そして一歩、奴に近づく。

「人を……いや、村長や先輩を死に追いやって、何も感じないのか?」

「自分の目的のために害となすものは、自らの手で排除する。当たり前のことだ。殺人とて、

その中のひとつにすぎない」

 また一歩、近づく。

 俺との距離が縮まるにつれ、奴はそれまで下げていた銃口を、俺に向けていった。

「あんたは、先輩を撃った」

「くどいぞ。女なら他にもいる。もっといい女、がな! カカカッ」

「……きさま……」

 その時、俺は心の中でつっかかっていたものが消えるのを感じた。

 俺を殺したこと……とか、昔のことはどうでもいい。いや、もうどうでもよかった。

 ……だが、だが先輩を撃ったことだけは許さない!

 今まで、記憶をなくした俺に、手助けと、心の支えとなってくれた先輩を殺したことだけは、
許せない!

「………」

 先輩との一年間の出来事が、頭の中に蘇ってきた。それを思い出すと無性に感情が高ぶる。

「先輩……」

「もう諦めろ。オレには抵抗をしない方が無難だぞ」

 …先輩。

 奴の顔をもう一度しっかりと見て、俺は大きく一歩出た。

「きさまは……」

「ほう、来るか」

 俺は奴が銃を持っているのにも関わらず、走りだしていた。

 …先輩。仇を……うちます!

 涙をこらえ、俺は大声で叫んだ!

「きさまを、殺す!」

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